相撲

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相撲
すもう
相撲絵(歌川国貞、1860年代)
相撲絵(歌川国貞、1860年代)
競技形式 神事・素手・打撃・組み合い・投げ合い
発生国 日本の旗 日本
発生年 古代〜?
創始者 不明
源流 スマヰ
派生種目 組討大相撲アマチュア相撲新相撲
  
隅田川テラスにかかる歌川広重の「相撲の図」の模写

相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。近年では、日本由来の武道格闘技スポーツとして国際的にも行われている。

概要[編集]

相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」が地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為とされる。そのため、礼儀作法が非常に重視され、その一環として力士まわし以外は身につけない。その名残は現代の興行形式である大相撲にも見られる。また、古代から現代に至るまで皇室との縁は深い。

他方で、格闘技として見れば、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず、つかみ合い、相手の体を倒しあうことを競うレスリング系統の競技である。英語では「sumoスモウ」または「sumo-wrestlingスモウ・レスリング」と表記される。類似の格闘技の中では、特に常に前に出て押すことを重視するところに特徴がある。

日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島シマモンゴルブフ中国シュアイジャオ朝鮮半島シルムトルコヤールギュレシなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。

なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲足相撲指相撲、拳相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。

相撲の歴史[編集]

江戸時代以降の詳細は大相撲#歴史も併せて参照されたい。

古代[編集]

相撲の起源は非常に古く、古墳時代埴輪須恵器にもその様子が描写されている。

  • 古事記』の神代(日本神話)においては、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣(葦原中国平定)の際、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。

弥生時代[編集]

  • 日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむスマヰ」または「すまいスマヰ」と訓す)での戦いである(これは柔道でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸武術であったことは明確である。

宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている。

さらに

  • 古事記』の垂仁記には、「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。

古墳時代[編集]

  • 記紀には、景行天皇40年(110年)に日本武尊が、大和国(現在の奈良県)の息吹山の神を素手で倒そうと、草薙剣を持たずに、素手で山に入ったことが記されている。
  • 日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じてを付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある。

飛鳥時代[編集]

  • 日本書紀』の皇極天皇元年(642年7月12日 (旧暦)に「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善 乃命健兒相撲於翹岐前」とある。百済の「大佐」(太政大臣クラス)の使者と、先に亡命していた王族の翹岐をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせた。
  • 『日本書紀』の天武天皇11年(682年)7月3日 (旧暦)にも「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之」とあり、7世紀には、7月に相撲が行われていたことがうかがわれる。

奈良時代[編集]

  • 続日本紀』の養老3年(719年)7月4日 (旧暦)に「初置抜出司」と見える「抜出司は、諸国から集められた相撲人の中から選抜する臨時官で、のちの相撲司に当たるものと考えられている。
  • 突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等神亀3年(726年)に制定される。(吉田司家志賀清林を参照)
  • 続日本紀』の神亀5年(728年)4月25日 (旧暦)に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ている。これによって、すでに各貴族が相撲人を保持していたことが想像される。
  • 萬葉集』の巻五には、天平2年(730年)の大宰府からの「相撲部領使」と、翌年(731年)の肥後国からの「相撲使」の記述が見える。中央まで引率する官で、後者は大宰府を6月17日 (旧暦)に出発していることがわかる。
  • 続日本紀』では、天平6年(734年)7月7日 (旧暦)聖武天皇(在位724年 - 749年)が「相撲戯」を観覧したことを記している。これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録である。

平安時代[編集]

  • 王朝
宮廷では各地から相撲人を選出し、相撲大会を催した。天皇が出御した行事を節会と称し、天皇御覧の元に相撲を行ったため、「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼んだ[1]。当日は「召合(めしあわせ)」と言う十数番までの取組があり、紫宸殿の庭で行われ、その後には近衛府による「相撲の還饗(かえりあるじ)」というもてなしが開かれた。
当初は、当麻蹴速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲対戦にちなんで7月7日に催したが、弘仁15年(824)7月7日に平城天皇が崩御、命日と重なり7月16日に日程を改める。しかし、平安中期にはまた別の諸事情により、開催日は7月下旬が慣例となった。[1]
平安後期になると相撲節会は徐々に衰微して行き、承安4年(1174)以降は行われなくなり、宮廷行事としての相撲大会は終結する。[1]
相撲節会を行った旧暦の7月は凡そ現在の8月であり、時期がの収穫前であったことと、古来より相撲には五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味が存在したことから、相撲節会も同様の儀礼を基底に催したと捉えられている。[1]
  • 一般
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。

鎌倉時代[編集]

『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年刊

また、和田常盛朝比奈義秀兄弟が奥州を巡って、相撲で競った逸話がある。

南北朝時代[編集]

  • 正平年間、紀伊粉河寺(現在の紀の川市にある寺)で書かれた『粉河寺寺務御教書』という書物によると、粉河寺周辺で毎年六月に行われる粉河寺祭の奉納相撲の祭礼参加をめぐり、東村と荒見村との村同士の争いが起こった。
  • 室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。
  • 太平記』に相撲の記載がある。

室町時代[編集]

戦国時代[編集]

織豊時代[編集]

江戸時代[編集]

明治維新以降[編集]

相撲を取る皇太子時代の昭和天皇

神事としての相撲[編集]

奉納相撲(東庄町諏訪神社

相撲は神事としての性格が不可分である。 の際には、天下泰平子孫繁栄五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。

大相撲の神事[編集]

  • 土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791年)征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたものである。
  • 相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。
  • 土俵

相撲の呼び方[編集]

  • すもう」の呼び方は、古代の「スマヰ」から「すまひ」→「すまふ」→「すもう」に訛った。
  • 捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、さらに漢字制限当用漢字常用漢字教育漢字)により前者の用字を一部改めた「角力」という表記も有る(いずれも読みは「すもう」)。
  • 古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)
  • 大相撲を取る人は「力士」(りきし)や「相撲取り」といい、会話では「お相撲さん」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。

相撲の戦い方[編集]

  • 競技の形態としては、直径4.55m(15)の形または四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司アマチュア相撲では主審と呼ぶ)が行う。
  • 相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(無差別の戦い方)
  • 相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。

普通は以下のような流れになる。

塵手水[編集]

  • 私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します。

仕切り[編集]

  • 円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを仕切りといい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよい(制限時間がある場合はその範囲で)し、繰り返さなくてもよい。
  • 1928年(昭和3年)1月12日から日本放送協会ラジオ放送による大相撲中継がはじまった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定とともに仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。

立合い[編集]

  • 拳をついた状態から、互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がり、ぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この、試合の始まりを立合いという。
  • 立合いは、世界では見られない、日本独自の方法である。その開始は、両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに、両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく、確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
  • 土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の元禄の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
  • 仕切り線ができたことにより発達した。これ以前は当時の写真をみればわかるとおり、立会いの距離制限がなく頭と頭をつけた状態から開始されることも多かった。

勝ちの確定[編集]

勝ちが決まるのは次の場合である。

  • 相手の体のうちで、足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても、引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合には相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
  • 相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。

日本の相撲以外の多くの相撲系の格闘技は、レスリングにおけるフォールのように、相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために、相撲は勝負がつきやすいと共に、勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。

相撲の攻め手[編集]

  • 離れた状態から、ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等攻め手を用いる立ち合いにより、優位な状況をつくる。
  • 触れあった状態で押す。胸に手のひらを当てたり、まわしを握って押し出す。
  • 廻しを掴んで引き寄せあう。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合、互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。
  • 急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。

相撲においては、まず押すことを良しとする。まわしを取った手は引くが、その場合でも体全体としては常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが、ほめられない。また引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。

相撲の防ぎ手[編集]

相撲の組み方[編集]

  • 力士同士のお互いの組み方として四つ身と言う組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ または外四つ(もろ差し)等がある。
    • 互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を上手(うわて)、内側に入る腕を下手(したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
    • 片方が両腕ともに下手でまわしを取るのをもろ差しという。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
    • 両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多い。
    • 互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。

これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。

決まり手[編集]

  • 勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手といわれたが、現在では大相撲協会が82の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。

禁じ手[編集]

志賀清林吉田司家を参照のこと。

相撲の構え[編集]

  • 日本古来から伝わる「手合」と呼ばれる相撲の構えが江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「三段構え」が存在する。(手合三段構えは世界中では見られない日本独自の構え
  • 力士が、「両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う」事は、江戸時代中期の人物で紀伊出身の鏡山沖右衛門から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
  • 現在まで伝わっている相撲の「追っ付けの構え」は、相撲の攻防に適した構えである。

相撲の鍛練法[編集]

  • 受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古等

相撲の段級[編集]

相撲の用語[編集]

相撲用語一覧を参照のこと。

あんことソップ[編集]

重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。

相撲と日本人移民[編集]

相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。

ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。

  • 1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
  • 1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
  • 1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
  • 1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。

日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。

大相撲[編集]

行司家[編集]

  • 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
  • 現在では、木村家式守家のみが残っている。行司も参照のこと。)

一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。

事実、吉田家の19世、吉田追風が寛政年間に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、又、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。

相撲の今後の課題[編集]

大相撲に関しては、→大相撲を参照のこと。
  • 相撲司家である「吉田家」や「五条家」に伝わる故実伝書などの調査研究
  • 行司家に伝わる故実・伝書などの調査・研究。
  • 吉田司家の相撲界への復帰。
  • 相撲の指導者および後継者の更なる育成。
  • 防犯。

関連項目[編集]

日本の文化としての系譜

力士の違いによる相撲の種類

相撲に関わる事柄

世界にある日本の相撲と似た競技

相撲からの派生

関連書籍[編集]

  • 風見明『相撲、国技となる』大修館書店 ISBN 4-469-26502-0
  • 神宮司庁『古事類苑 武技部』吉川弘文館
  • 荒木精之『相撲道と吉田司家』相撲司会
  • 肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』
  • 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』発行 熊本出版文化会館 発売 創流出版 ISBN 978-4-915796-88-3
  • 次田真幸『古事記』 全訳注 上・中・下 講談社学術文庫
  • 宇治谷孟『日本書紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 宇治谷孟『続日本紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 森田悌『日本後紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 森田悌『続日本後紀』 全現代語訳 上・下 講談社学術文庫
  • 『ボンジュール ジャポン―フランス青年が活写した1882年』ウーグ クラフト 著 後藤 和雄 編

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 秋澤 亙・川村 裕子  『王朝文化を学ぶ人のために』 2010年 世界思想社 ISBN 4790714888

外部リンク[編集]

公式


その他