アイヌ
| アイヌ (ウタリ)[1] |
|---|
| アイヌ民族 |
| 総人口 |
|
23,782人 |
| 居住地域 |
| 日本(北海道、東京他)、 ロシア(樺太) |
| 言語 |
| 日本語、アイヌ語 |
| 宗教 |
| 仏教、アニミズム、キリスト教(正教会) |
| 関連する民族 |
| 脚注 |
|
アイヌは、日本とロシアにまたがる北方先住民族である。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。
目次 |
歴史 [編集]
「アイヌの歴史」を参照
文化 [編集]
「アイヌ文化」を参照
言語 [編集]
呼称 [編集]
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれたが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やアニ・ユン・ウィヤ族、カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。
これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされている[要出典]が、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
なお、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるため、主として近代以前の文献では「アイノ」と表記されることも多い。
民族的出自 [編集]
コーカソイド説 [編集]
中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。
東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄によると、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には和人であるものの、人種的にはアイヌであるという。このように、アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた結果、アイヌとDNA的ににもっとも近いのは琉球人の次に和人で、アイヌ人個体の3分の1以上に和人との遺伝子交流が認められた。アイヌ人集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたようである[1]。
しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった[2]。
このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。
現在の学説 [編集]
アイヌ民族の祖先はおおまかには続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程については不明な点が多く、かろうじて地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。
自然人類学から見たアイヌ民族[3]は、アイヌも和人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ。アイヌだけではなく、和人も琉球の人々も同じように日本列島の先住集団である縄文人と遺伝的につながっている。アイヌは、和人に追われて本州から逃げ出した人々ではない。縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫である。母系に遺伝するミトコンドリアDNAで、3集団を比較してみると、アイヌ集団には他に見られない特殊なグループ(ハプログループY)を持つ人がいることが分かる。このタイプは、アムール川流域の少数民族の間に多く存在するもので、最近の古人骨由来のDNA研究によって、オホーツク文化人がアイヌ集団にもたらしたものである可能性が高くなっている。
従来アイヌは、南方系の縄文人、北方系の弥生人という埴原和郎の「二重構造説」の図式のもとに、在来系の縄文人の末裔であるとみなされてきたが、オホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認し、北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価した[4]。
近年の遺伝子調査では、遺伝子的にアイヌに近いのは琉球人の次に和人であり、他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、 日本人(アイヌ人、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、 おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[5]。
次に、弥生時代における渡来の遺伝プールの評価とは別に、縄文時代の列島住民の遺伝的均質性にも近年では疑問が提出され、のちにアイヌ民族を形成する北海道および東北の縄文時代住民と、同時代の関東地方の縄文時代住民との間にすでに大きな遺伝的差異が見られることが明らかとなった[6]。
とりわけ、北海道の縄文人に関してはアムール川流域などの北アジアとの関連が強く示唆され、東北以南との形質的差異は「弥生系」の混血の有無には還元できないと考えられている[7]。
擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフともツングース系とも推定されている。)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
オホーツク人DNAがアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。アイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している [8]。
また、Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多く東南アジアから北上したと思われるD2のうちD2*が13/16=81.25%、D2a1が1/6=6.25%に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC3が2/16=12.5%と報告されている[9]。
江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
和人との混血 [編集]
明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少している。和人との通婚が増えている理由として、西浦宏巳が1980年代前半に二風谷のアイヌの青年に行った聞き取り調査では、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫の「アイヌの血を薄め」ようと考えるアイヌが非常に多いことが指摘されている[10]。
しかしながらアイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれた人物であるが、幼少時に父親と死別し、その後14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという珍しい存在である[11]。
地理学 [編集]
北海道、樺太、千島列島、カムチャッカ、北東北に住んでいた。
1756年に津軽藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。
1875年の樺太千島交換条約後、物資の補給と防衛上の理由から千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ移住させられた。
1897年のロシアの国勢調査ではアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していたことがわかっている[12]。
1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。[13]
現在のアイヌ [編集]
北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてコタンが存在する。2006年の調査によると、北海道内に23,782人[14]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。しかしながら、調査に応じた人口のみのため、実際には調査結果よりもはるかに多くのアイヌ人口が見積られる。1971年当時で道内に77,000人という調査結果もある。北海道外に在住するアイヌも多いが、ほとんど実態調査は行われておらず、1988年の調査において東京在住のアイヌ推計人口が2,700人と見積もられているものが唯一かつ最も新しい公式の調査である[14]。
1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、現在[いつ?]首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[15]。また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいるとされる。一方、アイヌ研究の第一人者であったポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいる。
長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語とアイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。
2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。
その他の少数民族 [編集]
画像 [編集]
脚注 [編集]
- ^ http://www.natureasia.com/ja-jp/aj/jhg/highlights
- ^ 日独伊三国軍事同盟が締結された時も、この説はナチス・ドイツによって利用された。すなわち「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」というのである(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの「アーリアン学説」)。
- ^ 自然人類学から見たアイヌ民族 国立科学博物館
- ^ 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査
- ^ 【プレスリリース】日本列島3人類集団の遺伝的近縁性
- ^ 「山梨大の安達登教授や国立科学博物館の篠田謙一・人類史研究グループ長らが、 縄文早期から続縄文期にかけての道内54体、東北地方20体の人骨からミトコンドリアDNAを取り出し、遺伝子型の種類と出現頻度を関東縄文人のデータと比較した。 その結果、関東集団ではほとんど見られない、ハプログループN9b遺伝子型が、北海道・東北集団では6割を超える高頻度で見つかった。 また、北海道集団だけが、シベリア先住民族に見られるハプログループG1b遺伝子型を10人に1人の割合で持っていることも明らかになった。」 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/environment/215305.html 北海道出土の縄文・続縄文時代人骨のDNA分析 http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s5.html
- ^ 「北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のmtDNA(ミトコンドリアDNA)ハプログループが観察され、その頻度分布はN9bの頻度が極めて高い(64.8 %)特徴的なものであった。これらのmtDNAハプログループのうち、D10は、アムール川下流域の先住民・ウリチにみられるものの、現代日本人での報告はない。更にハプログループGも主として北東アジアに見られるタイプで、特に北海道の縄文人と同じサブグループG1bはカムチャツカ半島の先住民に高頻度でみられる一方、現代日本人での報告例はない。また、全体で半数以上の個体が属するハプログループであるN9bも、アムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持している集団があることが報告されている。」http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s28.html
- ^ http://www.47news.jp/news/2009/06/post_20090618133824.html
- ^ 田島等の2004年の論文"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"による
- ^ 西浦宏巳『アイヌ、いま-北国の先住者たち』新泉社、1984年
- ^ さとうち藍『アイヌ式エコロジー生活:治造エカシに学ぶ、自然の知恵』小学館、2008年、130ページ
- ^ Russian Empire Census of 1897: TotalsRussian Empire Census of 1897: Sakhalin (ロシア語)
- ^ 「昭和21年(1946)12月19日、東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特に但し書きされていた。」(ネットワークコミュニティきたみ・市史編さんニュース №100 ヌプンケシ 平成17年1月15日発行
- ^ a b 北海道アイヌ協会
- ^ Poisson, B. 2002, The Ainu of Japan, Lerner Publications, Minneapolis,p.5.
参考文献 [編集]
- 『増補 アイヌ民族抵抗史 アイヌ共和国への胎動』三一新書 新谷行 1977年 ISBN4-380-72011-X
- 『アイヌの碑』朝日文庫 萱野茂 1990年 ISBN4-02-260622-3
- 『アイヌの本』別冊宝島EX 宝島社 1993年
- 『先住民アイヌの現在』朝日文庫 本多勝一 1993年 ISBN4-02-260776-9
- 『エゾの歴史 北の人びとと「日本」』講談社選書メチエ 海保嶺夫 1996年 ISBN4-06-258069-1
- 『アイヌ民族と日本の歴史』三一新書 宮島利光 1996年 ISBN4-380-96011-0
- 『アイヌ民族』朝日文庫 本多勝一 2001年 ISBN4-02-261357-2
関連項目 [編集]
- ブロニスワフ・ピウスツキ - 19世紀から20世紀初頭におけるアイヌなど北方少数民族研究の第一人者で、写真や蝋管など膨大な研究資料を残した。
- アイヌ語
- アイヌ音楽
- アイヌ料理
- イオマンテ
- アイヌ語一覧
- アイヌの一覧
- アイヌ絵 - アイヌを題材にした浮世絵
- 二風谷ダム
- アイヌ民族共有財産裁判
- 北海道アイヌ協会
- アイヌ民族党
- 蝦夷錦
- 蝦夷
- アラハバキ
- ウイマム
- オムシャ
- ウィルタ
- ニヴフ - オホーツク文化
- 俘囚
- サンカ
- マタギ
- アイヌ刀
- 先住民族、少数民族、部族
- 先住民族の権利に関する国際連合宣言
- 江戸時代の日本の人口統計 - アイヌの人口統計に関する情報も含まれている。
- YAP (Y染色体ハプログループ)
- ハプログループD2 (Y染色体)
- Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)
- ツングース系民族
- 日本の民族問題
外部リンク [編集]
- アイヌ文化入門(アイヌ民族博物館)
- 社団法人 北海道アイヌ協会
- 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
- ピヤラ アイヌ民族の今 - 北海道新聞
- アイヌ民族関連報道クリップ
- アイヌの歴史
- オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー - 2012年6月18日の北海道新聞朝刊