アイヌ

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アイヌ
(ウタリ)[1]
AinuGroup.JPG
アイヌ民族
総人口

不明。2006年北海道内で調査に応じた者のみで23,782人[2]

居住地域
日本北海道東京他)
ロシア樺太
言語
日本語アイヌ語ロシア語
宗教
仏教アニミズムキリスト教正教会
関連する民族

ウィルタニヴフ

脚注
  1. ^ アイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない
  2. ^ アイヌ生活実態調査”. 北海道. 2013年8月18日閲覧。

アイヌは、北海道樺太千島列島およびロシアカムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族である。母語アイヌ語19世紀列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が当該国に編入されたが、アイヌも同様の運命をたどった。現在、日本ロシアに居住する。

1878年イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。

アイヌは、元来は狩猟採集民族である。生業で得た毛皮や海産物などをもって現在のロシアハバロフスク地方アムール川下流域や沿海州、そしてカムチャツカ半島との間で交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[1]

1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下[2]各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシアの国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では北海道地方の他に、首都圏等にも広く居住している。

呼称[編集]

アイヌ[編集]

アイヌの一族(1863年から1870年代)
ブロニスワフ・ピウスツキが撮影した樺太アイヌ。

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[3]

アイヌの社会では、「アイヌ」という言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人シサム・シャモ[4])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけてとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ[5]」と呼ぶように求めたとされている[要出典]が、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。

アイヌ語では、東を「メナシ」、住民や部族を「クル」と呼ぶことから、北海道東部に住したアイヌ部族は「メナシグル」と称し、同様に西部のアイヌは「シュムグル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「チュプカタウダシ」と呼ばれるなど出身部族で互いを呼びわけていた。

ウタリ[編集]

しばしばアイヌの民族呼称として用いられることもあるウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが[6]、現在ではアイヌ人自身の民族の呼称としても用いられる[7]

蝦夷[編集]

中世以降、日本人(大和民族)はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄は、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には和人であるものの、人種的にはアイヌであるという。このように、アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もあるが、蝦夷がアイヌかどうかは論争がある[8]

北方の民族からは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。

民族的出自[編集]

続縄文・擦文文化[編集]

アイヌの男性(1880年)
髭を蓄えたアイヌの男性

アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文文化擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。近年遺伝子(DNA)解析が進み、縄文人渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている[9][10][11]擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている[11])の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。

自然人類学から見たアイヌ民族は、アイヌも和人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持ち、人種的に区別はできないとされ、これが2009年時点でも定説である[12]。アイヌは、和人に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる[12]

コーカソイド説[編集]

アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴がある。これらを根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。

アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。また日独伊三国軍事同盟が締結された時も、この説はナチス・ドイツによって利用され、「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」と主張された(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの「アーリアン学説」)。

このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。

遺伝子調査[編集]

松前藩領内のアイヌを描いたアイヌ絵。後ろに従う従者は、交易用の乾し鮭を背負っている(小玉貞良筆、18世紀

近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人の次に和人で、アイヌ人個体の3分の1以上に和人との遺伝子交流が認められた。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ人、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[13]。アイヌ人集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[14]

Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多く東南アジアから北上したと思われるハプログループD2のうちD2*が13/16=81.25%、D2a1が1/6=6.25%に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC3が2/16=12.5%と報告されている[15]

北海道縄文人集団[編集]

ミトコンドリアDNAを用いた系統解析により、北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっている[16][9]。また坂上田村麻呂侵攻以前の東北地方古墳時代人に北海道縄文・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察され、東北地方縄文人についても北海道縄文・続縄文人と同様の母系を持つ可能性が指摘され、東北地方縄文時代人と北海道縄文時代人DNAと比較した結果、ハプログループN9bおよびM7aが北日本の縄文人のミトコンドリアDNAの遺伝子型の中心とされた[9]

北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている[10]。このうちN9bの頻度分布は64.8 %と極めて高いのが特徴であるが、N9bはアムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持されている[10]。D10も、アムール川下流域の先住民ウリチにみられ、主に北東アジアに見られるGのサブグループG1bはカムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない[10]

オホーツク人・カムチャツカ半島先住民族との関連[編集]

アイヌ(左)とニヴフを描いた絵(1862年)

近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消したもので、粛慎との見方もなされてきた[17]

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[17][11]。また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[17][11]。アイヌ民族は縄文人や和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった[11]

天野哲也北大教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした[17]増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した[11]。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた[11]

歴史[編集]

人類学的には日本列島縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を継承し、オホーツク文化本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[8]擦文文化オホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている[8]。13~14 世紀になると、農耕も開始され、海を渡った和人との交易も行われた[8]。またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタ民族ともアイヌは交易していた。1457年には和人アイヌ間でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した[8]。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥ニシン・獣皮・の羽(矢羽の原料)・海草やからアイヌに伝わった衣服(蝦夷錦)などを輸入し、鉄製品・漆器木綿などで支払っていた[8]が、1669年シャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった[8]。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄地とした[8]

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人人口が増加した[8]。アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ、宗教儀礼や入墨耳環などアイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた[8]地租改正により和人に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされ、アイヌの伝統な生業である狩猟、漁撈も制限される過程で、生活も困窮の道をたどる。政府は勧農政策を実施し、北海道旧土人保護法では土地の無償下付や農具の給付など優遇制度 を実施したが、アイヌの生活改善には効果がなかった[8]

文化[編集]

宗教[編集]

アイヌの祭壇「ヌサ」。明治後期。
イオマンテを描いたアイヌ絵(『蝦夷島奇観』模写、平沢屏山筆、大英博物館蔵)

アイヌの宗教は汎神論に分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂(カムイ)を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。

ロシア正教

千島列島に住むアイヌ人はロシア正教の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初にロシア正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てがロシア正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になり、北千島の住民は色丹島に移住させられ、北千島にあった聖堂も破壊された。色丹島のアイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[18]

建築[編集]

平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
アイヌの高床式倉庫、「プー」。

アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。

衣装[編集]

白老町アイヌ民族博物館の職員。噴火湾沿岸地方の伝統衣装・ルウンペを着用する

アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にオヒョウシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパリアミプ」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカプウル」がある。

江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。

ユーカラ[編集]

アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはウエペケレ(散文の昔話)やユーカラ(叙事詩)がある。明治時代、アイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』を出版したほか、金田一京助が長大なユーカラ研究を発表している。

現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。

古式舞踊[編集]

祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年ユネスコ無形文化遺産に登録。[19]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。

言語[編集]


地理[編集]

樺太のアイヌ(1903年)
千島列島のアイヌ。

アイヌの伝統的な分布地は、北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである

1756年津軽藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。

1875年樺太千島交換条約後、物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ移住させられた。

1945年ソビエト連邦日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。[20]

人口[編集]

北海道のアイヌ人の分布地図 1999年

江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。

1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた[21]

現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[22][8]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。

1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[23]


北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[22]1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる[8]

また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[24]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいるとしている。

現在[編集]

1930年代のアイヌの夫婦。

北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老阿寒湖温泉では観光名所としてアイヌコタン(コタンは集落を意味する)が存在する。

平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16.8%、そのほかに別の誰かが受けたことを知っていると答えた人が、19.8%であった[8]。明治以降は和人との通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、和人との通婚が増えている理由として西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している[25]。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという[26]

長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語アイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。

アイヌ先住民族認定[編集]

1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた[8]

1997年アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった[8]。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。

2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された[27][28][29]。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[30]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[31]に基づき実施している。その際には、家系図戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。

アイヌ先住民族認定と優遇措置に対する批判[編集]

2014年札幌市議会議員金子快之Twitterで「アイヌ民族は今はもういない」と受け止められかねない書き込みを行っていたことが判明し、アイヌ民族の団体などから批判された[32]。金子議員は、アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しないため、アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定していることや、出自がアイヌ民族でなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌ民族としての優遇措置を受けられること、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在していることなどを挙げ、アイヌの文化や歴史を否定するものではないとし、アイヌに様々な苦労があったことを認めつつも今後もこの問題に取り組んでいくと反論した[33]

画像[編集]

博物館[編集]

関連団体[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 北海道大学名誉教授(北東アジア考古学) 菊池俊彦 「オホーツク世界と日本」2012
  2. ^ (1) 立教大学名誉教授(日本近世史) 荒野泰典 編集 「東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜」 の『「四つの口」の国際関係――近世日本国家の中華秩序からの自立を中心に――』より。
    (2) 「NHK高校講座 日本史 第20回 海外交流の実態 〜4つの窓口〜」 の『4つの窓口』より。
  3. ^ 例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中華王朝の史書では「倭人」と記載されているが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族アニ・ユン・ウィヤ族カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
  4. ^ 当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
  5. ^ アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるため、主として近代以前の文献では「アイノ」と表記されることも多い。
  6. ^ 小学館 『デジタル大辞泉』
  7. ^ 三省堂大辞林』第三版
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本学術会議地域研究委員会人類学分科会「アイヌ政策のあり方と国民的理解」平成23年(2011年)
  9. ^ a b c 安達登・篠田謙一「[http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s5.html 北海道出土の縄文・続縄文時代人骨のDNA分析」2008年3月7日
  10. ^ a b c d 安達登・篠田謙一「北から見た縄文人起源論」「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」2010年2月20日、国立科学博物館分館
  11. ^ a b c d e f g [1]北海道新聞2009.6.18.オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー。論文はAnthropogical Science(日本人類学会)
  12. ^ a b 篠田謙一「自然人類学から見たアイヌ民族」 有識者会議 2009.2.26
  13. ^ 【プレスリリース】日本列島3人類集団の遺伝的近縁性
  14. ^ http://www.natureasia.com/ja-jp/aj/jhg/highlights
  15. ^ 田島等"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"2004年
  16. ^ 安達登・篠田謙一・梅津和夫・松村博文・大島直行・坂上和弘・百々幸雄 (2005) 北海道伊達市有珠モシリ遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA多型解析.「DNA多型 vol.13」所収、日本DNA多型学会・小林敬典編、東洋書店、pp. 242-245.
  17. ^ a b c d 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査朝日新聞2009年2月4日
  18. ^ 『ハリストス正教徒としての千島アイヌ』Malgorzata Zajac
  19. ^ 2014年1月12日中日新聞朝刊サンデー版1面
  20. ^ 「昭和21年(1946)12月19日、東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特に但し書きされていた。」(ネットワークコミュニティきたみ・市史編さんニュース №100 ヌプンケシ 平成17年1月15日発行
  21. ^ Russian Empire Census of 1897: TotalsRussian Empire Census of 1897: Sakhalin (ロシア語)
  22. ^ a b 北海道アイヌ協会
  23. ^ Poisson, B. 2002, The Ainu of Japan, Lerner Publications, Minneapolis,p.5.
  24. ^ 「しかしアキヅキトシユキは実際には1975年の樺太・千島交換条約の際に千島に住んでいた90人のアレウト族の末裔だったのではないかと推測している。そのアイヌがどこのだれのことを示しているのかということに関してそれ以上の情報はでてこなかった」 David L. Howell. “Geographies of Identity in Nineteenth-Century Japan”. University of California Press. 2014年7月13日閲覧。小坂洋右 『流亡: 日露に追われた北千島アイヌ』 北海道新聞社、1992年ISBN 9784893639431
  25. ^ 西浦宏巳『アイヌ、いま-北国の先住者たち』新泉社、1984年
  26. ^ さとうち藍『アイヌ式エコロジー生活:治造エカシに学ぶ、自然の知恵』小学館、2008年、130ページ
  27. ^ 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に関する内閣官房長官談話”. 首相官邸 (2006年6月6日). 2013年10月24日閲覧。
  28. ^ アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議 平成20年6月6日 参議院本会議
  29. ^ アイヌ先住民族決議、国会で採択”. All About (2008年6月10日). 2008年10月24日閲覧。
  30. ^ 北海道外に居住するアイヌの人々に対する奨学金の貸与について p4 北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務に係る規則
  31. ^ 北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務についての実施方針 平成26年2月26日 アイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ
  32. ^ 札幌市議:「アイヌはもういない」 ネットで自説 毎日新聞 2014年8月17日
  33. ^ http://kaneko-yasu.seesaa.net/article/403843702.html アイヌ施策に関するツイートについて: 札幌市議会 金子やすゆき ホームページ 2014年8月16日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]