阿倍比羅夫

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阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。越国守。阿倍氏一族の内、引田臣と呼ばれる集団を率いていた。

日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげた。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。オホーツク文化人とも取れ、沿海州にまで渡ったとも推測される。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して帰った。後方羊蹄は、北海道羊蹄山のこととも津軽ともいう。

662年、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の将として半島に向かったが、663年新羅の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により百済再興の夢は潰えた。

ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれており、事実なら比羅夫と仲麻呂は祖父と孫(あるいは伯父と甥)の関係ということになる。

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