千島列島

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N60-90, E120-150 N60-90, E150-180
N30-60, E120-150 N30-60, E150-180
千島列島と周辺の地形図
千島列島の島々の夏の典型的な風景
温禰古丹島の黒岩山と幽仙湖カルデラ
幌筵島の火山・千島硫黄山(エベコ山)の火口

千島列島(ちしまれっとう)は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。クリル列島ロシア語: Кури́льские острова́ 英語: Kuril Islands)ともいう。

国後島択捉島得撫島幌筵島占守島などの島々からなる。総面積10355.61km²。

主に得撫島以北を北千島択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。日本政府は択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている[1]。 なお、得撫島から磨勘留島までを中部千島と呼ぶことがあり、本項でも便宜上

  • 北千島 - 占守島・阿頼度島・幌筵島・志林規島
  • 中部千島 - 磨勘留島から得撫島まで
  • 南千島 - 択捉島、国後島

と区分して記述することとする。

当該地域の領有権に関する詳細は本項現在の他「北方領土問題」の項目を、現状に関してはサハリン州の「小クリル列島」、「大クリル列島」の項目を参照のこと。


千島列島の島々[編集]

北千島[編集]

日本語 ロシア語 英語 島名の由来となったアイヌ語 面積
km²
最高標高
m
北緯 N 東経 E
阿頼度島
あらいどとう
Атласова
アトラソフ島
Atlasov 「アウ・ライト(噴火口の内が地獄のようにどろどろに溶けた溶岩の溜池)」 150 2339 50°50' 155°30'
占守島
しゅむしゅとう
Шумшу
シュムシュ島
Shumshu 「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」
※ 諸説あり
388 189 50°45' 156°20'
幌筵島
ぱらむしるとう[* 1]
Парамушир
パラムシル島
Paramushir 「パラ・モシル(広い・島)」「ポロ・モシル(大きい・島)」など 2053 1816 50°30' 155°40'
志林規島
しりんきとう
Анциферова
アンツィフェロヴァ島
Antsiferov 「シ・リン・キ(甚だ・波・所→ひどく波立つ所)」 7 747 50°12' 154°58'

中部千島[編集]

日本語 ロシア語 英語 島名の由来となったアイヌ語 面積
km²
最高標高
m
北緯 N 東経 E
磨勘留島
まかんるとう[* 2]
Маканруши
マカンルシ島
Makanrushi 「温禰古丹島の後ろにあって、潮の中に立つ島」の意とする説がある。 49 1171 49°45' 154°25'
温禰古丹島
おんねこたんとう
Онекотан
オネコタン島
Onekotan 「オンネ・コタン(大きな・村→大きな村)」 425 1324 49°25' 154°45'
春牟古丹島
はりむこたんとう[* 3]
Харимкотан
ハリムコタン島
Kharimkotan 「ハリム・コタン(オオウバユリ・村→オオウバユリの多い所)」
「ハル・オマ・コタン(オオウバユリの鱗茎・そこにある・村→
オオウバユリがそこにある村)」
68 1157 49°05' 154°30'
越渇磨島
えかるまとう
Экарма
エカルマ島
Ekarma 「エカリ・マ・ウシ(安全な船着場の多い所)」 30 1170 48°55' 153°55'
知林古丹島
ちりんこたんとう
Чиринкотан
チリンコタン島
Chirinkotan 「チリン・コタン(汚れた波<泥流>・村)→泥流に呑まれた村」 6 742 48°58' 153°30'
捨子古丹島
しゃすこたんとう
Шиашкотан
シアシュコタン島
Shiashkotan 「シャク・コタン(夏の・村)」「シャシ・コタン(昆布・村)」など諸説あり 122 934 48°50' 154°05'
牟知列岩
むしるれつがん
Скалы Ловушки
ロヴシュキ列岩
  「モシリ(島)」
雷公計島
らいこけとう
Райкоке
ライコケ島
Raikoke 「ライ・コツ・ケ(地獄・穴、又は噴火口・所→地獄穴の所)」 4,6 551 48°17' 153°15'
松輪島
まつわとう
Матуа
マトゥア島
Matua 「モト・ア(土着の者だ吾々は)」(かつて千島アイヌが千島列島を行き来していた中で、
本島に土着したアイヌが存在した)
52 1446 48°05' 153°10'
羅処和島
らしょわとう[* 4]
Расшуа[* 5]
ラスシュア島
Rasshua 「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」など諸説あり 67 948 47°45' 153°00'
摺手岩
すれでいわ
Среднего
スレドネワ島
Srednii ロシア語の「スレドネワ(Среднего/間の、中間の)」が変化したとされる 36
宇志知島
うししるとう
Ушишир
ウシシル島
Ushishir 「ウセイ・シル(温泉・大地→温泉のある大地)」 5 401 47°30' 152°50'
計吐夷島
けといとう
Кетой
ケトイ島
Ketoy 「ケウ・トイ(骸骨・悪い)」[* 6] 73 1172 47°20' 152°30'
新知島
しむしるとう[* 7]
Симушир
シムシル島
Simushir 「シ・モシリ(大きい・島→大きい島)」 353 1539 47°00' 151°55'
武魯頓島
ぶろとんとう
Броутона
ブロウトナ島
Broutona 島の名前は、1796年(寛政8年)から2年に渡り千島・サハリン沿岸を調査した、
イギリス海軍プロヴィデンス号のブロートン艦長に由来する。アイヌ語では
「マカンルル(マック・アン・ルル=後ろ・ある・潮→後方の潮の中にある島)」
7 800 46°43' 150°45'
知理保以島(北島)
ちりほいとう[* 8]
Чирпой
チルポイ島
Chirpoy 「チリ・オ・イ(小鳥・そこに沢山いる・所→小鳥がそこに沢山いる所)」
北島と南島は、千島アイヌにはそれぞれ「レプンモシリ」[* 9]、「ヤンケモシリ」[* 10]
と呼ばれていた。
21 691 46°30' 150°55'
知理保以南島
ちりほいみなみとう[* 8]
Брат Чирпоев[* 11]
ブラト・チルポエフ島
Brat Chirpoev 16 749 46°28' 150°50'
得撫島
うるっぷとう
Уруп
ウループ島
Urup 「ウルプ(紅鱒)」 1450 1426 45°50' 149°55'

南千島[編集]

日本語 ロシア語 英語 島名の由来となったアイヌ語 面積
km²
最高標高
m
北緯 N 東経 E
択捉島
えとろふとう
Итуруп
イトゥルップ島
Iturup 「エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所)」 3200 1634 44°50' 147°50'
国後島
くなしりとう
Кунашир
クナシル島
Kunashir 「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」または「キナ・シリ/キナ・シル(草の・島→草の島)」
(どちらが本当の由来かははっきりとしていない)
1490 1822 44°05' 146°00'


なお、色丹島、歯舞群島は千島列島(クリル列島)には含まれないと考えられる[* 12]が、便宜上、ここに併記することとする。

色丹島の中心集落、マロークリリスク(日本名は「斜古丹」)
  • 色丹島(しこたんとう)
    ロシア語表記:Шикотан(シコタン島)
    英語表記:Shikotan
    島名の由来となったアイヌ語:「シ・コタン(大きな村)」
    面積:250km²
    最高標高:413m
    北緯:43°50'
    東経:146°45'
  • 歯舞群島(はぼまいぐんとう)
    ロシア語表記:Острова Хабомай(ハボマイ諸島)
    英語表記:Khabomai
    面積:97km²
    最高標高:45m
    北緯:43°30'
    東経:146°05'
日本語 ロシア語 英語 島名の由来となったアイヌ語
海馬島
とどじま
Осколки
オスコルキ島
Oskolki  
多楽島[* 13]
たらくとう
Полонского
パロンスキー島
Polonskogo 「トララ・ウク(皮紐・取る→皮紐を取る島)」
志発島
しぼつとう
Зелёный
ゼリョーヌイ島
Zelyony 「シペ・オッ(鮭・群在する所)」
勇留島
ゆりとう
Юрий
ユーリ島
Yuri 「ユウロ(それの鵜がたくさんいる→鵜の島)」または「ウリル(鵜の島)」
秋勇留島
あきゆりとう
Анучина
アヌーチナ島
Anuchina 「アキ・ユリ(弟・勇留→勇留の弟)」
水晶島
すいしょうじま
Танфильева
タンフィーリエフ島
Tanfilyeva 「シ・ショウ(大きい・裸岩)」
貝殻島
かいがらじま
Сигнальный[* 14]
シグナリヌイ島
Signalny 「カイ・カ・ラ・イ(波の・上面・低い・もの<岩礁>)」

地理[編集]

千島列島には活発な火山が多い

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。2006年平成18年)3月分のNEWTONには詳細な図が書かれており、成層火山の頂上が北海道本島にぶつかったものが現在の知床半島とされる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、シムシル島東方沖でマグニチュード7.9の地震が発生した。また、2007年(平成19年)1月13日にも、シムシル島東方沖でマグニチュード8.2の地震が発生した。

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒いが長く続く。は短く、がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどはである。

温帯亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。

島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

住民[編集]

択捉島国後島色丹島幌筵島以外は定住人口の無い無人島である。2010年の国勢調査によると幌筵島北クリル管区)に2,381人(セベロクリリスク柏原)に2381人)、クリル管区択捉島)に6,064人(管内のクリリスク紗那村)に1,666人)、南クリル管区国後島色丹島)に10,290人(管内のユジノクリリスク(古釜布)に6,617人)となっている[2]。2010年の国勢調査による千島全域の総人口は18,735人。近年は幌筵島、択捉島で人口が引き続き減少する一方、国後島は減少から増加に転じている。

生態系[編集]

海の生物[編集]

千島列島最北の秀峰・阿頼度島の阿頼度富士(親子場山)

太平洋の大陸棚の縁に位置する海底地形、および海流の影響(オホーツク海内部で、アムール川の運ぶ養分を含んだオホーツク環流と、カムチャツカ半島東岸を流れて千島列島北部から入り込んだ養分豊かな親潮が合流し、これがさらに千島列島から流れ出し親潮と再合流する)により、列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。

さらに沖合いにはマスタラカレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカトドオットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。これらの哺乳類はかつてアイヌ人などの捕獲の対象となり、その肉は食料に、皮や骨はさまざまなものの原料(毛皮の服など)になってきた。千島列島への民族集団の広がりも、これらの生物を追っての移住だった可能性もある。19世紀から20世紀はじめにかけ、オットセイは毛皮採取のために乱獲され、例えば雷公計島に19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならず1960年代以来これらの狩猟の報告はない。 かつて千島列島でも見ることのできたニホンアシカは、魚を捕食することから害獣として駆除された結果20世紀はじめにはほとんど見られなくなり絶滅したとみられている。クジラ類も多く、特にイシイルカシャチアカボウクジラツチクジラマッコウクジラミンククジラナガスクジラなどが多く観測されている。

ラッコ毛皮貿易のため19世紀に乱獲された。より価値の高いラッコの毛皮を手に入れるためロシアの千島列島への勢力拡大が活発になり、日本の権益と衝突する結果になった。ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。

千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。

陸の生物[編集]

千島列島の陸の生態系は、南の北海道本島やサハリン、北のカムチャツカ半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。

面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマキツネテンなどが元から住んでいる。また南千島の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサミソサザイセキレイなどの鳥も森に住んでいる。

クリルアイランドボブテイルという猫が生息している。これはジャパニーズボブテイルに似た短い尾を持つ突然変異種の猫で、ロシアの猫種登録団体からの認定も既に受けている。[3]

歴史[編集]

近代国家による領有以前にはアイヌ民族などが先住していた。彼らは主に南千島や中部の得撫島羅処和島、北部の幌筵(パラムシル)島占守島などに居住していた。

第二次世界大戦まで[編集]

  • 1661年 - 択捉島に伊勢国の七郎兵衛の船が漂流した。アイヌ人たちの助けで国後島を経て蝦夷(北海道)へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。
  • 1700年元禄13年) - 松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道本島からカムチャツカ半島までが記載されている。[4]
  • 1711年 - ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から北千島の占守島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。
  • 1713年 - ロシア人のコズイレフスキーは、北千島の幌筵島に上陸して占守郡のアイヌ民族を支配し、幌筵島を占領した。
  • 1715年正徳5年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
  • 1731年享保16年) - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。
  • 1745年延享2年)5月、竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が中部千島の温禰古丹島に漂着。
  • 1754年宝暦4年) - 松前藩は国後・択捉・得撫の三島を版図とする国後場所を開いた。
  • 1766年明和3年) - ロシア人が初めて得撫島以南に到達、得撫島では居住を始め現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) - 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) - アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1770年代 - ロシア人が得撫島や択捉島、国後島などに現れ、さらには1778年安永7年)北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議したという。[要出典]
  • 1786年天明6年) - 幕府が最上徳内を派遣し、国後場所の択捉島と得撫島の調査を実施。その結果、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが分かった。最上徳内は1791年(寛政3年)にも択捉島と得撫島を訪れている
  • 1798年寛政10年) - 幕府による北方視察が大規模に実施され、近藤重蔵によって択捉島には「大日本恵登呂府」の標柱が建てられた
  • 1801年享和元年) - 富山元十郎深山宇平太を得撫島に派遣し、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたため、幕府は標柱を建てるとともに退去を求めている。
  • 1804年文化元年)7月18日継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名が北千島の幌筵島東浦に漂着。
  • 1855年安政元年) - 日露和親条約が締結され、択捉島以南が日本領として画定。樺太については、幕末頃ロシアが領有権を主張し始めた。
  • 1872年以降 - イギリスなどの船が入り込み、ラッコやオットセイの狩猟を開始する。
  • 1872年 - 中部千島・捨子古丹島火山噴火し、出猟中の千島アイヌ13名が死亡。
  • 1875年明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太の一部と北千島が交換され、全千島列島が日本領となる。
  • 1884年(明治17年) - イギリス人H.J.スノーが千島列島の測量を行い地図を作製する。
  • 1893年(明治26年) - 千島報效義会の会員が北千島の占守島、幌筵島、捨子古丹島にて越年。幌筵島1名、捨子古丹島9名全員が死亡。

日本政府は国策として、国防を理由に千島アイヌを色丹島に強制移住させた。慣れない生活と風土のため、アイヌの人口は激減する。

大戦中と終戦[編集]

太平洋戦争中、北から侵攻するであろうアメリカ軍に備えるため、幌筵島には柏原(現在のセベロクリリスク)の高台を含め、日本軍の飛行場や地下に掘られた病院が造られていた。現在、どの場所も廃墟や残骸が残るのみである。

8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍・第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日停戦したが、4日間の戦闘でソ連側が1,567名、日本側が1,018名の死傷者(ソ連側資料)を出した。日本側資料ではソ連側が約3,000名、日本側が約600 - 700名の死傷者とされている。

スターリンは占守島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備を始めたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかったため、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に松輪島を、8月28日から8月31日に得撫島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。

幌筵島セベロクリリスクのメインストリート

択捉島以南(南千島)の占領は、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。南千島占領部隊は8月26日に大泊を出航し8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日歯舞群島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道本島も侵略されていたと見る者もいる。

ソ連占領地域は北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)。また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。アイヌを含む千島住民の一部は残留の強い働きかけを受けたものの、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げることとなった。朝鮮籍の住民は日本引き揚げを認められず、彼らと結婚したものなど一部残留を希望する日本人は引き揚げなかった。

現在[編集]

  • 1951年(昭和26年) - サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が千島列島の領有権を放棄する。しかしソ連はその条約に調印していないため、領有権の帰属先を定める国際法が存在せず、日本は北方四島以外の千島列島の帰属は未確定と主張する。

ソ連が崩壊した後に成立したロシア連邦が、現在も実効支配しているものの、法的には帰属未定の土地である。

また日本政府は、サンフランシスコ講和条約による「千島列島」には、日露和親条約で国境を定めた択捉島以南の南千島は含まれないとしている。これらの島々は北方領土と呼ばれ、ロシア政府に返還を求めている。

旧ソ連はサンフランシスコ講和条約において、日本が得撫島以北の千島列島だけを放棄すると明言してはいないことや、ヤルタ会談、ポツダム宣言、カイロ宣言、降伏文書、国連憲章第107条、マッカーサー命令、日ソ共同宣言などを根拠として、ソ連による全千島の領有は正当だと主張しているが、日本政府はヤルタ会談での秘密協定は国際法違反だとしている。

北方領土に関しては、中華人民共和国のように「日本の領土であるが、ロシアの占領下にある」との立場を取っている国もある 。欧州議会は、2005年平成17年)7月7日に、北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択した[5]

2010年3月31日まで北方四島のほか、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされていたが、2010年平成22年)4月1日に「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成21年3月31日公布)」[6]と「財務省組織規則の一部を改正する省令(平成21年10月26日 財務省令第67号)」[7]により、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡については法令上も消滅した。

日本共産党維新政党・新風は、全千島列島が樺太・千島交換条約で平和裏に日本の領土になった経緯をもって、全千島列島の返還を主張している。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「ほろむしろとう」とも読まれる。
  2. ^ 史料によって名称が多少異なっている。詳細は磨勘留島の項を参照のこと。
  3. ^ 「はるむこたんとう」とも読まれる。また、加林古丹(かりんこたん)とも言い、由来は「カ・リン・ム・コタン(上・波<泥流>・這う・村→村の上を波<泥流>が這うように流れ下った村)」である。
  4. ^ 日本語では「らしゅわとう」「らすつあとう」とも読まれる。
  5. ^ "Расшя"とも。
  6. ^ 元禄御国絵図、正保御国絵図には島にある谷を「ケトナイ(両岸が骸骨のように聳立(しょうりつ)した渓谷)」との表記したことから島の名前に転じた。
  7. ^ 「しんしるとう」とも読まれる。
  8. ^ a b 「ちぇるぽいとう」とも読まれる。
  9. ^ 「レプ・ウン・モシリ(沖・ある・島→沖にある島)」を意味する。
  10. ^ 「ヤ・ウン・ケ・モシリ(陸、又は岸・ある・場所・島→陸の方にあるその島)」を意味する。
  11. ^ 「チルポイの弟(兄)」の意。
  12. ^ サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説にて吉田首相は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と発言している(外務省条約局法規課『平和条約の締結に関する調書VII』)。また、日本は平和条約を締結するに当たって、日本政府の立場を説明するために、米国に対して36冊に及ぶ資料を提出しているが、そのうち、1946年11月作成の「千島列島・歯舞・色丹」、1949年4月作成の「南千島・歯舞・色丹」という名の2冊が存在することからも当時の日本政府が色丹島と歯舞群島は千島列島には含まれないと認識していたことが明らかである(『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』 西村熊雄/著 鹿島平和研究所/編 鹿島平和研究所出版会 1971年)。戦前や終戦期の日本政府は色丹、歯舞を除く部分を千島列島と認識していた。しかし、領土問題が存在する現在の日本政府とロシア政府それぞれの千島列島の定義に関する見解はともにこれとは異なるものとなっている。日本政府は四島は千島列島ではないと主張し、ロシア政府は四島とも千島列島に含まれると主張している。なお、江戸時代以前の歯舞・色丹は根室場所付島々とされ、1885年1月6日に色丹島は根室場所を前身とする根室国から切り離されて国後場所・択捉場所を前身とする千島国に属することとなった(根室国花咲郡の一部→千島国色丹郡)ことから色丹島のことを千島の一部に含めて呼ぶ人もいたようだが、これはあくまで千島国への編入であって地理的名称の千島列島への編入ではない。「千島色丹」の消印の切手もこのころから発行されるようになった。しかし、このことをもってしても、色丹島が千島列島に含まれないという当時の日本政府の公式な見解が変化したと指摘することはできない。「千島色丹」の消印はあくまで「千島国の色丹」という意味だからである。また、地質学の世界では色丹島と歯舞群島も南千島に含めることから、これらを南千島と記す文献も見られるが、あくまで地質学という一学術分野において通用している認識であって、この認識は領土問題における千島列島の範囲の問題とは、何ら関係がない。ちなみに地質学の世界では智理保以島や得撫島も南千島に含まれ、磨勘留島から捨子古丹島までは北千島に含まれており、この点についても政治上の千島列島の区分とはまったくかけ離れたものとなっており、地質学上の定義は政治問題とは何ら関係がないものと考えられる。
  13. ^ 「多羅久島」と表記される場合もある。
  14. ^ 「灯台島」の意。

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