琉球民族
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琉球民族(りゅうきゅうみんぞく)とは、旧琉球王国の領域である沖縄諸島、先島諸島、奄美諸島に住む人々の言語、生活習慣、歴史を本土の大和民族のものとはっきり異なると捉えた場合に使われる表現である。旧琉球王国内に居住する人々を日本人(大和民族)とするのか、琉球人(琉球民族)とするのかは、単なる文化的問題だけでなく政治的問題も絡んでくるので、議論が分かれるところである(民族の項も参照の事)。。琉球民族論の対義語は、日琉同祖論である。また日本では、「琉球人」「沖縄人」「奄美人」などの呼称が、たとえば大阪人のように、単純に出身地を表す場合もあるため、琉球民族と必ずしも同義でない事にも注意が必要である。
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概要
琉球は日本の文化圏内にあるが、ある程度の特殊性を持ってその他の地域と区別できる。ただしその差をどう見るかには議論がある。沖縄が日本文化の範疇にあるか、少なくともきわめて近いものであることは、様々な点から見ても異論のないところである。ただし、「日本だと言い切ってしまうとあまりにも多くの非日本的要素が目立つ。」しかし例えば朝鮮や台湾に比べれば「あまりにも日本的要素が目立つ」(以上[1])より引用)。
琉球民族と定義できる人々は、沖縄県民と奄美諸島(鹿児島県)民、出身者、その子孫である。方言に多少の差異があるため、現在沖縄県民を指すウチナーンチュは全体を表しているわけではない。奄美諸島は、沖縄県とは異なる歴史を歩んで来たため、自らをアマミッチュ・シマッチュなどと表現する。
言語
- 詳しくは琉球語参照
琉球の言葉は言語学的には日本語族に属することがはっきりしている。学術的には琉球語、あるいは琉球方言と呼ばれるが、併せてそれ以外の日本語を本土方言と分類し、両者を併せて日本語する議論が一般的である。琉球方言が日本語を構成する二大言語の一方とされる点は、民族論の上で特記されるべきである。
琉球方言は、さらに先ず南北にわけ、北の北琉球方言が奄美諸島北部の奄美方言、奄美諸島南部から沖縄本島北部の国頭方言、沖縄本島南部と周辺島嶼部の沖縄方言(首里方言)に分けられ、南の南琉球方言が、宮古群島の宮古方言、八重山列島のうち与那国島以外の八重山方言、与那国島の与那国方言に分けられる。島によって言葉が異なり、特に宮古島は他の島とは大きく異なり独特である。また、鹿児島県である奄美諸島の方言は、緩やかに疎遠になりつつある。
現在の沖縄県では、沖縄化した日本語(沖縄で言うウチナーヤマトグチ、日本語的には俗に「沖縄弁」ともいう)が一般に話され、本来の琉球語(琉球方言)が衰退し危機的とされる。また奄美諸島では、標準語の影響は当然として、鹿児島県所属としての影響や、また関西弁の影響もみられ、ウチナーヤマトグチとは違うものに変化している。
- これは、地域ごとの方言差が激しく、県民同士でも相互に会話が通じにくいという上記の理由と、テレビの影響といった現代一般的な理由と、明治時代に学校で始まった標準語普及運動(方言札)の名残、そして義務教育による標準語使用が大きい。文化財的価値のある琉球語(琉球方言)を、守ろうとする動きが一部では起こっている。なお、他県でもそれぞれの方言に対し、同じ理由によって同様の動きがあり、必ずしも沖縄独自の方向ではない。地方マスコミにおける方言番組のあり方はかなりの独自色がある。
人種の系統
琉球民族論を主張する者は大和民族との系統的な違いを強調し、琉球日本人論を主張する者は逆を強調するなど、遺伝的な差異を元に議論が展開されることも多いが、これは学術的判断とはかけ離れたものである。所定の地域内に住む住民を同一民族とみなすことは、文化的な同一性で決定づけられるものであり、基本的にはイスラエル国内に住むユダヤ人のように集団内に遺伝的な差異があっても差し支えはない。生物学的な人類の区別は人種と呼ばれ、文化や政治的な違いをもとに定義する民族とは意味が異なるものである(当該項目も参照の事)。その上で、以下は本土の住民と南西諸島(奄美諸島以南)の住民との比較のため参考として記するものである。
琉球も本土の人間も、縄文人を祖先とすることが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。また、中国南部及び東南アジアの集団とは、地理的には近く昔から活発な交易が行われていたため、本土の住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究からそれらの集団とは比較的離れていることが判明している。本土の住民との近縁性や、同じく縄文人の子孫とされる北海道のアイヌ民族との近縁性が指摘されている。本土の住民は、弥生時代の人骨や近年の遺伝子の研究から、朝鮮半島や中国北部といった東アジアの集団とも近縁であることが判明している(日本人や琉球人、アイヌ人はいずれも最近の遺伝子研究によりおおむね北方起源説が有力)。考古学などの研究から、南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期に南下して定住したものが主体であると推測される。奄美地方では「平家の落人」伝説などや、城久遺跡(喜界島)などの発見により琉球王国以前には本土の勢力圏であった可能性なども指摘されているため、古くから本土側の住民との遺伝的な交流があったものと思われ、遺伝的・人類学的にみても両者の間に明瞭な境界線を引くことは難しい。
- 政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(琉球民族を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる[2][3])。しかし、全般的に見て日本列島の住民は語族が同一であるだけでなく遺伝的にも近縁なもの同士であるといえ、さらに朝鮮半島や中国大陸の住民とも近縁同士ということになる。琉球民族と大和民族が遺伝的に違うと主張すれば、琉球人と似た風貌や特徴を持つ九州南部の住民をどう定義するのかという問題が起こり[4]、境界の線引きを曖昧にして琉球人は人種的に大和民族であると主張すれば、遺伝的に同じように近い朝鮮半島や中国大陸の住民と本土の住民を区分するかどうかも問題になろう(しかし、本土日本人とアイヌ・沖縄人との差異はほとんどないが、朝鮮半島の人々と日本人は異質性が存在するという遺伝子研究からの結果もある[5])。
文化・慣習
地理的に東南アジア、中国南方、九州の交易における中間点に属しその生活慣習や伝統は独特である。独立した王国であったため、他地方の日本における一般的な地方文化とは異なり、庶民の文化から宮廷の伝統まで揃っている。沖縄諸島と先島である八重山諸島・宮古諸島・与那国島、そして奄美諸島では交易上の地理的条件と統治の歴史背景が異なるため、伝統が多少異なる。また、焼酎の酒造法(泡盛と同じ)や藍染(紅型)、螺鈿など、琉球を経由して日本本土に伝わった文化も存在する。
詳細は各項目を参照されたい。
歴史
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 琉球國」(7世紀)では俀國(倭国のこと。王は多利思北孤)とは分けられて記述され、以降中国史書では同様の扱いとなる。
琉球王国統一以前は、各島嶼が独立した勢力であったが、琉球民族論を主張するものは、歴史的に琉球は別の王国であったため、大和の朝廷とは別の民族であったと主張し、統一後の最大版図を民族領域としている。逆に、琉球は歴史的にも日本民族であると唱える側は、大和地方にあった日本の朝廷が拡大していく過程で、沖縄は最後であったに過ぎず他の日本の地方と同格であるとされる。
12世紀に農耕社会が始まり、グスク文化、三山時代をへて15世紀には琉球王国が成立する。琉球王国は明への冊封下で朝貢、東南アジア・東アジア・スペインとの交易で栄えた。1609年に、薩摩藩に侵攻され属国となった。琉球王国は、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、王国廃止まで薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、割譲され薩摩藩直轄地となった。
1872年に、琉球王国は琉球藩(琉球処分)になり、1879年琉球藩が廃止され鹿児島県へ編入、同年中に沖縄県が分離成立した。その後、様々な施策が行われたが、相変らず経済基盤が脆弱であったため、大日本帝国本土・ハワイ・中南米へ移住・移民する者が多く、戦後も続いた。
第二次世界大戦終了後、沖縄県は奄美諸島とともにアメリカ軍による支配のもと日本から切り離され、紆余曲折を経て、1952年に琉球政府が発足した。国際法上琉球人(Ryukyuan)として、日本人ともアメリカ人からも区別され、パスポートも琉球政府発行のものが交付された。奄美出身者は、始め琉球人とされたが、1953年に奄美諸島は日本に復帰し、沖縄に出稼ぎにきていた奄美出身者は「日本人」に戻った。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、公職追放(当時の琉球銀行総裁、等)などで政治的権利は剥奪され、土地所有権が認められないなど、沖縄に住む奄美出身者は様々な制限を受けることになり、これは沖縄の日本復帰まで続いた。
1972年5月15日、沖縄が本土復帰し沖縄県が復活する。沖縄出身者は日本国民としての地位が復活し、日本人に戻った。
本項にあるような琉球民族と定義される民族が、沖縄県住民と同義ではないことに注意が必要である。沖縄には、比較的少数であるが、本土からの大和民族の移住(定住)者(ウチナーヤマト)や、中国からの移民、15世紀の大交易時代の名残からフィリピン系、スペイン系の琉球民族との混血等、琉球民族以外のルーツを持つ住民も存在する。
地元の視点(主に沖縄県)
地元、主に沖縄県においても、これに関する考えは多様である。沖縄県では一般には自らをウチナンチューと呼び、日本本土の人間をヤマトンチューと呼んで区別する。ここでのウチナンチューが単に沖縄に在住の人間を指しているのではないことは、例えば海外移住したものもウチナンチューと呼び、沖縄に移住する本土人をそう呼ばないことでも明らかである。しかし、これが自分たちを本土の人間とは異なる民族と見なしていることを意味するか、と言えば一概にはそうではない。また、ウチナンチューの範囲にも類似の呼称にも揺れがある[要出典]。
琉球は大和民族とは異なった琉球民族の土地であるとして、歴史的経緯からも独立国家であるべきだという、沖縄独立論(琉球独立運動)が一部で主張されている。現在も琉球民族を標榜する団体として、かりゆしクラブと琉球弧の先住民族会が確認出来る。逆に、沖縄人も日本人として本土と一体化すべきとの考え方も歴史的な流れとして存在する。しかし、いずれにしても一概に割り切れない葛藤があるようである。一例として、県知事を務めたこともある保守系政治家の西銘順治は、新聞の取材で「沖縄の心とは?」と聞かれたとき、「それはヤマトンチュになりたくて、なりきれない心だろう」と答えている。この流れは沖縄が日本に復帰した1972年前後に顕著であった。しかし、基地問題の解決が一向に進まないことから、本土一体化志向の傾向に疑問を投げかける向きもある。また、沖縄が日本国の一部であることには異論を唱えないが、一くくりの日本文化の存在は、明治維新後の国家主義に基づくものであるとして否定する意見も存在する。
様々な事例
第二次大戦後のアメリカ占領下における沖縄返還運動は、沖縄においては祖国復帰運動であった。また、そのために日の丸掲揚運動が行われ、沖縄教職員組合は日の丸の一括購入などを行っている。これらを見ても、少なくとも当時の沖縄の民衆が、自分たちを日本の民族と同一であるべきものと考えていたことが伺える。しかし復帰後は次第のこの方向は変化し、1985年には日本全国で、学校の卒業式での日の丸掲揚率が全国一、それも飛び抜けて低いことが問題となった[6]。
2007年、琉球大学法文学部准教授の林泉忠(英国籍在日香港人)が、沖縄県民意識調査を実施(電話帳から無作為抽出して電話をかける方法で、18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1201人から有効回答を得た。2005年度より毎年実施)。結果、沖縄県民の内、沖縄人であると答えた人は41.6%、沖縄人で日本人が29.7%、日本人であるが25.5%との回答が得られた(沖縄タイムス2007年11月28日報道)。
日琉同祖論
日本と琉球がその起源を同じくする、同一民族の支族であるとする考えを日琉同祖論という。歴史的には、琉球民族論よりもはるかに古く、すでに17世紀、摂政・羽地朝秀によって『中山世鑑』においてこの説は展開された。明治以降も沖縄の文化人らの間で展開された論である。伊波普猷の沖縄学もその流れにある。
そもそも琉球の異国化は、薩摩藩によって強制された側面が大きかったことが、近年の研究では指摘されている。中国との貿易利権の搾取を狙って琉球へ侵攻した薩摩藩はその後も琉球が進貢貿易を継続するために、琉球から徹底的に「大和めきたる(日本風な)」ものを排除して、薩摩支配を隠蔽する必要があった。
瀬長亀次郎は、返還運動のさなか、その著作として、民族三部作の一つ『民族の悲劇』を著わしているが、そこでの「民族」は明らかに日本民族であって、沖縄を異民族支配の下に置かれた日本民族の一部と表現している[7])のも、同じ流れにあると言えよう。沖縄返還後は沖縄の独自性たる芸能の保護などについても運動しているが、これも彼は沖縄の芸能は「日本の宝」と表現している[8])。
しかしながら、これが沖縄における一般的な認識であるかについては疑問があり、上記のように、一般の意識では必ずしもこれが浸透しているわけではない。時に、沖縄の文化人と一般人の発言や意識に乖離が見られるのもここに起因する面があるとの指摘もある[9]。また、そもそも同祖論を立てねばならない事そのものが、両者の間にある程度の異質性が存在する証拠とも言える[要出典]。
本土からの視線
瀬長亀次郎は『民族の悲劇』の中で「同じ民族の血をうけた同胞が異民族の支配の下で」苦しんでいるのを「日本国民」は見過ごしにはしまいと記述しているが、実際には同じ時期、日本本土において、沖縄はほぼ忘れられていた。そもそも、沖縄に関する知識は、本土ではほぼ欠落していた。たとえば1954年に社会党の訪ソ(ソビエト連邦のこと)使節団がその帰途に沖縄に立ち寄った際、集まった新聞記者に向かって「沖縄には日本語新聞があるのか」と尋ねた。ちなみにこれは戦後日本の政治家が最初に沖縄を訪れた機会である。実のところ、このような沖縄に対する無知は、戦前からあったものであり、たとえば大正年間に一年間沖縄知事であった高橋卓也が書き残したものに、沖縄に関して「那覇市内では空手で人を襲うものが多いので夕食後は外出できない」「ハブのために年間5000人が死んでいる」とかいったデマについて尋ねられたことが伝えられる[10]。
民間の無関心あるいは無知とは裏腹に、初期の民俗学者は琉球の文化について本土との近縁性を捉え失われた習俗などが残されているとして重視していた。本土出身の柳田國男は『海上の道』で黒潮の流れから着想を得て沖縄との類縁を論じ、その弟子の折口信夫もまれびと論・他界観で琉球の宗教から多くの論拠を引いている(『古代研究Ⅰ』[11]など)。昔からあった日琉同祖論の影響もあろうが、地に足の着いた現地研究の成果も見逃せない。
終戦後のアメリカの占領についても、本土では正しく知られていなかった。1955年、当時の首相鳩山一郎が国会答弁で沖縄について「アメリカの信託統治領」と述べ、脇から注意されたが、当時の百科事典や地図帳にもそのように記されていた例が複数あった。その後沖縄での闘争の激化、瀬長市長の当選、その追放などの動きによってマスコミもそれらを取り上げるようになったが、この時期に沖縄に渡り、その後全国を回った藤島宇内は、本土の一般の意識として、沖縄について知りたがってはいるが、沖縄に関する知識は皆無に近いことを述べている。また、アメリカ占領下であることも相まって、沖縄では英語が話されているとの誤解も広くあった。沖縄からの国費留学生が外国留学生のように扱われた例もある。
1962年、沖縄で祖国復帰沖縄県民総決起集会が開かれ、7万人が集まった時、東京でそれに連動して沖縄返還要求国民大会が開かれた。これには約90の団体が結集したが、実際に集まったのは500人であった。これを見ても、本土においては沖縄が自分たちの同胞でありながら異民族支配の下に分断されている、といった痛みを感じる一般大衆の層がなかったことが見て取れる[12]。
このような沖縄への無知に関しては、その後の「琉球の風」や「ちゅらさん」の放映、あるいはそれらにも関わる数度にわたる沖縄ブームのためにかなりの変化があるようだが、本質的な問題は残ったままとの指摘もある。沖縄返還後20年の年、新城和博はあまりに多くの向きから「沖縄にとって本土復帰は何だったのか」を尋ねられることに呆れながら、むしろ「大和にとって沖縄復帰」がなんだったのか、つまり異質な存在としての「沖縄」を本土が受け入れることに対しての心構えが考えられているのかが論じられていないことを問題視している[13]。
本土への移住
沖縄県や鹿児島県奄美諸島では多数を占めるが、本土にも一定数が暮らしている。明治時代以降、本土就職を目指した人々は、差別や貧困のため数箇所にまとまって暮らしていた。その場所が川崎市川崎区、横浜市鶴見区、大阪市大正区などで、初期はバラックなどに住み、立地条件が悪いため水害などにも悩ませられていた。これらの地域は、オキナワタウンとも呼ばれる。現在は土地改良などが進み条件は良くなっているが、新たに流入する沖縄出身者も少なくなり、地元及び他県出身者の居住が増えている。現在では本土でも差別はなくなり、他県出身者と変わらない「日本人」として扱われることが一般的である。
過去の差別
1903年に起きた「学術人類館事件」。第5回内国勧業博覧会の便乗商売として、民間業者が会場外に作った「学術人類館」において、沖縄出身者やアイヌ民族、台湾の高砂族、アフリカ人などの民族をそれぞれの民族住居に住まわせ、見せ物小屋として観覧させたのに対し、沖縄出身の言論人太田朝敷が「学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為」であると抗議し、沖縄出身者の展覧を止めさせた。この業者に対しての批判が、沖縄県でもあがった。当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議でもあった。
1974年、宮古島から大阪に就職した青年が、当時の沖縄青年がひとしく抱えていた被差別意識や、そこから来る孤独感から勤務先社長の自宅に放火し、夫人を死亡させ、のちに刑務所で自殺するという事件があった。この出来事は、在阪沖縄出身者に大きなショックを与え、このままではいけない、このような事件を二度と起こさぬよう手を結びあって、自らの文化に誇りをもつ活動を行おうという考えのもとに、1975年関西沖縄青少年のつどい「がじゅまるの会」が結成された。
一部の沖縄出身者が職を求め、横浜や関西地方を中心に本土へ渡り住み着くようになり、就職する為に求人広告を探しても、「朝鮮人・琉球人お断り」などと書かれるような差別を受けた。そのため、差別を避けようと、本土風に変えた名字を名乗ったり、本籍地を本土に移す事が行われた。(神戸新聞2002年5月17日)。しかし現在では、沖縄出身者が露骨に差別されることは少なくなってきている。
脚注
- ^ 新崎盛暉 『日本になった沖縄』 有斐閣、1987年。
- ^ 根井正利ペンシルバニア州立大学教授「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて日本人(アイヌ・沖縄人含)は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出している。
- ^ 李成柱 「血液分析により民族の移動経路を判明する」東亞日報、2001年1月3日日本人は韓国人以上に純血度が高い
- ^ しかし形質的違いは環境により変化するものであり、遺伝子的は関係ないという研究結果が出ている(篠田謙一『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』(NHKブックス))
- ^ 松本秀雄 『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』 NHK出版、1992年。ISBN 4140016523。
- ^ 新崎盛暉 『日本になった沖縄』 有斐閣、1987年。
- ^ 瀬長亀次郎 『民族の悲劇』 新日本出版、1971年。
- ^ 瀬長亀次郎 『民族の未来』 新日本出版、1978年。
- ^ 新崎盛暉 『日本になった沖縄』 有斐閣、1987年。
- ^ 比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波書店、1963年。
- ^ 折口信夫『古代研究Ⅰ』中央公論新社 ISBN 4121600363
- ^ 比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波書店、1963年。
- ^ 新城和博 『うちあたいの日々』 ボーダーインク、1993年。
関連項目
外部リンク
- 隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷伝 流求國
- 沖縄県庁文化環境部国際交流課 - 移民の歴史など詳しい

