ロマ

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「ジプシーのキャンプ」と題されたジャック・カロの銅版画を転載した挿絵
ロマの旗

ロマroma, 次節も参照。単数はロム)はジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり[1]、ロマでない集団との関係は不明である。

目次

[編集] 名称とアイデンティティ

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ヨーロッパ各地域における自称名の概略。

[編集] 各国語における外名

世界各地で流浪の民族史を重ねてきた経緯から、彼らはそれぞれの国で様々な外名 (exonym) で呼ばれてきた。

大きく分けて2つの系統があり、ひとつは「ヒターノ」「ジプシー」など「エジプト人」に由来する呼称。もうひとつは「ツィンガニ」「ツィガーニ」などの系統の言葉であり、ドイツのカスパー・ポイサーによりビザンチン時代のギリシア語 ατσίγγανοι (atsinganoi)から αθίγγανοι(athinganoi)「不可触民、アンタッチャブル」へと遡れる言葉であるとされた[2]

以下に各国語における外名の例を挙げる。各語は一様ではなく、文化により蔑意のつよいもの、そうでないものなど多様なニュアンスのものを含むことに留意されたい。語形については単数・複数など各種の変化があり得る。

現在でもこうした言葉が物乞い盗人麻薬の売人などの代名詞のように使われる場合がままあり、これらの呼称が「差別用語」として忌避される傾向もあるが、差別の隠蔽にとどまり必ずしも差別の解消とは繋がっていない[1][3]

[編集] 「ロマ」という自称

ロマの祖であるロマニ系の人々は複数の経路で度々インド方面からヨーロッパへ移動してきたと考えられ、14世紀から19世紀に現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団がルーマニア語の影響を受けたヴラハ系方言を話し言語学的にロマに近いと考えられている[2]。一方で東欧を迂回し中欧にたどり着いた集団はルーマニア語の影響のない非ヴラハ系方言を話していると考えられている[2]

1971年の第1回世界ロマ会議以降[1]は、よりポリティカリー・コレクトな名称として、多くの集団の自称である roma[4] 「ロマ」を呼称とすることが提唱された。EU はじめ各国の行政などもこの名称を採用している。ただし、この名は本来彼ら全体を代表するものではなく、この名を使わないグループも多数存在し、彼らの中には「ロマ」とは異なるアイデンティティをもち、「自分たちはロマではない」と主張する者もいる。以下に例を挙げる。

アッシュカリィ(Ashkali, セルビア語: Ашкалије, Aškalije
コソボ紛争で有名になった。
エジプシャン
アレキサンダー大王に従って移民したエジプト人の末裔であると自認する人々。

ロマと同根のロマニ系の集団としてはヨーロッパでは中欧のドイツ語圏を中心にシンティ、イギリスにロマニチャル (romanichal, 仏語圏にマヌーシュ (manouche, 北欧やイベリアなどのカーレ(kale) などが知られている。 また、ロマニ語と密接な関係にあると考えられているドマリ語を話す、ドム(Dom)と自称する集団が、中央アジア~北アフリカにかけて分布している。

[編集] ロマの系統上の分類

[編集] 人種

ロマの人種的分類については、現在でも定説が存在しないため、厳密にどの人種に分類できるかはわかっていない。ロマにはコーカソイドモンゴロイドの両方の特徴が存在しているからである。ロマの皮膚の色や髪の色はコーカソイドとモンゴロイドの中間に位置する人が多い。また、身体的特徴がコーカソイドに近くても、乳幼児期に蒙古斑のある人も多い。このため、コーカソイドとモンゴロイドの混血によって生じた民族、とする説が最も有力である。

歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカヨーロッパなどへとたどり着いたとされる。旅に出た理由は分かっていないが、西に理想郷を求めた、などの説がある。彼らがヨーロッパに史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなる。ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。また、ユダヤ人はセム語族ヘブライ語)に属するコーカソイドであることが明らかにされているが、ロマは前述の通り、言語的系統においても、人種的系統においても未分類である。

[編集] 言語

ロマ語を主に使う。一般的にロマ語はインド・ヨーロッパ語族に分類されるが、流浪した範囲が広範囲なため多様な言語を取り入れている。従って現在においても厳密な分類はなされていない。

また、定住した各土地の言葉や、各地の言語を多く取り入れたクレオール言語を使っているグループもある。

[編集] 宗教

元々の宗教はヒンドゥー教だったと考えられているが、定住した土地での主流の宗教に改していることが多い。すなわち、東ヨーロッパでは正教またはイスラム教、西ヨーロッパではカトリックプロテスタントである。独特の神秘主義的な風習はあるが、それは宗教とは別と考えられている。

[編集] 歴史

ロマの歴史は迫害及び差別の連続であったと言ってもよい。どこにおいても“よそもの”であり少数者であった彼らは、各地の「地元民」から見れば異質な存在であり、好意をもって語られるよりはむしろネガティブな見方で言及されることのほうが多かったのである。

[編集] 皇帝ジギスムントの特許状

神聖ローマ帝国に現れたロマ
15世紀になって今日のドイツ地域にロマが初めて姿を現した。彼らは当初低地エジプト出身の巡礼者であると名乗っており、それから80年ほどは、彼らは各地で「聖なる人」として親切に受け入れられた。しかし、一向にヨーロッパを去ろうとしない彼らに対して、徐々に不信の目が向けられ、トルコやタタールのスパイであるというような風説が飛び交うようになった

初期のロマは、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより巡礼者として帝国全土の自由な通行を許可されたと称し、いわゆる『皇帝ジギスムントの特許状』[5]を保証として各地を放浪した。しかし15世紀中頃には彼らに対する蔑視が始まり、特にユダヤ人と彼らを同類とする風説が現れ、18世紀に至るまで広く流布した。1500年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって『皇帝ジギスムントの特許状』は無効であるとされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないこととなった。ロマが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では彼らが現れたら教会の鐘を鳴らして合図し排撃した。

[編集] 領邦権力による定住化政策

1761年オーストリアではマリア・テレジアヨーゼフ2世の近代化政策の一環として、ロマの定住化が図られた[6]。これらは啓蒙主義に影響された、ある意味でロマへの差別をなくすことを目的とした人道的な同化策だった[7]が、定住や(ヨーロッパ人の考える)文化的な生活の押し付けとなり、ロマたちの拒否するところとなった。1773年にプロイセンのフリードリヒ大王がロマを隔離して定住させようとしたが、結局失敗している。

[編集] ナチスの絶滅政策

ドイツにおいてはナチスが政権獲得後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。

第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ナチスは再び多数のロマを抱えこむことになった。ナチスが「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人ホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスPorajmos)と呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ナチスの被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。

[編集] 戦後のロマ

第二次大戦までの多くの国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。このため、伝統的に鍛冶屋金属加工工芸品旅芸人占い師薬草販売等に従事していた。現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車のあっせんなどに変化してきている。

第二次世界大戦のナチス迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年~ポーランド1964年)。これらはロマに定住を求める同化政策であり、政治家にまでなったものもいる。西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されなかったが、国内のロマを少数民族とみとめて権利を与えることはなかった。例外的に社会主義国ユーゴスラヴィア(1974年)とハンガリー(1979年)が、ロマを少数民族と認定した。スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした[8]

ドイツでは1995年に、ドイツ国籍をもつロマを少数民族と認定している。戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んだ。伝統的な生活を放棄する者も多い。

[編集] コソボ紛争

1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくなかった。1999年コソボ紛争では、彼らはセルビア人アルバニア人の双方から迫害を受けている。コソボでは多数派のアルバニア人による支配を恐れたロマやアッシュカリィなどの他、ゴーラ人などの少数民族の中には、ユーゴスラビアの体制を支持する者も少なくなかった。紛争終結により連邦軍がコソボから撤退し、難民避難民として域外に逃れていたアルバニア人が帰還すると、セルビア人のみならず、彼らに加担したとしてロマやアッシュカリィもアルバニア人による報復の対象となった。形式的には解体されたコソボ解放軍の元構成員や、その他のアルバニア人住民による少数民族への襲撃が相次ぎ、迫害を恐れたロマ、アッシュカリィ等はセルビア本土やモンテネグロなどへと脱出した。コソボ紛争が終結して以来、セルビア人やロマ、アッシュカリィ等のコソボからの脱出は続いており、一方彼らの故郷への帰還は進んでいない。

[編集] 各国のロマ

欧州連合の行政府・欧州委員会によると、欧州に暮らすロマの人口は推定1000万~1200万人。 欧州評議会の各国別推計によると、ルーマニア185万人、ブルガリア75万人、スペイン72万5000人、ハンガリー70万人、スロバキア49万人、フランス40万人、ギリシャ26万5000人、チェコ22万5000人、イタリア14万人など[9]

[編集] ルーマニア

ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われている。しかしその起源はいずれの説も根拠を欠いた物が多く、現在でも定説は無い。ルーマニア国内のロマ支援組織の多くは19世紀半ばまで約600年間続いた奴隷時代にその根源があると主張している。それによると『1800年代の法典はロマを「生まれながらの奴隷」と規定し、ルーマニアの一般市民との結婚を認めなかった。そして、奴隷解放後も根深い差別の下でロマの土地所有や教育は進まなかった。都市周辺部に追いやられたロマは独自の文化や慣習を固守する閉鎖的な社会を築き、差別を増幅させる悪循環につながった』とされている。その一方で、当時そのような法典が公布及び施行された記録が残されておらず、法典自体も見つかっていないため、この説は根拠に乏しいとする見解も存在する。ロマを「生まれながらの奴隷」と規定した法典はロマ支援組織が差別の根拠として捏造した物で、奴隷時代の始まりとされる13世紀以前から、既に習慣という形でルーマニアでのロマ差別は存在していた、という見解を支持しているルーマニア国外のロマ支援組織やロマ研究者は多い。

21世紀に入った現在、ルーマニアでのロマ問題は拡大の一途をたどっている。EU諸国からのロマの強制送還により、ロマ人口が増加しているのである。ルーマニアにおいて、ロマは自己申告に基づく国勢調査では50万人だが、出自を隠している人も含めると150万人に達すると言われる。ルーマニアの身分証明書には民族記入欄が無いため、ロマであることを隠し社会に同化する人も少なくない。2002年の調査では、ロマの進学率が極度に低いことが明らかになっており、高卒以上は全体の46.8%に対し、ロマは6.3%、全く教育を受けていない無就学者の割合は、ロマだけで34.3%にも上るのに対し、少数民族を含むルーマニア全体では5.6%にとどまっている。

これらの問題に対してルーマニア政府は、「国内にロマはいないため、ロマに対する差別問題は存在しない」としてロマの存在自体を否定している。つまり、ルーマニア国内にロマが存在しない以上、ロマに対しての差別は存在しえず、ロマ差別はあくまでもルーマニアでは架空の存在でしかない、というのが政府の見解となっている。このため、国内におけるロマ問題への対策をルーマニア政府は何一つ行っていない。さらに、国内外からのロマ対策を要求する声に対しても何の反応も示していない。この結果、ルーマニアでのロマ問題は解決のめどは立っておらず、逆にロマ差別自体がルーマニア人ならびに国家ルーマニアとしてのアイデンティティになっていることは否定できなくなっている。

[編集] 文化

  • タロット(タロー)と呼ばれるカードを使った占い。但しタロットのロマ起源説は一部の神秘主義者が主張するだけであり、裏付けに乏しい。なお神秘主義者の間ではタロットの起源についてエジプト、ヘブライケルトなどさまざまな説があるが、現在ではイタリアで玩具として考案されたのが始まりとする見方が有力である。
  • フラメンコの原型とも言われる、独自の音楽、踊り。
  • 芸人として重宝された。
  • ブルガリアセルビアなどでは、出生洗礼誕生日聖名祝日(Именден)・結婚式などに際して、ロマが呼ばれて演奏する。
    • チョチェク - バルカン半島で、ロマが結婚式などに演奏する音楽
    • ポップフォーク - セルビアをはじめとするバルカン半島で、チョチェクなどロマの音楽の影響を強く受けて発達した流行音楽のジャンル。

[編集] ロマの音楽

ロマの文化(芸能・生活)の一部であるロマ音楽は、現地の文化と相関関係にあり、歴史的に大きな貢献をしている。ルーマニアハンガリー文化圏、スペインなどの文化が際立って有名。ロマン派作曲家の中にはロマ音楽に触発されて曲を書いたものもいた。リストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(発表当時は編曲とされ、またハンガリー古来の音楽と混同された)、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などである。

[編集] 砂漠祭り

毎年2月の満月の3日間、ロマ人の出身地とされるインドのジャイサルメールで行われるロマの祭典である。色々な旅芸人などが集まる。

[編集] ロマの有名人(異説や遠祖を含む)

[編集] 西欧

[編集] ドイツ・チェコ・オーストリア

[編集] オランダ

[編集] ハンガリー・ルーマニア

[編集] バルカン

[編集] その他

[編集] ロマが登場する主要な芸術作品

古典に類する作品には古い固定観念・偏見が含まれている可能性もある。

[編集] 歌謡、民謡

[編集] ヴァイオリン曲

[編集] 管弦楽曲

[編集] 吹奏楽曲

[編集] 演劇、歌劇

[編集] 映画

[編集] TVドラマ

[編集] 小説

[編集] 漫画

[編集] 日本の歌謡曲

[編集] アニメ

[編集] 参考文献

  • 阿部謹也「中世を旅する人びと」(『阿部謹也著作集3』所収)筑摩書房、2000年(初出1975年平凡社
  • 関口義人『ジプシーを訪ねて』 岩波新書、2011年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ a b c 舟木譲「<書評> 水谷驍著『ジプシー』平凡社新書、2006年」『関西学院大学人権研究』第11号、2007年3月。
  2. ^ a b c "金子マーティンまえがき」『スィンティ女性三代記(下)『スィンティ女性三代記(上)』を読み解く』凱風社 ISBN 978-4-7736-3311-5
  3. ^ とはいえ、「これらの呼称は差別的であり廃止すべきである」といった考えをすべての民族当事者が抱いているわけではない。このへんの事情はさまざまなマイノリティグループで見られる現象と同様である。
  4. ^ 英語の man に相当するロマ語 rom の複数形であるという。また、romani という語が形容詞として使われる。
  5. ^ この文書の真贋(しんがん)については意見が分かれている。
  6. ^ オーストリアでは、ロマは新ハンガリー人と呼ばれた。
  7. ^ しかし定住のほうが放浪の生活よりも優れていると考えている点で差別的であった。
  8. ^ 黒いスイス, 福原直樹, 新潮社・新潮新書, ISBN 978-4106100598 [1]
  9. ^ 毎日新聞 2010年8月26日
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