クレタ島

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クレタ島
クレタ島
面積 8,336 km²
海岸線長 1,046 km
最高標高 2,456 m
所在海域 地中海
所属国・地域 ギリシャ共和国
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クレタ島(クレタとう、ギリシア語: Κρήτη / Kriti ; 英語: Crete)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。現代ギリシャ語の発音ではクリティ

クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオン(イラクリオ)。

目次

[編集] 地理

クレタ島

[編集] 位置・広がり・面積

クレタ島は、ギリシャ本土から約160km南に離れた地中海東部に位置し、エーゲ海の南縁をなす。島の北側(エーゲ海側)の海はクレタ海、南側はリビア海英語版とも呼ばれる。クレタ島の西北側にはペロポネソス半島とそれに付随する島々があり、アンティキティラ海峡を隔ててアンティキティラ島が浮かんでいる。また、クレタ島の東側には、カソス海峡を隔ててドデカネス諸島に属するカソス島英語版がある。

クレタ島は、東西の長さが260kmであるのに対して、南北の幅は広いところで60km、狭いところ(イエラペトラ付近)で12kmほどという、細長い形状の島である。海岸線の長さは1,046kmに及ぶ。面積は8,336平方キロメートルで、ギリシャ共和国最大の島であるとともに、地中海ではシチリア島サルデーニャ島キプロス島コルシカ島についで5番目に大きな島である。

行政区画としてのクレタ地方Περιφέρεια Κρήτης)は、南方沖に浮かぶガヴドス島やイラクリオ沖のディーア島など、クレタ島周辺の小島嶼も範囲に含める。クレタ地方に隣接する行政区画は、ペロポネソス半島側がペロポネソス地方、ドデカネス諸島側が南エーゲ地方となる。

[編集] 地勢

クレタ島の最高峰は、島の中部にそびえるイディ山(プシロリティス、2,456m)である。クレタ島は全体に山がちな地形であり、山々は西部のレフカ・オリ山地(主峰はレフカ・オリ山英語版、2,452m)、中部のイディ山地(主峰はイディ山)、東部のディクティ山地(主峰はディクティ山英語版、2,148m)といったいくつかのグループに分けられる。

これら多くの山々はまた、多くの盆地や谷を形成している。イディ山西南側のケドロス山 (Mount Kedros(1,776m)との間にあるアマリ谷 (Amari Valleyや、ディクティ山北側のラシティ高原英語版は、山間に開けた肥沃な土地となっている。また、国立公園に指定されている西部のサマリア渓谷英語版や、同じく西部のインブロス渓谷英語版をはじめとして、多くの渓谷・峡谷がある。

西からのイディ山の眺め  
ラシティ高原  
サマリア渓谷  

[編集] 気候

イラクリオン
気候表(説明
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気温(℃)
総降水量(mm)
出典:climate-charts.com

クレタ島は、地中海と北アフリカの気候区にまたがっている。

島の大部分は地中海性の気候であり、温暖である。海との距離によって空気も湿潤であり、冬も気候は穏やかである。山岳部では11月から5月にかけて降雪がみられ、山頂では一年を通じて雪を戴いているが、低地での降雪はまれであり、降ったとしても積雪することはまずない。2004年2月には大寒波が襲来し、全島にわたって積雪したことがあるが、これは非常にまれな事例である。夏季には、日平均気温が20度台後半から30度台前半で推移するが、最高気温は30度台後半から40度台前半に至ることもある。

島の南側の沿岸部では北アフリカの気候区分に属し、一年を通じて日照時間は長く、高温である。ナツメヤシが実を結び、ツバメもアフリカへの渡りを行わずに一年中留まる。島の東南部のイエラペトラなどでは、冬季に温室で夏の野菜や果物を生産している。

[編集] 主要な都市

クレタ島最大の都市は、首府である中部のイラクリオ(人口約13万人)である。この町は歴史上カンディアとも呼ばれた。西部のハニア(人口約5万3000人)がこれに続く。

このほか、人口1万人以上の都市には、中西部のレティムノ、東部のアギオス・ニコラオスイエラペトラ、最東端のシティア英語版がある。主要都市は北岸(クレタ海側)に集まっており、南岸(リビア海側)に位置するのはイエラペトラのみである。イエラペトラは「ギリシャ最南端の町」であるとともに、「ヨーロッパ最南端の町」ともされる。

イラクリオ市街  
ハニアのヴェネツィア港  
イエラペトラのモスク跡  

[編集] 歴史

[編集] ミノア文明

クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。

その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字B1952年マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。 またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で派遣されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。

[編集] ポリス時代

ギリシャ各地にポリスが出現していた時代のものとして、クレタ島ドレロス (Dreros、現在のドリロス、アイオス・ニコラオスプラカ (Plaka) の中間)からは現存する最古(紀元前7世紀)の成文法が発掘されている。コスモスと呼ばれる高位役職者の連続した就任を禁じ、再任の場合には10年を経る事を定めたものであり、特定の者に権力が集中する事を防ぐことを狙ったものとみられる。

クレタ島のポリス時代には、他のギリシャ各地とは異なる点が多々ある。

  • クレタでは葬制および宗教的慣行について、他のギリシャ各地とは異なり、暗黒時代から前古典期までの連続性がみられる。
  • 祭祀が行われた場所は洞穴や山頂など野外であり、神殿のような建造物が少なかった。この事は神殿アクロポリスに建設し、これを中心に人々が集まってポリスを形成していった他のギリシャ各地と異なっている。前8世紀末から前7世紀にドレロス、ゴルテュン (Gortyn、プリアニスでも神殿が建てられていくが、他の地域の神殿とは構造上の違いがある。)
  • 中央部ギリシャで考古学上の痕跡としてみられる、前8世紀に起きた社会の再編成が、クレタ島にはそのような現象が起きていない。

クレタ島史の研究に際しては、前6世紀を通じて考古史料が激減しており、前6世紀初頭の解明が重要な課題とされている。 南クレタの都市国家ゴルテュンでは都市の法律が誰もが目にする公共広場アゴラのわきにある壁の一面に刻まれていた。このゴルテュン法典はクレタその他の南の島々で使われたドーリア方言で書かれた。壁の碑文は、人が立って読むのにちょうどよい高さ1.5メートルくらいの位置に横幅9メートルにわたって刻まれた。全部で600行からなり、商業や契約に関する法も記されていたが、大半は私法的規定である。

[編集] 古代ローマ帝国から中世へ

紀元前27年、現リビアキレナイカ地方とあわせて、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国 が領有を継承した。

5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まる。7世紀末 - 8世紀クリトのアンドレイ主教を務めた。

824年イベリアのイスラム教徒が侵入。カンディア (Candia、現在のイラクリオン) を建設、クレタ首長国 (Emirate of Crete) の首都とする。以降東ローマ帝国による奪還まで、東地中海で略奪を働く海賊の拠点となった。961年、東ローマ帝国が奪回した。

[編集] ヴェネツィア共和国の統治

1204年十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服される。これによりルネサンス文化が伝えられ、エル・グレコニコラス・カリアキス (en 哲学者)、ヴィツェンツォス・コルナロス (en 詩人) などの活躍につながる (クレタ・ルネサンス (en))。1348年ペストが大流行する。以降、1398, 1419, 1456, 1523, 1580, 1592, 1678, 1689, 1703, 1816の各年にも大流行が見られた。これにより人口が流出することもあり、人口が2/3となったこともあった。島外へ逃れたものの中には、コンスタンティン・コルニアクトス (en) のように大陸で大成功を収めたものもあった。

1492年、スペインのレコンキスタから逃れてきたユダヤ人がクレタ島に流入。1627年にはカンディアのユダヤ人の住民は800人、島の人口の7%を占める。

1574年、ジャコモ・フォスカリーニ (Giacomo Foscarini) による非カトリック住民への圧政が始まる。ギリシャ人やユダヤ人には高税が課せられる。この圧政はオスマン帝国による征服まで続く。

[編集] オスマン帝国の統治

パリ1719年に作られたクレタ島の地図。

1644年から1669年にかけて、キョプリュリュ・アフメト・パシャ大宰相として率いるオスマン帝国が領有を争い (クレタ戦争、カンディア包囲戦 (en)、結果的にオスマン帝国領となる。これにより宗教の違いによる弾圧的な扱いは撤廃され、どの住民も経済的にほぼ等しい権利を持つとして扱われた。現地のギリシャ人がムスリムに転向する例が増える (その後の1900年では、島内のムスリム人口は11%。これらの人々は1924年の住民交換でトルコに強制移住)。オスマン帝国の支配下では、キリスト教徒による反乱が散発した。

[編集] 近代

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直接の当事者であるオスマン帝国/トルコギリシャの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けた歴史を持つ。

  • 1830年ロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプト (オスマン帝国の属州だったが、ムハンマド・アリー朝としてほとんど独立状態であった) に移される。これ以降、クレタ州成立までキリスト教徒による反乱が散発する。
  • 1840年にオスマン帝国に戻される (第二次エジプト・トルコ戦争でエジプトの戦力に脅威を覚えた欧州列強の介入による)。
  • 1888年、クレタ議会選挙で急進派が多数を占めたことから、オスマン帝国がクレタ島に派兵。議会はそれ以降、ギリシャへの併合を目指す。
  • 1896年、在アテネの民族協会とギリシャ海軍がクレタに派兵。欧州列強がクレタ島を封鎖し、これを阻止。
  • 1898年、列強の圧力により、オスマン帝国の宗主権の元で自治権を持ったクレタ州 (Cretan State) が発足。司法顧問にヴェニゼロスが着任。ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子が1898年から1906年までクレタ総督の地位にあった。
  • 1913年第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄し、ギリシャ領となる。
  • 1922年希土戦争の結果ローザンヌ条約が締結され、これにより翌年からトルコとの住民交換 (en) が開始された。イスラム系住人の多くはアナトリア半島沿岸部、シリアレバノンエジプトに移住させられたが、その一部は現在から見るとギリシャ人であったとされている。同時にスミルナをはじめとする小アジアからはギリシャ人が移住してきたが、彼らは習慣、方言、食生活等、以前からクレタ島にいた住人とは大きな相違があった。結果的に、クレタ島の民族構成は非常に大きく変わった。
  • 1936年、ギリシャ本土のクーデターに反抗し、暴動が発生。戒厳令が敷かれる。
  • 1941年第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐。本土がドイツ軍に占拠されたため国王、首相がクレタに避難。その後ドイツ軍はクレタにも進軍し、5月に激しい戦闘の舞台となった (クレタ島の戦い)。落下傘部隊を中心とするドイツ軍がクレタ島に侵攻し、駐留していたイギリス軍を追い出した。国王と首相はカイロに逃れ、ドイツ軍の駐留は第二次大戦終了まで続き、この間島の西側の2/3はドイツが、東側 1/3 はイタリアが占領する状態が続いた。ドイツ降伏後はギリシャに支配権が戻った。
  • 1943年、ギリシャ人民解放軍 (ELAS) がその最盛期には、島内の山間部を支配していた。
  • 1944年、イギリスの圧力により ELAS 撤退。

戦後、ギリシャ本土は王党派と共産主義のせめぎ合いで内戦状態であったが、クレタの住民は全体的に、イギリスが支援していた王党派 (中道右派) を好みながらも、本土とは距離を置いていた。本土で1967年に起きた軍事クーデター以降は、本土との交通、通信の発達の寄与もあり、政治的距離は縮まっている。

[編集] 社会

[編集] 宗教

なお、ギリシャ共和国の主要宗教はアテネに大主教座を置くギリシャ正教会であるが、クレタ島だけは同じ正教会でもトルコのイスタンブルにあるコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。

[編集] 行政区画

クリティ地方
Περιφέρεια Κρήτης
ギリシャにおけるクリティ地方の位置
ギリシャの旗 ギリシャ
首府 イラクリオン
所属県 ハニア県
レティムノ県
イラクリオン県
ラシティ県
知事 Σταύρος Αρναουτάκης
人口 621,340人 (2011年現在)
面積 8.336 km² (3 sq.mi.)
人口密度 74,537人/km² (193,050人/sq.mi.)
公式サイト www.crete-region.gr/

島全体で一つのペリフェリエス(地方)である。

[編集]

クレタ地方は、4つの行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)から構成されている。なお、下表の4つの行政区は西から順に配列している。

2010年の地方制度改革(カリクラティス改革)以前は、自治体としての県(ノモス)であったが、2011年1月1日にノモスが廃止されて行政区となった。

行政区名 綴り 政庁所在地 面積
(Km²)
人口
(2001年)
1 ハニア Χανιά
Chania
ハニア 2,376 150,387
2 レティムノ Ρέθυμνο
Rethymno
レティムノ 1,496 81,936
3 イラクリオ
(イラクリオン)
Ηράκλειο
Iraklio
イラクリオ
(イラクリオン)
2,641 292,489
4 ラシティ Λασίθι
Lasithi
アイオス・ニコラオス 1,823 76,319

[編集]

クレタ地方には、基礎自治体である市(ディモス)が24ある。


[編集] 交通

イラクリオのE75号線(GR-90)
ハニア空港のフィンランド航空
イラクリオ港

[編集] 道路

島の北岸を東西に走る GR-90 が幹線であり、欧州自動車道路にも指定されている。

欧州自動車道路
主要な高速道路・自動車道路

[編集] 空港

[編集] 港湾

  • イラクリオ港
  • ハニア港
  • キサモス港
  • スダ港
  • レティムノ港
  • アイオス・ニコラオス港
  • シティア港
  • パレオホラ港
  • スファキア港
  • ガヴドス港

[編集] 文化・観光

[編集] 神話

ギリシャ神話には、クレーテー古典ギリシア語: Κρήτη / Krētē)としてしばしば登場する。

赤子のゼウスは、クレタ島のアドラステイアとイーデーによってアイガイオン山に匿われた。また、エウロペイアが牛に変じたゼウスにさらわれ、ボスポラス海峡(牛渡りの海峡)を通ってクレタに辿り着き、その子がクレタ王となって文明が生じたとされる。この他にもホメロスイリアスなど、クレタ島に関する諸話(「テセウスミノタウロス」や「ダイダロスイカロス」など)は多い。

[編集] 観光

観光スポットとしては、クノッソス宮殿フェストス遺跡、ゴルティス遺跡などの考古学上の遺跡、またヴェネツィア人がハニアに建てた城といった史跡や、サマリア渓谷やアギア・イリニ、アラデネなどにある渓谷など自然景観が有名である。

[編集] 出身者

[編集] 参考文献

  • 桜井万里子編『世界各国史 17 ギリシア史』山川出版社 ISBN 4-634-4147年0-8

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


座標: 北緯35度10分 東経24度55分 / 北緯35.167度 東経24.917度 / 35.167; 24.917

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