希土戦争 (1919年-1922年)
| ギリシャ・トルコ戦争 | |
|---|---|
イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳 |
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| 戦争:戦間期の戦争 | |
| 年月日:1919年-1922年 | |
| 場所:西部アナトリア | |
| 結果:トルコ軍の決定的勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 20万名[1] | 5万名[2] |
| 損害 | |
| 戦死2万4240名 戦傷4万8880名 行方不明1万8085名 |
戦死1万0885名 戦傷3万1173名 |
希土戦争(きとせんそう、1919年 - 1922年)は第一次世界大戦後ギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争。大ギリシャ主義を標榜し小アジアに侵攻したギリシャ軍は、ムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い現在のギリシャ領が確定した。 トルコではアンカラ政府の影響力が決定的となり、22年のスルタン制廃止、23年の共和国建国につながった。
目次 |
背景 [編集]
第一次世界大戦において同盟国側に立ち参戦したオスマン帝国は、1918年10月ムドロス休戦協定を結び連合国に降伏した。イスタンブルを始めとするオスマン帝国領には連合国が進駐し、イギリスはイラクのモースル、南東アナトリア、西アナトリア、黒海の沿岸都市を、またフランスはキリキア地域を、イタリアはアナトリア半島南西部のアンタルヤとコンヤを占領した。
戦争の経過 [編集]
ギリシャ軍のイズミル上陸 [編集]
詳細は「:en:Greek landing at Smyrna」および「:en:Occupation of Smyrna」を参照
1919年5月15日には、イギリスの支援を得て休戦協定に違反して、小アジア西岸の都市イズミル(土: İzmir、希: Σμύρνη - Smyrni)にギリシャ軍が上陸した。イズミル、アイワルクなどアナトリア半島のエーゲ海沿岸諸都市にはギリシャ人共同体が存在し、これらの保護が名目となった。
一方、第一次世界大戦時のガリポリの戦いにおいてオスマン帝国第19師団及アナファルタラルを指揮し「アナファルタラルの英雄」と称され、1918年9月23日にはスルタンメフメト6世の信任も厚く、スルタンの名誉副官 (Yaver-i Fahri Hazret-i Şehriyari) の称号を受けていたムスタファ・ケマル・パシャは、第9軍 (6月15日に第3軍と改称された)監察官に任命され、[3]1919年5月19日、黒海沿岸の都市サムスンに上陸した。ケマルは旧青年トルコ党員を中心とする帝国議会議員、軍の司令官に呼びかけ、アナトリアの分割反対を唱え“アナトリア・ルメリア権利擁護委員会”を結成して抵抗組織を旗揚げした。
1919年6月27日、アイドゥンの戦い(6月27日-7月4日)。
1920年3月16日にイギリス、フランスを中心とする連合国によって首都イスタンブルを占領されると、帝国議会議員の大半はイスタンブルを脱出し、権利擁護委員会に加わった上で[要出典]アンカラにおいて大国民議会を開いた。議会は連合国の占領下にあるイスタンブル政府に代わって自らの正統性を主張し、ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
セーヴル条約 [編集]
1920年8月10日、連合国とイスタンブル政府はセーヴル条約を調印した。この条約では東アナトリアにおけるクルド人自治区およびアルメニア人国家の樹立、東トラキアおよびエーゲ海諸島のギリシャへの譲渡、イズミルを中心とするアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域はギリシャの管理区とした上で住民投票により帰属を決定することとなった。また、イスタンブルおよび両海峡周辺は海峡管理委員会の保護下に置かれることになった。自身の地位の保持を狙い、スルタンが行ったこうした妥協に対して[要出典]、トルコ人国民国家の樹立を目指すケマルはトルコ人居住地区の分割、特にギリシャのイズミル占領に強く反発した。
ギリシャ軍のアナトリア侵攻 [編集]
アンカラに司令部を置くオスマン第20軍団の司令官アリ・フアド・パシャは、スィワス会議の後、非正規部隊が主体の国民軍総司令官を兼任し、1920年6月25日、あらたに編成された西部戦線の司令官に任命された。西部戦線は、10月下旬から11月上旬にかけて行われたゲディズを巡る戦闘で大きな損害を被った。このため、11月8日、大国民会議は、それまでの国民軍や遊撃軍などの非正規部隊の代わりに常備軍を設立する決定を下し、[4]、旧西部戦線は、イスメト・ベイ の指揮する西部戦線とレフェト・ベイの指揮する南部戦線とに二分されて再編された。これにともない、アリ・フアドは司令官を更迭され、モスクワ駐在大使に転出した。
第一次イニョニュの戦い [編集]
詳細は「第一次イニョニュの戦い」を参照
1921年1月6日、アレクサンドロス1世の死去により王位に復位したコンスタンティノス1世の指揮のもと、ギリシャ軍は進軍を再開した。ギリシア軍は、2方向に分かれ進軍したが、このうちブルサからエスキシェヒール方面に威力偵察に出た部隊が、1921年1月9日から11日にかけて、イニョニュ付近で、メフメド・アーリフ・ベイ指揮下の第11師団、メフメド・アートゥフ・ベイ指揮下の第24師団、メフメド・ナーズム・ベイ指揮下の第4師団と小競り合いの末、後退した。イスメト・ベイは戦闘が終結してから前線に到着した。[5]
第二次イニョニュの戦い [編集]
詳細は「第二次イニョニュの戦い」を参照
その後、ギリシャ軍は再び前進を開始した。イスメト・パシャ指揮下の第11、第24、第61歩兵師団と予備の第3歩兵師団と第1騎兵旅団はイニョニュ付近に防御線を張り、1921年3月26日から31日にかけて戦闘が発生した。国防大臣フェヴズィ・パシャは自ら前線を訪れ、イスメト・パシャから指揮権を譲り渡され反撃を実施し、ギリシャ軍を後退させた。この功績により、4月3日、トルコ大国民議会は、フェヴズィ・パシャを「ビリンジ・フェリク」に昇進させた。(イスメトは、1934年、これらの戦いを記念してイニョニュ姓を贈られることになる)。
キュタヒヤ・エスキシェヒールの戦い [編集]
詳細は「キュタヒヤ・エスキシェヒールの戦い」を参照
エーゲ海沿岸部に比べ、アナトリア内陸部にはギリシャ正教徒はほとんど住んでおらず、ギリシャの侵略に対してゲリラによる反撃が多発していた。[要出典]1921年7月、ギリシャ軍はイギリスなどから物資の援助を受けて3たび進軍し、今回はアンカラ西方50kmの地点まで進撃することに成功した。
サカリヤの戦い [編集]
詳細は「サカリヤの戦い」を参照
トルコ国民議会はケマルを総司令官に任命し、直接指揮にあたらせることになったが、落馬して肋骨を折ったため、フェヴズィ・パシャが実質的な指揮をとった。トルコ軍はアンカラ西方サカリヤ川沿いに100kmに及ぶ塹壕線を築き、数に勝るギリシャ軍に対峙し、事態は消耗戦の様相を呈してきた。ゲリラにより補給を寸断されていたギリシャ軍は次第に押され気味になり、9月12日トルコ軍が攻勢に出ると、これを支えきれず全面撤退に入った。トルコ軍には追撃をおこなう余力はなく、ギリシャ軍は200km後方のイズミルまで撤退した。
大攻勢・ドゥムルプナルの戦い [編集]
詳細は「ドゥムルプナルの戦い」を参照
ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていたが、既にトルコ側は実力でイズミルを回復する決意を固めていた。1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなった。
イズミル入城・追撃戦 [編集]
詳細は「:en:Izmir Offensive」および「:en:Liberation of Izmir」を参照
イズミルから軍民が艦船でギリシャ本土に脱出する中、9月8日にはイズミルがトルコ軍に占領され、逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺された。[要出典]イズミル陥落の混乱の中、積荷を捨てて難民を救助した日本の船があったという。[6]
ギリシャ軍のアナトリア撤収後の展開 [編集]
チャナク危機 [編集]
詳細は「チャナク危機」を参照
イズミルを占領したトルコ軍は北へ向かい、海峡管理区域のイギリス軍部隊と対峙した(チャナク危機)。トルコ軍は管理区域から撤退し、実際の戦闘は避けられた。
9月11日クーデタ・六人組裁判 [編集]
敗北したギリシャでは、9月11日、戦争前に亡命していたヴェニゼロスを支持するニコラオス・プラスティラス陸軍大佐、スティリアノス・ゴナタス陸軍大佐、レムノス艦長ディミトリオス・フォカス海軍大佐らの軍人によるクーデターが発生した。9月27日、戦争を押し進めた国王コンスタンティノス1世は再び退位させられ、ゲオルギオス2世が即位し、六人組裁判が開かれ、9月28日、ゲオルギオス・ハジアネスティス、ディミトリオス・グナリス、ゲオルギオス・バルタジス、ニコラオス・ストラトス、ニコラオス・テオトキス、ペトロス・プロトパパダキスに死刑判決が下った。
結果 [編集]
ムダニヤ休戦協定 [編集]
詳細は「ムダニヤ休戦協定」を参照
ケマルの率いるトルコ国民軍と争う余裕のない英仏両国は、セーヴル条約に代わる講和条約をアンカラ政府と結ぶ必要に迫られた。[要出典] トルコは東トラキアに軍を進駐させることを条件にギリシャと休戦した。[要出典]
ローザンヌ会議 [編集]
詳細は「ローザンヌ条約」を参照
1923年7月にスイスのローザンヌで旧連合国とトルコ政府、周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミルはトルコ領となり、ギリシャ、トルコ間の現国境が確定した。
さらにこの条約では、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定した。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。例外として、イスタンブルの正教徒コミュニティーとギリシャ領トラキア (西トラキア)におけるイスラム教徒は居住を許された。
引用 [編集]
- ^ History of the Campaign of Minor Asia, General Staff of Army, Directorate of Army History, Athens, 1967, page 140: on June 11 (OC) 6,159 officers, 193,994 soldiers (=200,153 men)
- ^ Sabahattin Selek, Anadolu Ihtilali, Kastaş Yayınları;İstanbul, 2004,ISBN 9757639931
- ^ Zekeriya Türkmen, Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920), Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 105. (トルコ語)
- ^ Suat İlhan, Atatürk ve Askerlik: Düşünce ve Uygulamaları, Atatürk Araştırma Merkezi, 1990, p. 88. (トルコ語)
- ^ Mustafa Armağan, "Zafersiz kahraman İnönü" ("İnönü, a hero without victory"), Zaman, February 21, 2010 (トルコ語)
- ^ Stavros Stavridis Special to The National Herald - Hellenic Electronic Center
関連項目 [編集]
- 希土戦争 (1897年)
- バルカン戦争
- トルコ革命
- ギリシャ第二共和政
- メガリ・イデア(大ギリシャ主義)
- メレティオス・メタクサキス - 希土戦争時のコンスタンディヌーポリ総主教。ギリシャの敗北に伴い総主教位から退いた。ヴェニゼロス支持者。
外部リンク [編集]