パリ講和会議
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パリ講和会議(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、1919年1月18日に開会され、第一次世界大戦における連合国が同盟国の講和条件について討議した会議である。ヴェルサイユ宮殿で講和条約の調印式が行われたことから、ヴェルサイユ会議とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、ヴェルサイユ条約を参照のこと)。
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[編集] 概要
第一次世界大戦は、1918年11月にウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条をドイツが受け入れたことで、休戦が成立した。本会議はそれを受けて上記の通り開かれたものである。
この会議で締結された諸々の条約および国際連盟については、それぞれの関連項目を参照のこと。
この会議ではアメリカ・イギリス・フランスが主導権を握り、敗戦国は会議から除外された。アメリカ大統領ウィルソンは、十四か条の平和原則を主張したが、これはイギリス・フランスによって、ほぼ無視された。
[編集] 日本の対応
会議は英米仏伊の四カ国に日本を合わせた計五カ国による「十人会議」が会議のほとんどを支配した。日本以外の四カ国は大戦中から戦略会議を開いていたという古い関係があり、ここに日本を加える予定は全くなかったのであるが、珍田捨巳駐英大使他の必死の奔走で辛くも日本代表を含ませることができたのであった。
日本の全権は政権与党である立憲政友会前総裁で元首相・元老でもある西園寺公望侯爵(個人的にもクレマンソーフランス首相とは親友であった)及び牧野伸顕らが任命されたが、会議では日本が「五大国」と称されながら、実際の発言力が低かった事で批判を浴びた。
[編集] 山東問題
日本は第一次世界大戦への参戦に際して、山東半島の旧ドイツ権益を奪取した。日本は同大戦中の対華21ヶ条要求を通じて、中華民国の袁世凱政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。
一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として顧維鈞を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。
そして門戸開放政策を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。
結果としてはヴェルサイユ条約において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中国では五四運動が起こり、中国はこれを調印しなかった。またアメリカにおいては対日感情が悪化し、日系移民排斥にいっそう拍車がかかることになる。
[編集] 国際連盟の設立
ウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条によって提案されたもので、ヴェルサイユ条約によって成立した。しかし、アメリカ合衆国自身は、議会の反対により国際連盟に参加しなかった。
詳細は国際連盟を参照。
[編集] 日本の人種差別撤廃案
日本の代表団は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。ただし、山東半島問題のアメリカの支持と引き換えに提案を撤回しているため、内容は画期的ながら、どこまで本気だったかは議論が分かれている。
当初、この提案は多くの植民地を有するイギリスやオーストラリア(イギリスは当初は賛成していたが、移民政策が拘束されてしまうと言うオーストラリアと南アフリカ連邦の意向を無視できなかった)などに猛反対され一度は退けられたが、日本代表団は交渉を続け、4月11日の最終委員会において国際連盟規約の前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むよう再度提案する。修正案は採決の結果、出席者16名中11名の賛成(イギリス、フランス、イタリア他)を得るに至り、賛成多数により可決と思われたが、しかし議長であったアメリカのウィルソン大統領はこの案に反対。それまで全ての議題は多数決で採決されていたにも関わらず、突如『重要な議題については全会一致が必要である』として日本の提案を退けた(外務省記録「人種差別撤廃」、『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻)。
当時のアメリカではアジア系移民の排斥運動が問題になっており、ウィルソンは移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、また、国際連盟設立に心血を注いでいたがゆえに、これが原因でアメリカが連盟不参加になることも恐れ(結局はアメリカは参加しなかったが)、ウイルソン大統領は妥協するしかなかった。しかし、これにより日本国内では反米感情が高まった。
さらに1924年アメリカでいわゆる排日移民法が成立し、日系移民が全面禁止されると国民の対米感情の悪化は決定的なものとなる。こういった流れが満州事変、さらには太平洋戦争へとつながる端緒の一つとなったとする意見もある。
[編集] 結果と評価
ともあれ、この会議によって一連の関連条約が結ばれ、第一次世界大戦は終戦することになる。
これ以降ヨーロッパにおいてはヴェルサイユ体制と呼ばれる秩序が、第二次世界大戦前まで続くことになる。
[編集] ヴェルサイユ体制
この体制の維持には、ワシントン体制の維持と同様に社会システム論に基づく蝶番国家であるアメリカの経済が順調であることが必要条件であった。 具体的には、アメリカは
- ドイツに対して財政面、物資面での援助を行い、それを元にドイツは連合国に対して賠償金を支払い、アメリカが連合国からの戦債を回収する
- 軍事費に苦しむ日本に対して、融資を行うとともに軍備削減を要求する
というものである。
従って、ヴェルサイユ・ワシントン体制は1929年のアメリカの金融恐慌を機に崩壊していくことになる。
[編集] 参考文献
- NHK取材班 編『日本の選択1 理念なき外交 「パリ講和会議」』(角川文庫、1995年) ISBN 4-04-195403-7
- マーガレット・マクミラン 著\稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ 1919年パリ講和会議の群像』上、下(芙蓉書房出版、2007年)
- 下斗米伸夫・五百旗頭真 編『二十世紀世界の誕生 両大戦間の巨人たち』(情報文化研究所、2000年) ISBN 4-7952-8238-2
- イアン・ニッシュ 著\関静雄 訳『戦間期の日本外交 パリ講和会議から大東亜会議まで』(ミネルヴァ書房日本史ライブラリー、2004年) ISBN 4-623-04074-7
[編集] 関連項目
- 第一次世界大戦の講和条約
- ブレスト・リトフスク条約 - 中央同盟国対ロシア帝国
- ヴェルサイユ条約 - 対ドイツ帝国
- ヌイイ条約 - 対ブルガリア王国
- サン=ジェルマン条約 - 対オーストリア第一共和国(オーストリア・ハンガリー帝国)
- トリアノン条約 - 対ハンガリー王国(オーストリア・ハンガリー帝国)
- セーヴル条約 - 対オスマン帝国
- 国際連盟
- ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)

