寺内正毅
| 寺内 正毅 | |
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| 生年月日 | 1852年2月24日 (旧暦嘉永5年2月5日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1919年11月3日(満67歳没) |
| 称号 | 元帥陸軍大将 従一位 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 伯爵 |
| 親族 | 寺內壽一(長男) |
| サイン | ![]() |
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| 内閣 | 寺内内閣 |
| 任期 | 1916年10月19日 - 1918年9月29日 |
| 天皇 | 大正天皇 |
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| 内閣 | 第1次桂内閣 第1次西園寺内閣 第2次桂内閣 |
| 任期 | 1902年3月27日 - 1911年8月30日 |
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| 内閣 | 第2次桂内閣 |
| 任期 | 1908年7月14日 - 同8月27日 |
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| 内閣 | 寺内内閣 |
| 任期 | 1916年10月9日 - 同12月16日 |
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| 内閣 | 寺内内閣 |
| 任期 | 1916年10月9日 - 同11月21日 |
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その他の職歴
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(1910年5月30日 - 1910年10月1日) |
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| 初代朝鮮総督 (1910年10月1日 - 1916年10月16日) |
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寺内 正毅(てらうち まさたけ[1]、旧字体:寺內 正毅、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 1919年(大正8年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。書の雅号は桜圃、魯庵。ビリケン宰相の異名を持つ。
陸軍大臣(第15・16・17代)、外務大臣(第22・31代)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第22代)などを歴任した。
目次 |
概要 [編集]
明治年間から大正年間にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では兒玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺內内閣を発足させ、内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。なお、元帥府に列せられていることから、階級を呼称する際には元帥の称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
嘉永5年(1852年)、周防国山口(のちの山口県山口市)に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方である寺内勘右衛門の養嗣子となる。
軍人として [編集]
明治元年(1868年)、御楯隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後、山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、1887年(明治20年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。第一師団参謀長や参謀本部第一局長などを歴任した後、1898年(明治31年)教育総監、1900年(明治33年)参謀次長などを勤める。
政治家として [編集]
陸軍大臣 [編集]
第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた[2]。 1906年(明治39年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。1907年(明治40年)9月、戊辰・西南・日清・日露の各戦役の軍功によって子爵を授けられた。
韓国統監・朝鮮総督 [編集]
1909年(明治42年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監・曾禰荒助(在任: 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると1910年(明治43年)5月30日陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第二次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された。1911年(明治44年)4月、韓国併合の功によって伯爵を授けられた。
内閣総理大臣 [編集]
1916年(大正5年)6月24日、元帥。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内首相は1918年(大正7年)8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日総辞職した。だが、この内閣末期には既に病気がちであり、翌年に病没する。
備忘録 [編集]
- 西南戦争で右手を負傷して以来、挙手の敬礼を左手によって行っていた(俗に左敬礼と呼ばれている)。
- 陸軍士官学校校長時は、徹底的に生徒の管理を行い、仕事を終えても、職場と目と鼻の先にある自宅から望遠鏡で生徒の行動を見ていた。また、有栖川宮熾仁親王が揮毫した士官学校の表札が錆びているのを見て、そのような怠慢精神は皇室への不敬であり陸軍の恥辱であるとして校長をひどく叱ったとされる。
- 韓国併合の祝宴で「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意満面に詠んだという。挙げられた武将はいずれも豊臣時代の朝鮮出兵の武勲者。
- 次男は陸軍大尉・寺内毅雄で、1929年病死したが、妻あや子が同日殉死して話題となった。
縁戚関係 [編集]
南方軍総司令官の元帥陸軍大将寺内寿一は長男。正毅の没後、寿一が伯爵位を襲爵した。日本で親子二代の元帥は皇族を除くとこの寺内親子だけである。
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 大隈重信 |
第18代:1916年10月9日 - 1918年9月29日 |
次代: 原敬 |
| 先代: 児玉源太郎 |
第15・16・17代:1902年3月27日 - 1911年8月30日 |
次代: 石本新六 |
| 先代: 武富時敏 石井菊次郎 |
第22代:1908年7月14日 - 同年8月27日 第31代:1916年10月9日 - 同年11月21日(兼任) |
次代: 小村壽太郎 本野一郎 |
| 先代: 武富時敏 |
第22代:1916年10月9日 - 12月16日(兼任) |
次代: 勝田主計 |
| 先代: 曾禰荒助 |
第3代:1910年5月30日 - 1910年10月1日 |
次代: 朝鮮総督へ |
| 先代: 創設 |
初代:1910年10月1日 - 1916年10月16日 |
次代: 長谷川好道 |
| 軍職 | ||
| 先代: 新設 野津道貫 |
初代:1898年1月22日 - 1900年4月25日 第3代:1904年3月17日 - 1905年5月9日 |
次代: 野津道貫 西寛二郎 |
| 爵位 | ||
| 先代: 創設 |
寺內伯爵家 初代:1911年 - 1919年 |
次代: 寺內寿一 |
| 先代: 創設 |
寺內子爵家 初代:1907年 - 1911年 |
次代: 陞爵 |
| 第17代 大隈重信 |
第18代 1916年10月9日 - 1918年9月29日 |
第19代 原敬 |
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