井上準之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 井上 準之助 | |
|---|---|
濱口内閣の蔵相時代
|
|
| 生年月日 | 1869年5月6日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1932年2月9日(満62歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科卒 |
| 前職 | 日本銀行総裁 |
|
|
|
| 内閣 | 第2次山本内閣 |
| 任期 | 1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
|
|
|
| 内閣 | 濱口内閣 第2次若槻内閣 |
| 任期 | 1929年7月2日 - 1931年12月13日 |
|
その他の職歴
|
|
(1919年3月13日 - 1923年9月2日) |
|
(1927年5月10日 - 1928年6月12日) |
|
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、浜口内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。
帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。第2次山本内閣で蔵相を務めた際は関東大震災に遭遇、モラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。田中義一内閣で外務大臣候補とされるなど立憲政友会に近い人物と目されていたが、金本位制への復帰を目指す立憲民政党の濱口雄幸からの依頼で濱口内閣で大蔵大臣として入閣、緊縮財政路線を取り金解禁を実現させた。しかし、世界恐慌もあいまって日本経済はデフレーションに陥った(昭和恐慌)。濱口雄幸の死後も第2次若槻内閣で再び大蔵大臣となったが、若槻内閣が内部分裂で倒れると積極財政を主張する政友会の犬養内閣が成立し井上財政は終焉を迎える。
野党に転落した立憲民政党を支え、元老である西園寺公望に次の総理大臣候補として期待されていたというが、血盟団の標的となり暗殺された(血盟団事件)。墓は青山霊園にある。
日本経済聯盟会(日本経済団体連合会の前身)の結成や東洋文庫の創設に尽力。また、日本へのゴルフ普及の功労者でもある。
目次 |
[編集] 経歴
- 明治2年(1869年):現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家の井上酒造[1]は、1804年創業の伝統ある酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している[2]。
- 教英中学中退[3]、上京後、成立学舎などに通う。
- 明治21年 (1888年):仙台の第二高等中学校予科1年次入学。高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う[4]
- 明治26年(1893年):帝国大学英法科入学
- 明治29年(1896年):帝大卒業後、日本銀行入行
- 大正8年(1919年):日本銀行総裁就任
- 大正12年(1923年):第2次山本内閣の大蔵大臣。
- 昭和4年(1929年):濱口内閣の蔵相。金解禁に尽力。
- 昭和7年(1932年)2月9日:選挙運動中に血盟団員小沼正に暗殺される(血盟団事件)。
[編集] 家族
[編集] 参考文献
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ株式会社)61頁
[編集] 関連
- 新井領一郎…ニューヨークで井上にゴルフを教える。
- 城山三郎…小説『男子の本懐』において、濱口雄幸と共に主人公としてその生涯が取り上げられた。
- 一万田尚登…日銀総裁。若いころに井上の秘書を務めたこともある。
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 市来乙彦 三土忠造 |
第23代:1923年9月2日 - 1924年1月7日 第30代:1929年7月2日 - 1931年12月13日 |
次代: 勝田主計 高橋是清 |
| その他の役職 | ||
| 先代: 三島彌太郎 市来乙彦 |
日本銀行総裁 第9代:1919年3月13日 - 1923年9月2日 第11代:1927年5月10日 - 1928年6月12日 |
次代: 市来乙彦 土方久徴 |
|
|||||
|
||||||||||||||