井上馨

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井上馨
井上馨
井上馨
生年月日 1836年1月16日
出生地 日本の旗 周防国 湯田村
没年月日 1915年9月1日(満79歳没)
死没地 大日本帝国の旗 大日本帝国 静岡県 静岡市
称号 従一位大勲位侯爵

日本の旗 第5代外務卿
任期 1879年9月10日 - 1885年12月22日

内閣 第1次伊藤博文内閣
任期 1885年12月22日 - 1887年9月17日

内閣 黒田内閣
任期 1888年7月25日 - 1889年12月23日

日本の旗 第10代内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
任期 1892年8月8日 - 1894年10月15日

日本の旗 第6代大蔵大臣
内閣 第3次伊藤内閣
任期 1898年1月12日 - 6月30日
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長州五傑

井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日1836年1月16日) - 1915年大正4年)9月1日)は、日本武士長州藩士、政治家実業家本姓源氏清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏桂太郎は娘婿。

幼名は勇吉、通称を聞多(長州藩主毛利敬親から拝受)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿参議など。黒田内閣農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。従一位大勲位侯爵、元老。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

長州藩士・井上五郎三郎光亨(大組・100石)の次男として、周防国湯田村に生まれる。のち、長州藩士・志道家(大組・250石)の養嗣子となるも、のち井上家に復籍。小姓役などを勤めた。藩校明倫館に入学した後(よく間違えられるが吉田松陰の主催する松下村塾には入学していない)、江戸で岩屋玄蔵江川英龍に師事して蘭学を学んだ。

[編集] 長州藩士時代

次第に勃興した尊皇攘夷運動に共鳴、江戸遊学中の文久2年(1862年)には御楯組の一員として高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。

文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤博文山尾庸三井上勝遠藤謹助とともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航するが、留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、下関での外国船砲撃事件では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。

第1次長州征伐では武備恭順を主張したために俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。このときあまりの重傷に聞多は兄五郎三郎に介錯を頼んだ。しかしながら母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。後、当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏し別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養した。

その後、高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起。再び藩論を開国攘夷に統一した。慶応元年(1865年)、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟し(薩長同盟)、第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。

慶応3年(1867年)の王政復古の後は、九州鎮撫総督の参謀となり、長崎へ赴任。のちに長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。

[編集] 明治維新後

1880年(明治13年)の大礼服の井上馨

明治維新後は官界に入り、主に財政に力を入れた。明治6年(1873年)、司法卿江藤新平らに予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。一時は三井組を背景に先収会社三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、外務卿、外務大臣農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。

明治16年(1883年)、外務卿となった後は、鹿鳴館を建設。不平等条約改正交渉にあたる。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めた。条約改正、官庁集中計画は井上辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わったハインリッヒ・フォン・シーボルトには勲三等が後に与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。

また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年(1884年華族令伯爵、明治40年(1907年)には侯爵に陞った。日本郵船藤田組、特に三井財閥においては最高顧問になるなどと密接に関係した。これを快く思わなかった西郷隆盛からは“三井の番頭さん”と揶揄され蔑まれた。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。

第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて内閣総理大臣に就任する予定になったが、政局の運営に見通しが立たないと判断すると、総理大臣就任を辞退して桂太郎に地位を譲った(なお、第2次伊藤内閣の内相時代に伊藤が交通事故に遭ったために1ヶ月余り首相臨時代理を務めている)。伊藤亡きあと、西園寺公望松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な勢力を誇った。

大正4年(1915年)、静岡県興津町(現:静岡市清水区)の別荘・長者荘にて死去した。

[編集] 人物

[編集] 業績

長州藩士時代の井上馨(内田九一撮影)

維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。長州藩は幕府転覆の最大の功労藩で権限も集中していたから、更に理財の才能のある者達が井上の周囲に集まって来ていたと考えられる。1度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。

外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信青木周蔵陸奥宗光らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。

[編集] 逸話

  • 仕事上で特に深く関わった人物は、渋沢栄一益田孝等はじめ多数。長寿だったため、縁者である鮎川義介(実姉常子の孫)や鮎川の義弟・久原房之助への指導もしている。
  • 恩義を忘れぬ情厚き面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた[1]
  • 親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。
  • 芸能界との親交も多く、歌舞伎役者九代目市川團十郎(かつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力した)、落語家三遊亭圓朝清元のお葉、義太夫竹本越後太夫などが名を連ねる。
  • 美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「貰っておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。明治の元勲、当時の権力者には逆らえず、持ち主は泣き寝入りするしかなかったという。この話を聞いた明治天皇は井上の茶会に行幸し、掛物を「貰う」と言い出し井上を狼狽させ、横暴をたしなめたという[2]
  • ほぼ毎年遺言書を更新していた。

[編集] 他人からの評価

  • その短気と怒声から「雷親父」とあだ名されていた。一方、右腕とする渋沢栄一には絶大な信頼をおいており、渋沢が近くにいる限り井上は語気を荒らげることすらなかったので、渋沢のまわりには雷は落ちないということから、彼は「避雷針」とあだ名されていた。ただしその渋沢本人は「本当の避雷針は井上氏」だったといい、どんな攻撃も井上が体をはって受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたと述懐している。
  • 大隈重信は伊藤と井上の二人を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった……井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」。
  • 林学博士中村弥六によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが、元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。
  • 徳富蘇峰は、「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害する…」ものと考えていたことを紹介し、井上の合理主義者としての一面を評価している。
  • 明治10年代(1877年 - 1886年)のドイツ公使アイゼンデッヒャーは井上について「前外務卿(寺島宗則)よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」と述べている。

[編集] 系譜

[編集] 系図

光亨┳光遠==馨==┳勝之助==三郎┳光貞━光順━光隆
  ┃       ┃       ┃
  ┗馨      ┣千代子    ┣元勝
          ┃       ┃
          ┗可邦子    ┣元廣
                  ┃
                  ┗武子
                 柳原承光━━真美子
        桂太郎━━井上三郎       ┃
              ┃         ┃  ┏井上光隆
              ┣━━━井上光貞  ┣━━┫
              ┃    ┃    ┃  ┗井上光博
        井上馨━━千代子   ┃    ┃
                   ┣━━━井上光順
                   ┃
       伊達宗徳━━二荒芳徳  ┃
               ┃  ┏明子
               ┣━━┫
               ┃  ┗治子
   北白川宮能久親王━━━拡子    ┃
                    ┃
                  ┏石坂一義
                  ┃
                  ┣石坂泰介
                  ┃
             石坂泰三 ┣石坂泰夫
               ┃  ┃
               ┣━━╋石坂泰彦
               ┃  ┃
         織田一━━雪子  ┣石坂信雄
                  ┃
                  ┣智子
                  ┃
                  ┗操子
                   ┃
           霜山精一━━霜山徳爾

[編集] 家族・親族

  • 養嗣子 井上勝之助(甥:兄光遠の二男、外交官
  • 娘 井上千代子(養嗣子・勝之助の養女、従妹)
  • 養孫・婿 井上三郎桂太郎の三男、勝之助の養嗣子、娘・千代子の夫、陸軍少将
  • 孫にあたる東大名誉教授井上光貞(三郎・千代子夫妻の長男)は日本古代史の研究者として知られた。

[編集] 脚注

  1. ^ 渡邊毅「母の力 瀕死の井上聞多を救う」『産経新聞』2011年6月11日(土)
  2. ^ 白洲正子『白洲正子自伝(新潮社)』より

[編集] 関連作品

映画
テレビドラマ
舞台

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


先代:
寺島宗則
日本の旗 第5代 外務卿
1879年9月10日 - 1885年12月22日
次代:
外務大臣へ
先代:
外務卿より
日本の旗 初代 外務大臣
1885年12月22日 - 1887年9月17日
次代:
伊藤博文
先代:
榎本武揚
臨時兼任
日本の旗 第4代 農商務大臣
1888年7月25日 - 1889年12月23日
次代:
岩村通俊
先代:
河野敏鎌
日本の旗 第10代 内務大臣
1892年8月8日 - 1894年10月15日
次代:
野村靖
先代:
松方正義
日本の旗 第6代 大蔵大臣
1898年1月12日 - 同6月30日
次代:
松田正久
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