西南戦争

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西南戦争
Seinansenso snou.jpg
鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年
戦争士族反乱
年月日1877年明治10年)
場所熊本県宮崎県大分県鹿児島県
結果Flag of the Japanese Emperor.svg 明治政府の勝利
交戦勢力
Flag of the Japanese Emperor.svg 明治政府 Japanese Crest maru ni jyuji.svg薩摩藩士族
指揮官
Flag of the Japanese Emperor.svg 有栖川宮熾仁親王 Japanese Crest maru ni jyuji.svg 西郷隆盛  
戦力
約70,000 約30,000
損害
6,400 戦死 6,800 戦死
士族反乱

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年明治10年)に現在の熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後内戦となった。

目次

経過[編集]

近因(私学校と士族反乱)[編集]

明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

一方、近代化を進める中央政府1876年(明治9年)3月8日廃刀令、同年8月5日金禄公債証書発行条例発布した。この2つは帯刀俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日熊本県で「神風連の乱」、27日福岡県で「秋月の乱」、28日山口県で「萩の乱」が起こった。鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

赤龍丸と弾薬掠奪事件[編集]

1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている[1]

陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた[2]

後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。

火薬弾丸雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければとして機能しない。

薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因のひとつだった。

また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた事もあり(裕福な藩士の中には洋式銃や弾薬を自費購入し有事に備えている者もいたが、そうではない藩士達にとっては、政府に持ち去られてしまう事で、有事に銃や弾薬を配給されるアテがはずれる、といった事情もあった)、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。

スナイドル弾薬の製造設備を失った事は、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、既に旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなった事を意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。

西郷暗殺計画[編集]

1月30日、私学校幹部の篠原国幹河野主一郎高城七之丞ら七名は会合し、谷口登太に中原ら警視庁帰藩組の内偵を依頼し、同日暮、谷口報告により中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としている事を聞いた[3]

篠原・淵辺群平池上四郎・河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、小根占をしていた西郷隆盛のもとに彼の四弟の西郷小兵衛を派遣した。また、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、2月2日辺見十郎太ら3名を小根占へ派遣した。

西郷小兵衛と辺見から弾薬掠奪事件の顛末を聞いた西郷は「ちょしもたー」(しまった)との言葉を発し[4]、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼっていた。

2月3日、私学校党は中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられ、多くの私学校徒は激昂して暴発状態となった[5]

西郷軍の結成と出発[編集]

1877年、フランスのニュース紙「Le Monde illustré」より、西郷隆盛とその幹部たち

2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。翌5日、私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われた。

別府晋介と辺見は問罪の師を起こす(武装蜂起)べしと主張したが、永山弥一郎は西郷・桐野・篠原の三が上京して政府を詰問すべしと主張した。この永山策には山野田一輔・河野主一郎が同調した。しかし、池上は暗殺を企む政府が上京途中に危難を加える虞れがあると主張して反対した。そこで村田三介は三将に寡兵が随従する策を、野村忍介は野村自身が寡兵を率いて海路で小浜に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する策を主張した。

こうして諸策百出して紛糾したが、座長格(西郷を除く)の篠原が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸大阪横浜東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前豊後を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本佐賀福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された[6][7]

2月8日部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義海軍中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。一方、鹿児島では、2月9日県庁自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えられるに至った。

西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、次のように大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長と呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊長がつとめた)。

いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計約1,600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場[8]で、騎乗した西郷による一番~五番大隊の閲兵式が行われた。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南の役開始)。以後順次大隊が鹿児島を出発した。17日には西郷も桐野とともに発し、加治木人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。同日、連合大隊も加治木を発した。一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。

征討軍派遣[編集]

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)

西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり西郷軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる[9]

明治政府は有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍海軍の勢力争いを回避するためであった。

また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村を加えて薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。山縣有朋もかつて西郷のもとで御親兵陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では薩摩の大山巌に協力するなど、薩摩閥内部の西郷vs大久保の争いに長州閥が便乗する構図となっていた。

当初、第1旅団野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした(実際に元新撰組隊士も所属していた[10])。

台湾出兵時に西郷従道が装備したガトリング砲九州へ送られる[11]など、徴兵で構成された政府軍は精強な薩摩士族相手に戦うために、相当な意気込みを見せたが、一番肝心な歩兵銃の弾薬調達でトラブルが発生していた。

開戦原因のひとつとなった鹿児島属廠のスナイドル弾薬製造設備は、2月13日に大阪砲兵工廠に設置された[12]が、鹿児島から搬出した際に部品の不備や破損が生じていたため、稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。また各鎮台から九州への本格的な動員が開始されると膨大な量の弾薬が必要となり[13]、6,000発/日程度の生産数では焼け石に水の効果しかない事が明らかだったため、更なる増産が図られて弾丸用の溶解雷管製造所を併設した新工場が建設された[14]

スナイドル銃が陸海軍に制式採用されてから以降、その弾薬供給が鹿児島属廠に独占されていたため、重要拠点である東京・大阪の鎮台兵には、後装式ながら紙製薬莢を使うツンナール銃(ドライゼ銃)を装備した兵が多かった[15]が、ツンナール銃とスナイドル銃は全く違う弾薬を使用していた。

補給の混乱を防ぐために、陸軍省は九州へ派遣される兵の装備をいったんスナイドル銃に統一させてから送り出していた[16]が、動員規模が拡がるにつれて早くも3月にはスナイドル弾薬500万発の備蓄を使い果たして弾薬が欠乏した。この時期、九州では依然として激戦が続いており、更に1,800万発の調達が必要と見積もられていた[13][17]こともあって、大量の弾薬在庫が残されていたツンナール銃を九州に送る案が検討され[18]、実際に和歌山(旧紀州藩)の臨時召集部隊は藩兵時代から使い慣れたツンナール銃装備のまま九州へ派遣されたほか、大阪鎮台の医歩兵など後方部隊もツンナール銃を装備して派遣されていた[19]

この他にも、後に村田銃の開発で有名になった村田経芳が、旧幕府から引き継がれたシャスポー銃を、スナイドル銃とは別の金属薬莢を用いる弾薬用に改造しようと計画[20]するなど、更に補給を混乱させかねない事態が進行していた。

スナイドル弾薬の調達を担当した陸軍省の西郷従道原田一道は、大量の弾薬を調達すべく、海軍省から弾薬製造設備を借り受け[21]たり、外国商人から空薬莢500万個の購入を計画[22]したり、あるいは清国から弾薬を借り受けたり[23]と、前線で戦う兵士達の火力を支える弾薬調達に東奔西走した。

薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」

熊本城強襲と小倉電撃作戦[編集]

2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中、に延焼し、天守までも焼失した。この火災の原因は今もって不明(ただし、官軍による自焼説が有力)である。

2月20日、別府晋介率いる加治木の諸隊が川尻に到着し始めた。まもなく熊本鎮台から派遣された偵察隊が別府の隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩軍は、相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開いた。軍議では池上が主張する「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲した。桐野の第四大隊・池上の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当した。一方、官軍は熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の官軍側には、司令官谷干城少将(後に農商務大臣)、参謀長樺山資紀中佐(後に海軍大臣軍令部長)はじめ、児玉源太郎少佐(後に陸軍大臣参謀総長)、川上操六少佐(後に参謀総長)・奥保鞏少佐(後に参謀総長・元帥)など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。この時の戦力比は薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人であった。古来、攻城側は守城側の10倍は必要とされていることからすれば、いかに剽悍な薩摩兵とはいえ、1対3での包囲強襲は無謀な作戦と言える。[独自研究?]この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。

同日午後、薩軍は官軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎歩兵第14連隊乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には攻め落とせないとみなされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、官軍の第1および第2旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では、一旦は篠原らの強襲策続行に決したが、遅れて到着した小兵衛や野村忍介の強い反対があり、深夜に開かれた再軍議で熊本城を強襲する一方、一部は小倉を電撃すべしと決した。翌23日に池上が村田・深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発したが、途中で激戦の銃声を聞いて池上は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。しかし、この小隊も植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗した。

薩軍主力北部進出と長囲策[編集]

薩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど無謀この上もない作戦を採用した。したがって2月21日から24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗して、24日以後は両軍の対峙状態に陥った。そこで、薩軍は南下してくる官軍、また上陸してくると予想される官軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じた。植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き官軍と薩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日~27日には熊本方面、3月1日~31日には田原・吉次方面、3月10日4月15日には鳥巣方面、3月4日~4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われた。なお、この間および後に薩軍に荷担した九州諸県の各隊は、貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2,000名)を除けば、大約以下の通りである。

高瀬付近の戦い[編集]

2月24日、第1旅団(野津鎭雄少将)と第2旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。歩兵第14連隊(乃木希典少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、歩兵第14連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第3旅団の先鋒1個中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5個小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。

この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。

  • 山鹿 ─ 野村忍介(5個小隊)
  • 植木 ─ 越山休蔵(3個小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
  • 伊倉 ─ 岩切喜次郎児玉強之助ら(3個小隊)、佐々友房ら(熊本隊3個小隊)

これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。

官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た歩兵第14連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

2月26日、越山の3個小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3個小隊及び岩切・児玉らの3個小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。

薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。

  • 右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3個小隊約600名)
  • 中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6個小隊約1,200名)
  • 左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5個小隊約1,000名)

これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。

  • 第一陣
    • 前駆 ─ 乃木希典少佐(4個中隊)
    • 中軍 ─ 迫田大尉(2個中隊)
    • 後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2個中隊)
  • 第二陣
    • 予備隊 ─ 長谷川中佐(4個中隊)
    • 山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3個中隊)
  • 応援(総予備隊) ─ (2個中隊、1個大隊右半隊)

薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉大浜を経て岩崎原に進出した。官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。

午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている[24]

右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。西郷小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西郷小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。

田原坂・吉次峠の戦い[編集]

田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画、明治10年3月)。
田原坂の戦い(「鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画、明治10年4月)

3月1日から3月31日まで、現在の熊本県熊本市植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。3月4日には吉次峠では西郷軍の篠原国幹が戦死するが、政府軍を撃退した。

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにおかれた。しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を当てたが、討ち破られたため、3月13日警視隊の中から剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成した。3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することはできなかった。しかし、抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて軍歌『抜刀隊』が作られた。

官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。3月16日は、戦線整理のために休戦した。3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

官軍主力隊本営では3月18日、野津鎮雄少将(第1旅団長)、三好重臣少将(第2旅団長)、野津道貫大佐(第2旅団参謀長)、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするためにおこなわれた。これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。官軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって官軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることが出来た。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾田畑や斜面からしばしば発見されている。薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。田原坂の激戦は官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。

植木・木留の戦い[編集]

3月23日に官軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。3月24日にも官軍は再び木留を攻撃し、3月25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。3月30日、官軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領した。4月2日、官軍は木留をも占領し、薩軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。4月5日には官軍本営にて軍議が開かれた。4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は萩迫の柿木台場を占領した。4月12日に薩軍は最後の反撃をしたが、4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退いた。これを追って官軍は大進撃を開始した。

鳥巣方面[編集]

鳥巣では、3月10日に薩軍がこの地の守備を始めてから4月15日に撤退するまでの間、官軍との間に熾烈な争いが繰り広げられた。まず3月30日の明け方に近衛鎮台の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。始めは人数不足で不利な状況だった薩軍であったが、そのうち伊東隊による応援もあり、どうにか官軍を敗退させることができた。

4月5日、第3旅団(三浦梧楼少将)は鳥巣に攻撃をしかけ、薩軍の平野隊と神宮司隊が守備している真ん中に攻め入った。虚をつかれた両隊はたちまち敗走した。これを聞いた薩軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦するが、結局、この日一日では決着はつかず、4月7日に官軍がこの地に一旦見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとしたことにより、一時的に休戦状態になった。一方古閑では、平野隊・重久隊の必死の抗戦により官軍はやむなく撤退してしまった。

薩軍は勇戦し、4月9日、再び隈府に攻め入った官軍を撃退したが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退した。4月10日から4月13日にかけて官軍による鳥巣の再攻略が始まり、薩軍もこれに対して勇ましく応戦したが、いよいよ武器がつきてしまったうえに、鳥巣撤退命令が下されたため、この地をあとに大津に向かった。

薩軍の長囲策の破綻と官軍衝背軍の上陸[編集]

薩軍の主力が北部戦線に移った後も熊本城の長囲は続けられていたが、官軍衝背軍の上陸と熊本鎮台との連絡がついたことから長囲策は破綻し、戦線は熊本城の南部東部に移った。この地でおこなわれた、いわゆる城東会戦の帰趨は、田原坂の敗戦にも劣らない打撃を薩軍に与えることになった。

熊本城長囲[編集]

城中の糧食が尽きるのを待って陥落させるという長囲策を採る薩軍が対戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。3月12日、段山をめぐる両軍の争奪戦が起こった。この争奪戦は13日まで続いた。霧の中、砲撃・銃撃を混じえた激戦は、霧が晴れたときには双方の距離10数歩という接近戦であった。結局、段山の背後に出た鎮台側が薩軍を敗走させた。この戦いは官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名という長囲戦最大の激戦であった。

薩軍主力が北方に転戦したため鎮台の守城負担は幾分減ったとはいえ、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることでしのいでいた。池上率いる長囲軍は当初、21個小隊・1個砲隊、計4,700名近くもいたが、長囲策が採られると16個小隊・2個砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣してさらに減少した。そのために長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。一方、鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。

長囲軍が減少した薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、水責めを行うべく3月26日石塘堰止を実行し、坪井川井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。この策によって薩軍は城の東北及び西部に配する兵を数百名節約できたのであるが、その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまった。

鎮台兵の出撃[編集]

熊本鎮台の城外出撃は薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から始まった。この日、大迫尚敏大尉率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃した。3月26日、植木方面で銃声を聞くが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を走らせたものの、逆襲にあい、撤退した。

籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺中牟田健軍隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある720・小銃100挺などを奪って引き揚げた。

衝背軍上陸[編集]

官軍南下軍は2月の高瀬の戦い以来目立った成果を収めることができずにいた。そこで高島大佐の建議により、熊本鎮台との連絡をとること、薩軍の鹿児島と熊本間の補給・連絡を遮断すること、薩軍を腹背から挟撃すること等の企図を持った軍が派遣されることになった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することにした。

最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった高島鞆之助大佐(後に少将)率いる別働第2旅団(後に別働第1旅団に改称)であった。この旅団は3月19日艦砲射撃に援護されて日奈久南方の州口及び八代の背後に上陸し、薩軍を二面から攻撃して八代の占領に成功した。20日には黒田清隆参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸した。薩軍では二番大隊一番小隊が日奈久、二番大隊五番小隊が松崎西南の亀崎、二番大隊六番小隊が熊本西北の白浜で海岸警備をしていたが、なんら効果的な防御ができなかった。

官軍の八代上陸の報を得た薩軍は、熊本長囲軍の一部を割き、三番大隊指揮長永山弥一郎率いる5箇中隊・都城隊・二番砲隊を八代に派遣した。3月20日、薩軍先遣隊と高島大佐率いる官軍は氷川を挟んで激戦し、薩軍は対岸に進出した。しかし、翌21日には増援を得た官軍が押し返し、薩軍を砂川に退却させた。22日、黒田参軍は八代から宮の原に出、ここで薩軍と激戦した。増援を得た薩軍と官軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。

3月24日、長崎を出発した別働第2旅団(山田少将)・別働第3旅団(川路少将)は25日午後、八代に上陸した。このとき一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に再び改称されて次のようになった。

  • 高島鞆之助大佐の旅団 ─ 別働第1旅団
  • 山田顕義少将の旅団 ─ 別働第2旅団
  • 川路利良少将の旅団 ─ 別働第3旅団(警視隊を主体として編成)
  • 黒川通軌大佐の旅団 ─ 別働第4旅団

小川方面の戦い[編集]

3月26日、黒田参軍は別働第1旅団を左翼、別働第2旅団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃退して小川を占領した。この時、薩軍の猛将永山弥一郎は「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」[25]と激励したが、戦況を逆転することはできなかった。

松橋付近の戦い[編集]

3月30日、黒田参軍は別働第3旅団に娑婆神嶺、別働第1旅団・別働第2旅団に松橋を攻撃させた。別働第3旅団は娑婆神嶺を占領、別働第1旅団と別働第2旅団は大野川の線まで前進した。翌日、別働第2および第3旅団は山背と本道の両面から松橋を攻撃し、別働第1旅団は北豊崎から御船に進み、薩軍の右側を攻撃した。これに耐えきれず、薩軍が川尻に後退したので、松橋を占領した。

宇土・堅志田・緑川の戦い[編集]

4月1日、別働第1旅団が薩軍夜襲隊を追撃して宇土を占領した。また別働第3旅団は甲佐に退却した薩軍を追撃して堅志田を占領した。3日、早朝の霧に乗じた薩軍の急襲を別働第3旅団は激闘5時間の末、これを退け、追撃して緑川を越えて薩軍の側背を衝き、進んで甲佐を占領した。薩軍は悉く御船に退却した。6日、黒川通軌大佐率いる別働第4旅団が宇土戸口浦に上陸した。7日には緑川左岸に進出している薩軍を別働第2旅団が別働第1および第4旅団の援護を得て右岸に押し返した。また第2および第4旅団は木原山急襲の薩軍を挟撃して川尻に敗走させた。

御船の戦い[編集]

黒田参軍は衝背軍を部署し、次の方面への一斉進撃を企図した。

  • 甲佐・御船・吉野 ─ 別働第3旅団
  • 隈庄・鯰村・上島 ─ 別働第1旅団
  • 上記旅団の予備隊 ─ 別働第1、第2旅団の一部
  • 緑川下流・川尻 ─ 別働第2旅団
  • 同上 ─ 別働第4旅団

4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始した。別働第1旅団は宮地を発して緑川を渡り、薩軍を攻撃した。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。かくして御船は官軍に占領された。

同12日、別働第2旅団は新川堤で薩軍の猛射に阻まれ、第4旅団も進撃を阻止された。翌13日、別働第2旅団と別働第4旅団は連繋しながら川尻を目指して進撃した。別働第4旅団の一部が学科新田を攻撃して薩軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、薩軍と激戦しながら川尻へと進んだ。川尻に向かった別働第4旅団と第2旅団は両面から薩軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領した。

衝背軍の熊本入城[編集]

4月13日、別働第2旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。

薩軍の八代急襲[編集]

このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25日、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。

4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、1個大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。

城東会戦[編集]

桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)

  • 大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
  • 長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6個中隊
  • 保田窪 ─ 中島健彦指揮5個中隊及び福島隊
  • 健軍 ─ 河野主一郎指揮5個中隊及び延岡隊(約750名)
  • 木山 ─ 薩軍本営
  • 御船 ─ 坂元仲平指揮20個中隊(計約1,300名)

対する官軍も、山縣参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)

  • 片川瀬 ─ 第3旅団
  • 竹迫 ─ 第1旅団
  • 立田山 ─ 別働第5旅団
  • 熊本城東部 ─ 熊本鎮台
  • 熊本城 ─ 第4旅団(予備軍として)
  • 川尻 ─ 別動第1旅団
  • 隈庄 ─ 別動第2旅団
  • 堅志田 ─ 別動第3旅団
  • 八代 ─ 別動第4旅団

薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第1・第2・第3旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。

4月19日、熊本鎮台・別働第5旅団・別働第2旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。官軍は別働第1旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがたかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。

別働第5旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。

長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第5旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山縣参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第4旅団を戦線に投入するありさまであった。

薩軍最左翼の御船へは坂元指揮の諸隊が熊本に入った官軍と入れ替わる形で進駐していた。別働第3旅団は4月17日、熊本から引き返して来て御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第1・第2・第3旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。

このように両軍の衝突は4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、第1・第2旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第3旅団は大津に進出してここに本営を移した。

このように「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし、官軍は最右翼の大津と最左翼の御船から薩軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら薩軍退却の殿りをつとめた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。

薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦[編集]

4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、村田新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩摩国大隅国日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。この時に決められた諸隊編成及び指揮長は以下の通りである。

  • 奇兵隊 ─ 指揮長野村忍介
  • 振武隊 ─ 指揮長中島健彦
  • 行進隊 ─ 指揮長相良長良
  • 雷撃隊 ─ 指揮長辺見十郎太
  • 干城隊 ─ 指揮長阿多壮五郎
  • 常山隊 ─ 指揮長平野正介
  • 正義隊 ─ 指揮長河野主一郎
  • 鵬翼隊 ─ 指揮長淵辺群平
  • 勇義隊 ─ 指揮長中山盛高

この後即日、薩軍は全軍を二手に分けて椎原越えで人吉盆地へ退却した。

4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。4月28日江代に着いた桐野はここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。この時、桐野が人吉を中心に南北に両翼を張る形で薩軍を以下の通りに配置した。

  • 薩軍諸隊配置[26]
    • 豊後口方面 ─ 指揮長野村忍介
    • 鹿児島方面 ─ 指揮長中島健彦
    • 同上 ─ 指揮長相良長良
    • 大口方面 ─ 指揮長辺見十郎太
    • 江代口方面 ─ 指揮長阿多壮五郎
    • 中村・加久藤・綾方面 ─ 指揮長平野正介
    • 神瀬・小林方面 ─ 指揮長河野主一郎
    • 佐敷方面 ─ 指揮長淵辺群平
    • 川内方面 ─ 指揮長中山盛高
    • 高原口方面 ─ 指揮長堀与八郎

対する官軍の配置は以下の通りである。

  • 官軍旅団配置
    • 健軍・木山方面 ─ 第1旅団(野津鎮雄少将)
    • 砂取・川尻方面 ─ 第2旅団(三好重臣少将)
    • 高森方面第3旅団 ─ (三浦梧楼少将)
    • 鹿児島方面 ─ 第4旅団(曾我祐準少将)
    • 同上 ─ 別働第1旅団(高島鞆之助少将)
    • 南種山・五箇庄方面 ─ 別働第2旅団(山田顕義少将)
    • 佐敷・水俣・大口方面 ─ 別働第3旅団(川路利良少将)
    • 比奈久・球磨川口方面 ─ 別働第4旅団(大山巌少将)
    • 矢部浜町方面 ─ 熊本鎮台(谷干城少将)

神瀬方面[編集]

5月8日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺はそれぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4個隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かった。官軍との戦闘は5月9日に始まったが、5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1個中隊が官軍に下るという事件が起きた。これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。

万江方面[編集]

別働第2旅団(山田少将)は5月19日、人吉に通じる諸道の1つ万江越道の要衝水無・大河内の薩軍を攻撃した。これを迎え撃った薩軍の常山隊七番中隊は一旦鹿沢村に退き、5月21日に水無・大河内の官軍に反撃したが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。5月28日、今度は官軍が鹿沢村の常山隊七番中隊を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬がつきたために内山田に退き、翌日29日に大村に築塁し、守備を固めた。

大野方面[編集]

5月5日、田ノ浦に官軍が上陸。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であったため鵬翼隊四・六番中隊は材木村に見張りを置き、大野口を守備した。5月6日、官軍が材木村の鵬翼隊四番中隊を攻めたので、薩軍はこれを迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させることに成功した。しかし5月9日、官軍は再び材木村の鵬翼隊六番中隊を攻めた。激戦がおこなわれたが、薩軍は敗れてしまい、長園村に退いた。このとき淵辺が本営より干城隊八番中隊左半隊を応援に寄越したので、官軍を挟み撃ち攻撃で翻弄し、塁を取り戻した。また、5月9日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊は官軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。さらに5月9日、鵬翼隊二・五番中隊、干城隊四番中隊、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の官軍を攻めたが失敗し大野に退却した。5月16日、官軍が一ノ瀬の鵬翼隊五番中隊を攻撃した。薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参戦により官軍を退けることができた。

5月20日、別働第3旅団が久木野に進入した。大野本営にいた淵辺は干城隊番三・四・八番中隊に命令して久木野の官軍を襲撃させ、退却させることに成功した。この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。5月22日、淵辺は佐敷口の湯ノ浦に進撃することを決め、干城隊三・四番中隊、鵬翼隊六番中隊、その他2隊に進軍を命じた。またこの日、大野の本営にいた辺見は久木野に進撃することを決意し、淵辺に応援を要求した。淵辺群平は干城隊八番中隊を久木野に寄越した。そこで、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた干城隊三・四番中隊と合流し、官軍を退けた。5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の薩軍を次々と破り、大野に進入してきた。鵬翼隊五番中隊左小隊、干城隊二番中隊は防戦したが、敗れて石河内に退却した。久木野にいた干城隊八番中隊も参戦しようとしたが、大野の塁は官軍に奪われてしまった。淵辺群平は、塁を奪還するため夜襲を命じたが、官軍の反撃で退却した。この日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊の塁にも官軍が襲来した。三番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬、右小隊を植柘に分けて退いた。その後神ノ瀬方面も敗れたという報告を聞き、舞床に退いた。鵬翼隊二番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却した。

5月28日明け方、官軍が舞床の鵬翼隊三番中隊を襲った。この日は防戦に成功したが、官軍は5月29日に再び鵬翼隊三番中隊右半隊を攻撃。薩軍は塁を捨てて後退したが、鵬翼隊三番中隊左小隊の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得た。この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足のため背進した。このため舞床の薩軍は鵯越に退いた。札松方面の鵬翼隊二番中隊が人吉に退却したため、振武隊二番中隊・干城隊八番中隊は程角越の応援のために進撃し、振武隊二番中隊は程角本道の守備を開始した。鵬翼隊二番中隊も同じく程角越に進撃した。5月30日の夜明け頃、官軍が程角左翼の塁を攻撃し、薩軍は敗北した。官軍は勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番小隊を攻めた。薩軍各隊は大いに苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げた。激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になった。翌日薩軍各隊は原田村に兵を配置した。

6月1日早朝、諸道の官軍が人吉に向かって進撃した。諸方面の薩軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却した。これを知った中神村の鵬翼隊六番中隊・雷撃隊五番中隊・破竹隊一番中隊、その他2隊、鵯越の鵬翼三番中隊、戸ノ原の鵬翼隊五番中隊等の諸隊は大畑に退却した。原田村の干城隊八番中隊・振武隊二番中隊・鵬翼隊二番中隊・振武隊十六番小隊、郷之原の破竹隊四番中隊、深上の雷撃隊一番中隊、馬場村の雷撃隊二番中隊等は人吉の危機を聞き、戦いながら人吉に向かった。

人吉攻防戦[編集]

4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、5月3日から7日までの宮藤の戦い、5月10日から14日までの平瀬の戦いで、官軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させることに成功した。中村中佐は5月21日、横野方面の薩軍を襲撃し、岩野村に敗走させた。一方、尾八重を守っていた干城隊二番中隊は岩野村を守備し、5月22日、前面の官軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。

別働第2旅団は7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて、5月1日から9日までこの作戦を遂行した。まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めたが、街道は大部隊が通るには困難な地形であったために官軍は各地で薩軍に敗退した。しかし、人員・物資の不足により、薩軍は当初の勢いがなくなった。そこを突いて5月12日、別働第2旅団は球磨盆地の北部にある五家荘道等の5つの街道から南下し始めた。薩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、別働第2旅団は12日から25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。

西郷札(表)

この頃桐野は宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日に軍務所と改称した。別働第2旅団の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して安全をはかるために、5月29日、池上に随行させて狙撃隊等2,000名の護衛で西郷を宮崎の軍務所へ移動させた。5月31日に西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍の本営となり、軍票西郷札)などが作られ、財政の建て直しがはかられた。

山田少将が指揮する別働第2旅団の主力部隊は5月30日、五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃した。これと戦った薩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。また神瀬口の河野主一郎、大野口の淵辺はともに人吉にいたが、薩軍が敗績し、人吉が危機に陥ったことを聞き、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺は銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。

6月1日早朝、照岳道の山地中佐隊に続いて官軍が次々と人吉に突入した。そして村山台地に砲台を設置し、薩軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。これに対し村田新八率いる薩軍も人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。しかし薩軍の大砲は射程距離が短いためにかなわず、逆に永国寺や人吉城の城下町を焼いてしまった。この戦いは三日間続いた。薩軍本隊は大畑などで大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、官軍のさらなる南下を防ごうとしたが失敗し、堀切峠を越えて、飯野へと退却した。こうして人吉は官軍の占領するところとなった。

6月4日になると、薩軍人吉隊隊長犬童治成らが部下とともに別働第2旅団本部に降伏し、その後も本隊に残された部隊が官軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中にはのちに官軍に採用され軍務に服したものもあった。

大口方面の戦い[編集]

4月22日に雷撃隊(13個中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された辺見は日ならずして大口防衛に派遣された。これに対し官軍は5月4日、別働第3旅団の3個大隊を水俣から大口攻略のため派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。

辺見は官軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。5月5日、雷撃隊と官軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、官軍は大口に迫った。辺見は雷撃隊を中心に正義隊・干城隊・熊本隊・協同隊などの諸隊を加えて大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、官軍を撃退した。押されて官軍は深渡瀬までさがった。

久木野・山野を手に入れた辺見は5月9日、自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる鵬翼隊6個中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。また池辺率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。12日、鵬翼隊は佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た官軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第2旅団を水俣へ派遣した。

官軍は5月23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩軍を攻撃した。熊本隊は奮戦したが、支えきれずに撤退した。対して26日未明、佐々友房深野一三らが指揮する約60名の攻撃隊が矢筈岳の官軍を急襲したが、官軍の銃撃の前に後退し、熊本隊はやむなく大口へと後退した。

6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩軍本隊は大畑へ退いた。6月3日に官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始まった。官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。球磨川方面からは別働隊が攻撃した。雷撃隊はこれらを激しく邀撃したが、二面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って官軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。

6月7日に久木野が陥落し、薩軍は小河内方面に退却した。翌日、官軍はこれを追撃して小河内を占領した。6月13日、山野が陥落した。官軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。

官軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、別働第2旅団は小林攻略と大口方面での官軍支援、別働第3旅団は大口攻略後、南の川内・宮之城・栗野・横川方面を攻略するという手筈が整えられた。これにより雷撃隊は官軍の戦略的脅威の範疇から完全に外れることとなった。

6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。だが、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が別働第2旅団の手に落ちた。結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全に包囲された。

官軍は6月20日、高熊山の熊本隊と雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げられた。しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」[27]と嘆いたと言われる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。

6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが、覆水盆に返ることなく、相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へと後退していった。ここに大口方面における約2か月もの戦いに幕は下りた。

鹿児島方面の戦い[編集]

鹿児島で激突する官軍と西郷軍(「薩肥海鹿児島逆徒征討図」早川松山画、明治10年3月)

まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光元老院議官柳原前光勅使として派遣した。しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。よって勅使らは中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第1旅団(旅団長高島鞆之助)・別働第3旅団2個大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第4旅団(曾我祐準少将)・別働第5旅団(大山巌少将)1個大隊を派遣した。川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等をおこなわせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任して来、西郷に告諭書を送った。

城山・重富・紫原の戦い[編集]

城山の戦い
城山を取り囲む帝国陸軍の要塞

薩軍では、4月28日の江代の軍議の後、中島健彦を振武隊など11個中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。監軍貴島清を伴って出発した中島健彦は途中で別府晋介・桂久武らと会して5月1日に軍議を開き、別府晋介が横川に主張本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。5月5日には遅れて到着した相良を指揮長とする行進隊など10個中隊が振武隊と合流した。

薩軍は当初、山田街道から城山北方に出、背面から官軍を攻撃しようとしたが、5月3日は雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。6日には西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し、伊敷へ後退した。この頃、薩軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊15個中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

5月11日から13日にかけては、催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれ、14日から17日にかけては、官軍によって薩軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第1旅団は24日、武村を攻撃したが敗退した。29日、第4旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

5月22日、川村参軍は第4旅団1個大隊半・別働第3旅団2個中隊を右翼、別働第1旅団2個大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の健闘でさしもの薩軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。こうして官軍は重富を確保した。これに対し、23日、中島・貴島・相良は官軍に反撃し、行進隊8個中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。

5月24日、別働第1旅団と別働第3旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。逆襲した薩軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に弾薬乏しくなった薩軍は耐えきれず、吉野に退却した。この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面でおこなわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。翌25日、第4旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。26日には同旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。

官軍主力の鹿児島連絡[編集]

大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別働第3旅団は6月23日宮之城に入り川内川の対岸および下流の薩軍を攻撃した。一斉突撃を受けた薩軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。別働第3旅団の部隊は翌24日には催馬楽に至り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。

退却した薩軍は都城に集結していると予測した川村参軍は6月29日、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅団の1個大隊を残した。

都城方面の戦い[編集]

人吉方面撤退後の6月12日、村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。薩軍の配置は戦闘によって大幅に入れ替わりがあるので確定しがたいが、北からほぼ以下のようになっていた。

  • 最右翼(霧島山高千穂北麓
    • 小林・高原方面 ─ 破竹隊など
  • 右翼(霧島山・高千穂南麓)
    • 財部・庄内方面 ─ 破竹隊など
  • 中央
    • 敷根・福山・清水方面 ─ 振武隊・奇兵隊など
  • 左翼
    • 岩川・末吉・大崎・百引方面 ─ 雷撃隊・行進隊など

対して、都城に攻め入ろうとする官軍の配置は北からほぼ以下のようになっていた。

  • 左翼
    • 小林・飯野 ─ 別働第4旅団の一部・第2旅団
  • 中央
    • 庄内方面 ─ 第3旅団(国分本営)
    • 庄内・福山の中間 ─ 別働第4旅団(国分本営)
    • 福山方面 ─ 第4旅団(敷根本営)
  • 右翼
    • 岩川・末吉方面 ─ 別働第1旅団(高隈本営)

小林・高原方面[編集]

6月19日、河野主一郎は破竹隊を率いて別働第2旅団が守る飯野を21日まで猛撃して奪取をはかったが、官軍は善戦し、陥とすことは出来なかった。逆に横川から転進してきた第2旅団が7月14日、小林から高原を攻撃し高原を占領した。高原奪還を目指す薩軍は7月17日、堀与八郎を全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで奪還するところであったが、官軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。この戦い以降、官軍は警戒を強め、7月17日に堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。7月21日薩軍は再び高原を攻撃するため官軍を攻撃するが、官軍の強固な守備と援隊の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。

踊・大窪・財部方面[編集]

横川方面が官軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷いた。官軍は7月6日、国分に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から官軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。また、官軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで官軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。

7月12日、辺見は赤坂の官軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、官軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

7月17日、辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の官軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は官軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。7月19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見は7月23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

敷根・福山・岩川方面[編集]

第3旅団が7月10日、敷根・清水の両方面から永迫に進撃し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊は、官軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと官軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。7月15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、官軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

7月23日、官軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見と合流し、辺見・相良を指揮長として岩川へ進撃し、官軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は官軍を破れず、末吉へと退却した。

恒吉・百引・大崎方面[編集]

7月7日振武隊大隊長中島は国分より恒吉に到着した。このとき官軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。振武隊は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着した。ここで三方面から官軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた官軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、官軍の死傷者は95名ほどで、そのうえ大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。

一方、越山・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊も8日に市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、官軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しいものとなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は7月11日、官軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の官軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。7月12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進撃したが、荒佐野の官軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。当初、戦況は薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、官軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

官軍の都城進撃[編集]

都城への全面攻撃を始める前の7月21日、山縣参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは軍議して、以下のように進撃部署を定めた。

  • 田野口・猪子石越・庄内方面 ─ 第3旅団
  • 福山・通山方面 ─ 第4旅団
  • 市成・岩川・末吉方面 ─ 別働1一旅団
  • 正部谷・財部方面 ─ 別働第2旅団
  • 霧島山麓方面 ─ 第2旅団の一部

都城方面[編集]

別働第3旅団は7月24日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第3旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。第4旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第3旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第4旅団は都城に入ることができた。別働第1旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。

7月24日、要所である庄内方面・財部方面が官軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。これ以降、薩軍は官軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を官軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

豊後・美々津・延岡方面の戦い[編集]

豊後日向方面は、4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。

三田井・豊後・日向方面[編集]

早くも2月には官軍の軍艦「孟春」が西郷挙兵を知って横浜を出帆し細島に向かっている。3月1日夕刻には細島港に入港した。港湾内測量を行ない3月3日には、下関に向かって出港した。3月29日には、下関から軍艦「浅間」が南下し細島港に入港したが、戦闘はなかった。4月29日、細島港に再び「孟春」と「浅間」2隻の軍艦が入港し、上陸する。富高新町(細島西方)の大区事務取扱所に入り区長、副区長を尋問する。

4月30日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。これを後援するために5月4日三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1個中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3個中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。5月14日、高城率いる正義隊など6個中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第1旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。

豊後方面[編集]

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4個中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。14日には後続の4個中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第1旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4個大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。

野尻方面[編集]

破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第2旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第2旅団が翌22日に野尻を占領した。

宮崎方面[編集]

7月24日、第3旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第1旅団は末吉を攻撃し、別働第2旅団は財部を攻撃した。そしてついに第3旅団・別働第3旅団・第4旅団が都城を陥落させた。7月25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第3旅団に敗北した。この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。

  • 宮崎方面 ─ 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎
    • 常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊
  • 延岡・三田井・豊後方面 ─ 池上四郎
    • 奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞)
  • 学の木・清武方面
    • 雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊
  • 天包山・尾泊方面
    • 干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵
  • 飫肥方面
  • 佐土原方面
    • 佐土原隊
  • 高鍋方面

7月27日、別働第3旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第2旅団は7月28日、別働第2旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は7月30日、宮崎市の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。7月31日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、宮崎から撤退したため、官軍は宮崎市を占領した。次いで第2旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎市・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。これに対し官軍は、広瀬の海辺から第4旅団・第3旅団・第2旅団・別働第2旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第3旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。

米良方面[編集]

7月13日、人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。

美々津方面[編集]

8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第2旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。

延岡方面[編集]

官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第2旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000~3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた[28]

  • 友内山・無鹿山方面(2箇中隊)
  • 神楽田・和田峠(7個中隊)
    • 相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)
  • 和田峠北・小梓峠
    • 山崎定平(熊本隊)
  • 小梓峠・長尾山
    • 野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)

また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5個中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平佐藤三二が指揮する5個中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。

対する官軍(約50,000名)は山縣参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに

  • 右翼
    • 方財島方面 ─ 新撰旅団
  • 中央
    • 無鹿方面 ─ 第4旅団
    • 和田峠・堂坂方面 ─ 別働第2旅団
  • 左翼
    • 長尾山方面 ─ 第3旅団

と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には

  • 可愛岳南麓 ─ 第3旅団
  • 可愛岳西麓 ─ 第1旅団

熊田の北部には

  • 熊本鎮台・別働第1旅団2個中隊

と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。

和田越決戦地の碑

8月15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第2旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第2旅団は危機に陥った。しかし、第4旅団の左翼が進出して別働第2旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、官軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

可愛岳突囲[編集]

8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。8月16日、西郷は解軍の令を出した。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。

これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をおき、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300~500(『新編西南戦史』は約600名)であった。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

山岳部踏破と帰薩[編集]

可愛岳を突破した西郷軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後、西郷軍は19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。21日、西郷軍は三田井へ到着するが、ここで桐野は官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、22日深夜、西郷軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けていた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける西郷軍の前に失敗に終わった。これは、西郷軍の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、西郷軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた西郷軍は9月1日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

城山籠城戦[編集]

城山籠城戦
Saigo Cave at Shiroyama.JPG
西郷隆盛らが籠城した西郷洞窟(地図
戦争:西南戦争
年月日1877年9月24日
場所日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島府下
結果大日本帝国の勝利(西南戦争終結)
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国
日本の旗 東京警視本署
薩摩藩士族
指揮官
山縣有朋 西郷隆盛
桐野利秋など
戦力
約70,000人 約372人
損害
西郷・桐野を含め全滅
西郷軍最後の進軍路。
西郷自決の場所から西郷洞窟の方向を振り返る
南洲翁終焉之地の碑(地図

9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第2旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20~30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。

  • 狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警護
  • 城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
  • 岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
  • 私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
  • 県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
  • 大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
  • 上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
  • 新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
  • 夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
  • 後廻 ─ 小隊長園田武一
  • 後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助

官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。

  • 丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第2旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
  • 高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第3旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
  • 多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第4旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
  • 甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第1旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
  • 下伊敷 ─ 別働第2旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
  • 米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)

西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を告知した。

今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。

翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山縣からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。

西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。

午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・佐藤三二・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている)。

西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍した。また、特に顕彰されたわけではないが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられる。宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判にかけられたが、結局無罪判決を下されている。

政府軍の編制[編集]

官軍各旅団の指揮官ら
西南戦争時の官軍兵士の絵
  • 別働第1旅団:計4200名
    • 司令長官:大山巌陸軍少将(2月27日-)、高島鞆之助(3月28日-)
    • 参謀長:揖斐章陸軍大佐(2月25日-)、岡沢精陸軍少佐(3月14日-)
    • 参謀:西寛二郎陸軍少佐
    • 歩兵第1大隊長:沖原光孚大尉
  • 別働第4旅団:計1700名
    • 司令長官:黒川通軌陸軍大佐
熊本鎮台の指揮官及び幕僚。
前列左より福原豊功少佐、中村寺利司契、谷干城少将、樺山資紀中佐、別役成義少佐。
後列:小川又次大尉、副島仲謙軍医正、児玉源太郎少佐、林隼之助少佐、塩屋方圀大尉

西南戦争の意義[編集]

官軍と西郷軍の激突を描いた浮世絵

経済的意義[編集]

1871年廃藩置県で全国の直轄化が完成した明治政府だったが、反面、各の借金および士族への俸禄の支払い義務を受け継ぐことになり、家禄支給は歳出の30%以上となってしまった。政府は、赤字財政健全化のため、生産活動をせずに俸禄を受けている特権階級の士族の廃止を目的に四民平等を謳い、1873年徴兵令1876年秩禄処分を行った。これで士族解体の方向が決定付けられてしまったため、士族の反乱が頻発し、西南戦争に至る。

政府の西南戦争の戦費は4100万にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀行)、インフレーションが発生した。このため、のちの大蔵卿松方正義は、増税、官営企業の払い下げ、通貨整理を行って兌換紙幣発行に漕ぎ付け、通貨の信用回復により日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られた。しかし、この過程で松方デフレが発生し、農民小作化が進んで(小作農率の全国平均38%→47%)、大地主が発生した。また、小作を続けられないほど困窮した者は都市に流入し、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、都市部の貧困層が拡大した。また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、代わって私有資本による鉄道建設が進んだ(→日本の鉄道史)。

西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させた。その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差は拡大した。

政治的意義[編集]

官僚制の確立[編集]

官僚制が確立し、太平洋戦争による敗戦まで続く、内務省主導の政治体制が始まった。

軍事的意義[編集]

西南戦争は日本最後の内戦となり、士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させて終焉した。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着した。

政府軍は勝利の原因が、近代的装備、火力通信手段、指揮能力の違いにあったことを正しく把握しており、西南戦争後の軍の近代化路線では、徴兵を基盤とした常備軍を置き、装備統帥の近代化を追求する路線に変更はなかった。

一方で、兵力と火力に勝っていながら、鎮台兵は戦術的戦闘ではしばしば西郷軍の士族兵に敗北した[37]

兵士の戦意、士気の問題は政府軍にとって解決すべき課題であった。西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになった[38]

スナイドル弾薬製造装置を取り上げられても西郷軍がエンフィールド銃で戦い、巨額の戦費を費やしてこれを鎮圧せざるを得なかった事を反省して、旧式ではあっても継戦能力に優れた前装銃が各地に分散保管されている状況を危険視した政府は、西南戦争後の明治11年からこれらを回収し、まとめてスナイドル銃に改造[39]して、軍による造兵施設の独占と軍用銃の所持を厳しく規制する事で、国民の武装を封じて内乱の再発を防ごうと努めた[40]


西南戦争を題材とした作品[編集]

小説
テレビドラマ
映画

脚注[編集]

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  1. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 砲兵本支廠工兵各方面 1月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年1月8日
    「砲第五号 砲兵支廠鹿児島属廠設置之スナイトル弾薬器械其廠ヘ備附其廠ニ於テ製作可致此旨相達候事但入費之儀ハ其廠額金之内ヲ以取計 追而不足之節可申出事 十年一月八日 陸軍卿山県有朋」


    陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 1月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年1月
    「局三四号 砲兵支廠ニ於テスナイトル弾薬製作之義ニ付伺 スナイトル弾之義是迄砲兵支廠ニ於テ製造不致処第二方面内歩工兵員三分ノ二ヲ過キ同銃携帯致居候ニ付当今、鹿児島属廠制作之同弾ヲ以支廠送付致シ然ル後再ヒ各地江配賦致有之候右ハ隔他之場処運搬致候益之矢且緩急之際不都合不少候ニ付左之迄御決定御指令相成度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 十年一月八日陸軍大佐福原実二 陸軍卿山縣有朋殿伺之通 一月十日但入動廠 額金内点報 多少 通御達相成度候也 小砲兵支廠御達案 鹿児島属廠設置之スナイトル弾業器械其廠備付」


    陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 2月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年2月13日
    「参第二百六十号副 第三坤天式十壱号 至急局百二十三号 スナイトル弾製造器械砲兵支廠江御備附之義伺 一スナイトル弾製造器械一基 但一日六千発製出之分 右砲兵本廠ニ備附之分砲兵支廠江送達同廠ニ於テ右弾製作致候様仕度御達案相添此段相伺候也 十年二月十三日 第三局長代理陸軍大佐福原實 陸軍卿代理 陸軍少輔大山巖殿 伺之通相達候事 二月十三日 砲兵本廠江御達案 一スナイトル弾製造器械一基 右砲兵支廠江備附右弾製作可為致ニ付其廠在来之器械至急同廠江送達可取計此旨相達候事 砲兵支廠江御達案 一スナイトル弾製造器」
  2. ^ 陸軍省大日記「大日記 壬申 7月 府県之部庚」
    陸軍省 明治5年7月
    「候間至急御返却有之度猶及御掛合候也 壬申七月十三日 大蔵省 陸軍省御中 第七百二十三号 スナイトル銃空包 六万四百八拾発 入箱式拾壱個 但壱箱弐千八百八十宛 右陸軍省御用ニ付可差出旨於此県西郷少輔殿ヨリ致承知今般有功鑑ヘ積入差廻候間着船之上御請取相成度荷作其他本艦迄運送入費ハ当処会計掛ヨリ明細書差出候間急便御差送候被下度此段御伺申上候也 壬申六月廿六日 鹿児島県 大砲製造所 陸軍省秘史局御中 第七百二十四号 城地御伺之義ニ付申上書 陸省官員出張ヲ以御取調有之候福島城之義委詳別紙之通当四月中相伺置候」
  3. ^ その後捕縛された中原らが西郷暗殺計画を“自白”したため、興奮した私学校徒の多くは暗殺計画の実在を疑いも無く信じたが、谷口が暗殺計画と思い込んだのは「西郷を”しさつ”するために戻ってきた」との中原の言葉であり、冷静な人間であれば“視察”と聞こえる言葉を、中原に疑いを持って対していた谷口が“刺殺”と聞いたのではないか?、と後に山縣有朋は推測している。当の谷口登太は薩軍壊滅後も生き残り、逮捕・投獄された後も鹿児島で暮らし、昭和8年に没するまで西郷暗殺計画について何も語らなかったと伝えられている。
  4. ^ 西郷が発した「ちょしもたー」の言葉の意味については、西郷が決起に慎重だった、前向きだった、と考える双方の立場によって意見が分かれている部分である。決起に慎重だったとする立場からは、私学校徒の暴発を止められなかった事への率直な後悔の念をあらわした、と取られている。一方で、決起に前向きだったとする立場からは、油断を突かれて政府に武器弾薬と設備を持ち去られた事への憤懣をあらわした、と取られている。この時の西郷の心情を示す資料や証言は何も残っておらず、後世の人間には推察する事しかできない。
  5. ^ 激しい拷問を加えられた中原だったが、3月10日に海路鹿児島に入った勅使柳原前光の一行に救出されて東京に移送された。後に高知県警部長山梨県警部長福岡県警部長を務めた。
  6. ^ 『新編西南戦史』等では池上策が採られたとされているので、それに従ったが、川尻軍議で池上の主力東上・一部抑え策と篠原の全軍強襲策が対立し、後者に決していることから推せば、この時の結論はむしろ漫然とした陸路東上策であった可能性が高い。川尻に先着した別府晋介に熊本隊の池辺吉十郎が策を尋ねた時に、別府が策は無しと答えたと熊本隊の『戦袍日記』に記していることがこれを証している。
  7. ^ 決起当初の西郷軍が長崎奪取を重視したのは、当時の長崎が日本最大の国際貿易港だった事と関係がある。日本向けの貨物は上海香港から長崎へいったん送られ、そこから日本国内各港向けに振り分けられていた。旧式装備しか持っていなかった西郷軍だったが、日本陸軍といえども多くの武器・弾薬を輸入に頼っており、輸入港が押さえられてしまえば短期間で陸軍の戦力は低下する上に、長崎の豪商達から献金を誘えば、西郷軍が政府軍を圧倒できるだけの装備を入手する事も可能だった。また、1871年(明治4年)に上海との間に海底ケーブルによる電信が開通しており、日本と海外の間の電信も全て長崎を経由して送受信されていたため、長崎を抑えれば日本と海外との交通・通信を完全に掌握できた。このため、西郷軍は長崎制圧の拠点としての熊本城奪取に固執して、当初の戦争目的である関門海峡を渡って東上する好機を逸し、攻城戦と野戦に戦力を分散させて、自ら敗北するきっかけを作ってしまった。
  8. ^ 旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『新編西南戦史』、『翔ぶが如く』など、閲兵がおこなわれた練兵場を伊敷練兵場としているものが多いが、いずれも誤りである。「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」
  9. ^ 日本で最初の電信は1869年(明治2年)、築地横浜居留地間を結び、上海長崎間に海底ケーブルが敷設され諸外国との電信が開通したのは1871年(明治4年)の事であった。欧州においては普仏戦争に際してプロイセン軍が野戦電信網を構築・活用しており、その軍事的価値は広く知られていた。1874年(明治7年)佐賀の乱において既に日本陸軍・政府は電信による情報伝達を行っており、逃亡した江藤新平は自らが司法卿だった時に構築した電信による全国警察網によって逮捕されている。また同年の台湾出兵に際しても、日本陸軍は後備部隊として電信兵を伴っており、前線からの報告は逐次大阪・東京に伝えられていた。
  10. ^ 谷口四郎兵衛関川代次郎
  11. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月4日
    「砲第九十八号 カットリング弐門以下福岡エ差送ノ儀ニ付伺 南ノ関出張先福原大佐ヨリ別紙ノ通電報有之候ニ付申越ノ通可差送候哉此段相伺候也 明治十年三月四日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理陸軍少将西郷従道殿 伺ノ通 但臼砲二門榴弾百発焼弾百発木管属具共並ニカットリング砲二門弾薬六千五百発至急送達可致事 三月五日」


    陸軍省大日記 「大日記 砲兵工兵方面 5月木 陸軍省第1局」
    陸軍大佐 大築尚志 明治10年5月 陸軍省
    「陸第千百七十五号 甲第七十四号 至急砲弐百六十八号 大坂支廠ヨリ電報之儀ニ付伺 別紙之通昨夕大坂支廠ヨリ電報有之候ニ付当廠在庫品取調候処一舶用ブロートヱル属品共弐門一同弾信管共四百発一ガットリング車台属品共壱門同弾弐万発クルツプ榴弾信管共弐千発右之通有之候ニ付申越之通船便次第送方取計可申哉此段相伺候也 明治十年五月廿一日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理 陸軍少将井田譲殿 追テ猶又只今別紙乙印之通ヱンヒール火門針及ヒ換壱門之儀モ申越候是又申越之通相送可申哉此段モ添テ申進候也 伺之通 五月~」
  12. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 2月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年2月13日
    「参第二百六十号副 第三坤天式十壱号 至急局百二十三号 スナイトル弾製造器械砲兵支廠江御備附之義伺 一スナイトル弾製造器械一基 但一日六千発製出之分 右砲兵本廠ニ備附之分砲兵支廠江送達同廠ニ於テ右弾製作致候様仕度御達案相添此段相伺候也 十年二月十三日 第三局長代理陸軍大佐福原實 陸軍卿代理 陸軍少輔大山巖殿 伺之通相達候事 二月十三日 砲兵本廠江御達案 一スナイトル弾製造器械一基 右砲兵支廠江備附右弾製作可為致ニ付其廠在来之器械至急同廠江送達可取計此旨相達候事 砲兵支廠江御達案 一スナイトル弾製造器」
  13. ^ a b 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月
    「局第三百五十八号 スナイトル弾薬材料御買上之義ニ付伺 金六万三千三百三十三円九十銭 但スナイトル弾薬製造材料之内鉄座用細鉄並原導クランカン御買上費 右者スナイトル弾薬五百万発製造之義先般御達相成候所貯納弾薬追而欠乏相成候二付更ニ千八百万発製造致度候所前書之材料者砲兵本廠ニ於テ製作難相成品二付兼而欧州江候文不相成候半而ハ至急之需用ニ応シ難ク候間御買上相成候様仕度此段相伺候也 十年三月二十三日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月二十四日」
  14. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月7日
    「砲第百七号 スナイドル弾薬製造所其他建築費及ビ器械修理費御渡ノ儀ニ付伺 一金三千円 但スナイドル弾薬製造所鉛熔解所雷管製造所粉剤調合所建築費及ビ火工器械補欠並修理費 右ハ今般砲兵本廠ヨリスナイドル弾薬製造機械送達相成候ニ付テハ製造着手致度候条別書ノ金員別途御払渡相成候熔致度此段至急相伺候也 明治十年三月七日 砲兵支廠提理御用取計兼勤陸軍中佐関廻教陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺ノ通 但追テ明細書ヲ以報告可致候事 三月十四日~」
  15. ^ ツンナール銃(ドライゼ銃)は、スナイドル銃より先進的なボルトアクション式後装銃だったが、使用する弾薬が紙製薬莢であるため、スナイドル銃用の金属薬莢よりも雨や湿気に弱い点と、メンテナンスを怠るとガス漏れが発生する点が欠点と考えられていた。同時に、維新後に徴兵制とプロシア式陸軍を創設して台頭した紀州藩がツンナール銃を主装備として、自力で工廠まで建設して弾薬や付属品を大量生産していた事から、英仏陸軍を範として成長して来た薩長閥の軍人達はツンナール銃の使用を忌避し、大量の弾薬在庫がありながら1885年(明治8年)の時点で二線級装備に格下げされていた。
    陸軍軍政年報(明治八年の項より)
    「第五 砲兵事務 (明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム 「スナテトル」弾製造器械来着セリ(八年九月)此器械ヲ用ユルキハ大凡一日五万発ノ弾ヲ製造スルコトヲ得ル~和歌山属廠ハ(当)時「ツンナール」ヲ用ヒサル因ヲ閉廠~」
  16. ^ 陸軍省大日記 「大日記鎮台の部 2月木乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年2月12日
    「東四十八号 其@歩兵第二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪鎮台@携帯スナイトル致ツンナール銃与交換出征@戦地ヨリ@ニ本営へ引揚@付@引渡方@五第三千十七号大阪鎮台伺出@之通及指令候条@心得此旨相達候事 明治十一年二月十二日 陸軍卿山県有朋 東京鎮台 別紙@大九十四号」
  17. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月25日
    「砲第百三十八号 一金六万三千三百三十三円九十銭 但スナイトル弾薬製造材料座鉄用細鉄並厚薄グランカン買入代価 右スナイトル弾薬千八百万発製造可致ニ付前書ノ金員別途相渡候条於其廠欧州ヘ注文材料買入方可取計此旨相達候事 三月二十五日 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道 砲兵本廠」
  18. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月31日
    「局第三百七十四号 ツンナール銃及弾薬共砲兵支廠江送附之儀ニ付伺 一ツンナール銃 千三百三十挺 但弾薬盒帯革剣差共 一同弾薬 百九十五万七千発 右者砲兵本廠貯蔵之分砲兵支廠江送附為致候様仕度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 明治十年三月三十一日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 砲兵本廠御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発 右者其廠貯蔵之分前行之通砲兵支廠江送附可致此旨相達候事 砲兵支廠ヘ御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発」
  19. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年4月
    「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」


    陸軍省大日記 明治10年 「大日記 送達の部 5月分 送号 大阪征討陸軍事務所」
    明治10年5月 陸軍省
    「大阪鎮台号 別紙即チ辞第一号 第四百十八号 医歩兵第五大隊出征候申付之付来ル二十四日神戸出帆熊本此段候ニ付該隊候可相度ツンナール弾薬二十五至急神戸港マテ輸送之上引渡可申此鶏相達候事 明治十年五月二十一日 陸軍西郷従道 砲兵~」
  20. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月7日
    「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」


    シャスポー銃は当時の日本に存在した歩兵銃の中では最も先進的な銃であり、村田経芳はシャスポー銃を金属薬莢用に改造したグラース銃の国産化を目指し、その延長上で村田銃を開発した。
  21. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 4月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年4月
    「至急 参第七百九号控 第三伸天八拾弐号 局第参百八拾壱号 スナイドル弾製造器械御借受之儀ハ付伺 スナイドル弾製造器械海軍省ヨリ御借請相成度同省江御掛合案並砲兵本廠江御達案相添此段相同候也 第三局長代理 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 伺之通 四月三日 海軍省江御掛合案 過日御談有之候スナイドル弾製造器械之義ニ付主任之者為一覧差出候処兎ニ角御借請致度旨申出候就而砲兵本廠ヨリ請取之者差出候ハハ右器械御引渡相成度此段及御掛合候也 砲兵本廠江御達案 スナイドル弾製造器械別表之@海軍省ヨリ」
  22. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 6月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年6月
    「局五百八十四号参千九十一号スナイドル弾薬空筒五百万発御買上之儀伺 一洋銀七万弗但スナイドル弾薬空筒五百万発御買上費右者欧州注文至急御買上相成度砲兵本廠ヘ御達案相渡此段相伺候也 第三局長代理陸軍少佐水持明徳 明治十年六月六日 陸軍卿代理陸軍少将井田譲殿 御達案ハ砲三百十壱号也 伺之通 六月八日」
  23. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 諸省来書 7月月 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年6月3日
    「月五百〇九号壱第千八十九号 長崎居留英商ギリブル方江三百万発之スナイドル早合二ヶ月内到着之筈於我政府約定相成候趣別紙写之通在上海品川領事ヨリ申越候処右は於貴省御約条相成候品ニ候哉貴省ニおゐて御約定ニ候ハハ二ヶ月内ハ何月幾日より之事ニ候哉為心得承知致度此段及御問合候至急御廻答有之度候也 十年六月三日 大隈大蔵卿 井田陸軍少将殿 別紙 清国軍様所より借入之スナイトル弾薬十万発 返弁方之儀ニ付而ハ本月十四日附を以再応之御上申候ニ付最早委曲御承知之事と被存候然る処今般我政府より長崎居留英商ギリブル方江三百」
  24. ^ このことは、NHKの『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
  25. ^ 『薩南血涙史』
  26. ^ 『薩南血涙史』に依る
  27. ^ 『西南記伝』辺見十郎太伝
  28. ^ 『大西郷突囲戦史』に依る
  29. ^ 川口武定『従西日記』下巻 青潮社、1988年、p528
  30. ^ 塩谷七重郎『錦絵で見る西南戦争』歴史春秋出版、1991年、p374
  31. ^ 塩谷七重郎『錦絵で見る西南戦争』歴史春秋出版、1991年、p305
  32. ^ 高田吉岳大尉のことなど 案野照彦 佐伯史談 No.135 (1984. 02) ,p.59-59
  33. ^ 塩谷七重郎『錦絵で見る西南戦争』歴史春秋出版、1991年、p284
  34. ^ 歩兵第十五聯隊史 第四章 西南戰爭と吾が第一大隊(帝国聯隊史刊行会 編(帝国聯隊史刊行会[ほか], 1917)
  35. ^ 6月5日 中尉富田春壁5月30病気入舎6月2出勤御届外 石本少佐
  36. ^ 塩谷七重郎『錦絵で見る西南戦争』歴史春秋出版、1991年、p371
  37. ^ 薩摩士族兵達の苛烈な白刃突撃や白兵戦を見て、日本軍は白兵戦を重視するに至ったとの意見もあるが、これ以降も上述の通り、明治陸軍は諸外国と同様に火力優勢(銃砲火力の優劣が勝敗を決する)を採用している。西郷軍の白兵戦が強かったのは、地の利が西郷軍にあったことと、幼い頃より刀剣に慣れ親しんでいた士族と、訓練されたとはいえ数年程度の徴集兵では錬度に雲泥の差があったからである。日本軍が白兵戦を重視し始めたのは、第一次世界大戦の研究を通じて採用された浸透戦術によって、白兵戦闘が多発すると予見されてからである。実際に浸透戦術が大規模に実施され、各所で苛烈な近距離戦闘が発生した第二次上海事変での日本兵の主な武器は手榴弾擲弾筒であり、ノモンハン事件ソ連軍の8月攻勢時のソ連兵達の方が銃剣による伝統的白兵戦を挑んだ事で有名である。
  38. ^ 翌年に発生した竹橋事件を受けて、徴兵により集められた兵士達への精神教育が重視され、軍人訓誡(後に軍人勅諭)が出されるが、自由民権運動への警戒も相まって共和制フランス陸軍から君主制ドイツ陸軍へと、日本陸軍の導入モデルが変化した。
  39. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記参謀監軍内外各局 12月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年12月
    「参第二千八百九十九号 スナイドル銃一萬挺改造之儀ニ付伺 スナイドル銃 一萬挺 此入費概算金三萬三千円 右先般同銃壱萬挺改造御達相成直ニ着手現今火造リ方大砲成功相成候処該銃予備来タ充分ニ無之且工廠之内平閑之場所出来候ニ付当前書之通改造相成度御達案添此段相伺候也 局九百九十六号 第三局長代理 明治十一年十二月十六日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿山縣有朋殿 追而該入費者小銃並ニ弾薬製造費十八万円余之内ヨリ御払出相成度此段申添候也 砲兵本廠ヘ達案 スナイドル銃 一萬挺 右在来エンヒール銃ヲ以改造可取計此旨御達
  40. ^ 1884年(明治17年)の秩父事件で蜂起した農民達は、火縄銃と手投げ弾で武装していた。

参考文献[編集]

  • 川口武定『従征日記』、明治十一年初版(青潮社、復刻1988年(昭和63年))
  • 海軍省編『西南征討志』、明治十八年初版(青潮社、復刻1987年(昭和62年))
  • 参謀本部陸軍部編『征西戦記稿』、明治二十年初版(青潮社全4巻、復刻1987年(昭和62年))
  • 佐々友房『戦袍日記』、明治二十四年初版(青潮社、復刻1987年(昭和62年))
  • 川崎三郎『西南戦史』、博文堂、明治三十三年初版(大和学芸社、増訂復刻版1977年
  • 出石猷彦「熊本籠城の実況」(日本史籍協会編『維新史料編纂会講演速記録』、続日本史籍協会叢書、明治四十四~大正六年、東京大学出版会、復刻1977年(昭和52年))
  • 日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、1911年(明治44年)
  • 加治木常樹『薩南血涙史』、大正元年初版(青潮社、復刻1988年(昭和63年))
  • 香春建一『大西郷突囲戦史』、改造社、1937年(昭和12年)
  • 圭室諦成『西南戦争』、至文堂「日本歴史新書」、1958年(昭和33年)
  • 大久保利謙等編『鹿児島県史』、鹿児島県、1941年(昭和16年)、のち復刻版
  • 『鹿児島県史料. 西南戦争』 第1-4巻、鹿児島県歴史資料センター黎明館19782000年
  • 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、1977年(昭和52年)
  • 古閑俊雄『戦袍日記』、青潮社、1986年(昭和61年)
  • 中島典五ほか『西南戦争資料集』高野和人編、青潮社、1996年(平成8年)
  • 山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(『敬天愛人』第十号特別号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「西南戦争年譜」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、1999年(平成11年)
  • 塩満郁夫「鹿児島籠城記」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、1999年(平成11年)
  • 吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会、2004年(平成16年)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会、2004年(平成16年)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」『敬天愛人』第二十一号、西郷南洲顕彰会、2005年(平成17年)
  • 安藤経俊『一神官の西南戦争従軍記 熊本隊士安藤経俊「戦争概畧晴雨日誌」』
甲斐利雄編纂/猪飼隆明監修・解題、熊本出版文化会館、2007年(平成19年)

雑誌[編集]

西南戦争を記録する会編『西南戦争之記録』第1~5号。現在も刊行中。

文献目録[編集]

※基礎的な史料・公文書・文献の目録

  • 菖蒲和弘 編『西南の役文献目録 -調査研究の歩みとその成果:明治10年~平成20年3月』
    • 熊本・私家版、現在も改訂版を刊行中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役研究文献目録 -調査研究の歩みとその成果:国内発行書籍・雑誌記事索引-』
    • 熊本・私家版、現在も改訂版を刊行中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役公文書目録 -全国公文書所在確認調査報告書-』
    • 熊本・私家版、現在も調査中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役・屯田兵出征公文書目録 -全国公文書所在確認調査報告書-』
    • A4判、35p、平成19年11月、熊本・私家版、現在も調査中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役関係法令索引 -布告・布達・達・その他-』
    • A4判、20p、平成19年11月、熊本・私家版

関連項目[編集]

外部リンク[編集]