集成館事業

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1872年頃の磯地区。集成館事業に関連する建物が多く見える

集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)は、薩摩藩第28代当主島津斉彬によって起こされたアジア初の近代的西洋式工場群をさす。

概要[編集]

時代背景[編集]

島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840年 - 1842年)などでイギリスフランスなどのヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていた事が挙げられる。

アヘン戦争については、魏源が著した『海国図志』(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して半植民地化されていった事に、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。

そのアヘン戦争前後から、当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船がたびたび来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。島津斉彬が藩主に就任する1851年には、しきりに異国船が琉球に来航するようになっていた。

藩政改革とお由羅騒動[編集]

そうした時代状況の中で、藩主就任前の島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していたが、藩内では資金が掛かり過ぎることが問題視され、財政再建論と富国強兵論で藩論が二分される状況となって、藩主交替の際のお家騒動(お由羅騒動)に発展した。

斉彬の藩主就任と集成館次行[編集]

このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。

特に製鉄造船紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。

1858年に斉彬が亡くなった後、島津斉興をはじめとする保守派の復権などから集成館事業は一時縮小され、1863年の薩英戦争で焼失したが、その後急接近したイギリスの協力のもと再興され、集成館機械工場(現尚古集成館)や日本初の紡績工場である鹿児島紡績所などの洋式紡績工場が建設され、日本国の近代化に貢献した。

主な事業[編集]

  • 雲行丸(日本初となる蒸気船)の建造

産業遺産[編集]

鹿児島市内における3資産の配置図

集成館事業のうち、製鉄・造船に関わる機械工場、反射炉跡など3資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されている。

関連項目[編集]