端島 (長崎県)
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端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れ現在は無人島である。その外観から軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。
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[編集] 地理
長崎港から南西の海上約17.5キロメートル[1]、旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島からは、南南西に約2.5キロメートルの位置にある。長崎半島との距離は約4.5キロメートルで、1955年以前は長崎半島の高浜村に属していた。端島と高島の間には「中ノ島」という小さな無人島があり、端島の住民が使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。
端島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった[2](当時の瀬の大きさは南北約320メートル、東西約120メートル[3])。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である[3][4]。その大きさは南北に約480メートル[3][4]、東西に約160メートル[3][4]で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール[5]、海岸線の全長は約1200メートル[6]。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
[編集] 歴史
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[7]。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされ(発見者は不明)[8][9][10]、これは日本における石炭の発見(三池では15世紀頃)や隣の高島でのそれ(1700年頃)よりもだいぶ遅い[8](この頃には既に高島炭鉱から相当な量の石炭が産出され[11]、燃料として使用されていた)。しかし『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(埋め立てにより現在は高島の一部となっている)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[12]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[12]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[12][7]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[7]。
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[8]。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた[13]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[13]。
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[14]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[15]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)[15]までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[16]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[16][9]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし「軍艦島」とはあくまで外部からの呼び名であり、島民は専ら「端島」と呼んでいた。また、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートはまだ少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。
戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだという逸話があるが、実際は停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を狙って撃沈したもの(1945年6月11日)であった[17]。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[18]。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[19]。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年(昭和40年)に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた[20]。
[編集] 行政区域の変遷
江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していた[7][21]。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、安永2年(1773年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていない[12]。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となる。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入された。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、現在は長崎市高島町端島となっている。
[編集] 島内の建築物
端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである[22](ただし1916年の竣工時は4階建て)。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず[23](1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であった[24]が、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)に建てられた。正式名称は『肥前端島灯台』。現在の灯台は、1998年に強化プラスチック製で建て替えられた2代目である。
[編集] 建造物(住宅等)の一覧
「建設年代」は、大正時代を赤、昭和(戦前・戦中)を緑、昭和(戦後)を青で色分けしている。「構造・階数」の背景色は木造を赤、鉄筋コンクリート造(RC造)を青、その他を緑とし、「建物用途」は上記の図に同じ。
| 建物名 | 建設年代 | 構造・階数 | 建物用途 | 住居戸数・増築歴・内部の公共施設・倒壊の有無 |
|---|---|---|---|---|
| 1号棟 | 1936年(昭和11年) | RC+木造1F | 端島神社 | 拝殿は木造(全壊)、本殿と境内はRC造(現存) |
| 2号棟 | 1950年(昭和25年) | RC造3F | 職員社宅 | 9戸 |
| 3号棟 | 1959年(昭和34年) | RC造4F | 職員社宅 | 20戸。内風呂あり(集合住宅では3号棟のみ) |
| 5号棟 | 1950年(昭和25年) | 木造2F | 鉱長社宅 | 1戸。内風呂あり。ほぼ全壊 |
| 6号棟 | 1936年(昭和11年) | 木造2F | 職員合宿 | 全壊 |
| 7号棟 | 1953年(昭和28年) | 木造2F | 職員クラブハウス | ほぼ全壊 |
| 8号棟 | 1919年(大正8年) | RC+木造3F | 職員社宅 | 4戸。1階に共同浴場 |
| 12号棟 | 1925年(大正14年)以前 | 木造+鉄筋3F | 職員社宅 | 3戸。半壊 |
| 13号棟 | 1967年(昭和42年) | RC造4F | 町営住宅(教職員用) | 12戸 |
| 14号棟 | 1941年(昭和16年) | RC造5F | 職員社宅(中央社宅) | 15戸 |
| 16号棟 | 1918年(大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅(日給社宅) | 66戸。1階に外勤詰所 |
| 17号棟 | 1918年(大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅(日給社宅) | 54戸。屋上に簡易遊園地 |
| 18号棟 | 1918年(大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅(日給社宅) | 50戸。屋上に農園 |
| 19号棟 | 1918年(大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅(日給社宅) | 45戸。屋上に弓道場 |
| 20号棟 | 1918年(大正7年) | RC造7F | 鉱員社宅(日給社宅) | 26戸 |
| 21号棟 | 1954年(昭和29年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 15戸。内部に警察派出所 |
| 22号棟 | 1953年(昭和28年) | RC造5F | 町営住宅(公務員用) | 12戸。1階に町役場端島支所 |
| 23号棟 | 1921年(大正10年) | 木造2F | 寺院(泉福寺) | 6戸。1階は社宅、2階が泉福寺。ほぼ全壊 |
| 25号棟 | 1931年(昭和6年) | RC造5F | 職員社宅 | 6戸。2階に宿泊所。スナック「白水苑」・旅館「清風荘」も |
| 26号棟 | 1966年(昭和41年) | プレハブ2F | 下請作業員飯場(旧船頭小屋) | 8戸。全壊 |
| 30号棟 | 1916年(大正5年) | RC造7F | 下請飯場(旧鉱員社宅) | 140戸。竣工時は4階建て(その後まもなく7階建てに増築)。日本最古のRC造アパート |
| 31号棟 | 1957年(昭和32年) | RC造6F | 鉱員社宅 | 51戸。1階に端島郵便局、地下に共同浴場。2階部分をボタ捨てベルトコンベアが貫通 |
| 39号棟 | 1964年(昭和39年) | RC造3F | 町立端島公民館 | |
| 48号棟 | 1955年(昭和30年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 20戸。地下にパチンコ屋・雀荘など |
| 50号棟 | 1927年(昭和2年) | 鉄骨レンガ造2F | 映画館(昭和館) | 閉山までの数年間は卓球場。1991年の台風によりほぼ全壊 |
| 51号棟 | 1961年(昭和36年) | RC造8F | 鉱員社宅 | 40戸。地階に個人商店 |
| 56号棟 | 1939年(昭和14年) | RC造3F | 職員社宅 | 6戸 |
| 57号棟 | 1939年(昭和14年) | RC造4F | 鉱員社宅 | 8戸。地下にピロティ商店 |
| 59号棟 | 1953年(昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(60号棟地下と連結) |
| 60号棟 | 1953年(昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(59号棟地下と連結) |
| 61号棟 | 1953年(昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に共同浴場 |
| 65号棟 | 1945年(昭和20年) | RC造9F | 鉱員社宅 | 317戸。竣工時は北側の棟のみ、7F建て(1947年から1958年にかけて増築)。屋上に幼稚園。端島で最大のアパート |
| 66号棟 | 1940年(昭和15年) | RC造4F | 鉱員合宿(啓明寮) | |
| 67号棟 | 1950年(昭和25年) | RC造4F | 鉱員合宿 | 48戸 |
| 68号棟 | 1958年(昭和33年) | RC造2F | 高島鉱業所端島病院(隔離病棟) | |
| 69号棟 | 1958年(昭和33年) | RC造4F | 高島鉱業所端島病院 | |
| 70号棟 | 1958年(昭和33年) | RC造7F | 町立端島小中学校 | 1961年に7階部分を増築(鉄骨) |
| 71号棟 | 1970年(昭和45年) | RC造2F | 町立端島小中学校体育館 | 1階が武道場・給食室、2階が体育館 |
| ちどり荘 | 1958年(昭和33年)以降 | 木造2F[25] | 教員用住宅 | 6戸。RC造2Fとする資料も[26] |
[編集] 30号棟
30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである[27][28](日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である[29]。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している[29]。その周囲に巴形に住居が配置されている[29]。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり[29]、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸[29]、総床面積は3808.0平方メートル[29]。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ[29]。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている[29]。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある[29]。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している[30]。
[編集] 日給社宅
日給社宅とは、1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)[31]。30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)[32]。
[編集] 65号棟
65号棟は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められた鉄筋コンクリート造の鉱員社宅。コの字型をしており、まず1945年に北側の7階建て『報国寮』が完成[33]。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している[33]。最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)[29]となり、端島で最大のアパートである[34]。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたキャンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている[34]。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が[33]、地下1階には理容室がある[29]。
1958年に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた[35]。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。
[編集] その他の建築物
[編集] 現状
近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る[36]。現在は無人化により建物の崩壊が進んでいる[37]。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年、高島町(当時)に無償譲渡され[38][39]、現在は長崎市の所有である。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された[40][41]。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決できたため、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。解禁後の1ヶ月では合計4601人の観光客が端島に上陸している[42]。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる[42]。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり[43]、2009年1月に記載された。
[編集] 交通アクセス
かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、やまさ海運により長崎港から島への上陸ツアーや、周囲を巡る遊覧船が運航されている。
上陸が禁止されていた頃も上陸を試みる無法者は多く[39][44]、その場合は海上タクシーが利用されていた。
[編集] 端島を舞台とした作品など
- 映画
- ドラマ
- 小説
- ゲーム
-
- 『SIREN2』(2006年、ソニー・コンピュータエンタテインメント) - 物語の舞台は、この島をモデルとした『夜見島』[52]。
- その他
[編集] その他
- 端島出身の人物として、歌手・作曲家の岡崎律子がいる。
- やまさ海運が「軍艦島クルーズ」を、株式会社共同が「軍艦島クルージング」をそれぞれ商標として登録している。(ただし後者は2009年1月に軍艦島クルージングの運航を休業している)
[編集] 脚注
- ^ 『軍艦島の遺産』13頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』33-34頁。
- ^ a b c d 『軍艦島の遺産』38頁。
- ^ a b c 『軍艦島の遺産』158頁。
- ^ 「注目浴びる日本一小さな町 艦船に間違えられ「軍艦島」に」『月刊地域づくり』2001年4月号。
- ^ 「長崎の軍艦島35年ぶり上陸解禁 元島民ら70人訪問」熊本日日新聞、2009年4月22日。
- ^ a b c d 平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系43 長崎県の地名』 平凡社、2001年、ISBN 9784582490435、250-251頁。
- ^ a b c 『軍艦島の遺産』34頁。
- ^ a b 『軍艦島実測調査資料集 追補版』625頁。
- ^ 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、1984年、700-701頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』30頁。
- ^ a b c d 三和町 『三和町郷土史』 三和町、1986年、250-257頁。
- ^ a b 『軍艦島の遺産』34-35頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』35頁。
- ^ a b 『軍艦島の遺産』36頁。
- ^ a b 『軍艦島の遺産』40-42頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』52-55頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』51頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』61-62頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』172頁。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 『角川日本地名大辞典42 長崎県』 角川書店、1987年、ISBN 9784040014203、769-770頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』184頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』188頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』106-107頁。
- ^ 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 669頁。
- ^ 『軍艦島 : 住み方の記憶』 7頁。
- ^ 鈴木博之 『近代建築史』 市ヶ谷出版社、2008年、ISBN 9784870711471、153頁。
- ^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 44頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『軍艦島実測調査資料集 追補版』
- ^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 44頁。
- ^ 『軍艦島 : 住み方の記憶』 17頁。
- ^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 46頁。
- ^ a b c 『軍艦島 : 住み方の記憶』 5頁。
- ^ a b 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 47頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』94頁。
- ^ 「[アングル]軍艦島再び脚光 炭鉱遺産-廃虚ブーム」『読売新聞西部本社版』2002年9月27日付夕刊、3面。
- ^ 長崎沖の軍艦島、35年ぶり上陸解禁 元島民ら一歩 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年4月23日付
- ^ 「“軍艦島”町に譲渡 長崎・高島 観光活用へ」『読売新聞西部本社版』2002年11月23日付朝刊、34面。
- ^ a b 「炭鉱跡、産業遺産で再出発 長崎・高島町が『軍艦島』取得」『朝日新聞西部本社版』2001年11月26日付朝刊、31面。
- ^ 「軍艦島の姿、2005年夏 長崎市の無人島・端島」『朝日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。
- ^ 「軍艦島:公開 炭鉱閉山、無人31年-長崎」『毎日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。
- ^ a b 軍艦島 上陸解禁から1か月、来島者の9割「満足」 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年5月24日付
- ^ 「九州・山口の近代化産業遺産群が世界遺産暫定リスト入り 軍艦島など本県4カ所」長崎新聞、2008年9月27日。
- ^ 『軍艦島の遺産』81頁。
- ^ 『軍艦島の遺産』58頁。
- ^ 「純」MovieWalker全映画作品データベース。
- ^ 「内田裕也の都知事選映画『魚からダイオキシン!』 グローバルに自画像を描く」『毎日新聞東京本社版』1991年11月26日付夕刊、9面。
- ^ a b 「心も失ってきたのか」西日本新聞、2001年12月。
- ^ 「哀愁の軍艦島 かつての炭鉱、TVドラマ舞台に(報!)」『朝日新聞西部本社版』2001年3月8日付夕刊、1面。
- ^ a b 酒井竜次監修・編 『ニッポンの廃墟』 インディヴィジョン、2007年、212頁。
- ^ 九州物語委員会「九州物語 小説」国土交通省九州運輸局、2008年。
- ^ ソニー・コンピュータエンタテインメント監修 『サイレン2 オフィシャルアートブック』 イースト・プレス、2006年。
- ^ 公共広告機構「1981年度作品」
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』 長崎新聞社、2005年、ISBN 9784931493537
- 阿久井喜孝・滋賀秀實 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 東京電機大学出版局、2005年、ISBN 9784501620707
- 阿久井喜孝 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 岩波書店、1995年、ISBN 9784000084956
- 軍艦島を世界遺産にする会 『軍艦島 : 住み方の記憶』 軍艦島を世界遺産にする会、2008年、ISBN 9784990452407
[編集] 外部リンク
- 軍艦島オデッセイ - 端島の歴史、建築物、施設配置図、建物の個別データベース、軍艦島百景等。
- やまさ海運 - 軍艦島クルーズ案内
- 軍艦島を世界遺産にする会 - NPO軍艦島を世界遺産にする会
- 軍艦島特集 / 西日本新聞 - 西日本新聞社
- Towards a virtually accessible Gukanjima(英語)
- 軍艦島 Ver 3.0 - FLASHによる長崎県端島の紹介。
- インダストリア - PN.神村小雪さん(軍艦島出身女性)のサイト。
- 7人の侍、長崎へ行く。(後編)
- 高島町-軍艦島 - 北海道の廃墟フォトサイト「廃墟マップ」

