内閣総理大臣

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日本の旗 日本
内閣総理大臣
Emblem of the Prime Minister of Japan.svg
内閣総理大臣章
現職者:
安倍晋三
(第96代)
就任日:2012年平成24年)12月26日
担当官庁 内閣
内閣官房
内閣府
任命者 今上天皇
天皇
職務代行者 麻生太郎
副総理
初代 伊藤博文
創設 1885年明治18年)12月22日
公式サイト 首相官邸ホームページ
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内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)は、日本行政府である内閣の首長であり特別職国家公務員である(憲法第66条1項)。国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて天皇によって任命される(憲法第6条)。

総理大臣または総理と略され、内閣の首長(首班、首席)たる大臣(相)として首相とも通称される。

地位[編集]

内閣総理大臣は「行政権の属する内閣(行政府)の首長」と位置付けられている(憲法第66条1項)。一方、日本国憲法には元首に関する規定がなく、日本国における元首の位置付けについては議論がある。

指名と任命[編集]

内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決(首班指名)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。

  1. 国会議員
    内閣総理大臣は、国会議員の中から指名する(憲法第67条1項)。憲法は議院内閣制を採用しており、通常、内閣総理大臣は衆議院において最大勢力を占める政党党首、又は連立を組む複数の党のいずれかの党首が任ぜられる。首班指名時における内閣総理大臣の要件を「国会議員」と規定しているが、憲法施行後に就任した内閣総理大臣は全て衆議院議員から選出されている。法律上明記はされていないが、国会議員であることは選任要件であると同時に在職要件でもあるとされる[1]
  2. 文民
    内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない(憲法66条2項)。

天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。

任期[編集]

憲法上、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているので、このことから内閣総理大臣の一回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われる時までとなり最長でも4年を超えないことになる[2]憲法第70条)。もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではないので、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。

ただ、通常、内閣総理大臣は何らかの政党の党首であり、その党首職には民主的な観点から任期が設けられているのが通例であることから、これが内閣総理大臣の在任期間の一つの区切りとなっている。また、内閣総理大臣には定年も存在しないが、その所属する政党に国会議員の定年制が設けられている場合にはこれが事実上の制限になる。

退任と代理[編集]

退任
「衆議院で内閣不信任決議案を可決し、又は内閣信任決議案を否決した場合、10日以内に衆議院を解散[3]しないとき」(憲法69条)、また、「内閣総理大臣が欠けたとき」あるいは「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があった時」(憲法70条)は首相退任(内閣総辞職)をしなければならない。それ以外でも任意に首相退任(内閣総辞職)ができる。
代理
「内閣総理大臣に事故のあるとき」「内閣総理大臣が欠けたとき」はあらかじめ指定する国務大臣が、内閣総理大臣臨時代理として職務を行う(内閣法第9条)。

所管[編集]

内閣総理大臣は以下の機関を所管し内閣法にいう主任の大臣を務める。

各府省等のほか、特定の法律に基づいて内閣に設置される「本部」等にも、「主任の大臣」が置かれることがあるが、この場合の「主任の大臣」には、いずれも内閣総理大臣があてられる。主任の大臣#本部等を参照。

権限[編集]

内閣総理大臣と政府紋章である「五七の桐花紋

日本国憲法及びその他の法令が規定する内閣総理大臣の主な権限は次の通り。

憲法・内閣法等[編集]

この国務大臣の任免権は内閣総理大臣の専権事項とされ臨時代理は任免権を持たない[4][5]
  • 在任中の国務大臣に対する訴追に同意すること(憲法75条)。
  • 内閣を代表して議案を国会に提出すること(憲法72条)。
  • 内閣を代表して一般国務及び外交関係について、国会に報告すること(憲法72条)。
  • 内閣を代表して行政各部を指揮監督すること(憲法72条)。
  • 法律及び政令への連署をすること(憲法74条、権限であると同時に義務でもある)。
  • 閣議を主宰すること(内閣法4条2項)。
  • 閣議において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議すること(内閣法4条2項)。
  • 内閣総理大臣及び主任の国務大臣の代理を指定すること(内閣法9条10条)。
  • 行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つこと(内閣法8条、「中止権」)。
  • 皇室会議の議長として、これを招集すること(皇室典範29条、33条)。
  • 裁判所による行政処分等の停止に対して異議を申し述べる事(行政事件訴訟法27条)。

警察法・自衛隊法等[編集]

  • 大規模な災害又は騒乱等の緊急事態に際して緊急事態の布告を発し(警察法71条)、一時的に警察を統制すること(72条)。
  • 内閣を代表し、自衛隊最高指揮監督権を有する(自衛隊法7条)。
  • 武力攻撃事態に際して、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法76条、「防衛出動」)。
  • 間接侵略又はその他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持が不可能な場合に、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法78条、「命令による治安出動」)。
  • 防衛出動又は治安出動による自衛隊に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、海上保安庁をその統制下に入れること(自衛隊法80条)。
  • 武力攻撃事態等に際して内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長として、関係する行政機関、地方自治体、指定公共機関が実施する対処措置に関する総合調整を行うこと(武力攻撃事態平和確保法14条)。
  • 武力攻撃から国民の生命、身体又は財産を保護するため緊急の必要があると認める場合に、警報を発令すること(国民保護法44条)。
  • 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、閣議にかけて、災害緊急事態の布告を発すること(災害対策基本法105条)。
  • 防衛大臣に対する海賊対処行動の承認と国会への報告(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律7条)。
  • 気象庁長官から地震予知情報の報告を受けた場合において、地震防災応急対策を実施する緊急の必要があると認めるときは、閣議にかけて、地震災害に関する警戒宣言を発すること(大規模地震対策特別措置法9条)。
  • 新型インフルエンザ[6]が国内で発生し、その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるものとして政令で定める要件に該当する事態が発生したと認めるときは、新型インフルエンザ等緊急事態宣言を発すること並びにその旨及び当該事項を国会に報告すること(新型インフルエンザ等対策特別措置法32条)。

その他の法律[編集]

このほか、内閣府及びその外局金融庁消費者庁など)や内閣に置かれる本部等の主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局の一つである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法貸金業法金融商品取引法など)。

1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。

変遷[編集]

明治維新後[編集]

初代内閣総理大臣
伊藤博文

明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度によって行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣左大臣右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省のには輔弼責任が無く、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。

1880年(明治13年)頃から参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった(明治十四年の政変による大隈重信追放は、岩倉具視が宮中を動かして進められたために、伊藤博文も岩倉具視との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤博文は一旦この提案を引き下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツオーストリアイギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。

これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文を充てるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ(立法議政府、行政宰相府)恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットして近代内閣制度を突き付けられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。

内閣制定[編集]

1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。

大日本帝国憲法[編集]

旧憲法制定後初の内閣総理大臣
山縣有朋

1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。

権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置付けられた。したがって、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の任免権が無く大臣を罷免することは出来ず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として東條内閣の総辞職原因は、商工大臣岸信介が辞職を拒否したことによるものであり、また第2次近衛内閣は、外務大臣松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。 また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。

地位としては、皇室儀制令においての宮中席次大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置付けられていた。

任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期~昭和初期までは、元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期~昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰に伴い、昭和初期~終戦までは、「重臣会議」の奏薦によって任命されている。

日本国憲法[編集]

新憲法制定後初の内閣総理大臣
片山哲

1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法が公布され、同第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と明記され、初めて憲法に明記され規定された。これに伴い、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限は大幅に強化された。これらの改革は、旧憲法下における内閣総理大臣の権限が弱かったために軍部の独走を許したことへの対策、一人の人臣が天皇の権力を凌ぐことへの批判を顧慮する必要がなくなったためなどと解釈される。

日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免した上で、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果は極めて大きい。

歴代内閣総理大臣の花押(初代から第44代まで)。閣議で作成される文書には、署名の代わりに花押が用いられる。

呼称[編集]

内閣制度発足当時から内閣総理大臣のことは一般に「首相」と呼ばれた。内閣制度創設を前に「Prime Minister」の訳語をどうするかが問題となったが、伊藤や側近の伊東巳代治、金子堅太郎などは日記や備忘録などに「首相」「宰相」という語を用いていた。しかし保守派太政大臣三條實美を納得させるためには、日本の指導者の呼称は大化の改新から連綿と続く「○○大臣」である必要があった。

「首相」と略式で表記されることも多いが、「首相」は日本の法令上の語ではないため、公文書等では使用されないが、総理大臣官邸のホームページではタイトルのみ「首相官邸」となっている。また公式の英語表記は「Prime Minister of Japan」、他国の首相と区別する必要がない場合は単に「Prime Minister」としている。

新聞においては、内閣総理大臣を「首相」と略して表記することが多い。全国紙5紙では読売新聞朝日新聞毎日新聞日本経済新聞産経新聞の5紙全てで「首相」との表記が日常的に使用されている。ブロック紙3紙も、北海道新聞中日新聞東京新聞北陸中日新聞日刊県民福井含む)、西日本新聞の3紙全てで、「首相」との表記が全国紙同様に使用されている。内閣総理大臣の6文字より首相の2文字を用いた方が、より伝えるべき多くの記事を載せるスペースが確保できるためである。

テレビのニュース番組のテロップは、各社ごとに表記が異なる。在京キー局においては、NHK日本テレビTBSフジテレビでは「首相」と表記し、テレビ朝日テレビ東京では「総理」または「総理大臣」と表記している。新聞のラテ欄の表記もそのようになっている。

政党では日本共産党が、機関紙しんぶん赤旗のみならず、国会質問・演説等でも「首相」を用いる傾向が強い。個人差はみられるが、他の国務大臣についても、「法相」「外相」など略称を優先して用いる傾向がある。これは天皇制への問題意識から、「大臣」という呼称に抵抗があるためとみられる(ただし、「相」も漢文由来の表現で、もともとは君主の重臣のこと。「丞相」「相国」など)。

逸話など[編集]

三條實美の処遇[編集]

内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は英語力だったのである。

伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、実際は2階に上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良元老院議官)は、三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている[7]。また、明治天皇もさすがこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職すると、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を臨時兼任させた。これは臨時「代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2ヵ月も経ってからのことだったので、この2ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただし、三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことが慣例となっている。

選挙[編集]

現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することが殆どであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。

内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年)は小選挙区で落選し、比例復活当選をしている。細川護熙(2014年)は政界引退後に東京都知事選挙に立候補し、落選した。

学歴[編集]

歴代の内閣総理大臣には東京帝国大学及び後身の東京大学出身の者が多いが、1950年の新制大学移行後の東京大学出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また、新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである。田中角栄は旧制専門学校中央工学校卒業である。また、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はソルボンヌ大学留学した西園寺公望。

年齢[編集]

内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験等が重視されることが多く、1年生議員が就任する確率は極めて少ない(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。

日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3ヶ月。

栄典[編集]

内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階従一位正二位又は従二位勲等勲章大勲位菊花章頸飾大勲位菊花大綬章又は桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9ヶ月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、辞退・不祥事等により見送られることがある(例:田中角栄・宮沢喜一)。

格言[編集]

内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる
佐藤栄作の言葉。内閣改造をしようとすると、他派閥の肘鉄や大臣病など多くの国会議員が総理に群がるために対応が難しくなって総理の権力が下がる。一方で衆議院解散をすると多くの衆議院議員が自分の党の公認を得ようと総理に求め地元選挙区に帰り衆院選で当選して政治生命を保とうし、衆院選で民意を得て首班指名で再選されれば政権基盤が増すため総理の権力が上がる。
歌手一年総理二年の使い捨て
竹下登の言葉。総理は就任時は最初の内は新しさからチヤホヤされるが、そのうちに賞味期限が切れると社会から批判されるようになり、任期2年くらいで総理を交代させられることを揶揄した言葉。なお、この言葉は三角大福時代に竹下が中堅代議士だった頃から使っている。
総理の敵は正面だけじゃなく後ろにもいれば横にもいるし上にもいるし斜めからも内部にもいる
小泉純一郎の言葉。総理は日本で最も注目される最高権力者といっても国会内で対決姿勢の原則を示す野党だけでなく、マスコミや外国や業界団体が自分に批判的になることもあり、本来同じ目的を持つはずの与党内にも他派や反執行部が批判的になるため、どこに敵がいてどこから狙われるか用心しなければならないことを指した言葉。
総理の権力の最大の源泉は解散権と人事権
小泉純一郎の言葉。閣僚や党幹部を含めた人事と衆議院の解散権は、総理の強大なる権力の源泉であることを指摘した言葉。特に郵政解散においては、抵抗する島村宜伸農相を罷免。さらに「抵抗勢力」とされた候補に刺客候補を続々送り込むなど、小選挙区制によって総理(総裁)の力が一層強化されたことを印象づけた。

記録[編集]

在任[編集]

記録の名称 記録保持者氏名 記録の内容
最長在職期間記録 桂太郎 2886日(約7年11ヶ月)
  • 第一次:1901年(明治34年)6月2日 - 1906年(明治39年)1月7日
  • 第二次:1908年(明治41年)7月14日 - 1911年(明治44年)8月30日
  • 第三次:1912年(大正元年)12月21日 - 1913年(大正2年)2月20日
最長連続在職期間記録 佐藤榮作 2798日(約7年8ヶ月)
  • 第一次 - 第三次:1964年(昭和39年)11月9日 - 1972年(昭和47年)7月7日
最短在職期間記録 東久邇宮稔彦王 54日(約2ヶ月)
  • 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年10月9日
最年長在任記録 大隈重信 78歳6ヶ月
(1916年(大正5年)10月9日の退任時)
最年少就任および在任記録 伊藤博文 44歳3ヶ月
(1885年(明治18年)12月22日の就任時)
最年長就任記録 鈴木貫太郎 77歳
(1945年(昭和20年)4月7日の就任時)
最多回数任命記録 吉田茂 5回
  • 1回目:1946年(昭和21年)5月22日
  • 2回目:1948年(昭和23年)10月15日
  • 3回目:1949年(昭和24年)2月16日
  • 4回目:1952年(昭和27年)10月30日
  • 5回目:1953年(昭和28年)5月21日

在任記録ランキング[編集]

順位 名前 在職日数 在職期間 元号
1 桂太郎 2886 1901-1906、1908-1911、1912-1913 明治大正
2 佐藤榮作 2798 1964-1972 昭和
3 伊藤博文 2720 1885-1888、1892-1896、1898、1900-1901 明治
4 吉田茂 2616 1946-1947、1948-1954 昭和
5 小泉純一郎 1980 2001-2006 平成
6 中曽根康弘 1806 1982-1987 昭和
7 池田勇人 1575 1960-1964 昭和
8 西園寺公望 1400 1906-1908、1911-1912 明治-大正
9 岸信介 1241 1957-1960 昭和
10 山縣有朋 1210 1889-1891、1898-1900 明治
11 原敬 1133 1918-1921 大正
12 大隈重信 1040 1898、1914-1916 明治、大正
13 近衛文麿 1035 1937-1939、1940-1941 昭和
14 東条英機 1009 1941-1944 昭和
15 安倍晋三 997 2006-2007、2012-在任 平成
16 松方正義 943 1891-1892、1896-1898 明治
17 橋本龍太郎 932 1996-1998 平成
18 田中角榮 886 1972-1974 昭和
19 鈴木善幸 864 1980-1982 昭和
20 海部俊樹 818 1989-1991 平成
21 田中義一 805 1927-1929 昭和
22 齋藤實 774 1932-1934 昭和
23 三木武夫 747 1974-1976 昭和
24 鳩山一郎 745 1954-1956 昭和
25 寺内正毅 721 1916-1918 大正
26 福田赳夫 714 1976-1978 昭和
27 若槻禮次郎 690 1926-1927、1931 大正-昭和
28 濱口雄幸 652 1929-1931 昭和
29 宮澤喜一 644 1991-1993 平成
30 小渕恵三 616 1998-2000 平成
31 岡田啓介 611 1934-1936 昭和
32 加藤高明 597 1924-1926 大正
33 竹下登 576 1987-1989 昭和-平成
34 村山富市 561 1994-1996 平成
35 大平正芳 554 1978-1980 昭和
36 山本権兵衛 549 1913-1914、1923-1924 大正
37 黒田清隆 544 1888-1889 明治
38 野田佳彦 482 2011-2012 平成
39 菅直人 452 2010-2011 平成
40 加藤友三郎 440 1922-1923 大正
41 森喜朗 387 2000-2001 平成
42 福田康夫 365 2007-2008 平成
43 麻生太郎 358 2008-2009 平成
44 廣田弘毅 331 1922-1923 大正
45 片山哲 292 1947-1948 昭和
46 鳩山由紀夫 266 2009-2010 平成
47 細川護煕 263 1993-1994 平成
48 小磯國昭 260 1944 昭和
49 平沼騏一郎 238 1939 昭和
50 幣原喜重郎 226 1945-1946 昭和
51 芦田均 220 1948 昭和
52 高橋是清 212 1921-1922 大正
53 米内光政 189 1940 昭和
54 清浦奎吾 157 1924 大正
55 犬養毅 156 1931-1932 昭和
56 阿部信行 140 1939-1940 昭和
57 鈴木貫太郎 133 1945 昭和
58 林銑十郎 123 1937 昭和
59 宇野宗佑 69 1989 平成
60 石橋湛山 65 1956-1957 昭和
61 羽田孜 64 1994 平成
62 東久邇宮稔彦王 54 1945 昭和

病気[編集]

記録 氏名 事柄
病気により在任中死去した内閣総理大臣 加藤友三郎 加藤友三郎は大腸癌を患っていた。青山の自邸で家族に看取られ静かに死去。
加藤高明 加藤高明は心臓麻痺による急性心不全。かねてより慢性腎臓炎と心臓疾患があったが、議会で突然病状が悪化し6日後に死亡。
大平正芳 大平は心筋梗塞による急性心不全。選挙運動中に過労不整脈で倒れ虎の門病院に入院。12日後心筋梗塞を起こし死亡。
病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣 小渕恵三 脳梗塞首相官邸で発症、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院するが昏睡状態となり退任。意識が戻らないまま約1ヵ月半後に死亡。
病気により退陣した内閣総理大臣 石橋湛山 石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1ヵ月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。
池田勇人 池田は喉頭癌。治療のため国立がんセンターに入院したが、約1ヵ月半後に退陣を表明。9ヵ月後東京大学医学部附属病院で病部摘出手術を受けたが、術後まもなく肺炎により死亡。
安倍晋三(第1次内閣 安倍は胃腸機能の低下による衰弱。元から持病(潰瘍性大腸炎)を抱えていたが、参議院選挙の惨敗や、相次ぐ閣僚の不祥事への批判による重圧、首相としての過労が祟った。辞意表明の後、慶應義塾大学病院に緊急入院したが、首相臨時代理は置かなかった。自民党の後継総裁が選出された後、辞任に至る経緯について記者会見を行い退陣。但し、後に自民党総裁および内閣総理大臣に再び就任。

暗殺[編集]

記録 氏名 事柄
在任中に暗殺された内閣総理大臣 原敬 原は東京駅の構内で大塚駅職員中岡艮一に胸を刺される。刃渡り五寸の短刀が肺と心臓を貫通し即死(原敬暗殺事件)。
濱口雄幸
(死去時は元内閣総理大臣)
濱口は東京駅のホーム右翼団体に所属する佐郷屋留雄に狙撃される。銃弾1発が骨盤まで達する重傷だったが、4ヵ月後に病躯を押して登院、しかしこれで症状が悪化し、1ヵ月後に内閣総辞職、その4ヵ月後に死去(濱口首相遭難事件)。
犬養毅 犬養は首相官邸に乱入した武装青年将校に銃撃される。左頬と右こめかみに銃弾2発を被弾、出血多量で約5時間後に絶命(五・一五事件
暗殺された元内閣総理大臣 伊藤博文 伊藤は満州ハルビン駅の構内で韓国民族主義運動家安重根に狙撃される。銃弾3発を被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長。
高橋是清 高橋は赤坂の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。銃弾3発を被弾した上、軍刀で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣(二・二六事件
齋藤實 斎藤は四谷の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。機関銃弾を40数発浴び即死。当時齋藤は内大臣(二・二六事件)
存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出た内閣総理大臣 岡田啓介 首相官邸に乱入した武装青年将校により岡田と容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵が銃撃される。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表(二・二六事件)

軍事裁判関連[編集]

記録 氏名 事柄
自殺した元内閣総理大臣 近衛文麿 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって逮捕状が発行され、逮捕を前に自邸で青酸カリを飲んで服毒自殺。
自殺未遂した元内閣総理大臣 東條英機 極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で拳銃で自らの心臓を撃つが失敗。
死刑に処された元内閣総理大臣 東條英機 極東国際軍事裁判で絞首刑判決。
廣田弘毅
獄死した元内閣総理大臣 小磯國昭 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち獄中で病死。
終身刑となった元内閣総理大臣 平沼騏一郎 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち仮釈放後に病死。
かつて逮捕されたことのある内閣総理大臣 岸信介 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって逮捕されるが、不起訴となり、釈放される。

刑事裁判関連[編集]

記録 氏名 事柄
逮捕起訴された元内閣総理大臣 芦田均 芦田は昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
田中角榮 田中はロッキード事件で逮捕され起訴された。公判では一審二審で有罪判決、上告審の審理途中で被告死去により公訴棄却
公判で有罪判決を受けた元内閣総理大臣 田中角榮
かつて逮捕、起訴されたことがある内閣総理大臣 田中角榮 田中は法務政務次官時代に炭鉱国管疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
福田赳夫 福田は大蔵省主計局長時代に昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
かつて逮捕許諾請求が出されたことがある内閣総理大臣 佐藤榮作 自由党幹事長時代に造船疑獄で東京地検が逮捕許諾請求を出したが、法相指揮権を発動して逮捕を見送らせた。

職歴[編集]

立法[編集]

記録 氏名 事柄
かつて貴族院議長だった内閣総理大臣 伊藤博文 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日
近衛文麿 1933年(昭和8年)6月9日 - 1937年(昭和12年)6月7日
後に貴族院議長になった元内閣総理大臣 伊藤博文 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日
一期目の内閣総理大臣を辞した後に貴族院議長となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。
後に衆議院議長になった元内閣総理大臣 幣原喜重郎 1949年(昭和24年)2月11日 - 1951年(昭和26年)3月10日

行政[編集]

記録 氏名 事柄
就任時に国務大臣経験が全くなかった内閣総理大臣 伊藤博文 伊藤は勤皇志士であり、兵庫県知事(当時は官選)、工部卿内務卿などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。ただし、卿は実質的に国務大臣と同等職である。
近衛文麿 近衛は公爵であり、貴族院議長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
阿部信行 阿部は陸軍軍人であり、台湾軍司令官軍事参議官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。なお、陸軍次官当時、陸軍大臣宇垣一成の病気療養に伴い陸軍大臣代行を務めた[8]
鈴木貫太郎 鈴木は海軍軍人であり、連合艦隊司令長官軍令部部長を経て枢密院議長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
東久邇宮稔彦王 稔彦王は皇族にして陸軍軍人であり、第二軍司令官、防衛総司令部総司令官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
片山哲 片山は弁護士を経て衆議院議員となり、日本社会党書記長日本社会党委員長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
細川護熙 細川は参議院議員大蔵政務次官熊本県知事を経て衆議院議員となり、日本新党代表などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
村山富市 村山は大分県議会議員を経て衆議院議員となり、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
鳩山由紀夫 鳩山は専修大学経営学部助教授を経て衆議院議員となり、内閣官房副長官民主党幹事長、民主党代表などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。

枢密院[編集]

司法[編集]

記録 氏名 事柄
かつて大審院長だった内閣総理大臣 平沼騏一郎 1921年(大正10年)10月5日 - 1923年(大正12年)9月6日

陸海軍[編集]

記録 氏名 事柄
陸軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 黑田清隆 就任時は陸軍中将
山縣有朋 第一次内閣で就任時は陸軍中将、
第二次内閣で就任時は陸軍大将
桂太郎 第一次内閣・第二次内閣で就任時は陸軍大将、
第三次内閣で就任時は退役陸軍大将。
寺内正毅 就任時は元帥陸軍大将。
田中義一 就任時は退役陸軍大将。
林銑十郎 就任時は予備役陸軍大将。
阿部信行 就任時は予備役陸軍大将。
東條英機 就任と同時に陸軍中将から陸軍大将に進級。
小磯國昭 就任時は予備役陸軍大将。
東久邇宮稔彦王 就任時は陸軍大将。
海軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 山本権兵衛 第一次内閣で就任時は海軍大将
第二次内閣で就任時は退役海軍大将。
加藤友三郎 就任時は海軍大将、
退任(在任中死去)時に元帥海軍大将(死後追贈)。
斎藤実 就任時は退役海軍大将。
岡田啓介 就任時は退役海軍大将。
米内光政 就任と同時に予備役海軍大将に編入。
鈴木貫太郎 就任時は退役海軍大将。

宮中[編集]

記録 氏名 事柄
かつて内大臣だった内閣総理大臣 桂太郎 1912年(大正元年)8月21日 - 同年12月21日
二期目の内閣総理大臣を辞した後に内大臣となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。
かつて宮内大臣だった内閣総理大臣 伊藤博文 1885年(明治18年)12月22日 - 1887年9月16日
「宮中・府中(行政府)」の分離により、宮内省は内閣に属さないことと定められたが、伊藤自身は内閣総理大臣と宮内大臣を兼務した。
かつて侍従長だった内閣総理大臣 桂太郎 1912年(大正元年)8月13日 - 同年12月21日
桂は内大臣と侍従長を兼務していた。
鈴木貫太郎 1929年(昭和4年)1月22日 - 1936年(昭和11年)11月20日

学歴[編集]

記録 氏名 事柄
初の学士号を持つ内閣総理大臣 加藤高明 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士号を取得。加藤が卒業した東京大学は、現在の東京大学の前身に当たる大学である。加藤の卒業した(旧)東京大学は、その後、帝国大学、東京帝国大学を経て、現在の(新制)東京大学となった。なお、学士号を持つ内閣総理大臣は、加藤以外にも多数いる。
初の修士号を持つ内閣総理大臣 小渕恵三 小渕は早稲田大学大学院政治学研究科を修了し政治学修士号を取得。なお、修士号を持つ内閣総理大臣は小渕以外には誰もおらず、現在でも唯一の例である。
初の博士号を持つ内閣総理大臣 平沼騏一郎 平沼は文部大臣より法学博士号を取得。1887年に公布された学位令に基づき、法学博士号は文部大臣から授与されていた。その後、1920年の改正学位令の施行により、法学博士号は大学から授与されることになった。現在では、1991年の改正学校教育法の施行により、法学博士の後継である博士(法学)が大学から授与されている。なお、博士号を持つ内閣総理大臣は、平沼以外にも、東京帝国大学より法学博士号を取得した芦田均と、スタンフォード大学よりDoctor of Philosophy号を取得した鳩山由紀夫の2名がいる。
初の学位を持つ内閣総理大臣 加藤高明 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は称号として授与された。1991年の改正学校教育法の施行により、法学士の後継である学士(法学)が学位の一つとなった。なお、学位を持つ内閣総理大臣は、上記の加藤、平沼騏一郎、芦田均、小渕恵三、鳩山由紀夫の5名である。
初の新制大学を卒業した内閣総理大臣 海部俊樹 海部の後には旧制大学出身の内閣総理大臣が再び登場している(宮澤喜一、村山富市)。

出自[編集]

記録 氏名 事柄
皇族の内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王 後に皇籍を離脱した。
子孫が皇族になった内閣総理大臣 吉田茂 寛仁親王妃信子は孫。
兄弟姉妹が皇族になった内閣総理大臣 麻生太郎 寛仁親王妃信子は妹。
公家の内閣総理大臣 西園寺公望 西園寺は藤原北家閑院流で清華家の西園寺家当主。
近衛文麿 近衛は五摂家筆頭の近衛家当主。
大名家の内閣総理大臣 細川護熙 肥後熊本藩54万石細川家当主。
初の平民内閣総理大臣 原敬 ただし、これは本人がかたくなに受爵を断り続けたため。原の祖父は陸奥盛岡藩20万石南部家家老職にあった上級士族。

親族[編集]

記録 続柄 氏名 事柄
一親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 福田赳夫と福田康夫 康夫は赳夫の長男
岳父娘婿 鈴木善幸と麻生太郎 麻生のは鈴木の三女
二親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 岸信介と佐藤榮作 岸は兄、佐藤は弟。
義兄義弟 加藤高明と幣原喜重郎 加藤の妻は三菱商会創業者の岩崎弥太郎長女。幣原の妻は岩崎の四女
祖父 近衛文麿と細川護熙 細川のは近衛の二女
岸信介と安倍晋三 安倍の母は岸の長女。
吉田茂と麻生太郎 麻生の母は吉田の三女。
鳩山一郎と鳩山由紀夫 由紀夫のは一郎の長男。

再就任[編集]

記録 氏名 事柄
一度退任した後に別の人物を挟んで再就任した回数が最も多い内閣総理大臣 伊藤博文 3回
  • 1888年4月30日退任(第1次)、1892年8月8日就任(第2次)
  • 1896年8月31日退任(第2次)、1898年1月12日就任(第3次)
  • 1898年6月30日退任(第3次)、1900年10月19日就任(第4次)
一度退任して再就任するまでの空白期間が最も長い内閣総理大臣 大隈重信 約14年5か月(歴代最長)
  • 1898年11月8日退任(第1次)、1914年4月16日就任(第2次)
安倍晋三 約5年3か月(戦後最長)
  • 2007年9月26日退任(第1次)、2012年12月26日就任(第2次)
一度退任して再就任するまでの空白期間が最も短い内閣総理大臣 桂太郎 約1年4か月(479日、歴代最短)
  • 1911年8月30日退任(第2次)、1912年12月21日就任(第3次)
吉田茂 約1年5か月(510日、戦後最短)
  • 1947年5月24日退任(第1次)、1948年10月15日就任(第2次)
一度退任して再就任するまでの間に挟んだ総理の数が最も多い内閣総理大臣 大隈重信 5人(8代)
  • 山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、西園寺公望、山本権兵衛
    (桂は3度、西園寺は2度任命。)
山本権兵衛 5人(5代)
  • 大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、加藤友三郎
    (臨時代理の内田康哉を除く。)
安倍晋三 5人(5代)
  • 福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦

首相交代[編集]

記録 氏名 事柄
7年連続で内閣総理大臣交代 小泉純一郎→安倍晋三(2006年)
安倍晋三→福田康夫(2007年)
福田康夫→麻生太郎(2008年)
麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年)
鳩山由紀夫→菅直人(2010年)
菅直人→野田佳彦(2011年)
野田佳彦→安倍晋三(2012年)
現代における主要国の首相交代では1位記録。過去には第四共和政時代のフランスで1946年から14年連続首相交代があったが、同国では首相は政権代表者ではない。

その他[編集]

記録 氏名 事柄
ノーベル賞を受賞した内閣総理大臣経験者 佐藤榮作 非核三原則の提唱が評価され1974年(昭和49年)のノーベル平和賞を受賞。
オリンピックに選手として出場経験のある内閣総理大臣経験者 麻生太郎 モントリオールオリンピック(1976年(昭和51年))にクレー射撃の代表として出場(結果は41位)。
日本銀行券の肖像画に用いられた元内閣総理大臣 伊藤博文 伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) - 1984年(昭和59年)発行)の肖像。
高橋是清 高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) - 1958年(昭和33年)発行)の肖像。高橋は史上唯一の日銀総裁経験者の首相でもある。
外国政府高官を経験した内閣総理大臣経験者 岸信介 1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)にかけて満洲国総務庁次長などの要職を歴任。(満洲国には国籍法がなく、日本人は日本国籍を持ったまま満洲国の官職に就任できた)

出身党派別人数[編集]

(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)

順位 政党 人数 最初の内閣総理大臣 直近の内閣総理大臣
1 自由民主党 22 鳩山一郎・1955年(昭和30年) 安倍晋三・2012年(平成24年)
2 立憲政友会 6 伊藤博文・1900年(明治33年) 犬養毅・1932年(昭和7年)
3 民主党(1998年(平成10年) - ) 3 鳩山由紀夫・2009年(平成21年) 野田佳彦・2011年(平成23年)
大政翼賛会 3 近衛文麿・1940年(昭和15年) 鈴木貫太郎・1945年(昭和20年)
4 日本社会党(社会民主党 2 片山哲・1947年(昭和22年) 村山富市・1994年(平成6年)
立憲民政党 2 濱口雄幸・1929年(昭和4年) 若槻禮次郎・1931年(昭和6年)
憲政会 2 加藤高明・1924年(大正13年) 若槻禮次郎・1927年(昭和2年)
7 新生党 1 羽田孜・1994年(平成6年)
日本新党 1 細川護熙・1994年(平成6年)
日本民主党 1 鳩山一郎・1955年(昭和30年)
自由党(1950年(昭和25年) - 1955年(昭和30年)) 1 吉田茂・1952年(昭和27年) 吉田茂・1953年(昭和28年)
民主自由党 1 吉田茂・1948年(昭和23年) 吉田茂・1949年(昭和24年)
民主党(1947年(昭和22年) - 1950年(昭和25年)) 1 芦田均・1948年(昭和23年)
日本自由党 1 吉田茂・1947年(昭和22年)
  • このほか、貴族院議員の首相には貴族院の院内会派に所属していた議員もいた(近衛文麿の火曜会など)。

幻の総理大臣[編集]

総理大臣に就任してもおかしくない大物政治家でありながら早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理大臣」と呼ぶことがある。福田和也「総理の値打ち」(文春文庫)・御厨貴編「歴代首相物語」(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠「自民党・ナンバー2の研究」(講談社文庫)・小林吉弥「総理になれなかった男たち」(経済界)など「幻の総理大臣」を特集した書籍も出版されている。いろいろな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち徳川家達伊東正義のように次期首相として推挙されながら周囲の反対等で辞退した人物も存在する。

辞令の書式[編集]

  • 辞令は縦書きで、発令年月日は和暦、数字は漢数字での記載となる。漢数字には壱・拾などの大字は用いられず、また、十の位は簡略化せずに記載される(例:「一七年」でなく「十七年」、「二一日」でなく「二十一日」)。
  • 国会の指名奏上

国会は衆議院議員○○君を
内閣総理大臣に指名いたし
ました。
よってここに奏上いたしま
す。
平成○年○月○日
衆議院議長(自署)
衆議院事務総長(自署)

  • 内閣総理大臣任命の助言と認証

日本国憲法第六条第一項に
依り○○を内閣総理大臣に
任命するについて
右謹んで裁可を仰ぎま
す。
平成○年○月○日
内閣総理大臣(自署)(前内閣総理大臣)

裁可を表すため、この書面に天皇は自ら「可」の文字の印章を押印する。

  • 任命の辞令(官記)(※「任命する」の後に「。」は付されない)

氏 名(新内閣総理大臣)
内閣総理大臣に任命する
御名御璽
平成○年○月○日
内閣総理大臣(自署)(前内閣総理大臣)

注釈[編集]

  1. ^ 佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、826-827頁
  2. ^ なお、公職選挙法第57条が規定する繰延投票が行われて衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、首相の在任期間が4年を超えることも制度上はあり得なくはない。
  3. ^ 衆議院を解散すれば内閣総辞職をしなくてもいいが、衆議院議員総選挙が行われ、その後に初めて国会の召集があったときに内閣総辞職をすることになる。衆議院議員総選挙によって首相支持勢力が衆議院議席の過半数を獲得したならば、内閣総理大臣指名選挙で再指名されることにより引き続き内閣総理大臣の職にとどまることができるが、首相支持勢力が過半数を割り内閣総理大臣指名選挙で再指名されない場合は内閣総理大臣を続けることができない。
  4. ^ 佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、859-860頁
  5. ^ 樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法Ⅲ(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、216-217頁、219頁
  6. ^ 感染症法第六条第七項に規定する新型インフルエンザ等感染症及び同条第九項に規定する新感染症(全国的かつ急速なまん延のおそれのあるものに限る。)。
  7. ^ 『尾崎三良自叙略伝』
  8. ^ 陸軍大臣代行当時に「班列」として閣員に列しているが、班列は正式な国務大臣ではない。

関連項目[編集]

歴史

発足・組織・形態

国会

施設・設備

その他

外部リンク[編集]

-
-
第代
-
-

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦

Emblem of the Prime Minister of Japan.svg