迎賓館

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赤坂迎賓館

迎賓館(げいひんかん)は、外国の国家元首政府の長などの国賓を迎え入れたときに、宿泊等の接遇を行う施設。

概要[編集]

皇居宮殿での歓迎晩餐会の答礼など、外交儀礼のための接宴として、天皇皇族などが臨席し、晩餐会が行なわれることもある。

日本の迎賓館は、東京都港区赤坂迎賓館(赤坂迎賓館)と、京都府京都市上京区京都御苑内に京都迎賓館があり、内閣府施設等機関である。通常は非公開だが、接遇に支障のない時期(通常は8月)に、事前の申し込みにより、一般参観することができる[1]

迎賓館の使用については、「迎賓館運営大綱について」[2][3]、国・公賓の定義および接遇内容については、「国賓及び公賓の接遇について」[2][4]などにより定められている。これらの規定によれば、迎賓館での宿泊及び接遇を行うことができるのは外国の元首またはこれに準する者で、国賓として招請することを閣議決定した場合である。また、行政府以外の三権の長相当の外国の賓客についても閣議決定により宿泊させることができる。さらに、首脳外交など実務を目的として訪日する外国の元首や首相などに対しては、「公式実務訪問賓客」として宿泊を伴わない招宴その他の接遇も行われている。過去3回行われた東京サミットなどの多国間国際会議も、この接遇範疇に該当する行事として実施された。京都迎賓館においては、上記の目的に加えて地方公共団体による外国元首・首相等の接遇にも使用できると規定されている[2]

なお近年では、内閣総理大臣と外国首脳との会談には外務省飯倉公館(東京都港区麻布台一丁目)が利用されることも多い。

赤坂迎賓館[編集]

  • 所在地:東京都港区元赤坂二丁目1番1号(地図
  • 敷地面積:11万7000平方メートル

沿革[編集]

国会図書館として使用されていた当時
噴水
主庭

東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。

その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年(大正13年)成ると、その後の数年間、赤坂離宮は再び東宮御所としてこの一家の住居となったが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。

第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。

その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区白金台旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。

これを受けて、池田とその後任の佐藤栄作首相の在任時に政府部内で検討を重ねた結果、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年(昭和49年)3月に、迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。

2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている[5]

2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。

本館[編集]

  • 構造:鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)
  • 延床面積:1万5000平方メートル

日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。

また、当時電気が珍しかった日本においてイギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置を設置した。ただし、暖房装置は正常に作動せず、室温が突然上がったり下がったりするトラブルに幾度も見舞われたという。片山東熊は除湿機を設置する計画も考えていたが、こちらは実行に移されなかった。

建築当初の調度品はタペストリーなど日本製の物もあったが、椅子などの家具の多くはドイツフランスなどから輸入したものを使用していた。この建物が迎賓館になった際に建物から放出されたこれらの家具の一部は現在明治村に保存・公開されている。

彩鸞の間(さいらん の ま)
名称は左右の大きな鏡の上と、ねずみ色の大理石で作られた暖炉の両脇に、「」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることに由来している。室内はアンピール様式であり、白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫りで装飾されている。そして、10枚の鏡が部屋を広く見せている。広さは約160平方メートルある。この部屋は、表敬訪問のために訪れた来客が最初に案内される控えの間として使用されたり、晩餐会の招待客が国・公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されている。
花鳥の間(かちょう の ま)
名称は天井に描かれた36枚の絵や、欄間に張られたゴブラン織風綴織、壁面に飾られた濤川惣助作の『七宝花鳥図三十額』に由来している。室内はアンリー2世様式であり、腰壁は茶褐色のジオン材を板張りしており、重厚な雰囲気を醸し出している。広さは約330平方メートルある。この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂であり、最大約130名の席が設けられている。
朝日の間(あさひ の ま)
名称は天井に描かれた「朝日を背にして女神が香車(チャリオット)を走らせている姿」の絵に由来している。天井画は長径8.26メートル・短径5.15メートルの大きな楕円形である。室内は古典主義様式であり、壁には京都西陣金華山織の美術織物が張られている。広さは約200平方メートルある。国・公賓用のサロンとして使われ、ここで表敬訪問や首脳会談などの行事が行われている。
羽衣の間(はごろも の ま)
名称は天井に謡曲の「羽衣」の景趣を描いた300平方メートルの曲面画法による大壁画があることに由来している。室内は朝日の間と同様、古典主義様式である。正面の中2階には、オーケストラボックスがある。これは、羽衣の間が舞踏会場として設計されたからである。迎賓館の中で最も大きいシャンデリア(重量800キログラム)がある。広さは約330平方メートルある。この部屋は、雨天の際に歓迎行事を行ったり、また、晩餐会の招待客に食前酒食後酒が供されるところである。
東の間(ひがし の ま)
建物の2階の東の端にある。アルハンブラ宮殿(スペイン)にならったムーリッシュ様式のアラベスク装飾が特徴。かつては喫煙室、現在は控え室として使われている。一般参観ルートには入っておらず、通常非公開。
中央階段(ちゅうおうかいだん)と二階大ホール
欧州産の各種大理石がふんだんに用いられた階段とホール。ホールには小磯良平の絵画が飾られている。来訪した賓客を天皇皇后両陛下が迎える。

和風別館[編集]

游心亭(ゆうしんてい)
1974年(昭和49年)に、谷口吉郎の設計により新設された。主和室は、47畳の畳敷である。現在の和風別館は「日本らしいもてなしを行う施設」として、主に国公賓の会食や茶会などに供されてきたが、これらの施設は残しつつ、新たに宿泊施設を設けるなどの施設拡充が計画されている。和風別館の増改築事業については、安藤忠雄らの設計共同体が設計者として選定された。

庭園[編集]

主庭は全面砂利敷きであり、中央には噴水池や花壇が設けられている。フォード大統領(1974年、ハナミズキ)、エリザベス女王(1975年、ブラウンオーク)、ゴルバチョフ大統領(1991年、フユボダイジュ)の記念植樹がある。

京都迎賓館[編集]

京都迎賓館正門

沿革[編集]

京都迎賓館は、1994年(平成6年)10月に国立京都迎賓館として建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。英字表記は Kyoto State Guest House である。

洋風の赤坂迎賓館とは対照的な和風建築として日建設計により設計され、江戸時代園家柳原家櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の北東部に建設された。 南側を表(公の場),北を奥(私的施設)と位置付け、建物の南半分には会議・会談,晩餐,和風会食,管理等の施設が,北半分には賓客の居住・宿泊のための施設が配置されている。

開館後初の国賓は、ベトナム社会主義共和国主席グエン・ミン・チェットだった(2007年11月28日–29日滞在)。

施設[編集]

夕映の間(ゆうばえ の ま)
最大約70名までの大広間。通訳ブースを備え、壁面装飾を施した可動式の壁面で三分割することができ、国際会議にも使用できる。壁面装飾は綴れ織により、東面が「比叡月映」(ひえい つきばえ)、西面が「愛宕夕照」(あたご ゆうばえ)と名付けられ、これが部屋の名前の由来となっている。京都の東西を守る山の日月の夕景を表現している。下図:箱崎睦昌、監修:内山武夫、製作:龍村美術織物
藤の間(ふじ の ま)
最大120名までの大広間で晩餐室。人間国宝江里佐代子による截金が施された檜舞台と舞台扉「響流光韻」(こおる こういん)を備える。正面の壁面を飾るのは、を始めとする四季の花々を描いた綴れ織「麗花」(れいか)は、39種類の草木が描かれている。下図:鹿見喜陌、監修:内山武夫、製作:川島織物。床の段通は、藤の花びらが散りばめられている。
桐の間(きり の ま)
最大24名までの会食が可能な56畳の「和の晩餐室」。天井は全て同一材料で作られた長さ12メートル中杢天井、床は長さ8メートルの大床座卓は長さ約12メートルの等圧合板を下地に漆黒のを施してあり、座椅子の背には政府及び京都迎賓館の紋である五七の桐が蒔絵で描かれている。欄間「日月」には江里佐代子による截金が施されている。
滝の間(たき の ま)
桐の間の奥につながる。22畳の和室で昇降式の座卓が設置されている。瀬戸内の犬島白石島から運ばれた花崗岩を中心に組み立てられた大滝を配した庭園に面する。
貴船の間(きぶね の ま)
水明の間と対をなし、金をイメージして作られた貴賓室。日本側代表者の控え室として使用される。江里佐代子による截金透塗飾り台がある。
水明の間(すいめい の ま)
首脳会談などに用いられる、大池に張り出した開放的な空間。貴船の間と対をなし、銀をイメージして作られている。天井を船底とし、椅子のファブリック(布地)は立涌文様の中に波紋を織り込んだ西陣織。床は青海波文様の段通。「悠久のささやき」と題した飾り台や卓子にも蒔絵や螺鈿が描かれるなど水をテーマとしたデザインで統一される。
聚楽の間(じゅらく の ま)
晩餐会などが行われる際に、招待されたゲストや随員の待合などに使用される。友好の心をイメージして、人間国宝の早川尚古斎による竹花器や伊砂利彦の型染の屏風、椅子ファブリックは西陣織、釘隠には千代結のデザインが施されている。
宿泊エリア
国賓・公賓とその随員のための宿泊施設。

日本庭園[編集]

玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成される。「庭屋一如」の現代和風の庭園として、尼崎博正の監修により、佐野藤右衛門を棟梁とする京都の庭師により作られた。

主な国の迎賓館[編集]

国際博覧会の迎賓館[編集]

国際博覧会が開催された時は、外国館参加の各国から王族・元首・閣僚級の賓客が、各国のナショナルデーに会場を訪問するために、「迎賓館」が設置される。

「万博迎賓館」として、前述の内閣府の迎賓館とは区別される。国際博覧会開催中だけの臨時施設であるが、博覧会閉幕後も保存されている例もある。

補注[編集]

  1. ^ 改修等で募集が行われない年もある。また、申し込み多数の場合は抽選となる。
  2. ^ a b c 迎賓館の運営大綱について/国賓及び公賓の接遇について/京都迎賓館の使用について(内閣府サイト内)
  3. ^ 1974年7月9日閣議決定。
  4. ^ 1984年3月16日閣議決定。
  5. ^ 迎賓館改修工事延長のお知らせ 内閣府迎賓館ページ

参考文献[編集]

  • 『京都迎賓館 ものづくり ものがたり』 公共建築協会編、日刊建設通信新聞社、2005年
  • 『京都迎賓館 現代和風と京の匠の調和』 迎賓館京都事務所監修、淡交社、2006年
  • 西川誠「戦前の迎賓館」日本歴史746<歴史手帳>、2010年7月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]