衆議院解散
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衆議院解散(しゅうぎいんかいさん)とは、日本の議会・衆議院の解散であり、任期満了前に衆議院議員全員の地位を失わせることである。
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[編集] 日本国憲法下における衆議院解散
日本国憲法では、衆議院解散による解散総選挙(衆議院総選挙)は、解散の日から40日以内に行わなければならないと定められている(日本国憲法第54条1項、公職選挙法31条3項)。また、解散総選挙の日から30日以内に特別国会が召集され、新内閣が組閣される(日本国憲法第54条1項)。
[編集] 解散権の帰属
日本国憲法において衆議院解散について規定した条文としては、第7条と第69条がある[1]。衆議院解散は第7条第3号により天皇の国事行為とされているため、形式的には天皇が衆議院解散を行うが、誰が衆議院解散に関する実質的な決定権限を持つかについては、第7条にも第69条にも明確に規定されているわけではない。もっとも、根拠をどこに求めるかについては争いがあるものの、憲法学者・先例ともに内閣[2]に衆議院解散の実質的な決定権限があることで見解が固まっている。
これに対し、内閣ではなく衆議院による自主解散権を認める見解も存在するが、議院の多数派により少数派の議員の地位を失わせることを可能とするためには法律上明文の根拠が必要であるとして、ほとんど採用されていない。衆議院解散要求決議案が衆議院本会議で採決に至った例はあるが、可決されたことはなく、仮に可決されても、法的拘束力のない国会決議の一つにとどまるものとされる。
[編集] 内閣に実質的権限が帰属する根拠
以上のように、衆議院解散の実質的な権限を持つのは内閣とする見解にほぼ固まっているが、その根拠については以下のとおり見解が分かれている。もっとも、行政説と69条説はほとんど支持されておらず、7条説と制度説が対立しているのが実情である。
- 7条説
- 日本国憲法7条に規定する「内閣の助言と承認」に実質的権限の帰属の根拠を求める見解。国事行為とされている事項の実質的権限の帰属が憲法上明確でないものについては、国事行為に対する内閣の「助言と承認」を根拠として、内閣に実質的な権限があるとする考え方を前提とする。
- 制度説
- 日本国憲法は議院内閣制を採用しているところ、議院内閣制においては内閣に議会の解散権を認めるのが通例であることに根拠を求める見解
- 行政説(65条説)
- 行政の定義を「国家の権能のうち、立法と司法を除いた残余の権能」とする考え方(控除説)を基に、衆議院解散権は立法でも司法でもないから行政に属し、日本国憲法第65条により内閣に帰属するとする見解
- 69条説
- 日本国憲法69条は衆議院による内閣不信任決議の効果について定めているところ、同条中の「衆議院が解散されない限り」という文言は、不信任決議に対する内閣の対抗手段としての解散を認めたとする見解
[編集] 69条所定の場合に限定されるか
日本国憲法第69条の解釈上、衆議院で内閣不信任決議案が可決されるか信任決議案が否決された場合に、内閣はそれに対抗する手段として衆議院解散が可能であることに争いはない。しかし、それ以外の場合に衆議院解散が認められるかについては、過去に争いが存在した(なお、前述の69条説は、解散権の帰属の根拠を69条に求めるため、解散は69条所定の場合に限定されることになる)。
この点、GHQ施政下にあった1948年に衆議院を解散する際、当時の第2次吉田内閣は69条所定の場合に限定されないという見解を採っていたのに対し、野党は69条所定の場合に限定されるという見解を採り、対立していた。そのような中で、憲法草案に携わっていたGHQは衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採ることが伝えられ、協議の上、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、69条所定の事由により解散する方法を採った(馴れ合い解散)。この時の解散詔書には、以上のような見解の対立の妥協の産物として、「衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載された。
これに対し、1952年に第2回の解散をしたときは、69条所定の場合ではなかった。このため、解散当時の衆議院議員が、歳費請求訴訟の中で解散の無効を主張したところ、その上告審において最高裁判所は、いわゆる統治行為論を採用し、高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるとして、違憲審査をせずに上告を棄却した(いわゆる苫米地事件判決)。この第2回解散の際の詔書には「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」とあり、以後は、内閣不信任決議案が可決された場合であるか否かにかかわらず、この方式によることが確立している。
このように過去には争いはあったものの、解散を69条所定の場合に限定する見解は現在ではほとんど見られない。もっとも、内閣に自由な解散権があるとしても、総選挙を通して民意を問う制度である以上、それに相応しい理由がなければならないと理解されており、国会法74条に基づく内閣に対する質問に対し、内閣から国会に提出された答弁書では、新たに民意を問うことの要否を考慮して、内閣がその政治的責任において決すべきものとの認識が示されている。
なお、1993年6月18日の嘘つき解散は、内閣不信任案の可決による解散であったが、議長が慣例どおり「日本国憲法第七条により衆議院を解散する。」との詔書(後述「手続等」を参照)を読み上げたため、野党席からは「69条の解散ではないのか」との抗議の怒声が起こり、万歳三唱がなかなか行われず、遅れて与党席から「万歳」の声があがるというハプニングもあった。
[編集] 手続等
- 衆議院解散を決定する権限は内閣に属する。
したがって、内閣総理大臣は閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、すべての国務大臣の署名を集めなければならない。 - 衆議院の解散は天皇の国事行為であるため、閣議書が完成すると、内閣官房の内閣総務官が皇居又は御所に赴いて奏上し、詔書の原案に天皇の署名、御璽の押捺を受ける。
- 内閣官房に持ち帰った後、内閣総理大臣が詔書に副署し、内閣官房長官を通じて衆議院議長に伝達される。
- 国会会期中の場合、詔書が発せられると直ちに衆議院本会議が開かれる(衆議院本会議開会中に詔書が発せられることもある)。議長席後方の扉から内閣官房長官が「紫の袱紗(ふくさ)」に包まれた詔書の写し及び内閣総理大臣からの伝達書を持って入場し、衆議院事務総長が中身を確認した後、次第書を付けて衆議院議長に渡す。
- 議長が「ただいま、内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから朗読いたします」と発言すると、議長及び全議員が起立する(総員起立)。議長が「日本国憲法第七条(の規定)により、衆議院を解散する」と詔書の文章を読み上げて衆議院の解散を宣言する。
- 詔書が朗読された直後、衆議院議員が万歳三唱することが慣例となっている。
- 本会議を開かないで解散を宣言したことが数度あり、この時は院内の衆議院議長応接室に各会派の代表を集め、詔書を衆議院議長が朗読した。
- 議長は、一呼吸置いた後、無言のまま議場を後にする。通常ならば、「この際、暫時休憩いたします」、あるいは「本日はこれにて散会いたします」と宣言するところだが、解散と同時に議長も失職するため、それらを宣言する資格が消滅すると解されているからである(ただし、日本国憲法施行後間もないころの解散では、散会を宣告した例もある)。解散後に議場から退出する失職した「前」議員たちに対しても、衛視が敬礼をしなくなる。
- なお、議長が詔書を朗読する際、「第七条」を「だいしちじょう」ではなく、「だいななじょう」と発音することが慣例となっている。これは(議場において議員や速記者等が)「一」や「四」と聞き間違えることを防ぐためである。
- 解散詔書が読み上げられて衆議院議員が万歳三唱を行う際には、議員以外の職員、記者、一般傍聴人は、議場の秩序維持のためにこれに呼応した万歳及び喚声を上げてはならないとされており、解散が決定すると、あらかじめ傍聴席などに衛視を配備して警備を強化すると言われている。
衆議院の解散はすべての議事日程及び動議に優先するため、内閣不信任決議案が提出されていたとしても、解散詔書の文章が朗読された時点で廃案となる[3]。審議中の議案は、解散と同時にすべて廃案となる。また、衆議院が解散されると、参議院は自動的に閉会となる。過去には参議院の本会議が休憩中に衆議院が解散となり、再開されなかったケースもある。
[編集] 解散詔書
大日本帝国憲法下の解散詔書は「朕帝国憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と表現されていたが、日本国憲法下では「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」と口語文の平仮名書きに改められた。後者の詔書には「朕」(天皇の一人称)=主語が明記されておらず、議長の読み上げ文だけを聞く限り、素人目には誰が解散するのか分からない。詔書全体では、この後に御名御璽があるため、主語が天皇であることは明白であり、日本国憲法第7条の趣旨と合致する。これは、日本国憲法においても天皇が元首であるとする勢力とそうでないとする勢力とのせめぎ合いの中で、妥協の産物として成立した文面である。
衆議院の解散に関するマスコミ報道等では、国務大臣が解散詔書に署名したなどと報じられることがあるが、これは明らかに誤りである。国務大臣が署名する対象は、天皇の国事行為(衆議院の解散)に関する閣議決定書である。解散詔書に署名(副署)するのは、天皇及び内閣総理大臣のみである。
解散詔書の原本は、公文書として内閣官房で保管される。衆議院議長が本会議場で読み上げるものは、詔書そのものではなく、詔書の「写し」(天皇の署名、御璽の押捺が「御名御璽」と書き換えられている)である。詔書の「写し」は、衆議院議長のあて名が書かれた白色の封筒に、内閣総理大臣からの伝達書とともに収められる。
[編集] 解散権制限
内閣の衆議院解散権が制限される明白な規定はない。しかし、衆院選の一票の格差や在外選挙で最終審で違憲判決(または違憲状態)とする確定した場合、違憲状態を残したままでは衆議院を解散をして総選挙することは控えるべきとされている。違憲状態が明白のまま総選挙をしても、その後で最高裁が解散総選挙無効と目されている。また、当初予算案編成・審議の時期にあたる2月~3月や、景気悪化等によって補正予算案編成など景気対策を行わなければならない場合[4]も衆議院解散を控えるべきとされている。
[編集] 政局など
衆議院の解散は、事実上の解散権限を持っている内閣総理大臣の伝家の宝刀と呼ばれる。
内閣・与党の支持率及び選挙の勝算を考慮した結果として、国会が開かれていない時期に衆議院が解散されることが適切だと政治的に判断される場合には、臨時国会を召集し、その冒頭で衆議院を解散する(召集時解散)。
国会が開会されていない期間中でも衆議院の解散は可能とされている[5]。但し、国会閉会中の衆議院解散については、現憲法施行以来、今まで行われた例は一度たりともない。
衆議院の解散が起こりそうな政局を、しばしば「解散風が吹く」と表現することがある。
佐藤栄作は「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」と、小泉純一郎は「首相の権力の最大の源泉は解散権と人事権」と語り、衆議院解散権は内閣総理大臣の強大なる権力の源泉とも言える。また加藤紘一は「解散の時期に関して政治家は権力から遠ければ遠いほど疑心暗鬼になり、近ければ近いほど操作したくなる」と語っており、政界でも「衆議院解散と金利については嘘を言ってもいい」と表現されるほど、様々な政局に応じて衆議院解散権が牽制に使われたり不意打ちに行使されたりしても、当然という認識が浸透している。
また、政府見解によれば、任期満了当日まで衆議院の解散は可能である[6]。このことにより、任期満了より最大40日間、投票日を先延ばしできることになる。
さらに、任期満了の総選挙が公示されても、投票前日までは解散が可能となっている[7]。この場合、任期満了選挙は無効となり、改めて解散総選挙が公示されることになる。
以下のとおり、衆議院の解散にはそれぞれ呼称が存在する。しかし、いくつかの解散には、一つの呼称だけでは世間に浸透していないものもあり、複数の呼称が存在するものもある。
| 解散の年月日 | 国会回次 | 解散時の内閣 | 主な通称 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1948年12月23日 | 第4回・常 | 第2次吉田内閣 | 馴れ合い解散 | 内閣不信任決議の可決 |
| 1952年8月28日 | 第14回・常 | 第3次吉田内閣 | 抜き打ち解散 | 議長応接室での解散 |
| 1953年3月14日 | 第15回・特 | 第4次吉田内閣 | バカヤロー解散 | 内閣不信任決議の可決 |
| 1955年1月24日 | 第21回・常 | 第1次鳩山内閣 | 天の声解散 | 政府三演説に対する代表質問中の解散 |
| 1958年4月25日 | 第28回・常 | 第1次岸内閣 | 話し合い解散 | |
| 1960年10月24日 | 第36回・臨 | 第1次池田内閣 | 安保解散 | |
| 1963年10月23日 | 第44回・臨 | 第2次池田内閣 | 所得倍増解散、ムード解散、予告解散 | |
| 1966年12月27日 | 第54回・常 | 第1次佐藤内閣 | 黒い霧解散 | 召集時解散 |
| 1969年12月2日 | 第62回・臨 | 第2次佐藤内閣 | 沖縄解散 | |
| 1972年11月13日 | 第70回・臨 | 第1次田中内閣 | 日中解散 | |
| (1976年12月9日)1 | 第78回・臨(閉) | 三木内閣 | ロッキード解散、ロッキード選挙 | 日本国憲法施行後における唯一の衆議院議員の任期満了 |
| 1979年9月7日 | 第88回・臨 | 第1次大平内閣 | 増税解散、一般消費税解散 | |
| 1980年5月19日 | 第91回・常 | 第2次大平内閣 | ハプニング解散 | 内閣不信任決議の可決 議長応接室での解散 |
| 1983年11月28日 | 第100回・臨 | 第1次中曽根内閣 | 田中判決解散 | |
| 1986年6月2日 | 第105回・臨 | 第2次中曽根内閣 | 死んだふり解散、寝たふり解散 | 召集時解散 議長応接室での解散 |
| 1990年1月24日 | 第117回・常 | 第1次海部内閣 | 消費税解散 | 施政方針演説なしでの解散 |
| 1993年6月18日 | 第126回・常 | 宮澤内閣 | 嘘つき解散、政治改革解散 | 内閣不信任決議の可決 |
| 1996年9月27日 | 第137回・臨 | 第1次橋本内閣 | 小選挙区解散、名前なし解散 | 召集時解散 |
| 2000年6月2日 | 第147回・常 | 第1次森内閣 | 神の国解散、ミレニアム解散 | |
| 2003年10月10日 | 第157回・臨 | 第1次小泉内閣 | マニフェスト解散、構造改革解散 | |
| 2005年8月8日 | 第162回・常 | 第2次小泉内閣 | 郵政解散 | 参議院での郵政民営化法案否決 |
- 1… 任期満了選挙によるものであり衆議院解散ではないが、ロッキード解散と呼ばれることもあるので便宜上掲載。日付は任期満了の日である。
- 上表において、摂政又は国事行為臨時代行による代署、内閣総理大臣臨時代理による副署の例は、いずれもない。
[編集] 大日本帝国憲法下における衆議院解散
大日本帝国憲法の下での衆議院の解散は、天皇の大権に属し(第7条)国務大臣の輔弼に基づき(第55条第1項)権限を行使した。このため解散を現実的に決定したのは内閣であった。また総選挙後に召集された帝国議会で内閣総辞職をする規定はなかった。
解散の手続は、帝国議会時代に先例として確立し、日本国憲法下にもほぼ踏襲されている。ただし、解散詔書の文面は前述のように「朕帝国憲法第七条ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」と主語が明確に書かれ、天皇が主体的に解散を行っているという形式を採っている。
衆議院が予算の先議権を有することは、大日本帝国憲法でも規定されていた。そのため、初期議会において、政党は憲法の運用を通じて政治的影響力を増大させ、憲法発布当初は超然主義を採っていた藩閥政府と激しく対立した。藩閥政府はこうした政党の攻勢に対抗するため、衆議院を解散した。最初の衆議院解散は松方内閣によって、1891年12月15日に行われた。さらに、任期満了又は先の解散から1年以内に再び衆議院を解散することもしばしば行われた。
1897年12月25日の第11回帝国議会の解散から、議場で議員が万歳三唱をするようになった。なぜ「万歳三唱」を行うようになったかは不明[8]である。元内閣総理大臣の中曽根康弘によると、「大日本帝国憲法下では、『解散の詔書』が包まれる紫の袱紗(ふくさ)に象徴される天皇陛下万歳というのが始まり」とし、「職を失った者が総選挙という戦場に万歳・突撃するという気持ちだ。」としている。他の説として英国議会で「『国王陛下、長生きを』と唱和するのに倣って、天皇の長寿を祈念した」とか「戦前は超然内閣が政党に対抗して解散することが多く、議員が自暴自棄になった」などがある。衆議院事務局は「慣例」としか回答していない。
加藤高明内閣以降には、元老が内閣総理大臣を奏薦する際に憲政の常道が重視されるようになり、衆議院第一党の内閣が倒れた際には衆議院第二党の党首が奏薦されるようになった。衆議院第二党の党首が政権を担当した場合には、内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することが多かった。
その後、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてからは、内閣総理大臣は軍人など政党の党首以外から奏薦されるようになった。陸軍首相の林内閣において最初の予算が成立した直後、1937年3月31日に行われた解散には、重要法案の阻止を図ったという理由以外には特に理由がなく、政党からは「食い逃げ解散」と呼ばれて批判された。この解散は政党勢力を弱体化させるために行われたといわれているが、各政党が議席を伸ばす結果となり、林内閣は5月31日に総辞職した。
ポツダム宣言受諾後の1945年12月18日に行われた解散はGHQの幣原喜重郎内閣への指令によるものであり、終戦解散又はGHQ解散と呼ばれた。この解散を受け、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年4月10日に実施された。
大日本帝国憲法下での最後の解散は、第一次吉田茂内閣において1947年3月31日に行われ、新憲法解散又は第2次GHQ解散と呼ばれた。この解散も、GHQの指令に基づくものであった。
| 解散の年月日 | 解散時の内閣 | 主な通称 | 選挙名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1891年(明治24年)12月25日 | 第1次松方内閣 | 第2回衆議院議員総選挙 | ||
| 1893年(明治26年)12月30日 | 第2次伊藤内閣 | 第3回衆議院議員総選挙 | ||
| 1894年(明治27年)6月2日 | 第2次伊藤内閣 | 第4回衆議院議員総選挙 | ||
| 1897年(明治30年)12月25日 | 第2次松方内閣 | 第5回衆議院議員総選挙 | 解散したその日に内閣総辞職を決定 | |
| 1898年(明治31年)6月10日 | 第3次伊藤内閣 | 第6回衆議院議員総選挙 | ||
| 1902年(明治35年)12月28日 | 第1次桂内閣 | 第8回衆議院議員総選挙 | ||
| 1903年(明治36年)12月11日 | 第1次桂内閣 | 第9回衆議院議員総選挙 | ||
| 1914年(大正3年)12月25日 | 第2次大隈内閣 | 第12回衆議院議員総選挙 | ||
| 1917年(大正6年)1月25日 | 寺内内閣 | 第13回衆議院議員総選挙 | ||
| 1920年(大正9年)2月26日 | 原内閣 | 第14回衆議院議員総選挙 | ||
| 1924年(大正13年)1月31日 | 清浦内閣 | 懲罰解散 | 第15回衆議院議員総選挙 | |
| 1928年(昭和3年)1月21日 | 田中内閣 | 普選解散 | 第16回衆議院議員総選挙 | 初の普通選挙を行う |
| 1930年(昭和5年)1月21日 | 浜口内閣 | 第17回衆議院議員総選挙 | ||
| 1932年(昭和7年)1月21日 | 犬養内閣 | 第18回衆議院議員総選挙 | 総理就任後直ちに行われた解散 | |
| 1936年(昭和11年)1月21日 | 岡田内閣 | 第19回衆議院議員総選挙 | 内閣不信任決議案を受けての解散 | |
| 1937年(昭和12年)3月21日 | 林内閣 | 食い逃げ解散 | 第20回衆議院議員総選挙 | |
| 1945年(昭和20年)12月18日 | 幣原内閣 | 終戦解散 | 第22回衆議院議員総選挙 | GHQの指令。初めて婦人参政権が認められた。 |
| 1947年(昭和22年)3月31日 | 第1次吉田内閣 | 新憲法解散 | 第23回衆議院議員総選挙 | GHQの指令。同年5月3日の日本国憲法施行に備えて行われた、大日本帝国憲法に基づく最後の解散。 |
[編集] 記録
- 解散最多記録 - 吉田内閣 4回
- 戦後解散最短記録 - 第1次鳩山内閣 45日後(組閣1954年12月10日・解散1955年1月24日)
[編集] 脚注
- ^ このことから、衆議院解散には7条解散と69条解散があるという説明がされることがある。しかし、69条所定の事由により解散する場合であっても、7条により天皇の国事行為の対象となることから、分類としては正確性を欠く。
- ^ 内閣総理大臣の意向により解散させることが多いが、憲法上の解釈としては、実質的な権限はあくまでも内閣に帰属するのであり、内閣総理大臣ではないことに注意を要する。
- ^ 衆議院事務局の見解では、解散詔書が発せられたことが内閣から議長に伝達された時点で解散が成立するとされている。
- ^ 例えば、2008年秋の麻生内閣。組閣当初は早期解散をちらつかせたものの、同時期にアメリカのリーマン・ブラザーズ破たんに端を発した世界金融危機による景気悪化によって、補正予算案や金融機能強化法など景気対策を編成しなければならなくなった事に加え、その後の支持率の低迷もあって、2009年3月現在もなお解散権を封じている。
- ^ 帝国議会時代の衆議院帝国憲法改正案委員会(1946年7月20日)における議員原健三郎に対する国務大臣金森徳次郎答弁。
- ^ 衆議院選挙の日程に関する質問主意書に対する答弁(2009年5月22日)
- ^ 公職選挙法 第五章 選挙期日 公職選挙法31条5項参照
- ^ この直前に第2次松方内閣唯一の与党であった進歩党の政権離脱によって、衆議院がすべて野党側(無所属除く)で占められる状況下で内閣不信任上奏案が上程されるが、内閣は上程直後に衆議院を解散するとともに内閣総辞職を決定した。日本憲政史上、議会解散と内閣総辞職が同時に行われた唯一の例である。
[編集] 関連書籍
- 藤本一美『「解散」の政治学』第三文明社

