加藤紘一

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日本の旗衆議院議員 加藤 紘一
生年月日 1939年6月17日(70歳)
出生地 山形県鶴岡市
出身校 東京大学
国立台湾大学大学院
ハーバード大学大学院
学位・資格 法学士
前職 国家公務員(外務省)
所属委員会
衆・文部科学委員会委員
世襲 2世
父・加藤精三(衆議院議員)
選出選挙区 山形県第3区
当選回数 13回
所属党派 自由民主党(無派閥)
党役職
会館部屋番号 衆・第2議員会館711号室
ウェブサイト 加藤紘一オフィシャルサイト
  

加藤 紘一(かとう こういち、1939年6月17日 ‐)は、日本政治家衆議院議員(通算13期)。

防衛庁長官(45代)・内閣官房長官(61代)・自由民主党幹事長(32代)を歴任。

目次

[編集] 人物・略歴

[編集] 経歴

[編集] 政歴


加藤の乱の失敗、秘書の逮捕による議員辞職、地元土建業者との癒着、かつて同派閥に属した谷垣禎一への派閥委譲により、現時点ではかつてのような政治的影響力はない。また、選出選挙区では、元来保守的な地域であるため加藤のリベラル志向に対して批判もある[要出典]。しかし、自民党内にあって小泉・安倍政権に真正面から異を唱える数少ない議員であったため、マスコミが小泉・安倍・麻生政権批判をする場合、コメント役として重宝されてもいた。

  • 外務省出身。中国語語学研修組でありチャイナ・スクールの系譜にあると言われる。
  • 自民党リベラル派(左派系)に分類されることが多い。
  • 1991年 宮沢内閣官房長官に就任。在任中の翌92年10月、はじめての天皇の中国訪問がおこなわれる。当時、天安門事件を理由として欧米主要国が中国に対する経済制裁を実施するなか、中国側の要望に応じるかたちででの天皇訪中は、国際的な経済制裁解除に大きく資するものであった。なお、当時の銭其深中国外相はのちに、この訪中が西側同盟のもっとも弱い環である日本に働きかけた結果であることを回想録において認めている。
  • 1995年自民党総裁選では、現職で同じ宏池会宮沢喜一派)であった河野洋平を支援せず平成研究会小渕恵三派)の橋本龍太郎を支持。橋本の党総裁当選に伴い自民党幹事長に就任。この結果、河野との対立は決定的となり、1998年に宮沢の後継として派閥会長に就任した際、河野らは退会し大勇会(河野グループ)を結成した。
  • 党幹事長時代の1996年、前年の東京協和・安全二信組の乱脈経営に絡んだ大蔵官僚への接待問題や大和銀行NY支店の不祥事に引き続いて、住専国会の最中にあり、旧大蔵省がバッシングの的となっていたが、同年2月4日、JNN報道特集の番組中、「金融と証券はできるだけ自由化して、大蔵省銀行局・国際金融局・証券局を金融庁として分離させ、日銀と一緒に大阪へ持っていく」事を話した。この発言を受けて、翌日の新聞各紙が“大蔵省の権限分散を強調”と大きく取り上げた。これをもって田原総一郎は、一連の大蔵省改革の始まりだったことを述べている[1]
  • 党幹事長として臨んだ第41回衆院選では小沢一郎率いる新進党との二大政党対決を勝利に導いた。その後、党幹事長代理の野中広務と新進党議員の引き抜き工作を行い、自民党の衆院における単独過半数復帰を実現した。
  • 第18回参院選で自民党は大敗、党幹事長を辞職するも後継総裁として小渕を支持、党内第2派閥の領袖として影響力を維持した。
  • 1998年宮沢派を禅譲されるが、河野洋平たちの離脱を引き起こし、宏池会は分裂状態となった。
  • 1999年の自民党総裁選では、自由党公明党との連立政権を目指す現職の小渕恵三を批判して出馬、敗北し党内非主流派となる。
  • 2000年、低支持率ながらも政権を維持する森喜朗に反発し、盟友の山崎拓とともに内閣不信任決議案提出時の本会議に欠席、または賛成する意向を示した(加藤の乱)。かつては盟友であった党幹事長の野中による派閥の分裂工作により加藤の思惑は失敗に終わり、派閥は分裂し小派閥に転落した。
  • 2001年、事務所代表による所得税法違反の責任を取って離党、議員辞職して総裁候補としての地位は終焉した。
  • 2007年2月、自民党の山崎拓、民主党の仙谷由人枝野幸男公明党東順治社民党辻元清美らと超党派勉強会「ビビンバの会」を立ち上げる。
  • 2008年6月9日、山崎拓と一緒に、森喜朗青木幹雄のもとに出向き、加藤の乱について「迷惑をかけた」と謝罪した。
  • 2008年7月3日、日中友好協会の会長に就任。

[編集] YKK時代

かつて山崎拓加藤紘一小泉純一郎の盟友関係は、3人の頭文字からY(山崎)K(加藤)K(小泉) でYKKと称された。竹下派支配に対抗する為に結成された。「加藤の乱」以後も3人の関係は続いたものの、3人の中で最も総理に近いとされた加藤が議員辞職などで力を落としていく一方で、小泉が総理になるなどの有為転変の後、加藤が公然と小泉の政策を批判するようになり、現在では3人の関係は山崎を通してのものとなっているとされる。加藤は橋本政権下で幹事長の要職に就き、ポスト橋本の絶好の位置に存在し、実際に竹下派(当時、小渕派)の中の有力者から総裁に推されることもあったものの、竹下派の影響力を受けた総裁では駄目だとこれを拒否。ポスト橋本の有力候補であり、幹事長時代は竹下派と良好な関係を構築していたが、あくまでも総裁は竹下派の影響を受けない形で就任することを目指すと当時公言していた。一時はN(中村喜四郎)を加え、NYKKとも称されていた。

[編集] 小泉政権時代以後

2006年1月堀江貴文が逮捕されると、第44回衆議院議員総選挙で自民党の公認候補とした執行部に対して、「カネですべてが片付くという人物を応援したのはいかがか。判断は誤っていたと率直に認めたほうがいいのではないか」と非難したが、加藤が政治資金疑惑で議員辞職した過去を蒸し返され「(加藤)先生は一番、政治とカネの問題では苦労したんじゃないですか」と反論された。また、2006年8月15日、右翼団体の男による加藤紘一宅放火事件が発生すると、稲田朋美議員は保守派のシンポジウムにおいて「先生の家が丸焼けになった」と軽い口調で話題に出し、約350人の会場の爆笑を誘った[2]。一方、日本共産党社会民主党の議員らは加藤の発言に同調を示したため、加藤は自民党を越えたリベラル派との連携を意識し始める。

2006年夏にTVに出演した際、総裁選出馬への意欲を聞かれ、「今回『は』そういうことはしない」と発言した。同年9月に誕生した安倍政権とも距離をとり続けてきたが、翌2007年7月の参院選敗北を期に批判を強めた。古賀誠山崎拓と共に「新YKK」として会合を重ね、テロ特措法の期限切れを目途に倒閣に動き、麻生太郎以外の総裁候補を擁立するという計画が立てられていたとされる[3]が、突然の安倍辞任により、続く党総裁選で新YKKはそのまま福田康夫支持になだれこんだ。福田康夫内閣の政治姿勢には支持を表明している。

2008年1月16日谷垣派古賀派の合流の正式合意に関しては、合流を報告した谷垣に対して「のどに刺さっていたとげが取れた感じだ。非常にほっとしている」と、合流を歓迎したが、自身の派閥への復帰には慎重な姿勢を示している[4]

森喜朗内閣の倒閣を狙った2000年11月の「加藤の乱」を振り返って、加藤に期待を寄せた若者について、「おわび行脚と称して全国65カ所をまわりメールをくれた人々と話し合ったが、そこで出会ったのは口数の少ない20、30代であり、政治への関心は高く、選挙にも行くが、他者とのつながりが薄かった」と発言した[5]。かつては将来の首相候補に名前が挙がったが、2010年現在では首相候補として認知されていない[6]

2008年、盟友の山崎拓とともに、亀井静香菅直人と会合を重ね、4名でテレビ出演を行うなど総選挙前後に予想される政界再編を機に政治的影響力の回復を狙っているという推測もなされた(YKKK)。こうした加藤、山崎の動向に対して、「「昔の名前で出ています」みたいな人たちに勝手なことを言ってほしくない」(中野正志衆議院議員)という批判も聞かれた[1]

2009年1月の地元で行われた山形県知事選挙では、現知事の斎藤弘を支援したが、斎藤は野党の担ぐ対立候補に1万票の差を付けられ落選した。

2009年9月の民主党への政権交代後は、目立った動きを見せていない。11月2日の衆議院予算委員会で質問に立ち、鳩山由紀夫首相が本会議の答弁で、自民党総裁の谷垣禎一の質問に「あなたがたに言われたくない」と述べたことをたしなめ、鳩山の持論である「友愛」の意味合いを問いただした。この時、議場から与野党双方の野次が一瞬消えたという。これに対して鳩山は「質問に感謝したい」「ご高説を承った」と答弁した。また、「代表質問の時から後ろで機関銃のような拍手。あれ以来、民主党議員の顔が見えなくなった。」と語り、首相や閣僚の答弁の際の民主党議員の拍手や歓声による演出を批判した。

[編集] 北朝鮮による拉致問題での発言

2008年7月7日日本BS放送の番組において、「拉致被害者は北朝鮮に戻すべきだった」と発言。今日の日朝交渉停滞の原因を、当時の福田官房長官案から、途中で安倍官房副長官案に切り替えた日本が彼らを北朝鮮に返さなかったことによるとした[7]。また、金正日のことを「あの国では、一種、天皇陛下みたいなポジションの人物ですよね。」と述べた[8]

これに対して、拉致被害者家族会(飯塚繁雄代表)と「救う会」(藤野義昭会長)は、抗議声明を出し、「5人が北朝鮮に戻されていれば『自分の意思で戻った』と言わされたあげく『拉致問題は解決済み』という北朝鮮の主張に利用されたであろうことは少しでも外交感覚のある人には明らかだ」と指摘。「不見識極まりない発言だ。加藤氏の精神構造を強く疑わざるを得ない」と批判した[8]

加藤は、北朝鮮に「日本は約束を破った」という不信感と口実を与えたのが現在の交渉停滞の原因という趣旨の発言であるとして、西川のりおとの対論番組での発言の前後の文脈を自身のHPに掲載することで釈明を行った[2]

安倍晋三はこの発言に対して「誘拐された子どもが帰って来て、誘拐犯に戻す親がいるのか」と批判した[9]。また拉致被害者5人を北朝鮮に返すとする約束も「していない」事を指摘し、「日本は約束を裏切ったと言うのは、まさに北朝鮮の主張そのものだ」と批判した。

当の拉致被害者の父にあたる地村保は加藤に対して「貴殿はそれでも日本人かと言いたい」と記した抗議文を加藤に送り加藤の態度を厳しく糾弾した[10]

また拉致問題解決に取り組む約200人の地方議員による「拉致問題を考える草莽全国地方議員の会」は、この一連の言動を強く批判し、加藤の議員辞職を求めている[11]

[編集] 歴史観

1991年1月、宮沢内閣の官房長官として「細部は論じたくないが、(慰安婦側が)強制連行されたと主張するならその通りなのだろう」と日本側の非を認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明した[12]。 また、南京大虐殺について「物の見方だと思います。南京大虐殺も(犠牲者は)30万人という人と3000人という人と。僕はこう思う。3000人でも一般市民を虐殺したら、された方は虐殺と思う。(慰安婦問題も)それに近いんじゃないか。だからそこをあんまりとやかく、細かく論じたくありませんね」[13]と語ったとされる。

1994年8月、当時自民党政調会長だった加藤は中国人民抗日戦争記念館を訪れ「ここに来るのは長年の願望だった」「来年は終戦から50年。日本では、どう50年を迎えれば良いか議論しており、日中戦争が本格的に始まるきっかけとなった盧溝橋を訪れることができたことは意義深い」とした。また、外務官僚時代にハーバード大学に留学した際に「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得したことを述べ、「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して抗日記念館の館長に献じた。

2006年に自宅を放火される事件の前後から、歴史認識問題等における保守派を『小林よしのり系』だとみのもんたの朝ズバッ!で発言し、放火事件の背景として小林の名を著書で挙げるなどたびたび攻撃している。加藤がSAPIO編集部からの討論打診を拒否したこともあいまって、小林からは『言論テロ』、『異常な政治家』などと『ゴーマニズム宣言』において批判されている(もっとも、加藤の乱の時から小林は加藤に批判的であった)。

[編集] 主な所属議員連盟

[編集] 不祥事

政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。

[編集] 親族・縁戚

[編集] その他

  • 今や当たり前となっている内閣官房長官が立ったまま質問に答える形式(起立型)の記者会見を始めたのは、加藤が最初である。それまでの内閣官房長官は座って記者会見を行っていた。加藤が起立型に切り替えたのは、加藤の支持者から「TVで会見を見ていると元気が無いように見える」と指摘されたのがきっかけと言われている。
  • かつての保守本流派閥の宏池会の流れを汲む3派閥(麻生派・古賀派・谷垣派)の間で宏池会再結集構想(大宏池会構想中宏池会構想)がしばしば登場するが、加藤は派閥分裂の原因を作った張本人であり、麻生・古賀両派の中にはいまだに加藤に不信感を持っている者もいる。加藤自身は2005年9月に加藤派の後継である谷垣派を離脱し無派閥であり、2008年5月に中宏池会合同が実現しても無派閥のままである。

[編集] 語録

  • 「解散の時期に関して政治家は権力から遠ければ遠いほど疑心暗鬼になり、近ければ近いほど操作したくなる」

[編集] 発言

  • 「(金正日総書記は)向こうの国(北朝鮮)でいえば天皇陛下みたいな立場」(2007/12/18 報道2001番組内で発言)
  • 「(拉致被害者を)北朝鮮に返したほうがよかった」(2008/7/7 BS11番組内で発言)
  • 「(金正日総書記は)天皇陛下みたいなポジションの人物ですね」(2008/7/7 BS11番組内で発言)

[編集] 文献

[編集] 著書

  • 『強いリベラル』 文芸春秋社、2007年6月、ISBN 4163692401
  • 『新しき日本のかたち』 ダイヤモンド社、2005年11月、ISBN 4478180431
  • 『いま政治は何をすべきか : 新世紀日本の設計図』 講談社、1999年8月、ISBN 4062098733
  • 『日本の政治 : 現場報告 : 講演と討論』 明治学院大学立法研究会編、信山社出版、1995年5月、ISBN 4797250011

[編集] 共著

[編集] 訳書

[編集] 関連文献

  • 『屈託なく生きる』 城山三郎、講談社、1988年1月、ISBN 4062035863
  • 『激動のなかを生きる男たち』 竹村健一、バンガード社、1998年7月、ISBN 4915599140
  • 『加藤紘一・全人像』 仲衛、行研、1992年6月、ISBN 490578686X
  • 『自民党・ナンバー2の研究』 浅川博忠、講談社、2002年7月、ISBN 4062734990
  • 『自民党幹事長室の30年』 奥島貞雄、中央公論新社、2002年12月、ISBN 4120033430

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

官職
先代:
坂本三十次
日本の旗 内閣官房長官
第54代:1991年 - 1992年
次代:
河野洋平
先代:
栗原祐幸
日本の旗 防衛庁長官
第43代:1984年 - 1986年
次代:
栗原祐幸
先代:
森喜朗
日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
次代:
瓦力
党職
先代:
三塚博
自由民主党幹事長
第32代 : 1995年 - 1998年
次代:
森喜朗
先代:
橋本龍太郎
自由民主党政務調査会長
第40代 : 1994年 - 1995年
次代:
山崎拓
先代:
宮澤喜一
宏池会会長
第6代 : 1998年 - 2001年
2001年 - 2002年
次代:
堀内光雄堀内派
小里貞利小里派