中曽根康弘

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中曾根 康弘
(なかそね やすひろ)

717273
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 1982年11月27日
 - 1987年11月6日

生年月日 1918年5月27日(89歳)
出生地 群馬県高崎市
出身校 東京帝国大学
学位・資格・称号 海軍主計少佐
従六位
大勲位菊花大綬章
法学士(東京帝国大学)
名誉博士等。
前職 内務省職員
世襲の有無
選挙区 衆院旧群馬3区
比例北関東ブロック
当選回数 衆20回
党派 自由民主党
没年月日 {{{没年月日}}}

中曾根 康弘なかそね やすひろ新字体では中曽根 康弘とも、大正7年(1918年5月27日 - )は、日本政治家

第71~73代内閣総理大臣(在任:1982年11月27日 - 1987年11月6日)。

衆議院議員連続20回当選((1947年2003年))。位階勲等従六位大勲位

現職は財団法人世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長理事長、名誉総長東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。

職歴は内務省大日本帝国海軍を経て、内務省に再勤、退官後、衆議院議員選挙に立候補。 以来、中曾根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣防衛庁長官通商産業大臣行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、内閣総理大臣となる。

2004年7月19日鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者となった。また、2008年現在存命の首相経験者は、すべて中曾根が辞任した後に首相になった人物である。

目次

[編集] 略歴

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

1歳の誕生日を迎えた中曾根
1歳の誕生日を迎えた中曾根

群馬県高崎市に父・中曾根松五郎 母・ゆくの次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあってそこに住居と工場があり、働いている職人が中曾根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いた豪商だった[1]

地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。

同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇小沢辰男大村襄治らがいた。

[編集] 海軍

短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍経理学校にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗船して、高知県土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。

同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。

中曾根 康弘
1918年5月27日 -
生誕地 群馬県高崎市
最終階級 主計少佐
部隊 海軍主計科
除隊後 内務官僚
衆議院議員
内閣総理大臣

29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曾根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曾根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を飲み交わし、人心掌握に努めた。

1941年12月7日大東亜戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島ダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。

次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダイギリス巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曾根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火事が発生してしまう。

消火班長でもある中曾根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて言ってみると、あの前科八犯の古田が誰かに背負われ、足が砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、その古田が中曾根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曾根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。

友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜

夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ

当時の経験を振り返り、中曾根はこう語った。

「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」[2]

なお、終戦時の中曾根の階級は海軍主計少佐となっている。

[編集] 政界進出

[編集] 衆議院議員

戦後内務省に復帰し、 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視監察官を務める。その後退官し、衆議院議員選挙に当選。早くから鳩山一郎三木武吉芦田均らに従い、反吉田憲法改正を主張した。1953年には改憲して首相公選制にすべきと発表。1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは青年将校と呼ばれた。

進歩党野党派の一員として、北村徳太郎らと行動を共にした。保守合同に際し、北村系が旧鳩山派である河野一派に合流すると、河野派に属した。岸信介改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曾根派を形成し一派を率いる。

初当選した選挙で白塗りの自転車日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言するなど大胆な発言やパフォーマンスを好み、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、小派閥ながら早くから存在感を示していた。1965年には福井県九頭竜ダム建設をめぐる落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がる。

[編集] 入閣

田中角栄(左)
田中角栄(左)

第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣防衛庁長官を歴任。1972年には、殖産住宅事件では取得で証人喚問される。翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互社長東郷民安は旧制静岡高校時代からの友人であった。このため、親友も見殺しにすると囁かれた。

1972年のいわゆる三角大福戦争の際には野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていた事等から田中支持に回った。しかしながらこの言動が角栄の買収等と後に週刊誌に憶測を呼ぶ事になった。

第1次田中角栄内閣通商産業大臣科学技術庁長官となり第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党の幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。

1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。刑務所の塀には登るがそこから落ちないと揶揄された。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、大平内閣では反主流派に位置したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があり、鈴木内閣では主流派に転身する。

鈴木内閣では行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。中曾根自身は当初意図したポストは蔵相などの主要閣僚であったがよりによって派の後輩の渡辺美智雄にその座を攫われるという屈辱を味わうが、腐らず職務に励み首相就任後分割民営化等の答申をする事になる土光敏夫の信頼も得る事になった。

[編集] 総理大臣就任

[編集] 長期政権

田中派の支持も得た中曾根は党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年(昭和57年)に第72代内閣総理大臣に就任。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年(昭和62年)まで一国の総理の座にあり小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となる。

ただし、政権発足初期は、総理派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等を保守色が強い姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」等といった激しい批判を浴びた。

また広島市原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曾根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」等の失言で物議を醸す事も多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。

1983年の第37回衆議院議員総選挙、1986年の第38回衆議院議員総選挙では現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制)。これは歴代首相で中曾根だけ。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。
中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照のこと)。なお、現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲石橋湛山の例がある)。

任期後半には貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し国有地の払い下げ等を行い、地価が高騰しそれに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。

[編集] 外交

[編集] 日米関係
訪米時にアンドリュース基地に到着した中曽根と妻の蔦子
訪米時にアンドリュース基地に到着した中曽根と妻の蔦子
アメリカのロナルド・レーガン大統領と私邸で昼食をとる中曾根
アメリカのロナルド・レーガン大統領と私邸で昼食をとる中曾根

1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[3]。時代背景は、ソ連大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングⅡを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。

1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。

そして参議院本会議では、伊東正義外務大臣と日米同盟の解釈をめぐって対立し、伊東正義外務大臣が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なる事となる。大村襄治防衛庁長官がワシントンワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。

おまけに伊東正義外務大臣の後任である園田直が、韓国との関係まで損なう事件まで起こしてしまう。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルのドルの政府借款要請したことに対して、園田は経済協力を切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、びた一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をしてしまい、韓国の反発を招く。中曾根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。

1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曾根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曾根は首相になって初めての訪米の途についたのである。

訪米中に中曾根が語ったとされる「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体」発言、さらには三海峡(千島津軽対馬)封鎖発言により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に個人的な親密関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。しかし、これは、米国への隷従と取るむきもあり、また、ヤスはロンのつかいっぱしり(Messenger boy)と批判されることもある。また、日米の通商、経済摩擦が深刻化したため、アメリカの貿易赤字に対処するために日本国民に輸入品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分 当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなど、アメリカの要求には素直に同じたりもした。この時の広告が「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。

マイナス面として、自民党内の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言してしまい、アメリカ下院に中曾根非難決議案が提出される一幕もあったが、この決議は首相の陳謝により後に取り下げられている。

[編集] 不沈空母発言の真相

有名な外交記者オーバードルファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳したのだった。

後日オーバードルファー記者から、中曾根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べなおしたが「不沈空母」なる言葉がなかったので、正確な内容をもういちど記載すると言ってきたが、中曾根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。

[編集] ウィリアムズバーグ・サミット
1983年、アメリカバージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目)
1983年、アメリカバージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目)

中曾根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配慮すべきか否か、であった。

だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスミッテラン大統領、西ドイツコール首相、カナダトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。

そうした状況の中、中曾根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。

そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。これにより、ウィリアムズバーグ・サミットは、歴史的な成功を収めたのである。

このウィリアムズバーグでの西側陣営の乱れなき結束と対決の意思が、その後の東欧衛星国の完全独立への行動に励ましを与え、ひいてはソ連の崩壊へのスタートになったことは歴史が証明している。

[編集] クレムリンの機密文書

ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。

このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曾根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。

[編集] 日中関係

以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったのだが、中曾根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化につとめたので反中派であったかのような印象もある。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曾根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曾根だけである)当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曾根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としており、このことからも在任当時反中派であったとは言い難い。

また中曾根内閣当時、中華人民共和国鄧小平は、主敵はソビエト連邦であるとし、日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出してもいた。

角福対立時代には一貫して日中国交回復を支持する立場をとっていることから、中曾根の姿勢は反中的なものではなく、一方的な対中追従でもなく、中華人民共和国を親日化することが目的であったと言える。中華人民共和国からの留学生の多数受け入れもその一環である。

[編集] 民営化推進

中曾根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社日本国有鉄道および日本電信電話公社三公社民営化させる他、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。

次第に国民からの支持も安定し、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙(死んだふり解散)では300議席をこえる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。また、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともありこれについては少なからず批判もある。

[編集] 退任

竹下登
竹下登

この年の前半は中曽根にとって最悪の状態となった。選挙中に「導入しない」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及されて支持率が急落。1987年(昭和62年)4月の統一地方選を敗北し翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決し内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要、NBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率も復活、同年11月余力を持ったまま退任する。ニューリーダーと呼ばれた竹下登安倍晋太郎宮沢喜一のうちから事実上の後継者指名権を得て竹下を後継に指名(中曽根裁定)した。

中曾根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下がもっともふさわしいと判断したという。首相在任1806日は歴代6位(戦後4位)、中曾根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。

[編集] 「印象に残る存在」

長期政権を務め(ちなみに彼と鈴木善幸小泉純一郎を除く近年の首相はことごとく任期を務め上げられずに退任している)、前述後述される様々な要因によって強い印象を与えたため、国民の間における知名度は極めて高く、また親しまれ、在職当時はアニメ映画ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』に、名前こそ出なかったものの顔がそっくりなキャラクター「首相」が登場したりなどした。

中央の情勢に疎い田舎の住民から1990年代後期になってなお、現役の総理大臣として健在であると誤解されている冗談があり(当時のバラエティ番組に出演し上京した田舎の青年が首相官邸を見て『あそこに中曽根総理がいるんですかね』と発言し、ツッコミを入れられる一幕があった)、知名度と印象度、存在感の高さがうかがえる。

[編集] 退任後

1989年にはリクルート事件が直撃。野党は予算審議と引き換えに中曾根の証人喚問を要求したが中曾根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し小沢一郎とともに海部俊樹を担ぐが失敗するも党からは貢献度を重視し不処分であった。

鳩山由紀夫民主党を創設した際には「溶けたソフトクリームだ。」と酷評しこれが流行語候補になる等話題を集めた。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫として主張した。1996年(平成8年)には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに比例区での終身一位の保証を受ける。

1997年(平成9年)、叙勲。大勲位菊花大綬章受章。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、結果佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受けた。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後1999年亀井静香平沼赳夫率いる亀井派と合併し志帥会となり、最高顧問に就任。竹下登宮澤喜一とともに本会議場の通称長老席と呼ばれる最後尾に陣取り三人が居眠りをしている写真が老害の象徴として週刊誌や夕刊紙に取り上げられる事もあった。

[編集] 政界引退後

小泉(左から2番目)
小泉(左から2番目)

2003年自由民主党の比例区における73歳の定年制導入により、2003年の総選挙では、自民党の比例区からの出馬が出来ず、立候補を断念し引退した。

中曾根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判があがり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁は中曾根と宮沢喜一の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを、小泉総裁が一方的に破棄して中曾根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼んだ(詳細は上州戦争の項を参照)。なお、中曾根と宮沢両元首相は、前回第42回衆議院議員総選挙では、特例により比例区定年制対象外となっている。

また、宮沢は「総理の面目を潰す訳には行かない」と、今回の引退勧告には素直に応じており、最高勲章たる大勲位を受賞した85歳(当時)の引き際に関する議論は残る事であろう。因みに当時の最高責任者である幹事長は加藤紘一(総裁として橋本龍太郎も併記)。

現在は砂防会館内に個人事務所を設け各種政治活動を行う他、財団法人世界平和研究所の会長も務める。同研究所では中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に期す研究業績を表彰している。

2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曾根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文はより大幅に簡略化された内容となる)。

2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時にボルネオ島で設営したと書かれている「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らがを打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した[4][5][6]

[編集] 大連立構想を仲介

大連立構想 (日本 2007)を参照

自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。

[編集] ライフワーク

「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」など革命指向の労働運動への敵対に力を入れたことから、長く左派・中道派や「護憲派」などからは右派改憲派の頭目として批判を受けてきた。しかし、小泉総裁との関係が悪化した事から、自民党は新憲法起草委員会で前文小委員長であった中曾根が作成した憲法前文の試案を使用せず、中曾根は身内であった自民党によって憲法改正論議の蚊帳の外へ追い出された。

[編集] 政治姿勢

[編集] 憲法改正

  • 改憲をライフワークとしている。新憲法制定議員同盟・会長。

[編集] 小泉内閣への評価

  • 小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタンイラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる。
  • 最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」を指摘。

[編集] 保守意識

「保守本流には、自由党系と、民主党系があり、憲法改正を唱える中曽根派は真正の保守本流である」 という強い意識があったようだ。

[編集] 戦後政治の生き証人

松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。このため、宮澤喜一とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言を度々行う。

とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。

実際には、金丸信との不仲は有名であった。また森内閣総辞職後の総裁選で、亀井を出馬辞退させたことに象徴されるとおり、野中広務も嫌っていたと思われる。このため、中曾根が本心から褒め上げたというよりは、三木武吉の名を出して相手を喜ばせていただけと考えられる。「食えない風見鶏政治家」としての本領を発揮した好例であろう。

[編集] 交友関係

ロナルド・レーガン
レーガンとは「ロン、ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。
1983年1月16日、中曾根がブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上での事「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後20数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」この話の途中で中曾根は感情がこみあげ言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツ国務長官から前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
1983年1月17日、ワシントンポスト紙の社主だったキャサリン・グラハム女史の朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと、ワシントン・ポストは大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。
キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曾根もこれに同意している。
マーガレット・サッチャー
大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曾根は評した[7]
竹村健一
中曾根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曾根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合い。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曾根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の一月の全国大会では、毎年中曾根が基調講演を行っている。
渡邉恒雄
読売新聞会長の渡邉恒雄とは盟友関係にあり、小泉純一郎の推し進めた郵政民営化靖国神社参拝などには異議を唱えた。
田中角栄
永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲。
胡耀邦
『三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。
1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足。これは胡耀邦と中曾根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという。

[編集] 宗教関連

中曾根は自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、座禅だけは好んで行っている[2]
世界基督教統一神霊協会
世界基督教統一神霊協会(統一教会)・国際勝共連合との関係について以下の指摘がある。
1992年3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した[8]
1992年9月、統一教会発行「中和新聞」によると、桜田淳子山崎浩子が参加したことで注目を浴びた1992年の統一教会の合同結婚式に中曾根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。
1994年8月 勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕(パク・ポーヒー)と会談。1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける。金丸信が(「東京佐川急便事件」で)失脚したので、北朝鮮と日本を結ぶパイプ役をお願いしたとされる[9]
2006年3月21日、千葉県幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという[10]

[編集] その他

  • 過去には日本テレビに『なかそね荘』(毎週土曜日放送)という自分の番組を持っていた。

[編集] 渾名

[編集] 栄典

位階勲等平成9年4月29日に大勲位菊花大綬章を授かっている。その他の栄典として従六位、フランスレジオン・ドヌール勲章、ドイツ共和国功績勲章大十字章受章。

海軍警視庁時代の最終階級海軍主計少佐警視

称号名誉博士ルイ・パスツール大学高麗大学 またタマサート大学からは政治学)。その他、受けた表彰としては国会議員在職50年表彰などがある

[編集] 家族・親族

自家