久間章生
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きゅうま ふみお
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| 生年月日 | 1940年12月4日(71歳) |
| 出生地 | 長崎県南高来郡加津佐町 |
| 出身校 | 東京大学法学部卒業 |
| 前職 | 長崎県庁農林部職員 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 法学士(東京大学・1964年) |
| 公式サイト | 前 衆議院議員 長崎県第二区 久間章生 |
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| 内閣 | 安倍内閣 |
| 任期 | 2007年1月9日 - 2007年7月4日 |
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| 内閣 | 安倍内閣 |
| 任期 | 2006年9月26日 - 2007年1月8日 |
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| 内閣 | 第2次橋本内閣 第2次橋本改造内閣 |
| 任期 | 1996年11月7日 - 1998年7月30日 |
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| 選挙区 | (旧長崎県第1区→) 長崎県第2区 |
| 当選回数 | 9 |
| 任期 | 1980年 - 2009年7月21日 |
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| 当選回数 | 3 |
| 任期 | 1971年4月 - 1980年9月 |
久間 章生(きゅうま ふみお、1940年12月4日 - )は、日本の元農林官僚である政治家。長崎県議会議員、衆議院議員、防衛庁長官(第59・73代)、防衛大臣(初代)などを歴任した。
目次 |
[編集] 概説
長崎県南高来郡加津佐町(現南島原市)の農家に生まれる。両親は教育者(父は高校教員、母は中学教員)。
長崎県立口加高等学校、東京大学法学部卒業後、農林省に入省。農林省退職後に長崎県庁に入庁し[1]、長崎県議会議員を経て、1980年に衆議院議員に初当選。第2次橋本内閣で防衛庁長官として初入閣。
小泉政権時代、同じ橋本派の野中広務、綿貫民輔らが反小泉の姿勢を採る中、額賀福志郎らと共に、親小泉の姿勢を見せていた参議院の実力者・青木幹雄と共同歩調をとり、衆院橋本派の大幹部となった。2002年6月に鈴木宗男事件が発生して衆議院本会議で鈴木宗男議員辞職勧告決議が採決された時は、起立採決の際に出席議員で唯一着席したままで、反対票の意思表示を示した[2]。小泉政権下では、2003年に自由民主党幹事長代理、2004年〜2006年に自由民主党総務会長に起用される。2005年の郵政国会では6月28日に自由民主党総務会における郵政民営化法案の決議においては、総務会長として議事を担当し、全会一致の慣例を破る形で多数決で採決させ党議拘束の口実を作った。
2006年9月26日、安倍内閣で再び防衛庁長官として再入閣。その後、2007年1月9日に防衛庁が防衛省に昇格したのに伴い、初代防衛大臣となったが、2007年6月30日に開かれた講演会での原爆投下をめぐる発言で、被爆者団体を筆頭に被爆者や遺族などから問題視され、同年7月3日、この発言の責任を取る形で大臣の座を追われた。その後もマスコミによる批判報道や、反核平和団体や、被爆者団体などからの反発や、抗議活動が続き、同年8月9日に長崎で行われた平和祈念式典を欠席せざるを得ない状況に追い込まれた。→後述
頭は切れるという評判がある。郵政国会下では総務会長権限による多数決採決という強権発動による党議拘束の口実で、郵政解散と小泉劇場の下地を整えた。また参議院与党劣勢下の野党に強権による証人喚問がしやすい情勢下でねじれ国会下で発覚した山田洋行事件では逮捕された宮﨑元伸から接待を受けた守屋武昌防衛事務次官が証人喚問で「接待の場に久間氏と額賀氏が同席」と答弁された際には、自らは外遊の予定を直前でキャンセルして「解離性大動脈瘤」の大手術として病院に入院して証人喚問を受けにくくする一方で現役閣僚で身動きが取れなかった額賀のみに嫌疑の批判を大きく集中する構図となり相対的に自身への嫌疑を少なくさせた。
士志の会に属し、同会を構成する麻生太郎の後見人的立場にある。
[編集] 略歴
- 1959年3月 長崎県立口加高等学校卒業。
- 1964年3月 東京大学法学部政治コース卒業。
- 1964年4月 農林省入省。
- 1970年 農林省退官。
- 1970年 長崎県庁入庁。
- 1971年4月 長崎県議会議員に当選。以後3期9年間を勤める。
- 1980年5月 長崎1区より衆議院議員総選挙に再出馬し、初当選。
- 1987年11月 運輸政務次官に就任。
- 1994年1月 自民党国会対策副委員長に就任。
- 1996年1月 自民党副幹事長に就任。
- 1997年11月 第2次橋本内閣防衛庁長官に就任。
- 2003年9月 自民党幹事長代理に就任。
- 2004年9月 自民党総務会長に就任。
- 2005年10月 自民党総務会長に留任。
- 2006年9月 安倍内閣防衛庁長官に就任(2回目の就任)。
- 2007年1月 防衛省発足に伴い、初代防衛大臣に就任。
- 2007年7月 防衛大臣を辞任。
- 2009年8月 第45回衆議院議員総選挙に出馬し、民主党公認の新人福田衣里子に敗れて落選。比例復活もならず。
[編集] 趣味
[編集] 関係する団体
- 日韓議員連盟 副会長
- 日韓トンネル研究会 顧問
- パチンコチェーンストア協会 政治分野アドバイザー[3]。
- 社団法人日米平和・文化交流協会 (後述)理事
[編集] 政治姿勢
[編集] イラク戦争
2006年12月8日(真珠湾奇襲の日)の午前の記者会見で、前日(12月7日)の参院外交防衛委員会において「小泉純一郎前首相がイラク戦争を支持したのは非公式」とした自らの発言について「不勉強で間違いだった」と訂正し、撤回した。内閣総理大臣(当時)小泉は開戦時に緊急記者会見して「武力行使を理解し、支持する」と表明、首相談話も閣議決定していた。なお、上記の訂正記者会見においても、久間自身はイラク戦争を支持しないことを明言している。防衛庁長官を2回務めた政治家であるが、イラク戦争についてはハト派的な外交防衛認識の持ち主である。
2007年1月25日には、「日本記者クラブ」における会見で「イラクに大量破壊兵器があると決め付けて戦争に踏み切ったブッシュ大統領の判断は間違いだった」と述べた。イラク戦争を支持している安倍内閣において、久間の発言は閣内不一致であるとの批判がなされたが、内閣官房長官塩崎恭久は「久間氏の個人的な、閣僚としてではなくいち政治家としての意見であり、閣内不一致ではない」と強調した。政権側は大統領批判ではないと釈明した。1月29日午後衆議院本会議において、民主党の松本剛明にこの点を追及された久間は「(開戦)当時、閣外にあって感じた感想として述べたもので、防衛相としては(米国支持の)政府の立場を支持している」と釈明した。
同年2月22日の衆議院安全保障委員会では、「閣僚は他国にどういう形で伝わるかも計算した上で言わなくてはならない。(ブッシュ大統領の)教書演説が発表された日に、そう言ったこと自体が配慮に欠けていた。反省している」と答弁した。この発言については米国から日米同盟を損なうという抗議が来たほか、米国務省日本部長のジェームス・ズムワルトは「大統領を批判するような発言が繰り返されれば、日米安全保障協議委員会(2プラス2)の日程設定が困難になりかねない」と批判。米国は日米安全保障協議委員会の開催に当分応じない見込みと報じられた。軍事ジャーナリストの 神浦元彰は外務省が米国の意向を先回りして、そのように伝えたのではないかとする説を出した[4]。
一方で、「既に明らかになりブッシュ大統領も認めているが、開戦の大義であった大量破壊兵器はイラクには存在しなかった。(それなのにイラク戦争を批判したところで)そのことで米側から抗議を受けるものだとはとても思えない」などの反論もある[5]。自民党内では、加藤紘一が久間を擁護し、「なぜ批判を受けなければならないのか。(イラク戦争開戦の誤りは)世界の常識だ」と政府側に詰め寄ったという[6]。
[編集] 沖縄米軍基地
イラク戦争については米国を批判したが、他方在日米軍については、米国に協力的であった。しかし2007年に入り、「アメリカは沖縄の人々の気持ちを理解してくれていない」と米国の意に反する発言をしたため、来日したチェイニー副大統領との会談を拒否される事態となった。チェイニーは自衛隊の最高責任者である久間を無視して、自衛官(制服組)トップの齋藤隆統合幕僚長を始めとする自衛官幹部と会談した。
2006年10月、沖縄県の米軍嘉手納基地に、米軍がパトリオット地対空ミサイルシステム(PAC-3)配備を強行した。久間は11月7日の衆議院安全保障委員会の答弁で「今朝鮮がミサイルの実験をやった、核実験をやった、そういう中で、パトリオットをせめて沖縄に配備しておかなければいかぬ(中略)我々としては素直に、これは、日本の防衛の中で手薄である沖縄については、せめて嘉手納を、自分の基地があるわけだから、そこについてはアメリカが責任を持って防御しましょうということでまずやってくれたということは、私は歓迎すべきことじゃないかなと思う」と述べた。沖縄では基地機能の強化・新たな負担増・格好の軍事標的にされるなどの理由で反対が強く、久間の発言は反発を受けた。
11月19日投開票された沖縄県知事選では、与党推薦の仲井眞弘多が米軍普天間基地の県内移設に反対する糸数慶子を破り当選した。共同通信によると、久間は11月23日、長崎市内で開かれた自民党議員らの会合で、もしも糸数が当選していた場合、「法律を作ってでも、一方的に県知事の(公有水面の)使用権限を国に移してでも、やらなければいけないと考えていた。もし負けたら、力づくででもこっちはやるんだという腹を持っていた」と述べた。基地移設には埋め立てが必要で、そのためには公有水面埋立法に基づき知事の許可が必要である。移設反対派が勝った場合、強硬手段によって(『読売新聞』11月24日号によると、特別措置法を制定し、知事の許認可権を政府に移す予定であった)ことを進める方針だったのである。
2007年1月27日、長崎県諫早市での講演で普天間飛行場移設問題に触れ、「私は米国に『あんまり偉そうにいってくれるな。日本のことは日本に任せてくれ』といっている」と発言した。さらに、アメリカが推進する沿岸案実現には沖縄県知事の公有水面埋立許可が必要であることを念頭に置いてか、「米国は『政府同士が決めたのだから、それでやったらいいじゃないか』というが、日本はけっこう地方分権になっている」、「仲井眞弘多沖縄県知事の意見も聞き入れながらやっていかなければならないが、米国は根回しがわからない」と発言した[7]。塩崎恭久内閣官房長官はこの発言について「問題があれば注意する」と述べた。米国側は「当方も海兵隊を説得するのが大変だった。話し合って合意した政府間の取り決めは守ってくれねば困る」と不快感を表明している。
元外交官で作家の天木直人は、久間の頭越しに自衛官幹部との接触を表明したチェイニー及び米国の対応はシビリアンコントロールに反しており、外務省はこのような日程を断じて認めてはならないと自身のブログで批判した[8]。しかし、訪日したチェイニーは、当初の予定通り自衛官幹部のみと懇談した。
[編集] 不祥事
[編集] 許永中の会社を経営
日本の戦後最大規模の経済不正経理事件・イトマン事件で逮捕された許永中との親密な関係が知られており、関連企業の大阪国際フェリーの社長を1986年までつとめていた。大阪国際フェリーは大阪と釜山を結び、朝鮮半島への資金運搬船として運航していた。久間は政治家としての事務所を大阪国際フェリーの事務所内に置いていた時期もあった。
[編集] 暴力団組長らと記念撮影
防衛庁長官だった1997年10月に防衛庁の長官執務室で暴力団組長らと 記念撮影をしていたことが関係者の話などで2001年に発覚した。写真は写真週刊誌「フライデー」の2001年6月22日号に掲載されており、 「国務大臣 防衛庁長官久間章生」の札が置かれた机に向かって座る久間と、 囲むようにして立つ男性4人が写っていた。同誌は「暴力団組長と記念写真」の見出しで、広域暴力団関係者や右翼団体幹部が写っていると紹介した[9]。
[編集] 雀荘への事務所設置問題
2007年1月25日発売の『週刊新潮』が、久間の元秘書が会計責任者になっている政治団体「東京久栄会」と「辰巳会」の事務所の所在地が雀荘である[10] と報じた。久間は「私は知らない」とした。
[編集] 違法献金受領問題
2007年3月7日、参議院予算委員会での参議院議員井上哲士(日本共産党)の質問により、久間が医療法人から違法献金を受け取っている疑惑が発覚した[11][12][13]。
日本共産党、厚生労働省、政治資金収支報告書などによると、久間が代表の自由民主党長崎県第二選挙区支部は、2004年11月に8500万円超の補助金交付決定を受けた医療法人から、2004年11月〜2005年10月に政治献金を受け取っていた。政治資金規正法第22条の3には「国から補助金(中略)を受けた会社その他の法人は、当該給付金の交付の決定の通知を受けた日から同日後一年を経過する日(中略)までの間、政治活動に関する寄附をしてはならない」との規定があり、上記献金がこの規定に違反すると指摘されている。
2007年3月7日の参議院予算委員会にて、久間は医療法人が補助金を受けている事実を知らなかったとし、「(政治資金規正法の)制度については存じている」「(献金を受けていることは)事実であります」「もし補助金を受けているとすれば返還しなければならない」と答弁し、返金を検討することを明らかにした。
[編集] 防衛専門商社による接待
2007年11月15日、防衛官僚の収賄疑惑にかかる参議院証人喚問において、守屋武昌前防衛事務次官から、自衛隊次期輸送機エンジン納入を巡って、山田洋行元専務からの高級料亭接待の席に久間元防衛大臣と額賀福志郎元防衛庁長官が同席していたとの証言があった(山田洋行事件)。
また、一部報道では防衛大臣就任時、(山田洋行から日本ミライズに代理店が変更していた)ゼネラル・エレクトリック社製のCX用エンジンの調達について、日本ミライズを契約からはずすことを検討するよう担当課長に指示した疑惑がある。山田洋行一族の結婚式に参加し「車代」の提供を受けていることからも、山田洋行オーナーの山田正志とは懇意であったことが伺える。また、イースタンカーライナー(東京都 天王洲アイル所在)の船会社に、期限切れのパーティー券を購入させていたとの疑惑もある。
[編集] 問題視された発言
[編集] 「私でも沖縄を真っ先に占領」発言
2006年12月7日の参議院外交防衛委員会で、「私はやっぱり、あそこ(沖縄)は拠点として真っ先に占領したと思う」と述べた。自らがアメリカの立場になったと仮定した上で太平洋の要石と呼ばれるほど地政学的重要的位置づけである沖縄基地の重要性を指摘した発言であったが、元ひめゆり学徒隊の沖縄県民らは「他人事のような発言。沖縄戦でかつて捨て石にされた沖縄が、また切り捨てられたようだ」と反発した[14]。
[編集] 長崎市長射殺事件に関連しての発言
2007年4月17日に発生した長崎市長射殺事件に際し、心肺停止状態であった伊藤一長市長について「万が一のことも考えないといけない」と発言。 「不謹慎だが」としながら「投票日3日前を過ぎたら補充がきかず、共産党と一騎打ちだと共産党(推薦)の候補者が当選することになる。法律はそういうことを想定していない」と公職選挙法における補充立候補の不備を指摘した[15][16]。この発言に対しては塩崎恭久官房長官が不適切との認識を示したほか、志位和夫共産党委員長、小沢一郎民主党代表ら野党も批判を示した[15][17]
[編集] 「原爆しょうがない」発言
2007年6月30日に行われた講演会での発言に対して、被爆者団体などが猛反発し、久間が当時務めていた防衛大臣の座を追われた発言である。
日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った
[編集] 発言概要
2007年6月30日、麗澤大学比較文明文化研究センター(千葉県柏市)主催の講演会で、アメリカの原爆投下の意図について、日本を降伏させ、ソ連の参戦を食い止める為との見解を示した。そして「(前略)…原爆を落とされて長崎は無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったのだ、という頭の整理で今、しょうがないなと思っているところでございまして…」と述べた。また「米国を恨む気はないが、勝ち戦と分かっている時に原爆を使う必要があったのかどうか、という思いは今でもしているが、国際情勢や戦後の占領を考えると、そういうことも選択肢としては、戦争になった場合はあり得るのかなと」とアメリカの立場にも一定の理解を示した[18]。
[編集] 発言後の動き
久間は7月1日のフジテレビ「報道2001」で、「原爆しょうがない」発言に対する批判や責任を問う声について、「そんなような内容(の発言)ではない」、「訂正する必要はない。誤解を与えたところがあれば、そこは丁寧に説明しなければいけない」と述べて、強気の姿勢を貫き、撤回・訂正はしない考えを明らかにしていたが、その後中川秀直幹事長や公明党からも批判を受けたため、同日の記者会見で「被爆者を軽く見ているかのような印象に取られたとすれば申し訳なかった」と陳謝し、発言を事実上撤回した[19]。
発言に関して、安倍晋三首相から厳重注意を受けた。当初、安倍首相の意向から辞任はしないとしていたが、地元の被爆者団体からの激しい抗議を受けて、結果的に7月3日、防衛大臣の座を辞職という形で追われることになり、毎年参加していた8月の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を欠席せざるを得ない状況へ追い込まれた。
[編集] 被爆地の反応
前述の発言により、被爆者団体などから猛反発を受けたほか、秋葉忠利広島市市長が発言の撤回と広島・長崎訪問による被害の直視を求める抗議声明を出した[20]。
長崎市では、7月2日、市議会が久間の発言に抗議する意見書を自民党会派も含め全会一致の賛成で可決した上で[21]、田上富久市長は、市議会の議長とともに7月3日に上京し、安倍首相と久間サイドへ抗議した(参考)[22]。
また、日本原水爆被害者団体協議会[23] と東京都原爆被害者団体協議会[要出典]、連合長崎[24] や、長崎県原水禁[25] などは、それぞれ久間発言を批判[26] や、抗議の意を表明し、長崎市の平和公園や東京の衆議院議員会館前での座り込み[27] や、抗議文の送付(久間へは、毎年8月9日に行われる平和記念式典への参列の取りやめと、議員辞職、安倍首相に対して、久間の防衛大臣の罷免を求めていた。[28])などの抗議活動が繰り広げられた。
一方、本島等元長崎市長は、1975年10月に昭和天皇が広島への原爆投下について「遺憾に思っているが、やむを得なかった」と久間の発言に近い事を述べたのを紹介し、「当然の認識で僕も同感。久間さんの発言も同じで、原爆の肯定だ、容認だと批判するのはおかしい。天皇陛下も原爆容認論だと批判するのか」と抗議活動を展開する被爆者団体に苦言を呈した。[いつ?]但し、本島の「仕方なかった」というのは、残虐な侵略行為をした日本人が相応の報いを受けた罰である、という意味での「仕方ない」であり、久間や昭和天皇の意図とは微妙に違う。産経新聞は、本島等元長崎市長の発言にみられるような原爆は仕方なかったという考えの原点は、原爆死没者慰霊碑の碑文にあるとして、これをありがたがる人たちに、久間の発言を非難する資格はないと断じた[29]。なお、産経新聞は、広島市長平和宣言の内容を毎年批判している(産経新聞の報道#議論を呼んだ報道を参照)。
[編集] 与野党の反応
当初、安倍はこの発言を問題視していないように振る舞い「アメリカの見方を紹介しただけ」と擁護していたが、野党は直後から久間発言を批判した。その後も安倍は「アメリカのそのときの考え方を紹介すると同時に、原爆の惨禍の中にあった長崎について、『自分としては忸怩たるものがある』という考え方も披瀝されたと聞いている」などと、問題無しとの認識を示していたが、あまりの批判の広がりを受け、2日、久間を首相官邸に呼び出し、「発言に注意するように」と厳しく注意した。久間は陳謝したが、野党側からの罷免要求に対しては「そんなのはいいよ。よくあることだから」と一蹴した。
民主党・社会民主党・日本共産党・国民新党は久間の発言を一斉に批判、7月2日に国会内で被爆者団体と抗議集会を開いた上、7月3日に安倍に対し、久間の罷免を求める方針を確認した。与党内からも批判が強まり、自民党の保坂三蔵参議院議員に至っては街頭演説で「辞任を要求したい」などと発言した上、広島県選出で被爆経験のある溝手顕正国家公安委員長も発言に不快感を示した。
[編集] 防衛大臣を辞任へ
7月3日午前、久間は自身の進退について「辞任の必要はない」と強気の姿勢を見せていたが、午後、一転して「選挙で与党に迷惑が掛かる」として辞任した。安倍首相は「残念だ」と述べつつも慰留せず、その場で辞任の申し出を了承している。公明党や閣僚、被爆者団体などからも批判されたことが影響したのではないかと言われている。
久間は辞任後の記者会見でも、「原爆が日本を全面降伏に導いたのは事実」との主張を続け、「九州弁でしょうがないというのが口癖で、すぐに出るんですよ」と釈明したが、長崎市平和推進室はこの釈明を認めていない[30]。また、野党からは「『選挙に負けるから辞める』と言うのでは何の為の辞任か分からない」と[要出典]、秋葉忠利広島市長や、長崎原爆被災者協議会の事務局長はそれぞれ、久間が防衛大臣の辞任は当然のこととした上で、日本政府や自民党の原爆に対する認識や姿勢の問題[31][32]と批判し、さらに、久間の歴史認識に疑問を呈している者[32]もいる。
[編集] その他
大臣の座を追われた後も、久間に対して議員辞職を求める抗議活動[33] は続き、議員辞職を求める文言とともに公開質問状が被爆者団体から送付される[34][35] など対応に追われた。
この騒動の直後に行われた第21回参議院議員通常選挙(長崎県選挙区)では、自民党は久間が主導となり、国見高校サッカー部元監督として有名な小嶺忠敏を擁立して必勝を期したが、民主党の大久保潔重に敗れた。
[編集] 久間の原爆投下の歴史認識に対する評価
久間の原爆投下に関する歴史認識に関して、秦郁彦・日本大学講師(現代史)が「米国の原爆投下がソ連の参戦を食い止めるためだった側面があるとの指摘は、歴史的事実とは違う。ソ連は長崎への原爆投下と同じ日に参戦しているし、終戦後も北海道を占領して米国に拒否された。何かの思い違いがあるのでは」と指摘している[36](参考:ヤルタ会談)。
現代史家の保阪正康は、原爆の投下と終戦に関連性はなく、久間の発言は、アメリカの原爆投下正当化論と一体化しつつ、そこに史実無視の姿勢をつけ加えたものであると批判している。保阪は、日本国民は、「投下された側の反論」として、当時の日本の軍事指導層を中心とする抗戦派を強く批判しつつ、投下した側の一方的解釈を徹底して排除すべきだと主張している[37]。
また、欧米の大手メディアはこぞって「『アメリカの核爆弾投下は第二次世界大戦を終結させる為に不可欠だった』との戦勝国の多数の認識を‘敗戦国’日本の防衛大臣が受け入れた」と報道している。[要出典][38]
[編集] 昭和天皇の類似発言
昭和天皇は前述で述べられているように久間の発言に類似した。昭和天皇が訪米から帰国した際に行われた記者会見で原爆投下について問われ、広島市民を気の毒だと述べて遺憾の意を表明しつつ、「戦争中の事だからやむを得ないこと」と述べた類似の発言があり(1975年10月31日・日本記者クラブ記者会見)、被爆者団体などが抗議している[39]。1975年に広島県被団協の森滝市郎は宮内庁に抗議文を出し宇佐美毅がそれを返答した。
長崎大学の舟越耿一教授は国内に対する責任者であり、外交の責任者である天皇が「気の毒だがしょうがない」と言われたら、われわれは立つ瀬がない。誠に無責任な発言と言わざるをえません。「私が統治者として至らなかったばかりに日本国民に辛酸をなめさせた。私は潔く退位する」と言ってしかるべきだったと述べた。
しかし日本側は原爆投下の一週間前7月30日に廣田弘毅と佐藤尚武が和平依頼を斡旋したにも拘らずトルーマンは原爆投下命令を撤回せず投下し、鈴木貫太郎が降伏しようと決意した際に宮内省や政府要人がそれを阻止しようとした徹底抗戦派に襲われ、近衛師団の将校によって森赳近衛師団長が殺害されるような宮城事件があり、昭和天皇の失言を擁護している意見もある。漫画家の小林よしのりの『昭和天皇論』ではこの発言を触れており、アメリカから帰国したばかりで、日米関係が良好だった事に背景があり、また昭和天皇の発言は、久間の「原爆によって北海道は占領されずに済んだ」「私はアメリカを恨むつもりはない」と言う原爆によって北海道がソ連に占領されずに済んだと言う感謝するような発言はしていない事から天皇と久間の発言の違いを説明している。また昭和天皇の発言は生中継の記者会見であるのに対し、久間章生の発言は講演による自発的な発言である。読売新聞社の渡邉恒雄は「昭和戦争の多くの局面で天皇に国政を左右し、国運を決する判断と軍部に対する下命を求める事は不可能であった。昭和戦争の時代天皇には統帥の最高権力者としての能力は奪われまたは保有し得なかった事は間違いない」と昭和天皇よりも、周囲の反対を押し切って原爆投下命令を下したアメリカのトルーマン、仲介と中立を破ってシベリア抑留させたソ連のスターリン、そして降伏を阻止しようとした日本の徹底抗戦派を非難の対象にしている[40]。
反天皇制論者である栗原貞子は「終戦の詔書に見られる原子爆弾の残虐性への非難は消え失せ、原爆投下の容認となっているのは、単に三十年による風化を意味するもの」「天皇が原爆投下を肯定している」と述べたが、保守系サイトの「日本会議広島」では天皇と広島との関係を扱っており(日本会議広島:天皇陛下と広島) 、保守派であっても1975年の失言を取り上げているが、終戦勅書の「新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所」と言った発言から決して原爆を容認していなわけでないと述べている。原爆投下後に早速日本政府はスイス政府を通じて原爆投下に対する抗議文を送り、『ヒロシマ平和メディア』の「過去の広島新聞から」には、実際1945年に昭和天皇が広島、長崎市に侍従を真っ先に派遣して惨状を視察し救護関係者を激励するよう指示しており、1971年に「原爆にあった被爆患者には、今後も援助、援護の手をさしのべるよう一層の努力をするように」と述べ、さらに原爆慰霊碑や原爆病院に訪問、1974年には昭和天皇が秋の園遊会で重藤文夫広島原爆病院長に伝言し「患者の方々によろしく伝えて下さい」と激励した事が掲載されている。つまり一度も昭和天皇は原爆投下を肯定するような発言は公でした様子は見られない。
戦争終結派の米内光政と木戸幸一は陸軍の強硬派を恐れていたために「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしている。
[編集] 語録
- 「総裁選はオリンピックじゃない。勝たなければ意味がない!」(06年自民党総裁選で額賀が立候補に意欲を示した時の発言)
[編集] 家族
- 妻と二男二女
[編集] 脚注
- ^ 『防衛庁長官』内閣官房内閣広報室。
- ^ 綿貫民輔衆議院議長が「起立総員」と宣言したことにより、議事録上は全会一致として扱われている。
- ^ “「パチンコ・チェーンストア協会」(PCSA)理事・会員リスト”. 2007年7月23日閲覧。
- ^ “J-rcom 日本軍事情報センター:「読売記者に機密漏洩」の節”. 2007年7月23日閲覧。
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- ^ “久間氏に公開質問状 原爆発言で被爆者5団体” (2007年7月11日). 2009年12月30日閲覧。
- ^ 質問状に対して、回答 をしたものの被爆者団体は納得していない。(出典)
- ^ “久間防衛相「原爆投下しょうがない」(DailySpotts online)”. 2007年7月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “長崎新聞 寄稿 原爆は戦争を終わらせたか <上>” (2007年8月3日). 2010年5月4日閲覧。
- ^ アメリカではダウンフォール作戦が実行に移されていた場合の損害と比較して「核攻撃は犠牲になるはずだった米軍将兵百万人を救った」とする見方が一般的である。
- ^ 同様な事例として、永井隆博士が原爆で亡くなった信徒らの葬儀ミサでの生贄発言(cf:浦上燔祭説)で、遺族や生存した信徒らが反発している。
- ^ 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代: 尾身幸次 |
1995年 - 1996年 |
次代: 額賀福志郎 |
| 先代: 亀井善之 |
1991年 - 1993年 |
次代: 森田一 |
| 官職 | ||
| 先代: 防衛庁から移行 |
初代:2007年 |
次代: 小池百合子 |
| 先代: 臼井日出男 額賀福志郎 |
第59代:1996年 - 1998年 第73代:2006年 - 2007年 |
次代: 額賀福志郎 防衛省へ移行 |
| 党職 | ||
| 先代: 堀内光雄 |
自由民主党総務会長 第44代 : 2004年 - 2006年 |
次代: 丹羽雄哉 |
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