小池百合子

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日本の旗 日本の政治家
小池 百合子
小池百合子
生年月日 1952年7月15日(59歳)
出生地 日本の旗 兵庫県芦屋市
出身校 カイロ大学社会学部
関西学院大学中退
前職 ニュースキャスター
アラビア語通訳
所属政党 日本新党→)
新進党→)
自由党→)
保守党→)
保守クラブ→)
自由民主党町村派→無派閥)
称号 社会学士
公式サイト KOIKE Yuriko

日本の旗 衆議院議員
選挙区 比例区→)
旧兵庫2区→)
兵庫6区→)
比例近畿ブロック→)
東京10区→)
比例東京ブロック(東京10区)
当選回数 6回
任期 1993年 - 現職
所属委員会 予算委員会
沖縄及び北方問題に関する特別委員会
議員会館 衆議院第1議員会館343号室

日本の旗 参議院議員
選挙区 比例区
当選回数 1回
任期 1992年 - 1993年

内閣 安倍内閣
任期 2007年7月4日 - 2007年8月27日

内閣総理大臣補佐官
(国家安全保障問題担当)
内閣 安倍内閣
任期 2006年9月26日 - 2007年7月4日

特命担当大臣
(沖縄及び北方対策担当)
内閣 第2次小泉改造内閣
- 第3次小泉改造内閣
任期 2004年9月24日 - 2006年9月26日
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小池 百合子(こいけ ゆりこ、1952年7月15日 ‐ )は、日本政治家、元ニュースキャスター自由民主党所属の衆議院議員(6期)。自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)創設者。

参議院議員(1期)、環境大臣(第567代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)、防衛大臣第2代)、自由民主党総務会長(第49代)を歴任。

夏場のエネルギー消費と二酸化炭素排出の抑制を図るクール・ビズを環境大臣として提唱したことで知られる。

2010年9月の党役員人事で自由民主党総務会長に就任し、初めて女性で党三役入りを果たした。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

兵庫県芦屋市出身。甲南女子中学校、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部とE.S.Sに所属。1971年9月、関西学院大学社会学部を中退。神戸市で衣料関連の貿易商を営んでいた父親が、石原慎太郎の新党結成の動き・「日本の新しい世代の会」の推薦で兵庫2区から1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後一家は渡した。

「アラビア語が国連公用語に加わる」との新聞記事がきっかけで、カイロ市にあるカイロ・アメリカ大学でアラビア語を修めたのち、カイロ大学へ進学。1976年10月、カイロ大学社会学部を、女性で初めて首席で卒業学位社会学士(カイロ大学))。エジプト滞在中に、ピラミッドに登り、ピラミッドの天辺で茶道の形式に則りお茶を点てた経験もある[1]

[編集] ジャーナリスト及びキャスター時代

ジャーナリスト時代はPLO議長ヤーセル・アラファートや、リビアカダフィへの単独インタビューを成功させるなどして注目を集めた。

1984年東京大学に在籍していたトルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリの抗議を受け、「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」と改められた。この青年に陰で指導したのが、青年と親交があった小池本人であり、本人も後日新聞報道でそれを認めている[2]。トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、がぜん彼への「共感」(=なんとかしてあげたい)が芽生えた結果だった[3]

1979年1985年 日本テレビ竹村健一の世相講談」 アシスタントキャスター1988年1992年 テレビ東京ワールドビジネスサテライト」初代メインキャスター[4]など。

[編集] 初当選から自民党入党まで

1992年7月第16回参議院議員通常選挙で、複数の政党から出馬の誘いを受け「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」[5]との思いから、細川護熙が結党した日本新党より比例区に立候補し参議院議員に当選した。1993年7月の第40回衆議院議員総選挙兵庫県第2区から出馬し、衆議院議員に当選した。その後、新進党に合流し「新進党の結成はペリーマッカーサーに続く第3の黒船である」とコメントした。新進党では小沢一郎に党首選立候補を促すなど小沢側近として活動。新進党分裂後、自由党に参加、自由党分裂においては小沢の残留要請を拒絶し保守党結成に参加。2002年12月、保守党解党に伴い、保守新党が結成されるも、野田毅らと共に同党には参加せず、保守クラブを経て自由民主党に入党した(保守クラブは自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)。

[編集] 小泉内閣

自民党入党後は、総裁派閥である清和政策研究会に所属。第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に抜擢されて入閣。2003年の総選挙では近畿ブロック比例単独で比例名簿第3位に登録されて当選した。

2003年2月、アメリカのイラク戦争を支持する立場から日本国際フォーラムの「イラク問題について米国の立場と行動を支持する声明」を連名で新聞発表。2003年11月、毎日新聞の衆議院議員アンケートで、日本の核武装について「国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した[6]

第2次小泉内閣第2次小泉改造内閣でも環境大臣として再任され、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役となった。

9月11日の2005年衆院選郵政国会郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の対立候補として兵庫6区から東京10区に移り立候補。東京10区(豊島区)を選んだ理由として、著作(小池式コンセプトノート)において「自民・小林vs民主・鮫島の事実上の一騎打ちが続いている。二人は同じ年であり、東大卒の元官僚同士の戦いであった」ことを国会便覧にて確認し、勝算を得たとしている。「刺客」と呼ばれメディアに注目される選挙区となった。また、自民党では小泉総裁の意向で女性候補が比例名簿で上位に優遇される措置が行われ、小池も優遇対象となったが、小池は対立候補から事実上の当選確実状態であることを指摘されて選挙区での戦いで不利になるのを避けるために上位優遇措置を拒否し、多数の自民比例候補と同順位となった。

郵政選挙という追い風と対立候補(小林)の自滅により圧勝。8月21日に小林が田中康夫とともに新党日本を立ち上げた、その瞬間に保守層の支持を獲得できると確信したと述べている。

選挙後、温暖化対策という名目で環境税の導入構想を発表したが、反対意見が多いため先送りとなった。

第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)を兼任。

2005年に、過労が原因で入院。2006年4月6日発売の週刊新潮で「永田町では危篤説や自殺未遂説が流れている」と報じられたりしたが、同14日に退院し公務に復帰。復帰会見で「女性の場合、男性の10倍くらい結果を出さないとなかなか認められないから、つい、がんばりすぎちゃうんですよね。」と発言。また、クールビズの時には「男性社員の厚着のせいで女子社員が冷房で寒い思いをしている」との発言があった。

[編集] 安倍内閣首相補佐官

安倍内閣が発足すると内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任したが、2007年7月3日、「原爆しようがない」発言で防衛大臣を辞職した久間章生の後任として、北朝鮮拉致問題在日米軍再編に関する知識を買われ、7月4日付で第2代防衛大臣に就任した。サプライズ人事とも参院選向け人事とも見られている(小池の選挙区である東京10区には陸上自衛隊練馬駐屯地があり(第44回衆議院議員総選挙の際には、練馬駐屯地まで来隊している)、また以前の選挙区であった兵庫6区には陸上自衛隊伊丹・川西・千僧の各駐屯地および長尾山演習場がある)。

明治維新以後、日本の近代軍事史上、女性が防衛担当閣僚となったのは小池が初めてである。G8(主要先進国)ではミシェール・アリヨ=マリーフランス)以来の女性国防担当大臣となる。

[編集] 防衛大臣就任から退任まで

国務長官コンドリーザ・ライスと会談後に握手(2007年8月9日)。

防衛大臣就任後、 テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した[7]

2007年8月、米下院慰安婦決議問題で内閣総理大臣安倍晋三外務大臣麻生太郎、駐米大使加藤良三が日米関係に与えていたマイナス・イメージを払拭すべく、第167回国会を欠席してまでアメリカを電撃訪問し、国防長官ロバート・ゲーツ副大統領ディック・チェイニーと会談、野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした[8]

小池はこの訪米のため国会を欠席しており、8月9日におこなわれた党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判された[9]

直属の部下である防衛事務次官は、プロパーの守屋武昌であった。彼は選択などの一部マスコミで、商社から利益供与を受けた疑惑が報じられていた(このことは小池も知っていたものと思われる)。実際に捜査当局により内偵が進められていた。

小池は、首相補佐官時代からの宿願だった防衛省の「情報保全」システム確立のためと称して、守屋を更迭し警察庁出身の西川徹を防衛事務次官とする人事案を作成した。しかしこの人事情報が防衛省中枢からマスコミに漏洩され、更に守屋が大臣を通り越して首相の安倍や官房長官塩崎恭久に対して直接、人事案の撤回を直訴し、塩崎が守屋の肩を持つという異常事態が発生した。小池は人事案の撤回を迫られ、安倍、塩崎らは守屋留任でも西川でもない「第三の(人事)案」を小池に要求して事態収拾を図ろうとした。結局、小池と守屋との交渉の結果、守屋は2007年9月1日付で退官し、守屋と同じくプロパーの増田好平大臣官房長)を後任の事務次官にする「第三の案」で決着・内定した。マスコミは「痛み分け」「けんか両成敗」などと評した。

小池と刺し違えて退任した守屋は、国会証人喚問招致ののち、妻とともに逮捕、起訴された。このとき小池は「わたしは地雷処理をしたようなもの。前任の大臣にもっと早めに次官交代をやってもらいたかった」「オンナの直感で『これはよろしくない』と思った」と述べた。守屋は2009年12月22日に二審東京高裁で、懲役2年6か月、執行猶予なしの実刑判決を受けた。裁判での逆転勝利が不可能であることを悟った守屋は、「(まだ65歳の身体で)懲役に耐えられる体力があるうちに対応(服役)したい」という理由もあり、上告を断念し、自ら懲役刑に服することを決めた(2010年8月27日)。小池が自民党三役という栄光の座に就く二週間前のことであった。

2007年8月27日に安倍は内閣改造をした(安倍改造内閣)。その直前、8月24日、インドのニューデリーのホテルにおいて、小池は大臣職の辞意を表明した。小池はこう語った。「皆さんには奇異に思われるかもしれませんが、防衛省内で(2007年5月、小池百合子が国家安全保障問題担当首相補佐官のときに発覚した事件であり、防衛大臣として訪米した際にも米国側から指摘されていた日本防衛省の情報保全に対する懸念の最大の原因となった)イージス艦機密情報漏洩事件の責任をどなたも取っておられませんので、この点で(かつて国家安全保障問題担当の首相補佐官であり、防衛大臣である)私は責任を取りたいと思います」「情報保全という大きな課題が本当に意味をなすために、きっちりとした体制でやっていただきたい。そのために、人心を一新していただきたい。そうして、そこ(情報保全)を任せられる人に大臣になっていただきたい」、その後、会見場からの去り際に突然の離任宣言に驚いている職員や記者たちに「だから私は辞めるって言ってんのよ」と吐き捨てるように述べ、内閣改造と同時に辞任することを明白に表明した。

最後の閣議(8月27日)の後の会見で、「国防という国政の最重要部門を担当させていただきまして、まさに女子の本懐という気持ちでございました。国防につきまして"I shall return(私は必ず戻って来る)"の気持ちでこれからもやって参りたいと思います」と述べた。

[編集] 2008年自由民主党総裁選挙

2008年9月、福田康夫の辞任を受けて行われた2008年自由民主党総裁選挙に20人の推薦人を確保し、立候補した。女性議員が自民党総裁選に立候補するのは結党以来初めてのことであった。総裁選挙では「霞ヶ関をぶっ壊す」と宣言し、小泉改革路線の引き継ぎを他の候補より印象付けようとした。選挙結果は麻生太郎与謝野馨に続く3位で、地方票はゼロであった。ただし、党員票では麻生に次ぐ2位に付けており与謝野を大きく引き離している。これは多くの都道府県が地方票の1位総取り方式を採用したためである。

[編集] 2009年衆議院議員総選挙

第45回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で出馬。公明党の推薦も受ける[10]。また、同じ東京10区からの出馬を目指していた幸福実現党の泉聡彦に対して選挙協力を打診し、泉は「小池さんと志は一緒」として出馬を取りやめ、支援へ回ることとなった[11]。泉は「小池さんは、(幸福実現党の比例東京ブロックで出馬する)ドクター中松さんの『ミサイルUターン技術(撃ち込まれたミサイルをUターンさせ自爆させる発明)』にも理解を示されております」とし[11]、「風車のお百合」をキャッチフレーズに独自の選挙運動を展開した。

8月30日に実施された投票の結果、民主党公認候補の江端貴子に約9千票の差をつけられ落選、重複立候補していた比例代表東京ブロックで復活当選した。9万6千票という得票数は、東京ブロックで復活当選した自民党議員の中では下から2番目であり、復活当選できなかった佐藤ゆかり石原宏高伊藤公介らを下回る(ただし、東京10区は全国で最も有権者数の少ない選挙区である)。9月3日、「派閥単位でなく、党全体で結束すべき」として町村派を退会し、無派閥となった[12]

麻生総裁退陣に伴う2009年自由民主党総裁選挙には立候補せず谷垣禎一候補の推薦人に名を連ね、谷垣総裁の下で党広報本部長を務める。2010年6月9日自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)設立総会で、相談役に就任した。

2010年9月、党役員人事により自由民主党総務会長に就任。党三役に女性が就任するのは結党以来初めて。

2011年9月、自民党総務会長を退任。後任は、塩谷立

[編集] 政策

[編集] 外交・安全保障

アメリカ合衆国
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中華人民共和国
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エジプト
カイロ大学に在学していた経験を持ち、エジプトの情勢について詳しいとされる。
リビア
リビアについても詳しく、日本の国会議員きっての親リビア派の議員として知られている。日本リビア友好協会では会長に就任しており[13]、日本とリビアとの関係の強化、発展を狙っている。なお、この日本リビア友好協会は、リビアからの要求に基づき、政府に代わり「日本リビア間の経済、産業、科学技術、文化等の協力促進に関する合意書」を締結した団体である[14]国際連合によるリビア制裁の間も、日本とリビアとの関係強化を図るためさかんに活動しており[14]、同国の革命指導者であるムアンマル・アル=カッザーフィー二男サイフルイスラーム・ムハンマド・アル・カッザーフィーや、三男アル=サアディー・カッザーフィーに対し、日本訪問を要請したのもこの団体である。
小池はリビアを訪問した経験もあり、複数回にわたって同国の革命指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーと直接会談している[15]。さらに、カッザーフィーに招かれ執務室の中に入ったこともあるという[15]
リビアでのカッザーフィーの施政については、カッザーフィーは民主主義国家の樹立を目指していると指摘したうえで、カッザーフィーが明治維新を参考にしている、などと主張している[15]
また、かつてカッザーフィーに対して任天堂のゲーム機「Wii」を朝貢したこともあるという。2009年11月、小池はツイッターの公式アカウントにて「リビアのカダフィ指導者へのお土産はWiiにしました!」[16]とつぶやいている。
2011年8月には、日本の政治家として初めてリビア国民評議会のトップであるムスタファ・モハメド・アブドルジャリル議長らと会談した[17]

[編集] 環境

クールビズの推進
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[編集] 政治資金

[編集] 企業献金

消費者金融業界
消費者金融業界の政治団体「全国貸金業政治連盟」(全政連)からパーティー券購入などにより資金提供を受けていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は伝えた[18]
環境関連企業
自身が環境大臣時代の2005年の総選挙公示直前に、関連企業から100万円の企業献金を受け取っていたとされる[19]

[編集] 事務所費

小池の資金管理団体「フォーラム・ユーリカ」(会長宮内義彦)が、家賃や水道光熱費が無料である議員会館を「主たる事務所」としながら、2001~2005年までに事務所費4200万円超、光熱水費300万円超を計上していることが明らかになっている。

小池事務所側は、兵庫県(選挙区変更後は東京都豊島区)にある地元事務所の家賃、水道光熱費を合算したと説明している。しかし、事務所費として 2003年に1100万円超を計上しながら、2004年には半額の約582万円を計上しており、「毎年一定した金額であるはずの事務所費が、これほど増減するのは不自然」[20]と指摘されている。

[編集] 政治資金の収支が4年連続で同額

小池が代表を務める政党支部の政治資金収支報告書に対し、収支が完全に一致し4年連続で繰越金が0円になるのは不自然との指摘がなされている[21]

小池側が提出した政治資金収支報告書によれば、2003-2006年にかけて、各年とも収入と同額が支出として計上され繰越金が0円となっていた。政治献金により収入は年ごとに変化することから「支出を1円単位で合わせるのは至難の業」[21]とされており、小池の収支報告は「偶然ではほとんどあり得ない現象」[21]と指摘されている。小池の事務所は、「実際にかかった費用を積み上げ、法にのっとって適切に処理した結果だ」[21]としている。

[編集] 人物

[編集] 人物像

銃剣道にはまっている。

[編集] 人物評

細川護熙小沢一郎二階俊博小泉純一郎安倍晋三中川秀直と時の権力者・実力者の近くを渡り歩いてきた。また、日本新党、新進党、自由党、保守党、自民党と政党を渡り歩いていたため、「政界渡り鳥」と揶揄されることもあるが、日本新党、新進党、保守党は党そのものが解党し、自由党を離党したのも自自公連立政権からの離脱に反対したためで、自発的に離党したのは自由党離党の時のみである。

中川秀直は第45回衆議院議員総選挙前から麻生内閣や党執行部への批判を繰り返していたため、小池も選挙前から距離を置くようになっていた。総選挙で中川、小池は共に小選挙区で落選し、比例復活。中川は町村派の町村信孝会長や相談役の森喜朗相談役との確執が以前から取り沙汰されており、総選挙後にそれぞれ町村派を退会し無派閥に転じた。

外来種問題への取り組みは、外来種の一つ・ブラックバスへの対応が客観性の無い一方的な政策であったと池田清彦やブラックバス釣り愛好者の間では批判されている。一方でブラックバス釣り愛好家とは利害が対立する立場の人々からは支持されている。

[編集] 発言

  • 2005年10月5日(小泉内閣・環境大臣時代)、参議院予算委員会で民主党喜納昌吉普天間代替基地建設に関する辺野古海岸埋立てをめぐる米国での環境破壊反対訴訟に関する質問に対して「辺野古沖のジュゴンは北限のジュゴンというふうに言われておりますが、この北限が今、地球温暖化によってどんどん上がってきているというようなこともございます。」という珍回答をした。
  • 未だに解決をしていない水俣病に関して「水俣病問題に係る懇談会」を設置。学者などが認定の基準値が適切でない事を批判した[22]
  • 厚生労働大臣柳澤伯夫の女性を「子供を産む機械」に例えた発言に対し、2007年2月4日、小池はテレビ番組にて「柳澤(伯夫)さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも、日本における男性の、女性に対する見方は遅れてるんじゃないか」と批判[23]
  • 2007年7月26日青森県弘前市で行なわれた2007年参院選比例代表候補者の個人応援演説において、1995年阪神・淡路大震災における救援活動について「アメリカが支援に神戸港に入ろうとしても、港湾組合が厳しくてなかなか着岸できなかった」と発言。これに対して港湾労組協議会は「拒否した事実はない」と真っ向否定している。小池側は「非核証明がない限り入港できないという、非核神戸方式を念頭に置いた発言」と弁明している[24]。(本当の理由はアメリカ軍の船が大きく、多くの港湾機能が麻痺している状況での入港は厳しいと判断したため。)
  • 2007年8月9日民主党テロ特措法の延長に反対している事について、(小沢一郎は)「湾岸戦争のころから、カレンダーがめくられていないのではないか」と批判。
  • 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙とその結果を受けての鳩山由紀夫内閣成立は“日本解放第二期工作要綱が決行された結果である”と自分のメールマガジンで主張[25]11月26日には、鳩山由紀夫内閣が進める事業仕分けについて、「中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。」と述べている[26]
  • 2010年1月22日の衆議院予算委員会において外国人参政権について質問し、赤松広隆農林水産大臣の「日本における外国人参政権民団への公約」という発言について質し、さらに亀井静香金融担当大臣から「私の所属しております国民新党は付与することについては反対でありますし、私としても反対であります」との答弁を引き出した。なお、本人は保守党在籍当時の2000年11月に、同じ衆議院の特別委員会で法案提案者の一人として「税金を払っている在日の方々がそれに対して意見を、また参政権という形で、選挙という形で意見を述べるのは、これは当然ではないかというような意見もある」「在日の皆さま方のことを考えると同時に、日本そのものを考えるという大変大きなモメンタムである」と発言している(一方で提案説明の中で「やはり国民の声の中では幾つかの問題提起もされている」「地方の政治と国政とは実は非常に密接に関係してくる」「(南北朝鮮の民団と総連という関係が敵対して)一本化されていないということに一抹の不安を覚える」「国籍を取りやすくするということも、この法案とはまた別にその選択肢も十分ある」「国籍取得をより簡便にするということをまず考えなければならないのではないか」と導入に慎重な意見もしている)[27]。なお、小池は外国人参政権に関する過去の発言をめぐる報道に関して2010年7月日刊ゲンダイを名誉毀損で東京地裁に告訴した。
  • 2010年3月11日、自身のTwitterにおいて、朝鮮学校の高校無償化に反対を明言し、それに加えて、「反日教育を進めている北教組の傘下にある北海道の高校も同類」と書き込み、北海道高校の授業料無償化にも反対の姿勢を示した[28]

[編集] 議員連盟

[編集] 略歴

  • 1971年 甲南女子高等学校を卒業し関西学院大学社会学部に入学、のち中退
  • 1976年 カイロ大学文学部社会学科卒業
  • 1977年 アラビア語通訳、講師(日本アラブ協会顧問)
  • 1979年 日本テレビで、番組「世相講談」のキャスターなど
  • 1985年 テレビ東京で、番組「マネー情報」のキャスター
  • 1988年 テレビ東京で、番組「ワールドビジネスサテライト」のキャスターなど
  • 1992年7月 日本新党から比例区で参議院議員に初当選
  • 1993年7月 日本新党公認で旧兵庫2区から出馬し、衆議院議員に初当選
  • 1993年8月12日 総務政務次官に就任(-1994年4月28日)
  • 1994年12月10日 日本新党解党。新進党結成に参加。
  • 1996年10月 新進党公認で兵庫6区から出馬し、再選
  • 1997年12月 新進党解党。翌年1月、自由党結成に参加。
  • 1999年10月5日 経済企画総括政務次官に就任(-2000年4月5日)
  • 2000年4月 自由党離党。保守党結成
  • 2000年4月5日 経済企画総括政務次官に再任(-7月4日)
  • 2000年6月 保守党公認で兵庫6区から出馬し、3選
  • 2002年12月 保守党解党。保守新党結成には参加せず、自由民主党に入党
  • 2003年9月22日 環境大臣に就任(-11月19日)
  • 2003年11月 自由民主党公認で比例近畿ブロック(比例単独)から出馬し、4選
  • 2003年11月19日 環境大臣に再任(-2005年9月21日)
  • 2004年9月27日 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)兼任(-2005年9月21日)
  • 2005年9月 自由民主党公認で東京10区から出馬し、5選
  • 2005年9月21日 環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)に再任(-2006年9月26日)
  • 2006年9月26日 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任
  • 2007年7月4日 辞任した久間章生の後任として安倍内閣防衛大臣に就任
  • 2007年8月28日 内閣改造により防衛大臣を退任
  • 2008年9月 自民党総裁選に立候補。初の女性総裁候補として戦うも、麻生太郎与謝野馨に次ぐ3位で落選
  • 2009年8月 自由民主党公認で東京10区から出馬。小選挙区では民主党の江端貴子に敗れたが、重複立候補していた比例区で復活当選し、6選
  • 2009年9月 2009年自由民主党総裁選挙で自身は不出馬、谷垣禎一を支援し勝利に貢献、谷垣自民党総裁の下、自民党広報本部長に就任
  • 2010年9月 自民党総務会長に就任。党三役に初の女性起用となった。
  • 2011年9月 自民党総務会長を退任。

[編集] 文献

[編集] 単著

  • 1982年1月 『振り袖、ピラミッドを登る』講談社、ISBN 4062002701
  • 1983年1月 『3日でおぼえるアラビア語』学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月、ISBN 4311710011
  • 1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』太陽企画出版、ISBN 4884660749
  • 1994年6月 『永田町ブロードキャスター』朝日新聞社、ISBN 4022567430
    • 週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
  • 2007年10月 『女子の本懐 ~市ヶ谷の55日~』文春新書、ISBN 9784166606023

[編集] 共著

[編集] 対談など

  • 1992年10月 牟田口義郎著 『カイロ 世界の都市の物語 10』文藝春秋、ISBN 978-4-16-509620-7
    • 「ケイオスティック・カイロ」を寄稿
  • 1993年9月 佐高信著『日本人の死角』徳間書店、ISBN 4191452908
    • 対談「私は政治改革のモルモット」を収録
  • 1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』ダイヤモンド社、ISBN 4478180202
    • 第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿
  • 2001年2月 佐和隆光浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』ダイヤモンド社、ISBN 4478200653
    • 鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録

[編集] 脚注

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  1. ^ ピラミッドに登頂することは文化財の破壊につながることから、現在はエジプト政府により禁止されている。
  2. ^ 1985年4月11日毎日新聞夕刊
  3. ^ 『小池式コンセプトノート』P235
  4. ^ この時は、テレビ東京専属「パーソナリティー」(事実上局アナウンサーの業務としていた)として
  5. ^ 鯨岡仁「政権選択『93世代』はいま――対談小池百合子氏前原誠司氏」『朝日新聞』43724号、朝日新聞東京本社2008年1月7日、2面。
  6. ^ 2007年7月21日 毎日新聞 東京朝刊
  7. ^ “テロ対策特措法:国会の事前承認に否定的…小池防衛相”. 毎日新聞. (2007年8月3日) 
  8. ^ アサヒコム 2007年8月11日配信など
  9. ^ 読売新聞2007年8月10日
  10. ^ 衆院選小選挙区 自民128人推薦 公明新聞 2009年8月7日
  11. ^ a b “小池氏、幸福実現党とタッグ結成も「金正日拘束」「ミサイルUターン」にドン引き…東京10区”. スポーツ報知. (2009年8月18日). http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090818-OHT1T00025.htm 
  12. ^ “小池百合子氏が町村派を退会 「派閥の時代でない」”. 共同通信. (2009年9月3日). http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009090301000648.html 2011年2月15日閲覧。 
  13. ^ 協会概要』日本リビア友好協会。
  14. ^ a b 日本リビア友好協会の歩み』日本リビア友好協会。
  15. ^ a b c カダフィ氏「大佐」の理由  執務室には「明治天皇の写真」 (1/2) : J-CASTニュースジェイ・キャスト2011年2月22日
  16. ^ Twitter / 小池百合子: ちなみに、リビアのカダフィ指導者へのお土産はWiiに ...ツイッター2009年11月19日
  17. ^ “リビア反体制トップ、自民小池氏と会談 日本に支援要請”. (2011年8月6日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110806/mds11080616430001-n1.htm 2011年8月6日閲覧。 
  18. ^ パーティ券リストの面々 しんぶん赤旗 2003年9月12日
  19. ^ 小池氏に受注企業献金 環境相時代、100万円 05年総選挙直前 公選法違反の疑い しんぶん赤旗 2007年8月4日
  20. ^ 「小池百合子防衛相家賃ナシ・光熱水費ナシの議員会館に事務所費4542万円!」『週刊現代』49巻30号、講談社2007年8月11日、29頁。
  21. ^ a b c d 「政党支部、収支ピタリ一致の『怪』――『帳尻合わせない』」『asahi.com:政党支部、収支ピタリ一致の「怪」 「帳尻合わせない」 - 政治』朝日新聞社、2007年11月26日。
  22. ^ 水俣病問題に係る懇談会
  23. ^ “小池首相補佐官、厚労相の「産む機械」発言に不快感”. 朝日新聞. (2007年2月4日) 
  24. ^ 小池防衛相:「神戸の港湾組合、震災支援を阻害」発言(毎日インタラクティブ 記事はサイトリニューアルにより消滅)
  25. ^ e-コムネット第46号
  26. ^ 小池百合子 (2009年11月26日). “ecoyuri 小池百合子 7:01 AM Nov 26th, 2009 web”. 2010年5月30日閲覧。
  27. ^ 衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 2000年11月22日議事録
  28. ^ http://twitter.com/ecoyuri/status/10322465646

[編集] 関連項目

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