小池百合子

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日本の政治家
小池 百合子
小池百合子
生年月日 1952年7月15日(56歳)
出生地 兵庫県芦屋市
出身校 関西学院大学中途退学
カイロ大学
前職 ニュースキャスター
アラビア語通訳
所属政党 日本新党
新進党
自由党
保守党
自由民主党町村派
世襲の有無 無し
公式サイト KOIKE Yuriko
選挙区 東京都第10区
当選回数 5回(参1回)
所属委員会 衆・予算委員会委員
議員会館 衆・第1議員会館343号室

内閣 安倍内閣
任期 2007年7月4日 - 2007年8月27日

内閣総理大臣補佐官
(国家安全保障問題担当)
内閣 安倍内閣
任期 2006年9月26日 - 2007年7月4日

特命担当大臣
(沖縄及び北方対策担当)
内閣 第2次小泉改造内閣
- 第3次小泉改造内閣
任期 2004年9月24日 - 2006年9月26日

内閣 第1次小泉内閣第2次改造内閣
- 第3次小泉改造内閣
任期 2003年9月22日 - 2006年9月26日
  

小池百合子こいけ ゆりこ1952年7月15日 ‐ )は、日本政治家衆議院議員(5期)。

参議院議員(1期)、環境大臣(第567代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)、防衛大臣第2代)を歴任。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

兵庫県芦屋市出身。甲南女子中学校、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部とE.S.Sに所属。1971年9月、関西学院大学社会学部を中退。神戸で衣料関連の貿易商を営んでいた父親が、石原慎太郎の新党結成の動き・「日本の新しい世代の会」の推薦で兵庫2区から1969年衆議院選挙に立候補したが落選。その後一家はエジプトへと渡った。

「アラビア語が国連公用語になる」との新聞記事がきっかけで、カイロ・アメリカ大学でアラビア語を修めたのち、カイロ大学へ進学。1976年10月、カイロ大学文学部社会学科を卒業。エジプト滞在中に、ピラミッドに登り、ピラミッドの天辺で茶道の形式に則りお茶を点てた経験もある[1]

ジャーナリスト時代はPLO議長ヤーセル・アラファートや、リビアカダフィへの単独インタビューを成功させるなどして名声を高めた。1979年1985年 日本テレビ竹村健一の世相講談」 アシスタントキャスター1988年1992年 テレビ東京ワールドビジネスサテライト」メインキャスター等。

[編集] 主な政治活動

[編集] 初当選から自民党入党まで

1992年7月第16回参議院議員通常選挙で、複数の政党から出馬の誘いを受け「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」[2]との思いから日本新党より比例区に立候補し参議院議員に当選した。1993年7月の第40回衆議院議員総選挙兵庫県第2区から出馬し、衆議院議員に当選した。その後、諸政党の分裂・統合に際しては新進党に合流し「新進党の結成はペリーマッカーサーに続く第3の黒船である」とコメントした。新進党では小沢一郎に党首選立候補を促すなど小沢側近として活躍。新進党分裂後、自由党に参加、自由党分裂においては小沢の残留要請を拒絶し保守党結成に参加。2002年12月27日、保守党を離脱して自由民主党に入党した。

[編集] 小泉内閣

自民党入党後は、総裁派閥である清和政策研究会に所属。第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に抜擢されて入閣。2003年の総選挙では近畿ブロック比例単独で比例名簿第3位に登録されて当選した。

2003年2月、アメリカのイラク戦争を支持する立場から日本国際フォーラムの「イラク問題について米国の立場と行動を支持する声明」を連名で新聞発表。

第2次小泉内閣第2次小泉改造内閣でも環境大臣として再任され、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役となった。

9月11日の2005年衆院選郵政国会郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の対立候補として兵庫6区から東京10区に移り立候補。東京10区(豊島区)を選んだ理由として、著作(小池式コンセプトノート)において「自民・小林vs民主・鮫島の事実上の一騎打ちが続いている。二人は同じ年であり、東大卒の元官僚同士の戦いであった」ことを国会便覧にて確認し、勝算を得たとしている。「刺客」と呼ばれメディアに注目される選挙区となった。また、自民党では小泉総裁の意向で女性候補が比例名簿で上位に優遇される措置が行われ、小池も優遇対象となったが、小池は対立候補から事実上の当選確実状態であることを指摘されて選挙区での戦いで不利になるのを避けるために上位優遇措置を拒否し、多数の自民比例候補と同順位となった。

郵政選挙という追い風と対立候補(小林)の自滅により圧勝。8月21日に小林が田中康夫とともに新党日本を立ち上げた、その瞬間に保守層の支持を獲得できると確信したと述べている。

選挙後、温暖化対策という名目で環境税の導入構想を発表。しかし、反対意見が多いため先送りとなった。

第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)を兼任。

2005年に、過労が原因で入院。2006年4月6日発売の週刊新潮で「永田町では危篤説や自殺未遂説が流れている」と報じられたりしたが、同14日に退院し公務に復帰。復帰会見で「女性の場合、男性の10倍くらい結果を出さないとなかなか認められないから、つい、がんばりすぎちゃうんですよね。」と発言。また、クールビズの時には「男性社員の厚着のせいで女子社員が冷房で寒い思いをしている」との発言があった。

[編集] 安倍内閣首相補佐官

安倍内閣が発足すると内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任したが、2007年7月3日、「原爆しようがない」発言で防衛大臣を辞職した久間章生の後任として、北朝鮮拉致問題や在日米軍再編に関する知識を買われ、7月4日付で第2代防衛大臣に就任した。サプライズ人事とも参院選向け人事とも見られている(小池の選挙区である東京10区には陸上自衛隊練馬駐屯地があり(第44回衆議院議員総選挙の際には、練馬駐屯地まで来隊している)、また以前の選挙区であった兵庫6区には陸上自衛隊伊丹・川西・千僧の各駐屯地および長尾山演習場がある)。

明治維新以後、日本の近代軍事史上、女性が防衛担当閣僚となったのは今回が初めてである。G8(主要先進国)ではミシェール・アリヨ=マリーフランス)以来の女性国防担当大臣となる。

[編集] 防衛大臣就任から退任まで

国務長官コンドリーザ・ライスと会談後、握手する小池百合子(2007年8月9日)。

防衛大臣就任後、 テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した。

2007年8月、米下院慰安婦決議問題で内閣総理大臣安倍晋三外務大臣麻生太郎、駐米大使加藤良三が日米関係に与えていたマイナス・イメージを払拭すべく、第167回国会を欠席してまでアメリカを電撃訪問し、国防長官ロバート・ゲーツ副大統領ディック・チェイニーと会談、野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした[3]

小池はこの訪米のため国会を欠席しており、8月9日におこなわれた党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判され[4]、マスコミからも安倍改造内閣での防衛大臣留任を確実にするため、あるいは外相に横滑りするためのパフォーマンスではないか、と揶揄された。

その後、小池は首相補佐官時代からの宿願だった防衛省の「情報保全」システム確立のため、プロパーの守屋武昌に代えて警察庁出身の西川徹防衛事務次官とする小池人事案を遂行しようとしていたが、この人事情報が防衛省中枢からマスコミに漏洩され、更に守屋が安倍や官房長官塩崎恭久に対し小池人事案の撤回を直訴したこともマスコミに漏洩されたため、防衛省事務次官人事をめぐる一大スキャンダルがマスコミによって巻き起こった。小池による人事案(その是非はともかく)は窮地に立たされ、安倍、塩崎らは「第三の(人事)案」を小池に要求して事態収拾を図ろうとした。結局、小池と守屋との交渉の結果、守屋は2007年9月1日付で退官し、防衛庁生え抜きの増田好平大臣官房長)を後任の事務次官にする「第三の案」で決着・内定したため、マスコミは「痛み分け」「けんか両成敗」などと評した。

2007年8月27日に発足する安倍改造内閣においてその進退が注目されていたが、本人は8月24日にインドのニューデリーのホテルにおいて「皆さんには奇異に思われるかもしれませんが、防衛省内で(2007年5月、小池百合子が国家安全保障問題担当首相補佐官のときに発覚した事件であり、防衛大臣として訪米した際にも米国側から指摘されていた日本防衛省の情報保全に対する懸念の最大の原因となった)イージス艦機密情報漏洩事件の)責任をどなたも取っておられませんので、この点で(かつて国家安全保障問題担当の首相補佐官で、現在防衛大臣である)私は責任を取りたいと思います」「情報保全という大きな課題が本当に意味をなすために、きっちりとした体制でやっていただきたい。そのために、人心を一新していただきたい。そうして、そこ(情報保全)を任せられる人に大臣になっていただきたい」、その後、会見場からの去り際に突然の離任宣言に驚いている職員や記者たちに「だから私は辞めるって言ってんのよ」と吐き捨てるように述べ、安倍改造内閣には留任しない意向を表明した[5]。8月27日の最後の閣議後の会見においては、「国防という国政の最重要部門を担当させていただきまして、まさに女子の本懐という気持ちでございました。国防につきまして"I shall return(私は必ず戻って来る)"の気持ちでこれからもやって参りたいと思います 」と述べた。

小池と刺し違えて退任した守屋は、その数ヵ月後に、商社から利益供与を受けた疑惑が報じられ証人喚問まで受けたが、11月28日に収賄罪で妻とともに逮捕され起訴された。証人喚問で偽証した罪にも問われ、翌年には議院証言法違反で追起訴された。小池は、守屋逮捕について「わたしは地雷処理をしたようなもの。前任の大臣にもっと早めに次官交代をやってもらいたかった」「オンナの直感で『これはよろしくない』と思った。」と述べたのが報じられた。

[編集] 2008年自由民主党総裁選挙

2008年9月、福田康夫の辞任を受けて行われた2008年自由民主党総裁選挙に20人の推薦人を確保し、立候補した。女性議員が自民党総裁選に立候補するのは結党以来初めてのことであった。総裁選挙では「霞ヶ関をぶっ壊す」と宣言し、小泉改革路線の引き継ぎを他の候補より印象付けようとした。選挙結果は麻生太郎与謝野馨に続く3位で、地方票はゼロであった。党員票では麻生氏に次ぐ2位に付けており与謝野氏を大きく引き離している。これは多くの都道府県が地方票の1位総取り方式を採用したためである。

[編集] 政治資金

[編集] 企業献金

消費者金融業界
消費者金融業界の政治団体「全国貸金業政治連盟」(全政連)からパーティー券購入などにより資金提供を受けていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は伝えた[6]
環境関連企業
自身が環境大臣時代の2005年の総選挙公示直前に、関連企業から100万円の企業献金を受け取っていたとされる。[7]

[編集] 事務所費

小池の資金管理団体「フォーラム・ユーリカ」(会長宮内義彦)が、家賃や水道光熱費が無料である議員会館を「主たる事務所」としながら、2001~2005年までに事務所費4200万円超、光熱水費300万円超を計上していることが明らかになっている。

小池事務所側は、兵庫県(選挙区変更後は東京都豊島区)にある地元事務所の家賃、水道光熱費を合算したと説明している。しかし、事務所費として 2003年に1100万円超を計上しながら、2004年には半額の約582万円を計上しており、「毎年一定した金額であるはずの事務所費が、これほど増減するのは不自然」[8]と指摘されている。

[編集] 政治資金の収支が4年連続で同額

小池が代表を務める政党支部の政治資金収支報告書に対し、収支が完全に一致し4年連続で繰越金が0円になるのは不自然との指摘がなされている[9]

小池側から提出された政治資金収支報告書によれば、2003-2006年にかけて、各年とも収入と同額が支出として計上され繰越金が0円となっていた。政治献金により収入は年ごとに変化することから「支出を1円単位で合わせるのは至難の業」[9]とされており、小池の収支報告は「偶然ではほとんどあり得ない現象」[9]と指摘されている。しかし、小池の事務所は、「実際にかかった費用を積み上げ、法にのっとって適切に処理した結果だ」[9]としている。

[編集] 人物・エピソード

[編集] 発言

[編集] 議員連盟

[編集] 略歴

  • 1971年 甲南女子高等学校を卒業し関西学院大学社会学部に入学、のち中退
  • 1976年 カイロ大学文学部社会学科卒業
  • 1977年 アラビア語通訳、講師(日本アラブ協会顧問)
  • 1979年 日本テレビで、番組「世相講談」のキャスターなど
  • 1988年 テレビ東京で、番組「ワールドビジネスサテライト」のキャスターなど
  • 1992年7月 日本新党から比例区で参議院議員に初当選
  • 1993年7月 日本新党から兵庫2区で衆議院議員
  • 1993年8月12日 総務政務次官に就任(-1994年4月28日)
  • 1996年10月 新進党から兵庫6区で衆議院議員
  • 1999年10月5日 経済企画総括政務次官に就任(-2000年4月5日)
  • 2000年4月5日 経済企画総括政務次官に再任(-7月4日)
  • 2000年6月 保守党から兵庫6区で衆議院議員
  • 2002年12月 保守党を離脱。自由民主党に入党
  • 2003年9月22日 環境大臣に就任(-11月19日)
  • 2003年11月 自由民主党から近畿比例区で衆議院議員
  • 2003年11月19日 環境大臣に再任(-2005年9月21日)
  • 2004年9月27日 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)兼任(-2005年9月21日)
  • 2005年9月 自由民主党から東京10区で衆議院議員
  • 2005年9月21日 環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)に再任(-2006年9月26日)
  • 2006年9月26日 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任
  • 2007年7月4日 防衛大臣に就任
  • 2007年8月28日 防衛大臣を離任

[編集] 文献

[編集] 単著

  • 1982年1月 『振り袖、ピラミッドを登る』講談社、ISBN 4062002701
  • 1983年1月 『3日でおぼえるアラビア語』学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月、ISBN 4311710011
  • 1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』太陽企画出版、ISBN 4884660749
  • 1994年6月 『永田町ブロードキャスター』朝日新聞社、ISBN 4022567430
    • 週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
  • 2007年10月 『女子の本懐 ~市ヶ谷の55日~』文春新書、ISBN 9784166606023

[編集] 共著

[編集] 対談など

  • 1992年10月 牟田口義郎著 『カイロ 世界の都市の物語 10』文藝春秋、ISBN 978-4-16-509620-7
    • 「ケイオスティック・カイロ」を寄稿
  • 1993年9月 佐高信著『日本人の死角』徳間書店、ISBN 4191452908
    • 対談「私は政治改革のモルモット」を収録
  • 1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』ダイヤモンド社、ISBN 4478180202
    • 第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿
  • 2001年2月 佐和隆光浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』ダイヤモンド社、ISBN 4478200653
    • 鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録

[編集] 出演

[編集] その他のテレビ番組

[編集] 脚注

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  1. ^ ピラミッドに登ることは文化財の破壊につながることから、現在はエジプト政府により禁止されている。
  2. ^ 鯨岡仁「政権選択『93世代』はいま――対談小池百合子氏前原誠司氏」『朝日新聞』43724号、朝日新聞東京本社2008年1月7日、2面。
  3. ^ アサヒコム 2007年8月11日配信など
  4. ^ 読売新聞2007年8月10日
  5. ^ 「新しい閣僚に任せたい」小池防衛相、留任しない意向表明(読売新聞)
  6. ^ パーティ券リストの面々 しんぶん赤旗 2003年9月12日
  7. ^ [http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-04/2007080401_02_0.html 小池氏に受注企業献金 環境相時代、100万円 05年総選挙直前 公選法違反の疑い]
  8. ^ 「小池百合子防衛相家賃ナシ・光熱水費ナシの議員会館に事務所費4542万円!」『週刊現代』49巻30号、講談社2007年8月11日、29頁。
  9. ^ a b c d 「政党支部、収支ピタリ一致の『怪』――『帳尻合わせない』」『asahi.com:政党支部、収支ピタリ一致の「怪」 「帳尻合わせない」 - 政治』朝日新聞社、2007年11月26日。
  10. ^ 1985年4月11日毎日新聞夕刊
  11. ^ 『小池式コンセプトノート』P235
  12. ^ 2007年7月21日 毎日新聞 東京朝刊
  13. ^ 水俣病問題に係る懇談会
  14. ^ 小池防衛相:「神戸の港湾組合、震災支援を阻害」発言(毎日インタラクティブ 記事はサイトリニューアルにより消滅)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク

先代:
鈴木俊一
環境大臣
第5・6・7代:2003年 - 2006年
次代:
若林正俊
先代:
茂木敏充
特命担当大臣(沖縄・北方)
2004年 - 2006年
次代:
高市早苗
先代:
久間章生
防衛大臣
第2代: 2007年
次代:
高村正彦