森喜朗
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| 衆議院議員 森 喜朗 (もり よしろう) ![]() |
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| 生年月日 | 1937年7月14日(71歳) | ||
| 出生地 | 石川県能美郡根上町(現:能美市) | ||
| 出身校 | 早稲田大学第二商学部 | ||
| 学位・資格 | 商学士 | ||
| 前職 | 新聞社社員 衆議院議員秘書 |
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所属委員会
内閣役職
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衆・懲罰委員会委員 | ||
| 世襲 | 無 (根上村長の森喜平は祖父。 森茂喜は父) |
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| 選出選挙区 | 石川県第2区 | ||
| 当選回数 | 13回 | ||
| 所属党派 | 自由民主党(町村派) | ||
| 党役職 | 石川県第2選挙区支部長 | ||
| 会館部屋番号 | 衆・第2議員会館309号室 | ||
| ウェブサイト | Yoshiro Mori WebSite | ||
森 喜朗(もり よしろう、1937年(昭和12年)7月14日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員。元内閣総理大臣(第85代・第86代)・自由民主党総裁。
目次 |
[編集] 経歴
石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンを務める。北陸三県大会で準優勝の成績を残した(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)。その活躍から父の知人であった当時のラグビー部監督のスポーツ推薦を受けて早稲田大学第二商学部(夜間学部)入学。早稲田大学ラグビー部に入部するもわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。
その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。大学卒業後は水野成夫の手引きで産業経済新聞社に半ば押しかけの形で入社(初めは日本工業新聞に勤務し、のちに移籍)。
その後、衆議院議員・今松治郎の秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。自民党の公認得られず無所属新人として出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、森は生涯恩義を忘れていない。選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動と岸の応援で、地元での人気が上がり、当初泡沫候補扱いだった新人が当選にいたったという。ちなみに、この選挙では同じ選挙区(旧石川1区)で竹下派七奉行の一人・奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。
当選後は今松の属していた福田派(清和会)に入会。福田赳夫内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承許可を求め、「森派」とした。
[編集] 首相時代
| 森 喜朗 (もり よしろう) |
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| 在任期間 | 2000年4月5日 - 2001年4月26日 |
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| 生年月日 | 1937年(昭和12年)7月14日 |
| 出生地 | 石川県能美郡根上町 (現・能美市) |
| 出身校 | 早稲田大学 |
| 学位・資格・称号 | 商学士 |
| 前職 | 建設大臣 自由民主党幹事長 自由民主党総裁 |
| 世襲の有無 | 世襲ではない |
| 選挙区 | 衆院石川2区 |
| 当選回数 | 衆13回 |
| 党派 | 自由民主党 |
| 没年月日 | |
[編集] 首相就任のいきさつ
2000年(平成12年)4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。村上から「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。五人組の1人である村上正邦は後に週刊新潮に発表した手記できちんと党内の手続きを踏んで自民党両院議員総会にかけて総裁を選出したので密室で決めていないと反論している。
[編集] 資質問題
- 2000年5月15日、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言(いわゆる「神の国発言」)し、大きな波紋を呼ぶ。民主党はこれに対し「日本は神の国? いいえ、民の国です」と批判するCMを打った。6月の「無党派層は寝ていてくれればいい」発言や、10月にイギリス・ブレア首相との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、首相としての資質に欠けるとの批判が各層で盛り上がった。
- 就任早々、あいさつまわりに訪れた橋本龍太郎元首相の事務所で、「首相動静」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言。マスコミの抗議に意固地となる森を、国民との対話を軽視する性格であると、早くもマスコミ[誰?]は警戒感を抱いていた。
- 歴代内閣総理大臣の中で、森ほどマスコミが発言に対する批判を集中した例はなく、ついには総理の資質に欠けるとまでされた。総理大臣官邸での公式記者会見時、森に対し総理番記者から「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問がされたこともあった。
- 一方マスコミが常に否定的に取り上げたとする見方もある。例えばNHKなどは首相就任中の衆議院選挙前日に「週間手話ニュース」でアナウンサーを使い、「日本は神の国ではありません民の国です、皆さん投票に行きましょう」と報道した。ニュース番組内でこのような選挙の為のアジテーションを行う事は、放送法だけでなく公職選挙法上問題だとする声[誰?]も有る。
[編集] 官房長官の交代
- 2000年10月27日、内閣官房長官の中川秀直が愛人問題や右翼幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった小泉純一郎から推された福田康夫が就任した。閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森が頻繁にマスコミの批判を浴び、その度に福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長となった。
[編集] 加藤の乱
- 2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、YKKの盟友、山崎拓とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した(いわゆる加藤の乱)。しかし宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、森首相退任には至らなかった。
[編集] えひめ丸事件
- 2001年2月10日、ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事件」が発生した。森は第一報が入ったときゴルフ場におり、連絡はSPの携帯電話を通じて入った。衝突により日本人が多数海に投げ込まれたことや、相手がアメリカ軍であることも判明していたが、森は第二報のあとの第三報が入るまで1時間半の間プレーを続け、これが危機管理意識上問題とされた。国会でも採り上げられ、詳細が議事録に残っている[1]。
- 午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールを回ったとのことである。ただし、1時間半あれば、倍の6ホールは回れるはずなので、具体的に何をどうしていたのかは不明である。連絡は携帯電話を通して伝えられた。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。
- 当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。
- 森の主張によると、えひめ丸事件の一報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである。この事件の報道で違う日に撮影された森のゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した。
- 事故を起こしたアメリカ側はブッシュ大統領が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪。マスコミはこれを異例の素早い対応と評価、日本の事後処理の印象を一層悪いものとした。
- 元内閣安全保障室長の佐々淳行は、この時の森の対応に関して「危機管理には総理が陣頭指揮すべき国家危機管理と、各省庁が国家行政組織法の定めに従い初動措置を為すべき『インジデント・マネジメント(事件処理)』と『アクシデント・マネジメント(事故処理)』とがある。えひめ丸事故は大きな国際的事故ではあるが、総理が初動措置を寸刻争って陣頭指揮すべき国家危機管理問題では無い。国交省外局の海上保安庁・防衛庁(現防衛省)・外務省が第一次的対処をすべきである<海難事故>であり、森総理が批判されるべき事では無い。森総理は早く戻ってきた方で、私の経験からすればもっと狼狽した総理はたくさんおられる」と、危機管理の責任上の面から森を擁護している。
[編集] 支持率
上記のいきさつにより任期を通して内閣支持率は低かった。任期の終わりごろには、遂に支持率が5.7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。また、民主党の鳩山由紀夫には「(支持率が)消費税(5%)並みになった。」と揶揄された。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる(新聞辞令)。2001年4月26日、就任からちょうど1年で首相を退任した。後継総理総裁は自派閥出身の小泉純一郎になった。
[編集] 首相在任中の活動
- 2000年10月30日、同年8月にシドニーオリンピック女子マラソンで優勝した高橋尚子に、日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功として国民栄誉賞を与えた。
- アフリカ諸国や南アジア諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。
- IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。
- 2001年4月、李登輝の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した河野洋平外務大臣が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、福田康夫内閣官房長官も強く反対した。しかし“李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない”という判断で訪日実現となった。
- クリントン政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている。
- 教育改革を掲げたが奉仕活動を義務化させる方針を盛り込む等物議を醸した。森の諮問機関である教育改革国民会議の議長であった三浦朱門の言動も度々物議を醸した。森自身が私学と太いパイプを持つ文教族の大ボス的存在であり義務教育廃止論者でもあることから様様な議論を呼んだ。
[編集] 発言
マスコミにより多くの発言が問題(失言)として報道され、首相時代には失言(「こりゃ失言失言」)が流行語となるほどであった。[要出典]
- 1988年4月3日、自由民主党全国組織委員長時代、京都市でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。
- 1995年5月10日、自民党幹事長時代、「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣公邸での内閣総理大臣村山富市との会話を漏洩した。この発言に飛びついた読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
- 2000年1月13日、福井県敦賀市で行われた講演において「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言。2001年の国連エイズ総会への派遣を批判される原因となる。
- 2000年5月2日、イタリアを訪れた際に当時ローマで活躍していたサッカーの中田英寿らを招いて会食。「日本代表は、アウェーで韓国に勝ったことがないんだよ」と発言したが、すぐに中田から「え? ありますよ!」と強く訂正される。中田は森と2人での写真撮影を拒否したという。
- 2000年5月14日、NHK「日曜討論」において、当時存命中であり文教族の先輩として自らも指導を受けた坂田道太元衆議院議長について「亡くなられた坂田さん」と発言し、物故者扱いにして物議をかもした。[2]
- 2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会で演説し、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言(神の国発言)。NHKなどが大々的に報道して大きな波紋を呼んだ。
- 2000年6月3日、自民党奈良県連合の緊急集会で「共産党と組むんですか、民主党さん、と私は言いたいです。共産党は綱領は変えないとおっしゃっている。天皇制も認めないでしょうし、自衛隊は解散だ。日米安全保障も容認しないという立場でしょうし。そういう政党とどうやって、日本の安全を、日本の国体を守ることができるのだろうか」と発言。20日には、衆議院選挙の選挙演説で「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言。「世論調査では自民優勢だが、調査では政治に関心のある人しか回答していない。まだ(投票態度を)決めていない人が40%ぐらいいる。最後の2日間にどういう投票行動をするか。そのまま、その人たちが関心がないと言って寝ていてくれればいいが、そうもいかないでしょうね。」ということを意図した発言とのことである。
- 2000年7月、「九州・沖縄サミット」の開催は内閣総理大臣小渕恵三の悲願だったが、小渕政権を継承した森がホスト国の首相として主催した。ところが、出席前、および、その席上、「九州・沖縄サミット」のことを「沖縄万博」と連呼していた。
- 九州・沖縄サミットにてクリントン大統領との会談を控えた森首相は、外務省の秘書官から「まずクリントン大統領に"How are you?" と話しかけ相手の返事には"Me too!"と答える様に」と教えられていた。森はその通りにクリントンに "How are you?"(「やあ、元気かい?」)と挨拶しようとして "Who are you?"(「お前は誰だ?」) と言ってしまった。ジョークだと思ったクリントンは、 "I'm Hillary's husband."(「私はヒラリーの旦那です」)と答えたが、森はすかさず "Me too!"(「私もだ!」) と返事をした(“ハウ”と“フー”を混同し、しかも声をかけて応答があったら「ミートゥー」と言えばいい、と覚えていた)。クリントンも森のこの発言には驚いたという。この逸話は森首相の失言の内でも特に有名だが、これは森氏の首相就任以前から存在していたジョークであり、実際の発言ではない[3]。韓国では森首相同様失言で有名な金泳三大統領の逸話として1998年以前から知られている[4]。
- これから会談をしようとする外国の要人と対面直後に”See you again!”と挨拶をした。[要出典]
- 2000年10月20日、イギリスのブレア首相との会談で、当時北朝鮮が否定し続けていた日本人拉致問題について、拉致された日本人を行方不明者として第三国で発見するという解決策を北朝鮮との協議で提案していたことを漏らした。
- 1997年に日本政府が北朝鮮を訪問した際の訪朝団団長だった森は、北朝鮮との交渉の場でこの解決策を提案した。この解決策を考えたのは外務省で、協議の場で発言したのは中山正暉副団長だった。メンツを重んじる北朝鮮に配慮したものだった。しかし北朝鮮からは行方不明者はいないという回答だった。
- 森や中川官房長官ははじめ、この提案は中山正暉副団長の私案だと言ったが、中山から抗議を受けて後に撤回した。北朝鮮の協議の場で誰が発言したかは問題ではないのだが、中山の名を挙げて批判をかわそうとした姿勢は、さらに批判を招いた。
- 2000年10月26日、ラグビーのオーストラリア代表チーム、ワラビーズの歓迎レセプションで、「日本代表は未来永劫ワールドカップを抱くことはできない」と発言。2日後同チームの試合を秩父宮ラグビー場で観戦したが、観客からは一斉にブーイングが起こった。
- IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくともiモードは使える」といった迷言を残す。
- 2003年、「子どもを一人も産まなかった女性が自由を謳歌して、老後は税金で面倒を見ろというのは本当はおかしい」と発言。
- 2006年3月23日、JOC理事会において「五輪に2度行ってメドが立たない選手は、3度は出さなくていい」と発言。
- 2007年7月9日、富山県富山市内での自民党参院選候補者との講演会で、東海道新幹線での新駅反対を表明した嘉田由紀子滋賀県知事に対し、「女の方だなあ、やっぱり(視野が)狭いなあと思った」と発言。
- 2007年7月25日、自民党の大幅な劣勢が報じられていた、第21回参院選の選挙中、金沢市で行なった街頭演説の中で「北朝鮮は安倍さんが潰れてくれる事を願っている。そんな北朝鮮の不埒なやり方に黙っていてはいけない。安倍さんを勝たせるしかない」と発言した。参院選は自民党敗退。
[編集] 首相退陣後の動向
- 大学時代に売春等取締条例(売春防止法の前身)による検挙歴があると報道されたことに対して、森は「事実無根」であるとし、『噂の真相』を民事提訴した。しかし、『噂の真相』側が、警視庁に犯罪歴を照会し逮捕歴の有無を確認するよう提案したところ、森側が「犯罪歴は個人情報なので照会すべきでない」と主張した。その為、逮捕歴の事実の有無が確認されなかった(訴訟そのものでは勝訴している)。
- 2002年7月、首相就任直前に、前立腺がんの疑いがあると診断されていたことを明らかにし、手術した。当時、首相として手術はできず、発表もできない状況下、放射線治療で抑えていたという。
- 2005年の郵政民営化法案を巡る政局では、解散回避を賭けて派閥会長辞任を口にしたが、実際に解散が決まると辞任発言を撤回した。なお、意中の後継会長候補には福田が有力とされたが、2006年10月18日、会長職を町村信孝へ譲った(“町村派”と変わる)。退任会見で「小泉政権が終わり、私が派閥会長である役割も終わった」と語った。10月26日の町村派の総会で、同派名誉会長に就任した。
- 2004年10月から、自民党新憲法起草委員会の委員長を務めている。
- 2006年1月19日、森は自ら会長を務める森派の総会で発言し、ポスト小泉総裁候補について安倍晋三支持を公言している同派の参議院議員山本一太を批判し、特定の人物を支持する発言を慎むよう注意した。今後も安倍支持の発言をやめなければ森派から退会させると言い切ったが、山本は安倍支持の言動を今後も何ら改めるつもりは無いと発言。結局何も変わらず何も起こらないままに安倍総裁(総理)が誕生した。
- 2006年10月31日の『産經新聞』で、「知事は必ず自治労と日教組と妥協するんです。それで次の選挙で応援させる。(中略)だから日教組、自治労を壊滅できるかどうかということが次の参院選の争点だろうね」と発言した(2006年10月31日付産経新聞『森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」』)。
- 自身の首相就任も含め、派閥領袖及び派閥後見人という立場で森、小泉、安倍、福田と4代続けて自派閥から総理総裁を選出させている。
- 2007年10月4日、清和政策研究会最高顧問に就任(清和政策研究会も参照)。
[編集] 大連立構想を仲介
詳細は「大連立構想 (日本 2007)」を参照
自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。
[編集] 西松建設からの政治資金提供
準大手ゼネコンの西松建設から、同社のOBらを代表とした政治団体(『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』)を隠れ蓑に多額の政治献金を受けていた1人だったことが2008年12月末に表面化した[5]。森はこの疑惑に関連して西松建設関係者や小沢民主党代表の公設第1秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕されたあとの2009年3月5日に、提供を受けていた約400万円を返却する意向を表明した。森は返却について「道義的観点からであり、(献金などの)違法性を認める趣旨ではない」と説明している[6]。
[編集] 主な所属議員連盟
- 日本教職員組合問題究明議員連盟最高顧問
- 外国人材交流推進議員連盟
- 日韓議員連盟会長
- 北京オリンピックを支援する議員の会顧問
- 日本・アフリカ連合(AU)議員連盟会長
- 平城遷都1300年記念事業推進議員連盟会長
- 公共放送のあり方について考える議員の会
- 2000年にソウルで開催されたアジア欧州会合(ASEM)首脳会議で、統一協会も推進する日韓トンネルの共同建設を韓国側に提案した。[7]
- 2007年夏の参院選後に、古賀誠元幹事長・二階俊博国対委員長らと新たな日中友好議員連盟の結成を予定していると報じられた。2007年7月4日、中華人民共和国の王毅大使と中国大使公邸で懇談し、協力を求めた。日中国交正常化35周年に合わせて日本と中国が進める「2万人交流」プロジェクトが今秋にも達成されるのに合わせ、双方で記念式典を開催することで一致したとされる。[8]
[編集] 郵政解散
2005年8月、自民党内は小泉首相が成立を目指す郵政民営化法案の採決を巡って分裂していた。同法案は衆議院では辛うじて可決されたものの、参議院では自民党内の反対派の動き次第で、法案が否決される可能性があった。会期中の成立を絶対とする小泉は、参議院で否決された場合は衆議院を解散し、総選挙では造反議員を推薦しないとしていたため、自民党内では小泉の手法に対して賛否が真っ二つに分かれていた。
小泉の後見人を自認する森は、8月2日に「参議院で否決された場合に衆議院を解散するなら派閥会長を辞める」と発言した。8月6日には内閣総理大臣公邸へ赴いて小泉と会談し、法案が否決されても衆議院を解散しないよう説得を試みた。森は「元々反対の人までが努力して協力している。その人たちを苦しめて何の意味があるんだ」と情を説いたが、説得は失敗に終わった。この会談のあと、森は報道陣の前に缶ビールとミモレットを手にして会見し、「夕食時だから寿司でも取るのかと思ったら、出されたのが缶ビールとスモークサーモン、干からびたチーズ一切れだけだった」とぼやき(実際には高級品である)、このような対応に小泉のことを「変人以上」(狂人)と評するなど怒りを隠さなかった(この行動は、小泉の決心が固いと言うことを示すパフォーマンスだったと選挙後に明かしている)。これにより、加藤紘一元自民党幹事長ら一部から郵政解散は「干からびたチーズ解散」とも呼ばれた。小泉は後日「今度ミモレットの出るおいしいフレンチレストランにご招待したい」というコメントを出した。
8月8日の採決で、自民党からは21人の造反議員が出て法案は否決され、この結果を受けて小泉首相は衆議院の解散を決定した。同日夜、衆議院解散が決まった直後、森は派閥会長辞任発言を撤回した。
森は、派閥会長辞任発言について、「法案が否決されれば解散もある」との意味をこめた造反組への最後警告の芝居だった、と説明したという。元自民党議員の政治評論家浜田幸一は、「派閥会長にもっともふさわしくない人間がまたも会長に就いてしまった」と酷評した。
[編集] 人物
- 血液型O型、身長175cm、体重100kg超と同年代の日本人男性と比較してもかなりの大柄である。
- 父親ゆずりと言われる政治的なカンの鋭さは、少年時代から地元において数々のエピソードを残している。半ば強引に金沢市の高校へ入学しラグビーを始めたのも、早稲田大学へ入学したのも全てその後の人脈づくりのためであったということが伝説化されている。
- 内閣官房副長官時代、時の総理である福田赳夫と並んで歩いた際SP(セキュリティポリス)と間違えられたことがある。
- 日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮である。衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された際、同一中選挙区に同一政党の候補者が複数いる場合、候補者を小選挙区と比例代表から交互に立候補させる方式を考案し、コスタリカ方式と命名する(ただし、コスタリカにはこのような選挙制度は存在しない)。
- 文部大臣になったことがよほどうれしかったらしく、退任後も「文部大臣ならもう一度やってもよい」と周囲に語っていた。
- 日本体育協会会長、日本プロスポーツ協会会長、日本トップリーグ連携機構会長、日本ドッジボール協会会長、ニューヨーク・ヤンキース松井秀喜選手の後援会名誉会長を務めている。松井の実家と隣の集落出身で、両者とも浜小学校出身である。また1995年参院選ではガンバ大阪前監督釜本邦茂を比例区で、新日本プロレス馳浩を石川選挙区で擁立し当選に導く。1996年総選挙ではプロボクシングの元WBC世界ライト級王者ガッツ石松を東京9区で擁立。
- 1988年、巨人の投手槙原寛己の結婚披露宴での祝辞で、「最近の巨人軍の結婚式というと子連ればっかりだったが、槙原君はまっとうな結婚式で、本当に良かった。」というスピーチ。その数日前に水野雄仁が子連れ結婚式を行ったのに関することだったが、当の槙原は照れて、水野はばつの悪い顔をして、巨人首脳陣は「デタラメ揃いだから勝てないんだ」と言われているような気がして俯いたが、会場の雰囲気をドッと和やかにして、江本孟紀は「『幸せな家庭を』とか、通り一辺倒なスピーチが多い中で、稀代の名スピーチ」と絶賛していた[要出典][9]。
- 首相在任中の第42回衆議院議員総選挙では小選挙区(石川2区)と比例区(北信越ブロック)と重複立候補。小選挙区比例代表並立制導入後、現職首相が重複立候補したのは今のところ森だけ。森の比例の順位は現職首相でありながら比例で優遇されることなく、他の重複立候補者と同列だった(結果は小選挙区当選)。
- 自由民主党の幹事長、総務会長、政務調査会長の党三役全てに就任しているのは森と安倍晋太郎だけであり、総裁も勤めた唯一の人物である。党三役には現在では選対委員長を加えて党四役となっているが、森は選対委員長の前身である総務局長にも就任している。
- 2006年8月27日、清和会所属で当時文部科学副大臣であった馳のプロレス引退試合を観戦したが、VOODOO-MURDERSの"brother"YASSHIが「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このかす野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の治世を批判し唾を掛けるという暴挙に出た。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという前代未聞の事態が発生した。さらにこのとき、観客から「森コール」が起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、史上初となる首相経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対し、森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。
- 自身のサイトがリニューアル1ヶ月で100万アクセスを越えた際に地元の北國新聞で取り上げられた。事務所は「写真など定期的に更新をしているから」と述べていたが、実は2ちゃんねらーによる祭りの結果だったことが判明している。
- 都内の瀬田に邸宅を構え、さらに六本木ヒルズに住んでいた時期も有るが2007年に退去している[10][11]。
- 派閥を「心のオアシス」と呼んでいる[12]。
- かつて「お絞り、それと中川君」が口癖であったほど中川秀直を寵愛し自身の内閣の官房長官にも登用したが、小泉改革をめぐり徐々に亀裂が生まれ、中川が小池百合子を総裁選に出馬させたことで、二人の関係は完全に決裂した[13]。
- 上記のとおり、問題発言がマスコミに取り上げられ続けたため、首相後期には殆どマスコミを相手にしなくなった。
[編集] 家族 親族
- 祖父 - 森喜平(政治家・根上町長)
- 父 - 茂喜(政治家・根上町長)
- 長男 - 祐喜(政治家・石川県会議員)
- 長女の夫 - 藤本真佐(ふじもと しんすけ、1967年10月16日 - 、デジタルハリウッド代表取締役社長兼CEO)
- 姪の夫 - 岡田直樹(参議院議員)
[編集] 系譜
喜平━━茂喜━━喜朗━━祐喜
[編集] 栄典
- キューバ文化功労章(キューバ共和国)
- キューバで開催された国際音楽祭「クバデイスコ2005」に対し、日本からの広範な参加・協力が得られるように尽力した功績により。
- 特種大綬景星勲章(台湾)
- 日本における台湾人観光客への査証免除実現への協力及び台日関係の促進への貢献により。
[編集] 略歴
- 1937年7月14日:石川県能美郡根上町(現・能美市)に生まれる。
- 1956年3月:石川県立金沢二水高等学校卒業。高校時代はラグビ─部の主将として活躍。
- 1959年4月:自由民主党学生部に入党。
- 1960年3月:早稲田大学第二商学部(夜間学部)卒業。
- 1960年4月:サンケイ新聞社入社。日本工業新聞記者となる。
- 1963年4月:衆議院議員今松治郎の秘書になる。
- 1969年12月:第32回衆議院議員総選挙に無所属で出馬。
- 1975年12月:総理府総務副長官就任。
- 1977年11月:内閣官房副長官就任。
- 1978年12月:党政調文教部会長就任。
- 1981年12月:衆議院大蔵委員長就任。
- 1983年12月:文部大臣就任。
- 1987年11月:自由民主党全国組織委員長。
- 1991年1月:衆議院議院運営委員長就任。
- 1991年10月:自由民主党政務調査会長就任。
- 1992年12月:通商産業大臣就任。
- 1993年7月:自由民主党幹事長就任。
- 1995年8月:建設大臣就任。
- 1996年11月:自由民主党総務会長就任。
- 1998年7月:自由民主党幹事長就任。
- 1998年12月:清和政策研究会会長就任。
- 2000年4月:第85代内閣総理大臣就任。
- 2004年10月:自由民主党新憲法起草委員会委員長。
- 2006年10月19日:清和政策研究会会長退任。
- 2006年10月26日:清和政策研究会名誉会長就任。
[編集] 脚注
- ^ 第151回国会 予算委員会 第8号(平成13年2月19日)など。
- ^ また、2008年にはニコニコ動画の森喜朗チャンネルにおいて坂田道太のことを坂田英一と言っている。これは同じ時期に自民党の衆議院議員であった元農林大臣の坂田英一と混同している。
- ^ ビル・クリントン元大統領のすべて 2000年8月3日の産経新聞によると、この「ジョーク」の作者は台湾の著名な有識者で、オリジナルはアジア某国の元大統領が失言の主という設定だったという。
- ^ 統一日報 ソウル事情 英語は“学歴測定の道具”にあらず
- ^ 裏金疑惑の西松建設 関連政治団体政界に4億2000万円 森・二階・小沢氏ら しんぶん赤旗 2008年12月21日(2009年3月12日閲覧)
- ^ 森元首相も返却へ=西松OB団体からの資金 時事通信 2009年3月5日(2009年3月12日閲覧)
- ^ http://www.jk-tunnel.or.jp/qa/qa_1.html
- ^ 毎日新聞 2007年7月5日 東京朝刊
- ^ なお江本のコメント引用として「通り一辺倒」という表現がされているが、「通り一辺倒」という日本語はない。正しくは「通り一遍」である。
- ^ 村上正邦、平野貞夫、筆坂秀世『自民党はなぜ潰れないのか』(2007、幻冬舎新書)
- ^ 「月刊BOSS」2008年8月号より
- ^ 【自民総裁選】乱戦いよいよ本格化 派閥政治終焉の序章か… MSN産経ニュース 2009年9月8日
- ^ 中川秀直六十五歳の誕生日に蘭の花を贈った森喜朗の胸中(『週刊文春』 2009年2月19日号)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Yoshiro Mori WebSite(公式サイト)
- 森善朗チャンネル - ニコニコ動画の森の公式チャンネル
- 関連系図
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代 : 小渕恵三 |
第85・86代:2000年 ‐ 2001年 |
次代 : 小泉純一郎 |
| 先代 : 野坂浩賢 |
第62代:1995年 ‐ 1996年 |
次代 : 中尾栄一 |
| 先代 : 渡部恒三 |
第56代:1992年 ‐ 1993年 |
次代 : 熊谷弘 |
| 先代 : 瀬戸山三男 |
第129代:1983年 ‐ 1984年 |
次代 : 松永光 |
| 党職 | ||
| 先代 : 小渕恵三 |
自由民主党総裁 第19代:2000年 ‐ 2001年 |
次代 : 小泉純一郎 |
| 先代 : 梶山静六 加藤紘一 |
自由民主党幹事長 第30代:1993年 ‐ 1995年 第33代:1998年 ‐ 2000年 |
次代 : 三塚博 野中広務 |
| 先代 : 塩川正十郎 |
自由民主党総務会長 第38代:1996年 ‐ 1998年 |
次代 : 深谷隆司 |
| 先代 : 加藤六月 |
自由民主党政務調査会長 第37代:1991年 ‐ 1992年 |
次代 : 三塚博 |
| 先代 : 三塚博 小泉純一郎 |
清和政策研究会会長 第4代 : 1998年 ‐ 2000年 第6代 : 2001年 ‐ 2006年 |
次代 : 小泉純一郎 町村信孝 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第84代 小渕恵三 |
第85・86代 2000年 - 2001年 |
第87・88・89代 小泉純一郎 |
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