日本のラグビーユニオン
本項では日本国内におけるラグビーユニオン(ラグビー)について記述する。日本においてラグビーユニオンは人気スポーツである。日本のラグビーユニオン選手数は世界で四番目であり、100年以上の歴史を持つ。日本には125,000人のラグビー選手、3631の公式ラグビークラブがあり、ラグビー日本代表の世界ランキングは第14位である(2012年3月現在)[1]。
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呼称 [編集]
かつて日本ではラ式蹴球(しゅうきゅう)とも呼んでいたが、サッカー(ア式蹴球)と混同されるため、ラグビーと呼ぶ言い方が定着した(早稲田大学ラグビー蹴球部は「ラ式蹴球部」と称していた[2]。単に「蹴球」と呼ぶ場合、昔はラグビーを指したが、サッカー人気が定着してからはサッカーを指す様になった。日本式呼称は闘球(とうきゅう)。
統括団体 [編集]
詳細は「日本ラグビーフットボール協会」を参照
日本におけるラグビーユニオンは日本ラグビーフットボール協会 (JRFU) によって統括されている。
日本ラグビーフットボール協会は1926年11月30日に公式に設立され[3]、1987 ラグビーワールドカップの直前、1987年に国際ラグビー評議会 (IRB) の正会員(かつ評議会の一議席)となった[4][5]。また、アジアラグビーフットボール協会の創立メンバーである。
歴史 [編集]
初期の歴史 [編集]
多くの西洋の習慣と同様に、ラグビーフットボール[6]は日本に素早く伝来した。アメリカ合衆国が日本の開国を「砲艦外交」で迫ってから30年も経たない内にラグビーは日本でプレーされており、ラグビーが伝わると日本人はすぐに取り入れた[5]。日本人の一部はラグビーの中に「武士道」を見出し、ラグビーの試合の価値を重んじた[7]。
日本で記録された初めてのラグビーの試合は、1874年にイギリスの船員によって横浜で開催された[7][8][9]。試合は横浜で開催されたり、神戸のようなその他の条約港で長期滞在外国人と立ち寄った船の乗組員や守備隊などとの間で行われたが[8]、日本人が参加することはほとんどなかった[9]。
日本に「公式」にラグビーが紹介されたのは、1899年、横浜生まれのエドワード・B・クラーク教授と田中銀之助によって慶應義塾大学の学生に紹介された時である[9][10]。クラークと田中は共にケンブリッジ大学の卒業生であった[7][11]。日本のラグビーは1920年代にようやく成長し始めた[10]。クラークは慶應大学で1899年から1910年まで英語を教え、ラグビーをコーチした。その後、右脚の怪我によりプレーを断念せざるを得なくなった。
クラークは、「夏の後や冬の後の日々に屋外で若者がすることが何もないように見えた。冬の野球はまだ行われておらず若者達は時間と素晴しい屋外の天気を無駄にしてぶらぶらしていた」ため、彼の生徒達になにか建設的なことを教えたかったと述べている[9][12]。
20世紀初頭 [編集]
明治大学、慶應義塾大学、早稲田大学は日本におけるラグビーの中心となり、慶應と早稲田の対抗戦は1924年から毎年開催されている[3]。
1901年、慶應義塾大学は「Yokohama Foreigners」と対戦し35対5で敗れたが、これによってラグビーにおける人種の壁が壊された[9]。クラーク教授はこの試合でプレーし、Shiyodaと呼ばれる生徒がトライを決めた後に、クラークはコンバージョンを成功させた[9]。
日本ラグビーフットボール協会 (JRFU) はこの頃に「The Land of the Rising Scrum」と呼ばれるパンフレットを出版し[10](日出ずる国 The Land od the Rising Sunを意味する「日本」に掛けている)、皇室は長年ラグビーの熱烈な支援者となっている[10]。
慶應から、ラグビーは日本のその他の大学に広がり、今でもこれらの大学はラグビー強豪校である[7]。同志社大学と早稲田大学は1923年に初の大学間の試合を行った[13]。
20世紀初頭における日本ラグビーの成長は天文学的であり、1920年代には1,500近くのラグビークラブがあり、6万人以上の選手が登録されていた[7]。この人数は、スコットランド、ウェールズ、アイルランドを合わせた選手数よりも多い。このように極めて素晴しい模様にもかかわらず、日本のラグビーは極度に孤立しており、初めての島外への遠征は1930年代まで行われなかった[7]。
日本およびカナダは、主要な「伝統的」ラグビー国以外の国として初めて遠征を行った。日本は1930年にカナダブリティッシュコロンビア州に遠征し、カナダは1932年に日本へ遠征した[14]。カナダは日本で行われた6試合のうち5試合に勝利したが、1932年1月31日に2万5千人の観衆の前で行われた日本代表との試合では38対5で敗れた[14]。カナダチームは貿易代表団によって呼び寄せられていた。
カナダ人達はこの敗戦について「度を越えた娯楽、短い期間に試合を行い過ぎたこと、集った日本の貴族の前で日本人が飛び抜けて素晴らしいプレーをした」せいであるとした[14]。
1934年、オーストラリアの大学チームが日本に遠征し、2万人を越える観衆の前で慶應と早稲田に敗れた[7][14]。
秩父宮 [編集]
第二次世界大戦後、秩父宮雍仁親王は多くの競技団体の名誉総裁となり、スキーやラグビー、その他のスポーツの振興に尽力したことから「スポーツの宮様」と呼ばれた。雍仁親王はJRFU会長の香山蕃が長い航海から帰国し雍仁親王にラグビーを「売り込む」ことができるようになった後、ラグビーに「転向」した[10]。雍仁親王はオックスフォード大学モードリン・カレッジに通ったが、大正天皇の崩御により日本に帰国したため、一期しか滞在しなかった[13]。日本で、慶應対早稲田の試合を見て雍仁親王の興味はさらに強くなり[13]、1926年にJRFUの会長となった[13]。
雍仁親王の死後、北青山二丁目にある東京ラグビー競技場は秩父宮ラグビー場と改称された。ラグビーユニフォーム姿の雍仁親王の像が競技場に建てられた。
東条政権と第二次世界大戦 [編集]
1930年代終わりと1940年代初め、大政翼賛会は特に外国的と見られたため[15] 、皇族はラグビーを支援し続けていたにもかかわらず、ラグビーに対して敵対的な傾向にあった[15] 。その結果、ラグビーは「闘球」と名称を変えることになった[15]。
第二次世界大戦の結果として多くの日本人選手が亡くなり、競技施設のほとんども爆撃によって破壊された[7]。しかし、ラグビーの試合は戦時中も、軍隊によって競技場が接収され、選手の死亡により試合が不可能ともなった1943年まで続けられた[15]。
戦後 [編集]
日本のラグビーは、施設への甚大な被害や多くの選手の死にもかかわらず、戦後驚くべき速度で復興した[15]。戦争集結後一ヶ月も経たない1945年9月、北海道におけるラグビー選手の募集広告は何とか15名未満の人数を呼ぶことができた[15]。1945年9月23日、戦後初めての学校対抗戦が京都で行われた[15]。神戸製鋼所はラグビーが労働者の規律を高めると考えたため、1945年の終わりの社員へラグビーへの参加を後押しした。これは後の日本ラグビーへの企業の深い関与の先例となった。
1950年代、イングランドの主要な大学チームの2つが日本へ遠征を行った。オックスフォード大学は1952年と1956年に日本遠征を行い、ケンブリッジ大学は1953年に遠征した[16]。1959年には、合同のオックスブリッジチームが遠征を行った[16]。この時期にジュニアオールブラックスも遠征を行った[17]。
1968年、日本はニュージーランド遠征でジュニアオールブラックスに4連敗の後23対19で勝利したが、その後5連敗した。
1970年代 [編集]
1971年、イングランドが日本に遠征した[18]。金野滋 (Shiggy Konno) は日本人選手に高さが欠けていることが問題であったと認めたが、それにより、「ボールを拾い上げやすく、スクラム内でまとまりやすく、一般的により素早く動き回ることができる。これは我々の強さであり、我々はそのようにプレーしなくてはならない。」と述べている[18]。
ラグビーフットボールユニオン (RFU) 百周年の年である1971年9月29日、早稲田大学の大西鐡之祐教授が監督を務めた日本は東京でイングランドにわずか3対6で敗れた。
日本による初めてのグレートブリテン遠征は1973年であった[3]。
日本の厚い選手層にもかかわらず、日本の土地の狭さからくる競技場の欠如という大きな問題があった[7]。そのため、競技場は午前6時から夜遅くまで使用されることもあった[7]。また、日本のラグビーは暴力や暴行がないことも賞賛に値した。言い伝えによると、1975年に軍チーム同士の試合が手に負えなくなったことによって、両チームは解散になり、部隊長は首に、選手全員は無期限禁止になったという[7]。おそらく以後、問題は起きなかっただろう。
日本のチームはスピードと機知に富むことで知られているが、南半球やヨーロッパの選手と比べた体の小ささによって不利な立場となることがある。しかしながら、これは日本の食事が、魚のかわりに肉の量が増えてきて、より西洋の食事に近くなってきたことによって変化している(日本が相撲の国であることからすると、日本でより大柄なラグビーユニオン選手が出てこない明白な理由はない)。
この影響からか、日本はトップランクの国との戦いでよい成績を収めていない。日本代表は全てのワールドカップの予選を突破し、大韓民国の強力な挑戦にもかかわらずほぼ全てのアジアラグビーフットボール大会で優勝している。しかし、日本はトップランクの国を破ることが出来ていない。日本がスコットランド代表に勝利した1990年は一つのクライマックスだった[7]。ワールドカップでは、アフリカ代表として出場したジンバブエ(南アフリカはアパルトヘイト政策の制裁を受けていたため出場できなかった)に対する勝利が唯一である[7]。
日本において、スポーツをする人々の像は比較的珍しいが[10]、国立霞ヶ丘陸上競技場にはラグビー選手のスクラムの像がある。
1980年代 [編集]
1983年10月2日、カーディフ・アームズ・パークにおいて、日本はウェールズとの試合で24対29の5点差まで追い上げ驚かせた。
1989年5月28日、秩父宮ラグビー場で宿澤広朗がコーチを務めた日本代表は、ブリティッシュ・ライオンズのオーストラリア遠征で主力9人を欠くスコットランドを28対24で初めて破った。当時の日本代表には、神戸製鋼の屈強なセンター平尾誠二(主将)、ロックの大八木淳史と林敏之(日本代表38キャップ、オックスフォード大学歴代ベストXVの一員)がいた。ナンバーエイトのシナリ・ラトゥは大東文化大学の四年で、ウイング(No. 14)のスピードのある吉田義人は明治大学の三年だった。残っている試合映像によると、スコットランドは信じられない7度のペナルティーを失敗し、寛大に提供されたキッキングティーを断っている。このチームとほぼ同じチームが、1991 ラグビーワールドカップでジンバブエ代表に勝利した。
日本のラグビーにおける「Shamateurism」と「外人」の告発 [編集]
日本人は伝統的にラグビーユニオンにおけるアマチュアリズムの強い支持者であったが、伝統的に日本のチームの多くは大企業によって運営され、これらの企業によって社員として雇用されていた選手は「shamateurism」(アマチュア選手をプロ同様に扱うこと、shame〔恥〕+ amateurism〔アマチュアリズム〕のかばん語)として有罪であったことは指摘しなければならない[7]。
1970年代、多くの「外人」が日本の企業チームで[19]プレーし始めた[20]。しかし、日本のラグビーは前プロフェッショナル時代にこの点で決して孤立していた訳ではない。
この現象の主要な例は、神戸製鋼でプレーした「ワラビー」のイアン・ウィリアムスである[19]。ウィリアムスは、日本で、現地の賃金の2倍の報酬を受け取っていた100人の「外人」選手がいたと1994年に見積っており、実際に仕事をしていたのはそのうちわずか6人程だっただろうと考えている[19]。つい1995年には、金野滋はIRBへの覚書において、「(プロフェッショナリズムに関する)我々の指示が守られているとは断言できない」と記している[19]。
ノーマン・ハドリーやジョー・スタンリーといった広範なトップ選手が様々な日本企業の社員となっていったが、トンガ代表のシナリ・ラトゥを含めその他の日本の国際的トップ選手は最終的には日本代表としてプレーした。イギリスで教育を受けた金野滋は日本の有名なアマチュアリズムの支持者だった[7]。
1990年代 [編集]
1990年代、アメリカ合衆国、カナダ、日本、香港、トンガ、フィジー、サモア、アルゼンチン(太平洋岸ではないが)によって環太平洋ラグビー大会の開催が検討されたが、2百万ドルの資金提供元が見付からなかったため断念された[21]。
ラグビーユニオンによる規則では、アマチュア競技であることが永らく定められてきたが、1995年にこの「アマチュア宣言」が撤廃され、プロもアマも認める「オープン化」が宣言された。
現在 [編集]
日本のトレーニング方法は独創力よりも規律に重きを置いていると批判されている[22]。一般的な基本練習の一つは「ラン-パス」である。これは選手がフィールドの長い距離を走りパスを交換する練習であり、しばしば一時間かそれ以上続けている[22]。
森喜朗 [編集]
日本の元総理大臣森喜朗は高いレベルの選手でなかったものの早稲田大学でラグビーをプレーし、ラグビーへの情熱を育んだ。2005年6月、森は日本ラグビーフットボール協会 (JRFU) の会長となり、彼の強い影響力によって2011 ラグビーワールドカップの日本への招致が期待されたが、開催地は2005年11月18日にニュージーランドに決定した[23]。森はこれについて英連邦の国々が「仲間内だけでパスを回すのか」と批判した[24](森喜朗#外交活動を参照)。2019 ラグビーワールドカップはアジアで初めて、日本で開催される予定である(ラグビーワールドカップ日本招致活動を参照)。
森は連立政権の他党との関係について「ラグビーでは一人ではスターになれない、一人はみんなのために、みんなは一人のためにプレーするのだ」と述べている[25]。
2019 ラグビーワールドカップ [編集]
2009年7月28日にダブリンにおいてIRBの特別会合が開かれ、2015 ラグビーワールドカップ開催国とともに日本が2019 ラグビーワールドカップのホスト国と発表された[26]。
スタジアム候補地の一覧 [編集]
日本の9つの競技場に加えて、シンガポールと香港のスタジアムでそれぞれ5試合が行うことが提案されている[27]。
| 国 | 広域自治体 | 市・区等 | 競技場 | 収容人数 | 画像 |
|---|---|---|---|---|---|
| 北海道 | 札幌市 | 札幌ドーム | 41,484人 | ||
| 宮城県 | 仙台市 | ユアテックスタジアム仙台 | 19,694人 | ||
| 東京都 | 新宿区 | 国立霞ヶ丘陸上競技場 | 50,339人 | ||
| 東京都 | 港区 | 秩父宮ラグビー場 | 27,188人 | ||
| 神奈川県 | 横浜市 | 日産スタジアム | 72,327人 | ||
| 愛知県 | 豊田市 | 豊田スタジアム | 45,000人 | ||
| 大阪府 | 大阪市 | 長居スタジアム | 50,000人 | ||
| 兵庫県 | 神戸市 | ホームズスタジアム神戸 | 34,000人 | ||
| 福岡県 | 福岡市 | レベルファイブスタジアム | 22,563人 | ||
| 香港特別行政区 | 湾仔区 | 香港スタジアム | 40,000人 | ||
| 加冷 | シンガポール・スポーツ・ハブ[28] | 55,000人 | |||
大学ラグビー [編集]
日本のラグビーは慶應義塾大学、同志社大学、早稲田大学、明治大学などの大学ラグビーの伝統校が戦前から定期戦を行い発展してきた。近年では関東学院大学や帝京大学などの新興勢力が伝統校に肩を並べている。また、(大学スポーツ全体に言えることであるが)関東の大学が他地域の大学を戦力の質・量、実績共に圧倒している。
もっとも、ラグビーは元々九州で盛んで全国社会人ラグビーフットボール大会の初期の優勝チームは九州勢が続いたという歴史もあり、高校ラグビーでは西日本の高校が優勢であり、西日本の高校出身の選手も多く出場している。
日本選手権での対戦成績を見ても実力では社会人が大学に大きく水をあけているにもかかわらず、社会人ラグビーのトップクラス同士の集客力は大学ラグビーの人気カード(早明戦、早慶戦など)に及ばず、日本ラグビー界の大きな課題となっている。
日本代表 [編集]
詳細は「ラグビー日本代表」を参照
「チェリーブロッサムズ」と呼ばれる日本代表の国際ラグビー評議会 (IRB) による世界ランキングは第15位である(2011年11月14日現在)[1]。
日本代表はワールドカップには1987年の第1回大会から途切れなく出場を続けているが、本大会では1991年にジンバブエに勝ったのが唯一の勝ち星で、国際ラグビー評議会 (IRB) がプロを認めた1995年にはオールブラックス(ニュージーランド代表)に17‐145の大敗を喫している。また2007年のフランス大会ではオーストラリア代表ワラビーズに3-91という大差で負けており、世界のトップクラスの国々とはまだ大きな開きがあるというのが現実である。なお、第3回大会のオールブラックス戦での大敗を機にラグビー人気は下火になり、それまで地上波で放送されていた国内の好カードも、CS放送でしか見られなくなったと指摘する声がある[29]。
ラグビーユニオンではアジアが相対的に弱いため、日本は真剣な戦いをするために絶えず苦労している。その結果日本は板挟みの状態となっている ーー アジアラグビーユニオンの小さな池の中の大きな魚(井の中の蛙)であるが、国際ラグビーユニオンの大海の中ではいまだに小魚に過ぎない。
日本代表は大抵、ワールドカップのためにIRB規則を満たした一人か二人の外国生まれの選手を補強する。この中でニュージーランド出身のアンドリュー・ミラーとアンドリュー・マコーミック、トンガ出身のシナリ・ラトゥが最も成功している。
ラグビーワールドカップ [編集]
詳細は「ラグビーワールドカップにおける日本」を参照
日本は1987年の第一回大会から全てのラグビーワールドカップに出場している。日本は2019 ラグビーワールドカップのホスト国となる予定である。これまで6度の大会に出場しているにもかかわらず、日本は1991年大会ベルファストで宿澤広朗の指揮の基、ジンバブエに52対8であげた勝利が唯一のものである。
スーパーカップ [編集]
詳細は「スーパーパワーズカップ」を参照
スーパーカップはカナダ、日本、ルーマニア、アメリカ合衆国の代表チームによって毎年開催されていたラグビーユニオンの国際大会である。以前はスーパーパワーズカップとしても知られており、現在はIRBパシフィック・ネイションズ・カップに取って代わられた。
日本は2004年に大会を制している。
パシフィック・ネイションズ・カップ [編集]
詳細は「IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」を参照
IRBパシフィック・ネイションズ・カップは環太平洋の6チーム、フィジー、日本、西サモア、トンガ、オーストラリアA代表、ニュージーランドマオリが参加するラグビーユニオンの国際大会である。以前はジュニア・オールブラックス(ニュージーランドのセカンドチーム)が参加していた。
アジア5カ国対抗 [編集]
詳細は「アジア5カ国対抗」を参照
アジア5カ国対抗はアジアにおけるラグビーの発展のために2008年に始まった新しい大会である。第一回大会の詳細は2008年アジア5カ国対抗を参照のこと。
ジャパンセブンズ [編集]
2011-2012年シーズンから毎年巡回するラグビーセブンズ男子代表のIRBセブンズワールドシリーズに新たに創設されたジャパンセブンズが組み入れられる予定である。本大会は第一回は3月と4月にまたがって週末に秩父宮ラグビー上で行われる予定である[30]。
国内大会 [編集]
トップリーグ [編集]
詳細は「ジャパンラグビートップリーグ」を参照
2003年、日本のラグビーユニオンの全体的な水準を改善するためにジャパンラグビートップリーグが設立された。これは日本初の全国的なリーグでありプロフェッションに向う第一歩だった。今までのところ、リーグは多くの近接した戦いや興奮する試合により成功しているが、試合の観客は一般的にそれほど多くなく根強い愛好家か企業の社員に限定されている。
日本ラグビーフットボール選手権大会 [編集]
詳細は「日本ラグビーフットボール選手権大会」を参照
本大会はシーズンの最後にトップリーグのチームとクラブ選手権優勝チーム、大学のトップ2チームによって行われる。
マイクロソフトカップ [編集]
詳細は「ジャパンラグビートップリーグ#プレーオフ」を参照
マイクロソフトカップは、マイクロソフトジャパンがスポンサーとなったノックアウト方式のトーナメントで、トップリーグの上位チームによって行われた。
全国大学ラグビーフットボール選手権大会 [編集]
詳細は「全国大学ラグビーフットボール選手権大会」を参照
全国大学ラグビーフットボール選手権大会は毎年開催される。
全国クラブラグビーフットボール大会 [編集]
詳細は「全国クラブラグビーフットボール大会」を参照
第15回全国クラブラグビーフットボール大会決勝が2008年2月17日に秩父宮ラグビー場で行われ、タマリバクラブが六甲シーホークスに21対0で勝利した。優勝チーム(タマリバクラブ)は日本選手権の一回戦へ出場した。
全国高等学校ラグビーフットボール大会 [編集]
詳細は「全国高等学校ラグビーフットボール大会」を参照
全国高等学校ラグビーフットボール大会は毎年12月終りから1月頭にかけて東大阪にある近鉄花園ラグビー場で開催される。全国47都道府県の代表(北海道、東京は2、大阪は3チーム)が争う。
本大会は非常に成功した全国大会で、1200を越えるチームが参加する[22]。
人気 [編集]
チームスポーツとして、ラグビーユニオンの人気は野球およびサッカーに離された第3位であり、現実はラグビーユニオン日本代表が国際舞台、特にラグビーワールドカップにおいて継続的に成功を収めるまでは変わりそうにない。
現在は、ラグビーユニオンは地上波テレビチャンネルでめったに見ることはなく、主にCSおよびケーブル配信チャンネルに限られていることから、成長が妨げられている(全国大学ラグビーフットボール選手権大会決勝など大きな試合はNHKで放送されることがある)。
文化における引用 [編集]
ラグビーは日本の大衆文化で時折言及される。
- テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」に関するもの
- スクール☆ウォーズ (テレビドラマ、1984年〜1985年)
- スクールウォーズ2 (テレビドラマ、1990年〜1991年)
- スクールウォーズ・HERO (映画、2004年、監督: 関本郁夫)
- 1974年京都の工業高校が舞台。校内暴力で荒廃し、ほとんど教師が生徒と少ししか交流できなくなっていが、元ラグビー日本代表の体育教師はラグビーチームを作ることによって十代の怒りを前向きに導くことができると信じていた。内部の衝突や挫折にもかかわらず、チームは繋りを深め、彼らのほとんどがこれまで知ることのなかったある種の家族のような関係が築かれていった。そして、チームは全国大会をその視界にとらえつつあった[31]。この映画は、京都市立伏見工業高等学校の伝統主義者のコーチであった山口良治と彼の十代の非行との戦いのストーリーに基づいている[22]。
- ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO (麻倉未稀による主題歌、1984年)
- 松任谷由実の楽曲「NO SIDE」に関するもの
- うる星やつら『第9巻 PART-4 女王陛下と愛のラガーマン!!」 (1982年、小学館、ISBN 978-4091204493)
- 異星人が地球に侵略してきたが、この地球外生命体の失敗はラグビーの試合中に到着したことだった。
- 「Myスポーツドリンク ラグビー」はラグビーの名前が付けられたスポーツドリンクの一種
- アニメ「フルメタル・パニック? ふもっふ」では主人公の相良宗介と千鳥かなめが、彼らの学校のラグビーチームが常に試合に負けているため、次の試合に破れるとラグビー部が廃部になる状態だったため、次の試合に向けてラグビーチームを鍛えるエピソードがある。宗介がトレーニングの仕事を引き継ぐと、彼は典型的な軍隊式トレーニングを用いて、ほかのあからさまに繊細な選手達を冷酷かつ冷血な「殺人マシーン」に変えたことによって、チームは試合を制し、ラグビー部は存続した。
その他 [編集]
- 高校の部活動における死亡事故
10万人あたりの死亡事故確率は4.030人(柔道 3.417人、野球 0.961人)、2000年から2009年にかけて計12名が死亡[32]。但し後遺症が残る障害事故は含まず。
脚注 [編集]
- ^ a b International Rugby Board (2012年3月5日). “IRB World Rankings - 5 March 2012”. 2012年3月8日閲覧。
- ^ 松澤 良祐 (2007年) (pdf). 早稲田大学ラグビー蹴球部の歴史と伝統 (Thesis). 早稲田大学.
- ^ a b c Jones, p69
- ^ Richards, p212
- ^ a b Bath p69
- ^ 日本のラグビーはラグビーユニオンとラグビーリーグの分裂以前から存在する。リーグはより小さい規模で行われているルールである(日本のラグビーリーグを参照)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Bath p70
- ^ a b The Ultimate Encyclopaedia of Rugby
- ^ a b c d e f Richards, p99
- ^ a b c d e f Cotton, Fran
- ^ Venn, J.; Venn, J. A., eds (1922–1958). “Tanaka, Ginnosuke Gisei”. Alumni Cantabrigienses (online ed.). Cambridge University Press.
- ^ Nish, Alison
- ^ a b c d Richards, p130
- ^ a b c d Richards, p143
- ^ a b c d e f g Richards, p150
- ^ a b Richards, pp164, 165
- ^ Richards, p165
- ^ a b Richards, p204
- ^ a b c d Richards, p237
- ^ Richards, p218
- ^ Richards, p258
- ^ a b c d Richards, p260
- ^ Richards, p276
- ^ Richards, p277
- ^ Wes Clark and others. “Famous Ruggers”. 2011年11月23日閲覧。
- ^ “England will host 2015 World Cup”. BBC (2009年7月28日). 2009年7月28日閲覧。
- ^ 日本ラグビーフットボール協会. “RWC 2015 /2019: 15 Main Topics & Venues of the Bid of Japan”. 2011年11月23日閲覧。
- ^ 2011年完成予定
- ^ “なぜ日本でラグビーW杯は注目されないのか”. ニューズウィーク日本版 (2011年9月20日). 2011年9月26日閲覧。
- ^ “Japan joins expanded HSBC Sevens World Series” (プレスリリース), International Rugby Board, (2011年8月18日) 2011年11月23日閲覧。
- ^ Y.Nomura. “School Wars: Hero”. Japanese Movie Database (JMDb). 2011年11月23日閲覧。
- ^ http://www.geocities.jp/rischool_blind/sports.html
参考文献 [編集]
- Bath, Richard, ed. (1997), Complete Book of Rugby, Seven Oaks, ISBN 1862000133
- Cotton, Fran; Rhys, Chris, ed. (1984), Book of Rugby Disasters & Bizarre Records, Century Publishing, ISBN 0712609113
- Jones, John R; Golesworthy, Maurice (1976). Encyclopedia of Rugby Union Football. London: Robert Hale. ISBN 0709153945.
- Nish, Alison (1999). “Britain's Contribution to the Development of Rugby Football in Japan 1874-1998”. Britain & Japan: Biographical Portraits. III. Japan Library. ISBN 1873410891.
- Richards, Huw (2007). A Game for Hooligans: The History of Rugby Union. Edinburgh: Mainstream. ISBN 9781845962555.
- Ultimate Encyclopaedia of Rugby. Carlton Books. (1997). ISBN 185868076.
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- IRBの日本ページ
- 日本ラグビーフットボール協会公式ページ
- 日本ラグビーフットボール協会公式ページ(英語)
- アジアラグビーフットボール協会
- The Unofficial Japanese Rugby Page
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