ラグビー日本代表
| ユニオン | 日本ラグビー協会 | ||
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| 愛称 | チェリーブロッサムズ / ブレイブブロッサムズ | ||
| エンブレム | サクラ | ||
| コーチ | |||
| 主将 | |||
| 最多得点選手 | 廣瀬佳司 (422) | ||
| 最多トライ選手 | 大畑大介 (69) | ||
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| 初国際試合 | |||
(1932年1月31日) |
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| 最大差勝利試合 | |||
(2002年7月1日) |
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| 最大差敗戦試合 | |||
(1995年6月4日) |
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| ラグビーワールドカップ | |||
| 出場回数 | 7 (1987年初出場) | ||
| 最高成績 | 1次リーグ3位 (1991年) | ||
ラグビー日本代表(ラグビーにほんだいひょう)は、ラグビーユニオンの日本代表チーム。
目次 |
概要 [編集]
古くからラグビーファンの間では「ジャパン」と呼ばれる[1]。時の監督の苗字をかぶせて、「(大西)ジャパン」「宿沢ジャパン」「JKジャパン」などと呼ばれることもある。
ファーストジャージーのデザインは赤に白の横線。胸の桜のエンブレムから、海外ではチェリーブロッサムズやブレイブブロッサムズあるいは単にブロッサムズと称される。また、国内ではそのユニフォームが桜のジャージと呼ばれる。ジャパンが初めて結成された時のエンブレムは桜がまだ蕾だった。
歴史 [編集]
黎明期 [編集]
初めて日本代表が結成されたのは1930年のカナダ遠征である。後に日本ラグビーフットボール協会三代会長に就任する香山蕃が初代日本代表監督に就任し、ブリティッシュ・コロンビア州代表(以下、BC代表)などと対戦し6勝1分の好成績を残した。初のテストマッチは1932年のカナダ代表とのテストマッチであった。カナダ代表が日本へ遠征し、日本・カナダお互いにこれが初テストマッチだった。戦前最高のプレイヤーと呼ばれた笠原恒彦(明大)らの活躍により、戦績はジャパンの2戦2勝だった。香山は1930年〜1934年まで監督を務めたが、テストマッチでは3勝1敗という好成績を収めた。
一方、1932年〜1962年までは海外遠征試合がなく、国内でのみ試合を行なった。この間、ニュージーランド学生代表クラブ(NZU)、オーストラリア学生代表、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の他、在韓ニュージランド部隊や極東英連邦軍チームなどとも対戦歴があるが、ほとんど勝てなかった。
1963年、葛西泰二郎が監督に就任し、実に33年ぶりとなるカナダ遠征を挙行。同年4月13日のBC代表戦を33-6で制し、海外遠征テストマッチ初勝利を挙げた他、通算成績4勝1敗という好成績を収めた。ちなみに同遠征メンバーの中に、後にグレート草津としてプロレスラーとしての道を歩むことになる草津正武もいた。
『大西ジャパン』の活躍 [編集]
『NZラグビー暗黒の日』 [編集]
その後2年間は試合すら行われなかったが、1966年に大西鐡之祐が監督に就任すると、2年後の1968年に本場・ニュージーランド(以下、NZ)への長期遠征計画が持ち上がった。NZ遠征は1ヶ月間で実に11試合にも及び、内、6月3日のオールブラックスジュニア戦と6月8日のNZU戦がテストマッチ対象試合となった。そしてオールブラックスジュニア戦では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破するという『大金星』を挙げた。翌日の地元新聞には、『NZラグビー暗黒の日』という見出しが踊ったという[2]。そして一連の長期遠征は5勝6敗の成績だった。
日本選手権出場辞退事件 [編集]
その後、第1回の1969年に開催されたアジアラグビーフットボール大会(アジア選手権ともいう)で優勝。続くバンコクで開催された1970年の第2回も制覇したが、第2回開幕直前に、日本協会を揺るがす大騒動が起こった。1969年度の全国社会人ラグビーフットボール大会で優勝した近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都が相次いで、アジア選手権に主力を送り込むため、同年度の日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)を辞退することを表明した(詳しくは、日本ラグビーフットボール選手権大会#第7回日本選手権の辞退を参照)。アジア選手権の開催日程が1月10日〜18日までとなっており、1月15日に開催される日本選手権と日程が被ったためである。
すったもんだの騒動があったものの、アジア選手権連覇を果たした「ジャパン」は、1970年3月に、NZUとBC代表を日本に招いてテストマッチを行なったが、このとき、ジャパンのエース、坂田好弘はNZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが、NZUには3戦全敗。ついに、大西ジャパン時代には、長年の宿敵であるNZUには勝つことができなかった。
母国相手に大健闘 [編集]
1971年9月、ラグビーの母国、イングランド代表が来日した。同月24日に花園(19-27)では、双方5度に亘る逆転劇というシーソーゲームの末敗戦。28日の秩父宮では花園の一戦とは違って双方ノートライのロースコアゲームとなった。ジャパンは山口良治が挙げた1ペナルティ・ゴール(PG)しか得点を奪えなかったが、後半32分頃に訪れた、宮田浩二があと2センチあればトライを取れていたシーンがあるなど、80分間に亘り、イングランドと互角以上に渡り合った。結果、3-6で惜敗したが、今もなお、日本代表試合史上に残るベストゲームとして語り継がれている[3][4]。
『ジャパン』のルーツ [編集]
大西は、早大監督時代から海外列強の理論を導入。自宅には、原語で書かれたラグビー理論書が多く蔵書されていたという。さらに寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げた。このことに関連して、今、「〇〇ジャパン」という呼称がマスコミを中心に言われることが多いが、そのルーツは大西に起因している。日本代表監督に就任する前、当時はラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!よって親しみを込めてこれから『ジャパン』ということにする。」と、代表選手を集めたミーティングで説き、以後暫く、「ジャパン」といえば、ラグビー日本代表のことを指すようになった[5]。
『接近・展開・連続』 [編集]
大西の豊富なラグビー理論を集約した考え方が、「接近・展開・連続」である。これは、体の大きい相手にはスペースを与えず、できる限り「接近」してプレーする。相手とすれ違いざま、接触する寸前に素早く、味方に正確なパスを通し、人もボールもワイドに「展開」する。そのプレーを「連続」させて、相手ゴールを陥れるということに起因する。その理論に基づき、大胆な選手起用法も試みた。ラグビー経験の少ない井沢義明をいきなり代表に抜擢、160cm台の小兵ながらタックルが良くラインアウトのスローイングに長けた石田元成をフランカーとして起用、トリッキーなステップで対面を抜き去るスリークォーターバックス (TB)ウィングの萬谷勝治を「カンペイ」の切り札としてフルバックにコンバート、ナンバー・エイトだった原進をプロップとして抜擢、徹底的に鍛え上げて世界に通用するプロップに育て上げるなど、オールスター選抜・早慶明同に人選が偏重する傾向の強かった日本代表を革新した。
相次ぐ海外遠征 [編集]
上記イングランド来日試合を最後に大西が監督を退任し、1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となったが、オーストラリアコルツ来日テストマッチで1勝1分を記録するなど、国内強化試合を含めて負けなしを記録した。そして翌1973年に、イギリス、フランス遠征を1ヶ月間に亘って行うことが決まった。ところがその後、岡が指導する同志社で練習中に部員が死亡するという事態となったため辞任せざるを得なくなり、英仏遠征の監督には急遽横井久が就任したが、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」ができあがった。英仏遠征では、同年10月6日に、当時世界一との評価を得ていたウェールズ(14-62)、10月28日にはフランスとそれぞれ初のテストマッチを行なった。なお、このフランス戦については、フランスラグビー連盟もテストマッチと認定したが、18-30と健闘した。
1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1ヶ月に亘り、6年ぶりとなるNZ遠征が実施されたが、遠征最終戦で、『大西ジャパン』時代でも勝利できなかった宿敵・NZUに対し、『アニマル』こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で破り、対同チーム初勝利を挙げた。
1975年、岡が監督に復帰し、同年7月中旬から約1ヶ月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表とはテストマッチを2試合行い、第2テスト試合の8月17日の試合では、25-30と健闘した。そして、このオーストラリア代表戦は、2試合ともオーストラリアラグビー連合もテストマッチと認定した。この頃までは、勝てないまでも日本は、国際ラグビーフットボール評議会(IRFB、後の国際ラグビー評議会)ファウンデーションユニオン8ヶ国の代表に対し健闘する試合も少なくなかった。
ラグビーブームとは裏腹の日々 [編集]
1970年代後半あたりから、とりわけ大学ラグビーについては学生数がピークに達したこともあり、空前のブームとなった。早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会といった試合では満員のスタンドで行われるのが常となっていた。しかし日本代表はこの頃、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績に喘いでいた。キャップ対象試合だけを紐解くと、1975年のオーストラリア遠征〜1980年まで、日本代表が勝利を収めたのはアジア選手権において3度韓国を破った試合があるのみ。それ以外の相手となると、1979年の花園におけるイングランド戦の惜敗(19-21)があったとはいえ、1引き分けを挟んで19連敗を喫した。
1981年のオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利すると、1982年の香港及びカナダ代表の来日試合に勝利してテストマッチ5連勝を記録した。以後、1982年9月26日に宿敵NZUから国内初勝利を挙げた試合や、1983年のウェールズ遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合もあったが、一方では韓国に度々敗戦してアジア王者から陥落した年もあるなど、安定した成績を収めることができなかった。またこの間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなど、場当たり的な人事とみられてもおかしくなかった。ひいては上記の通り、国内の爆発的なラグビー人気があり、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも、成績が振るわなかったのである。
ワールドカップに招待される [編集]
ラグビーには長年世界一を決める大会がなく、日本は海外遠征やラグビー強豪国を招いてのテストマッチでラグビー強豪国(IRB正加盟国8カ国)を破ることが悲願であったが、実力と試合機会という高い壁に阻まれてきた。1987年に、ついにラグビーワールドカップが創設され、日本は第1回大会に招待された。
しかし、栄えある第1回のワールドカップの招待を受けたにもかかわらず、岡が大会直前になってNZへの研修留学という名目で監督を辞任する[6]。代表の編成に混乱を来しつつも、急遽宮地克実が指揮を執って挑んだ。初戦のアメリカ戦ではペナルティ・キック(PK)を5回も外し、勝てる期待の高かった試合を18-21で落とした。続くイングランド、オーストラリア戦にも敗戦し、3戦全敗で予選敗退となった。その後は通常のテストマッチでも連敗が続き、1986年のスコットランド戦からテストマッチ11連敗という「暗黒の時代」が続いた。その後、1988年のアジア選手権で韓国に2大会連続で敗退した責任を取り、日比野弘が監督を辞任。しかし、後任監督の選定には時間を要した。
「宿澤ジャパン」 [編集]
「宿澤ジャパン」誕生 [編集]
日比野の後任監督には、早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人でありながら、銀行員という職業柄、ラグビー界から遠ざかっていた「伝説のスクラム・ハーフ」宿澤広朗に白羽の矢が立った。 日比野が辞任を表明してからしばらくして、当時、選手強化委員長だった白井善三郎は日比野を携えて、住友銀行(当時)の英国支店勤務中に五ヶ国対抗ラグビーの観戦記などを日本のラグビー雑誌に寄稿したりするなどしていた宿澤を呼び、開口一番、『何のことかわかるだろう。』と切り出した。宿澤は当初、母校・早稲田大学のコーチ就任についての話かと思っていたらしく、まさか代表監督の要請とは思ってもいなかったという。しかも代表監督ということになると、勤務先の住友銀行も許可を出さないだろうと思っていたが、白井と日比野が事前に住友銀行に根回ししていたこともあり、『出世に響いてもいいなら、やってみろ。』という当時の上司からの事実上の快諾を得たため、1989年5月20日、日本代表監督に就任することになった。ちなみに、日本代表の新任監督は、1980年の山本巌以来、実に9年振りのことだった。
スコットランド相手に「金星」 [編集]
宿沢監督就任の8日後、後に「宿澤ジャパン」と称されることになる、宿澤監督初の采配試合となった。1989年5月28日、秩父宮ラグビー場で行われたスコットランド代表との一戦である。スコットランド代表メンバーのうち、レギュラークラスの約半分はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため、必ずしもベストの布陣とはいえなかったが、ここまで日本はスコットランドには3戦全敗中。そのため、最初から勝てる相手ではないと思われても致し方なかった。ところが、宿澤はこの強力な来日チームの試合を観戦し、次の弱点があることに着眼して「勝てる」と感じ、代表選手たちにこう力説した。
- 関東代表やU23があっさりトライを取られたのは、ジャパンとは格が違うから。ディフェンスさえしっかりすれば、ジャパンは勝てる。
- スコットランドは予想通りスクラムが弱い。ジャパンのスクラムなら絶対に押せる。
- また、二線防御の弱さも予想通りで、ジャパンのBKなら相当なトライ奪取が可能だ。
- ただし、モールでは不利。ラックでボールを支配しよう。
高温多湿、かつスコットランド代表キッカーの絶不調があったとはいえ、全体として宿澤のほぼ読み通りの試合内容となり、28-24のスコアでIRB常任理事国を破る金星を挙げた。そして、当時のスポーツ紙がこの金星を一面で大々的に報道した他、この勝利がきっかけとなり、日本代表は、Sports Graphic Number誌における同年度のMVP賞に選出された。この試合では、当時の代表チームの主将に、当時神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、また、シナリ・ラトゥ、吉田義人、堀越正巳、青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢したことにも特筆すべき点があった。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、宿澤は日本のラグビーを変えた、とまで言われるようになっていった。
テストマッチのあり方を見直す [編集]
スコットランド戦の『金星』があったとはいえ、宿澤は、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を志向したため、その後はIRFBファウンデーションユニオン8ヶ国との対戦は、1991年のワールドカップまでなかった。また宿澤は原則的に、これまでNZUやオックスフォード、ケンブリッジの両大学などの対戦相手についても、(日本代表のみ)テストマッチとしてきたあり方を抜本的に見直し、原則的に各国代表チーム以外のチームとの対戦についてはテストマッチとはみなさないことも方針として決めた。この方針は、当時の日本代表チームとしてはかなり画期的な方針であったが、以後の日本代表監督、ヘッドコーチ時代もこれに倣うことになった。
ワールドカップ初勝利 [編集]
対スコットランド勝利後のカナダ遠征では2戦2敗、翌1990年3月のフィジー戦もフィジアン・マジックに翻弄されて完敗するなど、4月に行われる、ワールドカップのアジア・太平洋予選に不安を残した。しかし予選大会では、西サモアにこそ苦杯を舐めたが、トンガ、韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた。だが、その後は西サモア戦の敗退を含めてテストマッチで5連敗。ところが、1991年のワールドカップを迎えるにあたって、むしろ宿澤ジャパンに対する評価は不安よりも期待感のほうが高まっていた。プール2に入った日本は、初戦で優勝候補の一角にも挙げられたスコットランドと対戦。スコットランドのホームであるマレーフィールドが会場であったが、2年前の「再現」を期待していた日本のラグビーファンも多かった。しかし、前半こそ9-17で折り返したものの、後半は雪辱を期していたスコットランドの一方的展開となり、9-47で完敗した。続く対アイルランド戦はアイルランドのホームグラウンドであるランズダウンロードで行われた。対スコットランド戦から中3日で行われたこの試合では、吉田義人の70m独走トライなどのシーンが見られた拮抗した試合になったものの、16-32で敗北。この時点で日本の予選突破は消えた。最終戦の対ジンバブエ戦はベルファストで行われ、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて52-8で快勝。そして2011年のワールドカップ終了時点で、日本がW杯で挙げた唯一の勝利ともなっている。そしてワールドカップ終了後、宿澤は監督を退任した。
145失点の屈辱 [編集]
宿澤の後任には、新日鐵釜石時代、監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任することになった。小藪はチームコンセプトとして、『タテ・タテ・ヨコ』というパワーラグビーを志向した。しかし、レベルが総体的に落ちるアジア諸国相手であれば通用したが速度が伴わず、北・南両半球の強豪相手には通用しなかった。とりわけ、1993年のウェールズ遠征では、同国代表はもとより同国Aチームにも惨敗を喫し、小藪解任論まで噴出した。そのため、タテ・タテ・ヨコの修正を迫られた。以後、フィジーにテストマッチで連勝するなどの成績を収め、1994年のアジア選手権決勝で韓国を破って3大会連続のワールドカップ出場権を得た。しかし1995年に開催されたW杯本戦では全く歯が立たず、ウェールズには10-57、アイルランドには28-50といずれも完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定した。しかし、この事実以上にこの大会における屈辱を、ニュージーランド戦で味わうことになる。ニュージーランドは既に決勝トーナメント進出を決めていたため、控え選手主体のメンバーとなったが、前半だけで12トライ、後半も9トライを挙げるなどして、145-17で圧勝。ニュージーランド代表来日時の第2テストマッチで100失点以上を経験していたため、戦前から日本代表の大敗は予想されていたとはいえ、『ブルームフォンテーンの悪夢(悲劇)』と呼ばれる屈辱的大敗を意味した。なお、この試合をもって小藪は監督を退任した。
平尾監督誕生へ [編集]
小藪の後任には、サントリーの部長だった山本巌が3度目の就任となった。しかし、1996年度シーズン限りで平尾誠二が現役を引退したこともあり、山本は早期に平尾に「禅譲」するという見方がされていた。実際、山本は1996年のパシフィック・リム選手権(2勝4敗で最下位)などで指揮を執ったが、同年限りで退任。1997年より平尾が監督に就任することになった。
平尾は就任後、ラグビーの競技人口が減少している背景から、『平尾プロジェクト』なるものを立ち上げた。つまりは、素質はありながらも所属チームが無名であるがゆえに埋もれた逸材と見られている選手や、ラグビー経験がなくとも他のスポーツで優秀な成績を収めている選手を取り込む目的があり、育成した上で将来その中から日本代表選手を発掘するという意味合いがあったのだが、結果的に大した成果は挙げられなかった。また、就任直後の成績も芳しいものとは言えず、1997年5月18日に秩父宮で行われたパシフィック・リム選手権でカナダを32-31と逆転で下した一戦があったとはいえ、1勝5敗で最下位に終わった。しかし、日本代表としては史上初めて、外国籍選手のアンドリュー・マコーミックを主将に指名した翌1998年より徐々に成績は上向き出し、第4回ワールドカップのアジア予選の壮行試合となったアルゼンチン戦を44-29で下すと、シンガポールで行われたW杯アジア予選でも優勝し、4大会連続のW杯出場を決めた。さらにワールドカップイヤーとなった1999年、日本はパシフィック・リム選手権で、フィジー以外の5ヶ国に勝ち、悲願の同大会初優勝を果たした。ここまでの流れから見て、本番のW杯は大いに期待されたが、結果は見事に裏切られることになる。W杯では、グレアム・バショップやジェミー・ジョセフといった、ニュージーランド代表選手としても著名な活躍をした選手が入っていたことから、『チェリーブラックス』と、海外列強のマスコミから揶揄されたが、それは逆に、かつてない強力な布陣が整ったという警戒心を意味した。それゆえ、本番では日本は対戦相手から研究し尽くされ、初戦のサモアは9-43、2戦目のウェールズは15-64、そして最後のアルゼンチンには12-33といずれも完敗。とりわけ、サモアとアルゼンチンには前年ないし当年勝利していただけに、想像以上に日本を研究していたことが分かる。結局、日本は4大会連続で予選プール敗退となった。
しかし日本協会は、W杯こそ不甲斐ない結果に終わったものの、パシフィック・リム選手権での実績を評価し、引き続き平尾体制で行くことを決めた。だが、翌2000年のパシフィック・リム選手権では4戦全敗となり最下位。その後のカナダ、アイルランドの各遠征でもテストマッチで大敗を喫したため、平尾解任論が噴出することになった。同年11月25日、日本協会は平尾監督の辞任を了承。ここに『平尾ジャパン』体制は幕を閉じることになった。
宿澤が現場復帰 [編集]
平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任し、現場復帰することになった。宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招聘した。向井は東芝府中監督時代、「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、ペナルティを与えられたら間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げた。また「PからGO」の戦法は、体格に劣る日本代表にも合致していると思われた。しかも、向井時代の代表選手には、大畑大介と小野澤宏時というフィニッシャーがいたからなおさらだった。しかし、「速いラグビー」が売りであるがゆえに、他国チームは逆に、日本はスクラムやラインアウトといったセットプレーが弱点と考え、とりわけ列強諸国は、そこを重点的に突いてきたが、日本はほとんどそれに対応できなかった。結果、向井時代にテストマッチでアジア諸国以外のチームから勝ち星を得たのは、2001年におけるカナダと、2002年におけるロシアの2勝のみ。2003年のワールドカップでは、スコットランド、フランス、フィジー、アメリカにそれぞれ完敗し、3大会連続の全敗を記録してしまった。大会終了後、監督の向井に加え、強化委員長の宿澤もそれぞれ辞任した。
迷走時代突入 [編集]
向井退任後の代表監督はなかなか決まらなかったが、2004年3月22日に漸く、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威とすることを決めた。萩本は就任当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝に導き、幸先のよいスタートを切ったかに思われたが、続くイタリア戦で敗戦すると、同年11月に挙行された欧州遠征において、スコットランドに8-100、ルーマニアに10-25、ウェールズに0-98と、いずれも完敗ないし大敗したため、同遠征直後に解任論が噴出。しかし、萩本解任を唱えた向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3名が、監督評価機関である8強会議の委員を解任され、はたまた欧州遠征と前後して、代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで繁華街でのトラブルで逮捕される不祥事が起きた[7]が、監督の萩本には「警告」のみにとどまるという、不可解な処分がくだされた。だが、翌2005年の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗。さらに5〜6月にかけて、カナダ、アイルランド(2試合)にもそれぞれ敗退したため、ついに萩本は辞任に追い込まれた。
これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本協会は、ゼネラルマネージャー(GM)及びヘッドコーチ(HC)という体制に改め、2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治、HCには、初の外国人指導者となる、ジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、いきなりテストマッチ4連勝を果たし上々の滑り出しとなったかに思われたが、2006年、第一回のIRBパシフィック・ネイションズ・カップでは全く歯が立たず、4戦全敗で最下位に終わった。そして、さらに衝撃的な事実が判明する。同年9月、エリサルドが、日本協会に無断でアビロン・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明。日本協会はHCに専念するよう求めたが、エリサルドがこれを拒否したため、同年10月31日付でエリサルドを解任[8]。暫定的にGMの太田がHCも兼務することになった。
日本代表の執行部が空中分解寸前の様相を呈していく中、太田は、かつての自身のチームメイトであり、かつ第1回W杯における最大の優勝の立役者に白羽の矢を立てることになる。
『JKジャパン』 [編集]
太田HC代行体制で挑んだ2006年11月のW杯アジア予選で、韓国、香港に快勝し、6大会連続の本戦出場を決めた。
2007年 ワールドカップ [編集]
2007年1月9日(就任は同年1月1日付)、日本協会は「JK」こと、ジョン・カーワンをヘッドコーチ (HC) とすることを発表した。JKは、海外のラグビー事情を多少でも知る者ならば誰でも知っているスーパースターであり、1987年の第1回のワールドカップにおけるイタリア戦で、90m独走トライをしたことでも知られている。また、現役生活の晩年にはNECでもプレー経験があり、日本のラグビーファンにも知名度があった。また現役引退後、イタリア代表のヘッドコーチを務めた。既にW杯出場を決めていることもあり、JKに求められたのは本戦での実績。これについて、JKは、フィジーとカナダには少なくとも勝つことを主眼におき、決勝トーナメント(各プール2位まで)には残れなくとも、3位以内(同位以内であれば、次回のW杯予選が免除される)には確実に入る算段を目論んでいた。しかし、IRBパシフィック・ネイションズ・カップでは1勝4敗で最下位。8月18日にイタリアのサン=ヴァンサンで行われたイタリア戦も12-36で敗退した。加えて、ワールドカップ開幕直前になって、エースの大畑大介、山本貢、安藤栄次の3選手が怪我により帰国したため、急遽替わりのメンバーが招集されるといった事態にも見舞われた。JKは、確実に2勝するため、同じプールBに入った強豪のオーストラリア、ウェールズにはいわばリザーブ主体の選手で挑み、フィジー、カナダにはレギュラー級で戦うという、「二刀流」を試みた。したがって、初戦のオーストラリアには3-91で大敗したが、JKには「想定の範囲内」のようだった。しかし、続くフィジー戦では、フィジーのフィットネスが後半になって急激に低下する形になったにもかかわらず、31-35で惜敗。さらにウェールズにも18-72で大敗し、6大会連続の予選プール敗退決定。加えて、1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗となってしまった。そして、最終戦のカナダに例え勝ったとしても、最低限の目標である3位以内もきわめて難しくなった。そんな状況で迎えたカナダ戦。日本はノーサイド直前まで5-12でリードされていたことから、4大会連続の全敗が確実視されていたが、ロスタイムに平浩二が右隅にトライを決めて2点差まで迫ると、その後、大西将太郎が見事にゴールキックを決め同点となり、ここでノーサイドの笛。この結果日本は14試合ぶりに敗戦を免れ、また、4大会ぶりに予選プール最下位を免れた。
本格始動 [編集]
大会終了後、日本協会は、目標としていたW杯2勝はできなかったものの、準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、引き続きJKにジャパンの指導を託した。2008年、まずは、同年より開始されたアジア5カ国対抗で優勝をもたらした。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップは前年同様1勝4敗に終わったが、トンガには前年に続き連勝。その後、11月のアメリカ来日シリーズでは、テストマッチ連勝を果たした。2009年、アジア5カ国対抗を連覇。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップはトンガに3年連続で勝利したものの1勝3敗に終わった。
2009年7月28日に行われた国際ラグビー評議会(IRB)の理事会で、2019年のラグビーワールドカップ開催国に日本が決定した。同年11月、カナダが来日。日本はテストマッチで連勝した。2010年、アジア5カ国対抗では順当に3連覇を達成し、7大会連続となるW杯出場を決めた。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップでは、サモアとトンガに勝利し、得失点差の末、3位に終わったとはいえ、サモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げた。その後、10月30日のサモア来日テストマッチでは10-13と惜敗したが、翌週11月6日のロシア来日テストマッチでは75-3と大勝。JKが本格的に指導を行なった成果が徐々に実績にも現れつつあり、翌年に控える2011年のワールドカップにも弾みがついたと思われた。
2011年 ワールドカップ [編集]
JK体制になってからW杯以外のテストマッチでは、いわゆる、旧IRFBファウンデーションユニオン8ヶ国との対戦が全くなかった。加えて、主力の大半は外国人選手で占められていたことから、日本代表に対するラグビーファンの興味は冷めていた感が否めなかった。2011年シーズンもアジア5カ国対抗から始動し、順当に4連覇を達成。続くIRBパシフィック・ネイションズ・カップではサモアには敗れたが、続くトンガを1点差で破ると、最終戦となったフィジーに、テストマッチとしては17年ぶりに勝利し、得失点差により、ついに大会初優勝を果たした。その後、8月13日のイタリア遠征でも、24-31で敗れたとはいえ、前半は17-14でリードして折り返した。そして同月21日のW杯壮行試合のアメリカ戦は20-14で下し、通常のテストマッチでは第二グループと称されるナショナルチームにはほとんど勝てるほどにチーム力が向上していた。そして迎えたワールドカップ。日本はプールAに入った。JKの目標は、前回大会で果たせなかった2勝を挙げること。初戦のフランス戦では一時4点差まで詰め寄ったが、結局21-47で敗戦。しかし、日本のファンを大いに堪能させてくれた内容だった[9]。しかし、続くニュージーランド戦では主力を温存してフランス戦とメンバーを大幅に入れ替えた。その結果ニュージーランドの速い攻撃に終始防御を強いられ、前半に6トライ、後半に7トライを献上。結局、本大会ワースト2位の得失点差である7-83と惨敗した[10]。これはこれで日本の予選プール突破は極めて難しくなった。目標としていた2勝を挙げるため、比較的相性が良くなってきた対トンガ、対カナダ戦の勝利を目指したが、トンガ戦ではミスを連発した上に、日本の速い攻撃を完全に封じ込められて18-31と完敗[11]。最後のカナダ戦も、前半に17-7でリードしながらも、後半終盤になってミスを連発し、立て続けに得点を許し、23-23で2大会連続ドローとなってしまった。結局、2勝はおろか、5大会連続勝利なしという結果に終わった[12]。
大会終了後、太田GMはJKを含めた首脳陣と契約を更新しない意向を示し、JKもこれを了承。同年10月13日、正式にJKの退任が決まった[13]。
『エディジャパン』 [編集]
2011年W杯でジョン・カーワンヘッドコーチが退任し、2012シーズンからエディー・ジョーンズが日本代表ヘッドコーチに就任。
選手 [編集]
現在の代表 [編集]
IRBパシフィック・ネーションズカップ2013/リポビタンDチャレンジ2013に向けた代表メンバー
- ヘッドコーチ:
エディー・ジョーンズ
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歴代キャップ数10傑 [編集]
| 名前 | キャップ数 | 主なポジション | 備考 |
|---|---|---|---|
| 元木由記雄 | 79 | センター | |
| 小野澤宏時 | 78 | ウイング | |
| 大野均 | 67 | ロック | |
| 伊藤剛臣 | 62 | NO.8 | |
| 大畑大介 | 58 | ウイング | |
| 菊谷崇 | 57 | フランカー | |
| 箕内拓郎 | 48 | NO.8 | |
| 増保輝則 | 47 | ウイング | |
| 薫田真広 | 44 | フッカー | |
| 桜庭吉彦 | 43 | ロック | |
| 松田努 | 43 | フルバック |
※キャップ数は2013年5月11日現在
歴代監督・ヘッドコーチ・GM [編集]
歴代日本代表監督 [編集]
| 名前 | 就任期間 | その他肩書 |
|---|---|---|
| 香山蕃 | 1930年~1934年 | 京都大学コーチ、第4代日本ラグビーフットボール協会会長 |
| 北島忠治 | 1936年 | 明治大学監督、明治大学教授、日本ラグビーフットボール協会副会長 |
| 奥村竹之助 | 1952年~1953年 | 三菱商事、外国為替管理委員 |
| 北島忠治(2) | 1956年 | |
| 西野綱三 | 1958年 | 朝日新聞、早稲田大学監督 |
| 知葉友雄 | 1959年 | 日本大学監督 |
| 和田政雄 | 1959年 | 明治大学教授 |
| 葛西泰二郎 | 1963年 | 九州ラグビー協会会長、九州工業大学学長、九州大学名誉教授・工学博士 |
| 大西鐡之祐 | 1966年~1971年 | 早稲田大学教授、監督。元JOC委員 |
| 岡仁詩 | 1972年 | 同志社大学監督、元同志社大学名誉教授 |
| 横井久 | 1972年 | 早稲田大学監督 |
| 斎藤寮 | 1974年 | 明治大学ヘッドコーチ |
| 岡仁詩(2) | 1975年 | |
| 日比野弘 | 1976年 | 早稲田大学監督、早稲田大学教授、日本ラグビーフットボール協会会長代行 |
| 横井久(2) | 1976年 | |
| 斎藤寮(2) | 1976年~1978年 | |
| 宮地克実 | 1978年 | 三洋電機総監督 |
| 横井久(3) | 1978~1979年 | |
| 今里良三 | 1979年 | 近鉄監督、近鉄ラグビー運営部部長兼近鉄ライナーズ総監督 |
| 山本巌 | 1980年 | サントリー監督、サントリーラグビー部部長、松山大学監督 |
| 斎藤寮(3) | 1980年~1981年 | |
| 山本巌(2) | 1982年 | |
| 日比野弘(2) | 1982年~1984年 | |
| 宮地克実(2) | 1984年 | |
| 岡仁詩(3) | 1985年~1986年 | |
| 宮地克実(3) | 1987年 | |
| 日比野弘(3) | 1987年~1988年 | |
| 宿澤広朗 | 1989年~1991年 | 早稲田大学監督、日本代表強化委員長、日本ラグビーフットボール協会理事・会計役 三井住友銀行取締役専務執行役員 |
| 小藪修 | 1992~1995年 | 新日鉄釜石監督 |
| 山本巌(3) | 1996年 | |
| 平尾誠二 | 1997年~2000年 | 日本代表主将、神戸製鋼コベルコスティーラーズゼネラルマネージャー 神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督 |
| 向井昭吾 | 2001年~2003年 | 東芝府中監督、コカ・コーラウエストレッドスパークス監督 |
| 萩本光威 | 2004年~2005年 | 神戸製鋼コベルコスティーラーズ監督、NTTドコモ関西監督 |
歴代日本代表ヘッドコーチ [編集]
| 名前 | 就任期間 | その他肩書 |
|---|---|---|
| ジャン=ピエール・エリサルド | 2005年~2006年 | ラロシェル(フランスリーグ)監督、フランスA代表コーチ |
| 太田治 | 2006年 | NECグリーンロケッツ監督、日本代表ゼネラルマネージャー |
| ジョン・カーワン | 2007年~2011年 | イタリア代表監督、NECグリーンロケッツアドバイザー |
| エディー・ジョーンズ | 2012年~ | オーストラリア代表監督、サントリーサンゴリアス監督 |
- 太田治は暫定ヘッドコーチとしてゼネラルマネージャーと兼任
歴代日本代表ゼネラルマネージャー [編集]
| 名前 | 就任期間 | その他肩書 |
|---|---|---|
| 太田治 | 2005年~2012年 | NECグリーンロケッツ監督、日本代表ヘッドコーチ |
| 岩渕健輔 | 2012年~ | 日本ラグビー協会ハイパフォーマンスマネージャー |
日本代表タイトル [編集]
ワールドカップでの戦績 [編集]
| 年 | 日付 | 開催地 | 対戦相手 | 勝敗 | スコア | 監督 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第1回 | 1987 | 5/24 | ブリスベン | ● | 18-21 | 宮地克実 | |
| 5/30 | シドニー | ● | 7-60 | ||||
| 6/3 | シドニー | ● | 23-42 | ||||
| 第2回 | 1991 | 10/5 | エディンバラ | ● | 9-47 | 宿澤広朗 | |
| 10/9 | ダブリン | ● | 16-32 | ||||
| 10/14 | ベルファスト | ○ | 52-8 | ||||
| 第3回 | 1995 | 5/27 | ブルームフォンテーン | ● | 10-57 | 小藪修 | |
| 5/31 | ブルームフォンテーン | ● | 28-50 | ||||
| 6/4 | ブルームフォンテーン | ● | 17-145 | ||||
| 第4回 | 1999 | 10/3 | レクサム | ● | 9-43 | 平尾誠二 | |
| 10/9 | カーディフ | ● | 15-64 | ||||
| 10/16 | カーディフ | ● | 12-33 | ||||
| 第5回 | 2003 | 10/12 | タウンズビル | ● | 11-32 | 向井昭吾 | |
| 10/18 | タウンズビル | ● | 29-51 | ||||
| 10/23 | タウンズビル | ● | 13-41 | ||||
| 10/27 | ゴスフォード | ● | 26-39 | ||||
| 第6回 | 2007 | 9/8 | リヨン | ● | 3-91 | ジョン・カーワン | |
| 9/12 | トゥールーズ | ● | 31-35 | ||||
| 9/20 | カーディフ | ● | 18-72 | ||||
| 9/25 | ボルドー | △ | 12-12 | ||||
| 第7回 | 2011 | 9/10 | オークランド | ● | 21-47 | ジョン・カーワン | |
| 9/16 | ハミルトン | ● | 7-83 | ||||
| 9/21 | ファンガレイ | ● | 18-31 | ||||
| 9/27 | ネーピア | △ | 23-23 |
A代表、年代別代表、女子代表など [編集]
通常日本代表と呼ばれるものは、日本協会所属選手における最強メンバーによるいわゆるフル代表(テストマッチの成立要件となる)を指すが、その他日本代表の予備軍とされるチームも存在する。これらには、年齢制限のない日本A代表と日本B代表、U-20日本代表などの年齢別代表などがある。
15人制の他、7人制日本代表も結成されている。
女子の日本代表も15人制・7人制とも結成されている。7人制代表はカザフスタンに勝利し、アジア代表でW杯に初出場する。*2008年10月協会記録より
脚注 [編集]
- ^ 二宮清純「侍ジャパン」の原点は「松永ジャパン」『週刊ベースボール』2012年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-3/19, 20頁
- ^ 「栄光へのトライ」、267頁〜285頁
- ^ ジン長谷川の「ラグビーばんざい」Vol.38「語られることのない名勝負」~もう一つの大接戦。日本対イングランド・1979年~
- ^ 「栄光のトライ」(馬場信浩著、光文社、ISBN 4334027857)の231頁〜244頁
- ^ 1995年頃放送された、大西を取り上げたテレビ番組より。また、ドラマ・スクール☆ウォーズでもこれに類似したシーンがあった。
- ^ 「ザ・ワールドラグビー」(大友信彦 編、新潮社、ISBN 4104627011)65頁。
- ^ 相次ぐ代表選手の逮捕。その根底にあるものとは。 - number EYES 2005年6月9日付
- ^ ジャン-ピエール・エリサルド日本代表ヘッドコーチとの契約解除決定のお知らせ - 日本ラグビーフットボール協会 2006年9月29日付
- ^ カーワン・ジャパン白星に手応え!フランス慌てさせた - スポニチアネックス 2011年9月11日付
- ^ 今大会ワースト失点…カーワンJAPAN NZに惨敗 - スポニチアネックス 2011年9月17日付
- ^ トンガに屈辱…カーワン・ジャパン 3連敗で1次L敗退 - スポニチアネックス 2011年9月22日付
- ^ カーワンジャパン有終の美飾れず…0勝終戦 - スポニチアネックス 2011年9月28日付
- ^ ラグビー日本代表 ジョン・カーワンヘッドコーチ退任のお知らせ - JRFU 2011年10月13日付
参考文献 [編集]
- ラグビー 日本代表 (チェリー・ブロッサムズ) - rugby-worldcup.jp
関連項目 [編集]
- 日本ラグビーフットボール協会
- ジャパンラグビートップリーグ
- リポビタンDチャレンジ
- IRBパシフィック・ネイションズ・カップ
- アジア5カ国対抗(Asian 5 Nations)
- ラグビージュニア世界選手権
- ラグビーリーグ日本代表
外部リンク [編集]
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