早慶戦

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早慶戦/慶早戦
初開催 1903年
チーム 早稲田大学
慶應義塾大学

早慶戦(そうけいせん)または慶早戦(けいそうせん)は、稲田大学(以下、「早稲田」)と應義塾大学(以下、「慶應」)との対校戦である。主にスポーツ(特に野球サッカーラグビーレガッタ)での対戦であるが、スポーツ分野以外でもこの両校の学生サークルが実施する討論会などで使用されることがある。

なお、慶早戦(けいそうせん)は慶應義塾側の呼称である[1][2]

硬式野球[編集]

早稲田と慶應による硬式野球が「早慶戦」の起源である。この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備だった当時創成期の日本野球界やさらにスポーツ界全体においても大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに各地のアマチュア野球の形成・発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった。こうした歴史からマスコミで早慶戦に触れる際に「伝統の」という言葉を冠することが多い。このような早慶野球戦の発展(と紆余曲折)が早慶両校の対抗意識を醸成し、結果として後年には他の競技や更には学術分野にまで早慶両校間の対抗・連携にまで影響を及ぼすようになった。

現在は東京六大学リーグ戦の最終週に組み込まれており、NHKなどによるテレビ中継も行われている。華やかにして創意工夫に富み、なおかつ礼・節を保った応援合戦は日本の野球応援に多大な影響を及ぼしてきた(後述)。早慶両校に優勝がかかる展開となれば、学生のみならずファン・OBが駆けつけ神宮球場を埋める。優勝校は神宮から学舎まで紅白の提灯を掲げてのパレード(「提灯行列」、「提灯パレード」と呼ばれる)を行う。

開催時期は春季が5月最終週か6月第1週の土・日曜日、秋季が10月最終週か11月第1週の土・日曜日、ともに神宮球場で行われる(なお、神宮球場は早慶戦を初めとする東京六大学野球を収容する球場として発足している)[3]。東京六大学リーグは通常1週に2カード組まれるが、最終週の早慶戦のみ単独開催となっている。これは、後述のように東京六大学連盟が早慶戦を起源とすることに由来したものである。

リーグ戦の他に現役・OB混成チームによる「オール早慶野球戦」(全早慶戦)が行われる。2003年度は早慶戦100周年を記念し、プロ選手のOBも出場した。2009年度は、8月22日に松山市坊っちゃんスタジアムで、11月23日には阪神甲子園球場でも開催された(甲子園での開催は53年ぶり)[4]2008年8月6日から20日にかけては、ブラジル日本人移民100周年記念として、早慶両部によるブラジル遠征も行われた。

春の早慶戦は両校のサークルにとって新入生歓迎行事の一環として利用されることもあって、両学生席とも外野席まで使っての大応援となる。基本的に学生席内は座席指定がなく早い者勝ちとなるため、しばしば徹夜による席取りが行われてきた。これが球場周囲をはみ出して一般道にまで及んだり、酒に酔った学生が器物を壊したり、また一般人とけんか沙汰になるなど社会問題化したため、徹夜待ちは禁止となっている。

入場待ちの学生を統制するのは早稲田では「早慶戦支援会」、慶應では「慶早戦支援委員会」という、いずれも学生有志で組織された会が応援(指導)部員とともに担っている。また、徹夜待ち回避のため、サークル対象に行われる事前の入場順位抽選や、リーグ戦観戦時に得られるスタンプを規定数持っている学生には優先して早慶戦の学生席券を売る・あるいは入場順を考慮するなどの工夫も見られる。

歴史[編集]

三田綱町球場

両校の初の対戦は1903年11月21日、慶應の三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達し、慶應が応じた事によって行われた試合である(このときの双方の書面は野球殿堂博物館に所蔵されている)。挑戦状の筆者は当時の早稲田主将橋戸信であったといわれている。試合は11-9で慶應の勝利。当時早稲田は野球部発足から1年余り、対する慶應は発足から20年近い歴史を持ち当時最強を誇った一高に勝った実績も持っていた。しかし後発でかつ格下の早稲田が大いに善戦したことによって慶應も対戦相手にふさわしいと評価し、翌年から定期戦を行うことに決まった。

1904年6月1日・2日、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点=当時の日本野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。早稲田のアメリカ遠征(1905年)後には定期戦を2勝先勝方式にし、2勝した側にトロフィーを与えることとした(トロフィーは早稲田渡米の際、サンフランシスコ在留の日本人協議会から贈られた銀杯であった)。現在東京六大学野球をはじめ多くの大学野球で採用される、勝ち点制のはじまりである。

慶應義塾大学正門

かくて早慶両校は一躍球界の頂点を争う存在となったが、それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸・早稲田正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福澤諭吉邸・慶應正門に大挙して万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発となる。応援席の配分を巡る混乱もあって、険悪な状況となった。更なる事態の悪化を危惧した両校当局は第3戦を中止、以後早慶戦は長い空白期間に入る。慶應が学生大会を開いて全競技での早稲田との試合禁止を決議すれば、早稲田も慶應に絶縁状を送るなど、両校の関係は修復不能と思われた。

1914年、早稲田・慶應・明治による三大学リーグが発足し、1917年には法政1921年には立教の各大学がこのリーグに加わるが、早慶戦のみ行われない変則的運営であった。早慶戦復活を願うファンの声に応えるかのように両校OBによる三田・稲門戦も実施され、他方剣道ラグビー陸上競技などで早慶の対抗試合が行われたりもしたが、両校OBらの反発はなお強く、早慶戦は再開されなかった。こうした状況を打破するため、1923年頃から明治が中心となり早慶戦復活を打診するが、早稲田側は同意し慶應も現役は歓迎したものの特にOB側が難色を示し続けた(中でも慶應義塾評議員会の主池田成彬が猛反対していたといわれる)。1925年の秋に東大(当時は東京帝国大学)が加盟、これを突破口とすべく明治部長内海弘蔵を中心に「早慶戦復活に反対する者を除外して新リーグを結成する」と強硬な態度を示した事と慶應主将桐原真二らの説得もあって、慶應OB側もようやく早慶戦復活を受諾。かくして東京六大学野球連盟が創設、19年ぶりの早慶戦復活が実現した。復活した早慶第1回戦(1925年10月19日)の試合前、早稲田部長安部磯雄がグラウンドに立ち、早慶戦復活が野球の発展にいかなる意義をもつかを、応援におけるマナーの遵守を求める請願とともに満場に訴えた。

早慶戦は再び大きな関心事となり、試合の模様は当時普及を始めたラジオの電波に乗って全国に広まっていった。球場に入れないファン向けに試合を解説する特設ステージ(プレイヤーズボールドなる速報板が設置)が設けられるなど、早慶戦の人気はさらに高まりを見せた。1929年秋季の対決は双方全勝同士の決戦となり、慶應宮武三郎・早稲田小川正太郎の両エースの対決は全国的な熱狂を生み、早稲田佐藤茂美の逆転ランニングホームランによる劇的決着は新国劇によって舞台化され、また横山エンタツ花菱アチャコ漫才コンビも題材に使用した。入場券を求めに神宮球場に徹夜の列ができるなど応援も再び過熱し、1933年には早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した、いわゆる「リンゴ事件(水原リンゴ事件)」が発生、早慶戦中止の第二の危機かと騒がれた。このリンゴ事件以降早慶戦では、ダッグアウト及び応援席は早稲田が一塁側、慶應が三塁側に固定されることになった。この方法は現在まで踏襲されている。同時にこの頃から、早慶戦がリーグ戦の最終週に行われるようになった。

還らざる学友の碑
(慶應義塾大学三田キャンパス)

戦時体制下の1943年、東京六大学野球連盟は解散。しかし学徒出陣を前に慶應からの働きかけをもとに10月16日、早稲田の戸塚球場にて「出陣学徒壮行早慶戦」(俗に言う「最後の早慶戦」)が行われた。選手たちの多くは戦場にかり出され、命を落とす者も少なくなかった。

終戦間も無い1945年11月18日、神宮球場にて戦後初の野球試合である全早慶戦が行われた。当時神宮球場は米軍に接収されていた為、進駐軍の協力を得ての実現であった。全早慶戦はその後1946年1月に阪急西宮球場で、4月に後楽園球場・高岡・金沢でも行われている。そして5月には復活した東京六大学野球連盟によるリーグ戦が再開された。その年のリーグ優勝を春慶應・秋早稲田と分け合うと、以後1956年までの11年間22シーズン中、早慶で17回の優勝を占め、戦前に次ぐ第二の黄金時代を現出した。

その後長嶋茂雄の登場により立教にリーグ戦の主役の座を一時明け渡すが、1960年秋のリーグ戦は最終週の早慶戦で早稲田が2勝1敗した結果、早慶両校が勝ち点・勝率とも首位で並び、両校による優勝決定戦となった。一発勝負の決定戦であるが、試合は1-1の引き分け。再試合も0-0で引き分け、再々試合を早稲田が安藤元博の4連投により3-1で制し、ようやく早稲田の優勝が決定した。これがいわゆる早慶六連戦である。

早慶戦100周年を迎えた2003年11月には神宮球場にてプロアマのOBを交えた記念試合が行われた。なお、この記念試合は慶應が3-2で勝利した。2010年秋には慶應が早慶戦で首位早稲田に連勝して勝ち点・勝率で並び、早慶六連戦以来50年ぶりに早慶両校による優勝決定戦が行われた(早稲田が10-5で勝利)。

東京六大学リーグ戦における対戦成績(1925年秋~2010年秋)は早稲田207勝、慶應173勝、引分10。優勝決定戦は5回(早稲田4勝、慶應1勝、引分2)。勝敗以上に、内容の濃い好勝負を展開してきた。両校で優勝を争うだけでなく、相手の優勝を阻む熱戦が展開されることもしばしばあった。1971年からの慶應3連覇は、同年春早稲田に連敗(そのため法政が勝率で上回り優勝)しなければ4連覇となったところであり、1950年からの早稲田3連覇も、前年秋の慶應の雪辱なければ5連覇を果たしていたところ(早稲田先勝後2戦目もリードしていたが突然の豪雨でノーゲーム、雨上がりの一戦を慶應が制し早稲田が優勝を逸す)であった。1986年春は慶應が秋春連続優勝まであと1勝と迫った3回戦、9回2死2ナッシングまで早稲田を追い詰めながらまさかの逆転サヨナラ打を浴び優勝を逸した。2009年秋季も勝ち点を取れば優勝の早稲田に慶應が連勝し、早稲田の同一シーズン4年連続優勝を阻んだ。

なお、東京六大学リーグ戦の優勝校には天皇杯が授与されるが、その基は戦前の摂政杯。昭和天皇は戦前1度(1929年)戦後1度(1950年)、今上天皇1994年春に早慶戦を行幸している。

レガッタ[編集]

早慶野球戦に次いで行われた早慶の対校戦。概ね毎年4月中旬の日曜日に隅田川にて開催される。一般的に「早慶レガッタ」という言葉はメインレースである「対校エイト」を指す事が多いが、実際は「対校女子舵手付クォドルプル」「対校舵手付フォア」を含めた全3種目の対戦であり、OB・OG戦、招待試合等を含めると当日は10種目以上のレースが行われている。

なお「対校エイト」は、かつてはテレビ東京が地上波で生中継していたが、現在はCSテレビ放送の日テレG+に中継放送権が移り、日テレG+によるテレビ放映が行われている。

第1回は1905年5月8日、隅田川にて開催された。野球同様、早稲田が先輩格の慶應に試合を申し入れた事に端を発している。レースは慶應有利の下馬評を覆して早稲田の勝利(第1回のみ「エイト」ではなく「シックス」によるレース)。大いに評判となった早慶レガッタだったが、早慶野球戦のあおりを受け中断、第2回開催は1930年であった。

戦時体制下、1943年の第15回大会を最後に再び中断。

1944年には、観衆・審判の居ない、選手だけによる「幻の早慶レガッタ」が行われたと言われている。公式大会は終戦後の1947年に復活した。

1957年の第26回大会は荒天により川面に白波が立つ中でのレースとなった。ボートの浸水が予想される中、早稲田クルーは「ボートを沈めることなくゴールする事」を重視し、ボートを漕ぐ選手とボートに浸入した水を食器で掻き出す選手に分けてレースに臨んだ。一方の慶應クルーは「選手全員で最後まで漕ぎ続ける事」を重視し、ボートが沈む前にゴールまで辿り着く事を選択した。レースは序盤慶應が早稲田を大きく引き離したが、慶應艇がレース途中で浸水により失速、そのまま沈没。早稲田は浸水を避けゴールし、審判は早稲田の勝利を宣言した。早稲田側は好天下での再レースを申し入れたが、慶應側は「審判の裁定に従う」と主張し、再レースは行われなかった。

このエピソードは『スポーツマンシップのお手本になるもの』と多くの関係者に深い感銘を与えると同時に、後に小学校6年生国語の教科書(学校図書発行)において「あらしのボートレース」という題名で1961年から1970年まで取り上げられた[5]

隅田川でのレースは橋梁工事や水質汚濁の影響に伴い1961年の第30回大会を最後に一旦中断。戸田漕艇場荒川相模湖等に会場を移しながら開催を続けた。しかし多くのファン、OBから隅田川での開催復活が望まれ、川の水質浄化も進んだことから1978年に再び隅田川へ回帰。以降は現在まで隅田川にてレースが開催されている。

2010年では開始直前に慶應艇が沈没をしたため開始時刻が大幅にずれた。

2011年の第80回は3月の東日本大震災の発生に伴う社会的状況を考慮し、開催場が当初予定の隅田川から戸田漕艇場に変更され、開催日も当初予定の4月17日から23日へと順延となった。

※早慶レガッタ(定期戦)に倣って、各大学の対抗戦が行われている。1991年からの「グリーンレガッタ」(4月29日に実施)中央大学法政大学東京経済大学の3大学対抗戦もその一例である。

対校エイト対戦成績一覧[編集]

早稲田:44勝38敗、同着1
慶應義塾:38勝44敗、同着1

回数 年月日 会場 早稲田 慶應 備考
タイム タイム
第1回 1905年5月8日 隅田川 吾妻橋-東大艇庫前 1,250m 1.5艇身 この年のみ対校シックス
第2回 1930年4月29日 尾久 日の出製肥-学習院艇庫2,000m 6分39秒4 1/5艇身 6分40秒0
第3回 1931年4月29日 隅田川 厩橋-白鬚橋3,000m 2艇身 9分45秒0
第4回 1932年4月29日 隅田川 東部鉄橋-鐘ヶ淵3,000m 11分59秒0 1シート
第5回 1933年4月29日 カンバス 9分55秒0
第6回 1934年4月29日 荒川放水路 千住新橋-新川渡し 3,000m 0.5艇身 8分49秒0
第7回 1935年4月29日 4艇身 9分27秒0
第8回 1936年4月29日 60cm 10分52秒0
第9回 1937年4月29日 荒川尾久 尾竹橋-梶原渡し 3,200m 9分07秒0 180cm 9分06秒5
第10回 1938年4月29日 10分03秒0 2艇身
第11回 1939年4月29日 9分56秒 2艇身
第12回 1940年4月29日 1 1/3艇身 9分25秒
第13回 1941年4月29日 戸田コース 2,000m 6分46秒8 2 1/2艇身
第14回 1942年4月29日 6分42秒4 2 1/2艇身
第15回 1943年4月3日 7分10秒5 150cm
第16回 1947年5月11日 隅田川 吾妻橋-白鬚橋 2,000m 4艇身 6分52秒5
第17回 1948年9月18日 隅田川 向島-言問橋2000m 6分15秒7 1/2艇身
第18回 1949年9月4日 戸田コース 2,000m 3艇身 7分18秒0
第19回 1950年5月20日 隅田川 永代橋-白鬚橋 6,000m 6艇身 19分40秒0
第20回 1951年5月12日 隅田川 永代橋-向島大倉別荘艇 6,000m 3艇身 20分32秒4
第21回 1952年5月10日 隅田川 永代橋-大倉別邸 6000m 18分55秒0 10艇身
第22回 1953年5月10日 20分38秒5 7艇身
第23回 1954年5月9日 19分26秒5 3艇身
第24回 1955年5月8日 18分32秒0 5艇身
第25回 1956年4月1日 5艇身 20分34秒0
第26回 1957年5月12日 24分02秒0 沈没
第27回 1958年5月11日 3.5艇身 19分40秒8
第28回 1959年4月29日 隅田川 鐘ヶ淵-東武鉄橋 3100m 10分15秒8 1 2/3艇身
第29回 1960年3月13日 戸田コース 1600m 2 1/3艇身 6分00秒4
第30回 1961年5月7日 隅田川 永代橋-大倉別邸 6000m 10艇身 19分28秒8
第31回 1962年4月29日 戸田コース 2000m 1.5艇身 6分10秒0
第32回 1963年5月19日 相模湖コース 2000m 5艇身 6分49秒2
第33回 1964年7月5日 戸田コース 2000m 6分22秒5 1.5艇身
第34回 1965年4月18日 荒川 赤羽鉄橋-戸田橋 3800m 11分09秒0 2艇身
第35回 1966年4月17日 14分18秒2 大差
第36回 1967年4月16日 4艇身 13分15秒5
第37回 1968年4月14日 荒川 新大橋-戸田橋 4000m 12分02秒6 50cm
第38回 1969年4月20日 戸田コース 2000m 1/3艇身 6分48秒1
第39回 1970年4月12日 6分38秒8 カンバス
第40回 1971年4月18日 荒川 新大橋-戸田橋 4000m 12艇身 13分40秒7
第41回 1972年4月9日 14分29秒7 8艇身
第42回 1973年4月15日 12分52秒7 2艇身
第43回 1974年4月28日 戸田コース 2100m 7分02秒3 カンバス
第44回 1975年4月20日 戸田コース 2130m 7分31秒6 5艇身
第45回 1976年4月11日 7分20秒2 1 2/3艇身
第46回 1977年4月17日 7分09秒1 1/2艇身
第47回 1978年4月16日 隅田川 永代橋-白鬚橋 6000m 大差 21分53秒0
第48回 1979年4月15日 隅田川 両国橋-白鬚橋 4000m 12分02秒0 1 1/3艇身
第49回 1980年4月20日 14分38秒0 沈没
第50回 1981年4月26日 12分44秒4 1 1/3艇身
第51回 1982年4月11日 12分03秒8 4艇身
第52回 1983年4月17日 1 1/2艇身 12分39秒4
第53回 1984年4月22日 4艇身 14分07秒0
第54回 1985年4月21日 11分30秒8 2 1/2艇身
第55回 1986年4月13日 同着
第56回 1987年4月5日 3 1/2艇身 12分30秒58
第57回 1988年4月10日 14分02秒87 カンバス
第58回 1989年4月8日 5cm 12分10秒83
第59回 1990年4月15日 12分38秒27 8艇身
第60回 1991年4月28日 4艇身 12分00秒61
第61回 1992年4月19日 12分02秒35 3艇身
第62回 1993年4月29日 大差 15分06秒89
第63回 1994年4月17日 隅田川 両国橋-白鬚橋 3200m 2 2/3艇身 10分31秒31
第64回 1995年4月16日 3 1/2艇身 9分21秒37
第65回 1996年4月21日 8分59秒74 1 1/4艇身
第66回 1997年4月20日 9分56秒72 1 1/3艇身
第67回 1998年4月19日 11分16秒58 1/2カンバス
第68回 1999年4月18日 1/2艇身 9分01秒55
第69回 2000年4月16日 6艇身 9分37秒90
第70回 2001年4月22日 1艇身 10分24秒09
第71回 2002年4月21日 11分37秒22 4艇身
第72回 2003年4月20日 隅田川 両国橋-桜橋上流 3,200m 10分29秒41 2艇身
第73回 2004年4月18日 2 1/2艇身 8分40秒41
第74回 2005年4月17日 5艇身 10分27秒26
第75回 2006年4月16日 隅田川 両国橋-桜橋上流 3,000m 10分29秒41 2/3艇身
第76回 2007年4月15日 9分25秒84 2艇身
第77回 2008年4月20日 9分19秒89 3 1/2艇身
第78回 2009年4月19日 2 1/2艇身 10分38秒08
第79回 2010年4月28日 8分42秒62 1 3/4艇身 8分48秒71
第80回 2011年4月29日 戸田オリンピックボートコース 2,000m 6分08秒8 1 1/4艇身 6分11秒3
第81回 2012年4月15日 隅田川 11分42秒10 4艇身 11分28秒17
第82回 2013年4月21日 隅田川 3,750m 14分17秒37 7艇身 13分53秒68
第83回 2014年4月13日 11分16秒53 1 1/4艇身 11分12秒62

記録の出典

ラグビー[編集]

ラグビー早慶戦

関東大学ラグビー対抗戦グループにおける早稲田慶應の試合であり、例年11月23日(勤労感謝の日)に開催される。また、3月に行われる「全早慶明三大学対抗戦」においても、現役・OB混成チームによる「全早稲田対全慶應」の試合が行われる。

定期戦が開始されたきっかけは創部間もない早稲田がラグビーのルーツ校である慶應に対戦を申し込んだものであり、毎年NHKなどでテレビ中継が行われている。

戦績[編集]

リーグ戦(対抗戦)[編集]

早稲田大学ラグビー蹴球部:64勝6分20敗
慶應義塾體育會蹴球部:20勝6分64敗

回数 年月日 会場 早稲田 慶應 観客数
1 1922年11月23日 三田グラウンド 0 14
2 1923年11月23日 戸塚グラウンド 3 20
3 1924年11月23日 三田グラウンド 0 17
4 1925年11月23日 戸塚グラウンド 3 8
5 1926年11月23日 明治神宮外苑野球場 8 8
6 1927年11月23日 8 6
7 1928年11月23日 明治神宮外苑競技場 5 16
8 1929年11月23日 3 6
9 1930年11月23日 3 19
10 1931年11月23日 12 5
11 1932年11月23日 33 5
12 1933年11月23日 11 6
13 1934年11月23日 24 16
14 1935年11月23日 19 6
15 1936年11月23日 26 6
16 1937年11月23日 41 0
17 1938年11月23日 36 13
18 1939年11月23日 37 9
19 1940年11月23日 33 11
20 1941年11月23日 24 6
21 1942年5月16日 21 8
22 1942年11月29日 5 11
23 1946年11月23日 8 9
24 1947年11月23日 東京ラグビー場 41 3
25 1948年11月23日 3 3
26 1949年11月23日 32 0
27 1950年11月23日 9 0
28 1951年11月23日 9 8
29 1952年11月23日 17 11
30 1953年11月23日 秩父宮ラグビー場 14 6
31 1954年11月23日 19 19
32 1955年11月23日 5 11
33 1956年11月23日 26 8
34 1957年11月23日 20 9
35 1958年11月23日 16 11
36 1959年11月23日 16 3
37 1960年11月23日 0 0
38 1961年11月23日 6 8
39 1962年11月23日 5 6
40 1963年11月23日 29 6
41 1964年11月23日 27 9
42 1965年11月23日 20 3
43 1966年11月23日 27 8
44 1967年11月23日 39 9
45 1968年11月23日 22 14
46 1969年11月23日 33 15
47 1970年11月23日 24 11
48 1971年11月23日 30 16
49 1972年11月23日 19 3
50 1973年11月23日 国立霞ヶ丘陸上競技場 25 16
51 1974年11月23日 11 3
52 1975年11月23日 16 6
53 1976年11月23日 秩父宮ラグビー場 46 3
54 1977年11月23日 17 34
55 1978年11月23日 4 22
56 1979年11月23日 15 3
57 1980年11月23日 16 16
58 1981年11月23日 25 16
59 1982年11月23日 24 12
60 1983年11月23日 国立霞ヶ丘陸上競技場 6 4
61 1984年11月23日 11 12
62 1985年11月23日 13 7
63 1986年11月23日 18 15
64 1987年11月23日 39 6
65 1988年11月23日 秩父宮ラグビー場 34 6
66 1989年11月23日 39 15
67 1990年11月23日 40 0
68 1991年11月23日 25 13
69 1992年11月23日 54 13
70 1993年11月23日 40 15
71 1994年11月23日 80 10
72 1995年11月23日 26 8
73 1996年11月23日 17 18
74 1997年11月23日 12 42
75 1998年11月23日 35 21
76 1999年11月23日 21 29
77 2000年11月23日 10 31
78 2001年11月23日 54 21
79 2002年11月23日 74 5
80 2003年11月23日 56 29
81 2004年11月23日 73 17 24,659
82 2005年11月23日 54 0 23,836
83 2006年11月23日 41 26 22,653
84 2007年11月23日 40 0 24,207
85 2008年11月23日 34 17 22,289
86 2009年11月23日 20 20 23,430
87 2010年11月23日 8 10 22,121
88 2011年11月23日 54 24 19,658
89 2012年11月23日 31 10 12,524
90 2013年11月23日 69 7 19,164

大学選手権他[編集]

早稲田大学ラグビー蹴球部:7勝1分2敗
慶應義塾體育會蹴球部:2勝1分7敗

大会 年月日 会場 早稲田 慶應 観客数
第6回極東選手権競技大会決勝 1923年5月27日 大阪市 6 11
第5回大学選手権決勝 1969年1月5日 秩父宮ラグビー場 14 14
第9回大学選手権準決勝 1973年1月4日 22 9
第12回大学選手権準決勝 1976年1月2日 国立霞ヶ丘陸上競技場 36 9
第13回大学選手権準決勝 1977年1月1日 秩父宮ラグビー場 15 13
第22回大学選手権準決勝 1985年12月28日 国立霞ヶ丘陸上競技場 6 15
第38回大学選手権準決勝 2002年1月2日 36 7
第42回大学選手権2回戦 2005年12月25日 秩父宮ラグビー場 26 8 14,087
第43回大学選手権2回戦 2006年12月24日 33 22 18,150
第44回大学選手権決勝 2008年1月12日 国立霞ヶ丘陸上競技場 26 6 23,694

記録の出典

サッカー[編集]

早稲田大学ア式蹴球部および慶應義塾体育会ソッカー部による対戦であるが、両チームが所属する関東大学サッカーリーグ戦とは別に定期戦として開催されている。

1950年10月1日国立霞ヶ丘陸上競技場(旧:神宮外苑競技場)で開催された第1回大会は日本の国内サッカーの試合における初のナイトゲームとなり、6-4で慶應が勝利した。大会は2013年まで国立競技場で開催されたが、国立競技場の解体により2014年は等々力陸上競技場で開催された。

対戦成績[編集]

早稲田大学ア式蹴球部:32勝18分14敗
慶應義塾体育会ソッカー部:14勝18分32敗

  • 2013年大会終了時点

記録の出典

バスケットボール[編集]

例年6月上旬に男女併せて開催される。両校とも関東大学バスケットボール連盟及び関東大学女子バスケットボール連盟に所属し、東京六大学リーグでも顔を合わせるが、これらとは別に定期戦として行われている。会場は国立代々木競技場第二体育館だが、年度によっては一方の大学で行う場合もある。

第1回は1940年。1957年からは女子も始まった。現在は開会式前に前座試合も行われており、男子Bチーム戦あるいはOB戦が組まれる。2013年までの成績は男子37勝34敗、女子31勝26敗でいずれも早稲田が勝ち越している。早稲田女子は2009年に初めて勝ち越した。

なお、男子の試合は過去にバスケットボールジャパンTV(bjtv)で配信されたこともあった。

美酒早慶戦[編集]

例年9月上旬に開催される、「日本酒早慶戦」。早稲田大学出身と慶應義塾大学出身の蔵元が出品する、各蔵元を代表する純米大吟醸酒を参加者が利き酒し、「蔵元出身大学対抗」という切り口で勝敗を決するイベント。2011年に起きた東日本大震災への義援金を集めるという目的で、1979年慶應義塾大学卒の同期生が立ち上げた「120慶應美酒会」が中心となって始まった。本イベントで募ったチャリティーの収益金は、あしなが育英会基金に寄付され、東日本大震災孤児支援にあてられている。

また、早慶の酒蔵が率先して進めているグローバル化および地域振興のための活動を支援していくなどの目的も有している。

《これまでの対戦成績》

●第一回(2011年) 

  • 【団体戦優勝】早稲田
  • 【個人戦】
    • 1位:「純米大吟醸 臥龍梅・愛山」三和酒造 (静岡県) ・慶應
    • 2位:「獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分」旭酒造 (山口県) ・早稲田
    • 3位:「純米大吟醸 まんさくの花」日の丸醸造 (秋田県) ・慶應 

●第二回(2012年) 

  • 【団体戦優勝】慶應
  • 【個人戦】
    • 1位:「純米大吟醸古酒 浦霞 平成20BY」佐浦 (宮城県) ・慶應
    • 2位:「獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分」旭酒造 (山口県) ・早稲田
    • 2位:「陸奥八仙 純米大吟醸 華想い40」八戸酒造 (青森県) ・慶應
  • 【ベストボトルデザイン賞】
    • 早稲田:「麒麟山 純米大吟醸 ブルーボトル」麒麟山酒造 (新潟県)
    • 慶應:「純米大吟醸 路上有花」西山酒造場 (兵庫県)

●第三回(2013年) 

  • 【団体戦優勝】慶應 
  • 【個人戦】
    • 1位:「黒松仙醸 純米大吟醸 桜雲橋」仙醸 (長野県) ・慶應
    • 2位:「菊泉 彩のあわ雪」滝澤酒造 (埼玉県) ・早稲田
    • 3位:「梵 極秘蔵大吟醸」加藤吉平商店 (福井県) ・慶應
  • 【ベストボトルデザイン賞】
    • 早稲田:「純米大吟醸 国権」国権酒造 (福島県)
    • 慶應:「心楽 純米吟醸」西山酒造場 (兵庫県)

応援合戦[編集]

ここでは野球の応援合戦について触れる。両校応援(指導)部が応援に携わらないラグビーのような例を除けば、レガッタ・サッカーなどの各定期戦で華やかな応援合戦が展開されるが、そのもとは野球におけるそれからである。

早慶戦の歴史は応援合戦の歴史でもある。掛け声から拍手応援曲応援歌エール交換など、早慶両校は競って新たな応援歌・応援スタイルを編み出してきた。 ともすれば相手を貶め礼を失する応援(代表的なものがプロ野球における相手打者凡退時の楽曲演奏)がはびこる中、味方を熱烈に応援しながらも決して相手を貶めず尊敬を忘れない応援姿勢は、かつて早慶戦が応援の加熱から中止に至る、あるいは「リンゴ事件」などの大騒動を引き起こした苦い経験をもとにしたからであるが、今日まで日本におけるスポーツ応援の最高峰の位置を占め、日本のスポーツ応援に多大な影響を及ぼしてきた。 現在は早稲田大学応援部と慶應義塾大学應援指導部の両団体が学生応援をリードしている。

応援歌として代表的な作品は、1927年発表の慶應『若き血』、それに対抗して早稲田が1931年に発表した『紺碧の空』の2曲。共に現在も両校の第一応援歌として、1回・8回・9回(延長)の攻撃時、味方の得点時(1988年以前は守備中の失点時にも)に歌われている。なお、7回攻撃時の校歌斉唱の際、慶應は『若き血』を右拳を振り上げながら歌う。これは塾歌が長いために歌っている途中に味方の攻撃が終わることがしばしばあったためだと言われている。

この他、慶應が1946年に発表した応援歌『我ぞ覇者』は「よくぞ来たれり好敵早稲田」、「早稲田を倒せ」という歌詞を盛り込み、作曲を『紺碧の空』の古関裕而に依頼するなど、早稲田への対抗心を露わにした作品であった。早稲田も対抗して翌1947年「慶應倒し意気あげて」の歌詞を盛り込んだ応援歌『ひかる青雲』を発表している。『ひかる青雲』もまた、古関の作曲になるものであった。このほか、慶應の応援歌は『三色旗の下に』など、藤山一郎の作曲によるものが多い。早稲田の応援歌は古関裕而作曲のものが多いが、青島幸男タモリも作詞・作曲者に名を連ねている。

プロ野球の応援曲は選手個人のものが大半で、打者毎に演奏・歌われるのに対し、六大学の応援曲はチームに対するもので、攻撃開始時→出塁時→進塁時→チャンス時→得点時と、局面によって応援曲や拍手・コールを次々と変えて応援する。

戦後からしばらく、攻撃中の応援は拍手とかけ声、応援歌によるものだったが、早慶両校がこの応援形態に革命を起こした。早稲田は1965年コンバットマーチ』を発表した。現役応援部員(当時)の三木佑二郎が、当時人気だったアメリカ作戦場ドラマ『コンバット!』のテーマ曲からヒントを得たこの作品は、従来の「応援歌」とは異なり、選手名や学校名、「慶應倒せオー」等のフレーズを曲に合わせて叫ぶ「応援曲」であった。慶應も翌1966年ダッシュケイオウ』を発表。この2曲の登場を追って、明治の『狙いうち』、法政の『チャンス法政』、立教の『立教ポパイ』、東大の『東大アトム』などが神宮に登場、6校で競って応援曲・応援パターンを開発してきた。これらの楽曲は高校野球の応援で多用され、それが電波を通して全国に普及、現在でも広く日本の野球応援で使用されている。また応援曲は攻撃中にとどまらず守備中にも使われてきたが、1988年の昭和天皇の重篤と周辺住民からの苦情を機に応援曲を使っての守備中応援は姿を消した。

応援スタイルにおいても、チアリーダー(1960年秋、早慶六連戦で慶應応援席に初登場)や吹奏楽団の使用、学ランではなくセーターを着ての応援、人文字、巨大デコレーション、紙製の角帽(早稲田)や三角帽(慶應)の使用など、両校様々な応援スタイルを考案している。

例年秋の早慶戦のみ、各学生席最上段に登場する巨大看板は早慶戦のもう一つの華で、時々の話題や優勝争いの状況などを盛り込んで、敵のキャラクターをやっつける姿が描かれたものとなっている。いずれも早慶の学生サークルが手作りしている。かつては早稲田が「フクちゃん」、慶應が「ミッキーマウス」をキャラクターにしていたが、いずれも著作権の関係からか姿を消した。

また1982年秋には、慶應の創設者である福澤諭吉が一万円札の肖像に選ばれた、という事態に対抗心を燃やしてか、早稲田側に大学創立100周年にちなんで、創設者の大隈重信を肖像にした「100万円札」の看板が登場した。

現在は、早稲田がOBの弘兼憲史作の熊のキャラクター「WASEDA BEAR(ワセダベア)」(大隈のクマにかけたものらしい)が、慶應は「ユニコン君」が登場する。

両校の附属校・系属校の生徒たちも学生席に入っての応援ができる。慶應側には幼稚舎の小学生たちと慶應湘南藤沢中高が三塁側に、早稲田側には早大学院早大本庄早稲田実業の小学生から高校生までの生徒たちが外野席に入ることがある(慶應湘南や早大学院、早大本庄、早実の場合授業扱い。来ない生徒は欠席扱いとされる)。

早慶戦のときは1日1試合であることから、他7週の試合では見られない様々な応援形態を見ることができる。先に述べた巨大看板もそうだが、午前中の応援合戦や両校による『早慶讃歌』の合同斉唱、試合前の応援席同士の掛け合い、エール交換の際の校旗入場などである[6]。また、早慶戦のみ応援にマイクの使用が許されており、両校の放送研究会が放送を担当する。

エール交換の際の校旗入場も早慶戦独特のもの。早稲田は『早稲田の栄光』、慶應は『慶應讃歌』の吹奏のもと、応援(指導)部主将を先導に両校の第一校旗(早稲田は新大校旗、慶應は第一塾旗)が、学生席最上段から最前列に向かって入場する。応援(指導)部の所有する校旗の中でいずれも最大のものであり、入学・卒業式や早慶戦など、特別な場合にしか登場しないものである。また旗竿含め40kg 以上の重い校旗を、体勢を崩さずに一歩一歩階段を下りる旗手(4年生が務め、早稲田は「旗手」、慶應は「旗手長」という幹部職である)は早慶戦応援の花形と言える。

入場の際には、それぞれの校旗・先導者・旗手の紹介を応援(指導)部員たち(主に3年生)がマイクを使って行い、先導者・旗手の紹介の際には部での役職の他に出身校・在籍学部も紹介され、紙吹雪の中を行進する。出身校紹介の際には有名校・無名校に関係なく「名門!」のかけ声がかける。この校旗入場があるため、通常は試合開始20分前のエール開始が早慶戦のみ25~30分前となっている(かつては内・外野別に入場式・エール交換を行っていたため、1時間前開始だった)。

なお、エール交換時には学生席は全員脱帽(肩にかけているものも外す)の上起立、相手校からの「フレーフレー」の声以外拍手はしないこと、歌唱・応援は応援(指導)部の指示のみによって行うことが、場を壊さないための最低限のマナーとなっている。

両校とも、試合終了後にはセレモニーを行っている(ただし優勝した時の最終戦後には行わない)。早稲田には『早稲田の栄光』、慶應には『丘の上』と、いずれも勝利したときにのみ肩を組みながら歌う勝利の歌がある。試合に敗れたときに歌われる歌もある(早稲田『えんじの歌』)。セレモニーではこの勝利の歌とともに「勝利の拍手」が行われる。

また、通常は応援台に一般学生が登壇することはないが、早慶戦に限っては登壇できることがある。かつては午前中に「素人演芸合戦」が行われたこともあり(世を忍ぶ学生姿のデーモン閣下が「田中角栄バルタン星人に変身するまね」などの芸で人気を博した)、秋の早慶戦終了時には卒業する4年生たちが同じく最後の早慶戦となる応援部幹部・野球部員とともに応援台に上り、肩を組みながら校歌・応援歌を歌うというセレモニーが行われる(なかった年もある)。

戦前は応援の過熱によるトラブルが頻発したが、現代は時代背景の変化もあり、両校は「良きライバル」としての関係を強調している。試合開始前に応援部員が相手学生席を訪れる「陣中見舞い」(早稲田側では『ダッシュワセダ』、慶應側では「ワセダをた・お・せ!」に歌詞を変えた『コンバットマーチ』が歌われる)や、両校の学生が同時に歌う『早慶讃歌』等がその好例である。また小林克也作曲による「Blue Sky Waseda (Keio)」という応援歌は、試合中に同じ曲を歌詞(学校名のところ)だけ変えて早慶両校の応援席で使われる。

2007年、早稲田大学校歌が100周年、若き血が80周年の節目の年を迎えた。

○○の早慶戦[編集]

主に高校野球における早慶戦のような各地のライバル同士の一戦に、「○○の早慶戦」と名付ける慣習がある。それぞれのカードは、旧制中学時代からの流れを汲み、定期戦を行っているものも多い。以下はその主なものである。 ※太字はいまだ高校野球全国大会に出場せず。

高校
大学
社会人

脚注[編集]

  1. ^ 慶應義塾の公式サイト内の「ステンドグラス」では「慶早戦」と表記している。
  2. ^ 慶應義塾体育会の公式ページでは「早慶戦」と表記している。
  3. ^ 勝ち点制=2勝先勝方式のため、一方が2勝するまで試合は行われる。
  4. ^ 他に4年に一度、愛知県名古屋市で実施されるオール早慶戦は、同市にかつてあった鳴海球場の開設30周年となった1957年より、記念試合として行われているものである。
  5. ^ コラム・早稲田ローイング■Vol.15「次の100年-更なる進化へ」 WASEDA CLUB
  6. ^ 2007年秋季リーグ戦の早稲田-法政1回戦、及び早稲田-立教1回戦では試合前に両校応援団の合同セレモニーが実施され、早慶戦で見られる応援団の陣中見舞い・応援歌曲の交換(「チャンス法政」を早稲田側で行うなど)が行われた。
  7. ^ 両校のユニフォームは盛岡一が早稲田、一関一が慶応をモデルにしたものになっている。出典は岩手県高校野球史(連盟史)や岩手日報縮刷版、および両校の記念誌などの関連各書
  8. ^ 宮城の高校生 一二高定期戦
  9. ^ ふくしま教育情報データベース「ふくしまの動画」 民友ニュース No.7(2/2)
  10. ^ 朝日新聞 静岡版 2008年7月5日付
  11. ^ 三重県立宇治山田高校同窓会
  12. ^ 兵庫高校野球部OB会 2005年・定期戦観戦記
  13. ^ 「高校野球強豪校伝説」2000年、ベースボールマガジン社
  14. ^ [1]
  15. ^ 中国新聞 シティ スポーツα
  16. ^ 南日本新聞記事(1971(昭和46)年7月16日付)
  17. ^ 『創立百周年記念誌 甲南』(2006年、鹿児島県立甲南高等学校編)、『創立百年』(1994年、鹿児島県立鶴丸高等学校百年史編修委員会編)。略称は「甲鶴戦」(こうかくせん)。なお、第9回大会にて正式名称を「甲南・鶴丸スポーツ交歓会」に統一。
  18. ^ シリーズにっぽんの高校野球 総集編
  19. ^ 毎日新聞 横浜版 1995年8月2日付
  20. ^ 山下誠通「横浜スタジアム物語」1994年、神奈川新聞社 ISBN 4-87645-173-7

関連項目[編集]