大正天皇
| 大正天皇 | |
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| 第123代天皇 | |
| 即位礼 | 1915年(大正4年)11月10日、於京都御所 |
| 大嘗祭 | 1915年(大正4年)11月14日・15日 |
| 元号 | 大正 : 1912年 - 1926年 |
| 摂政 | 皇太子裕仁親王 |
| 首相 | |
| 先代 | 明治天皇 |
| 次代 | 昭和天皇 |
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| 誕生 | 1879年(明治12年)8月31日午前8時20分 東京府赤坂区、青山御所 |
| 崩御 | 1926年(大正15年)12月25日午前1時25分 神奈川県三浦郡葉山町、葉山御用邸 |
| 大喪儀 | 1927年(昭和2年)2月8日、於新宿御苑 |
| 陵所 | 多摩陵 |
| 御名 | 嘉仁 |
| 称号 | 明宮 |
| 印 | 壽 |
| 父親 | 明治天皇 |
| 母親 | 柳原愛子 |
| 皇后 | 貞明皇后 1900年(明治33年)5月10日大婚 |
| 子女 | |
| 皇居 | 宮城 |
| 栄典 | 大勲位 |
| 学歴 | 学習院中退 |
| 親署 | |
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治以降で初の一夫一妻制をとった天皇。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生
1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍・柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気を患った。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。
このような状態ではあったが、明治天皇と皇后・一条美子との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王・内親王ら4人も、第三皇子である大正天皇の出生以前に相次いで薨去していたこともあり皇太子となった。
[編集] 少年時代
誕生の翌年、皇室の風習により中山忠敬の屋敷に里子に出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。1885年(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮は全員、妹宮はほとんど薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、嘉仁親王は家族と接する機会があまりなかったと言われる。
1887年(明治20年)8月31日、8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があったので)。「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、「生母が柳原愛子」と言われても、それを信じなかった。[1]
同年9月に学習院に入学した。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となる逸話が残されている。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。
1889年(明治22年)、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。この時重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、漢文を趣味としたという。
明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に行うため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を与えることで、有栖川宮の祭祀を継承させている。
[編集] 結婚・巡啓の日々
1897年(明治30年)8月31日、満18歳となり、貴族院皇族議員となった。成年式は、英照皇太后の喪中のため、翌年に延期された。1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九条節子(くじょう・さだこ)(後の貞明皇后)と結婚した。このとき節子は15歳であった。この早い結婚については、「病弱の太上太皇太子に早めの結婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記しているが、親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって結婚は非常にうれしい出来事だったようである。結婚後は明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と皇后は4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。
健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。明治天皇や昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である(「逸話」の節に詳述)。
1907年(明治40年)、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、朝鮮皇帝純宗や皇太子李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。
明治の終わりごろには、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している[2]。また、エルヴィン・フォン・ベルツは欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している。その一方で、伊藤博文は嘉仁親王の心理状態についての深刻な懸念を明治天皇に伝えている。
[編集] 即位
1912年7月30日、明治天皇崩御を受け践祚。「大正」と改元した。3年後の1915年(大正4年)に京都御所で即位の礼を行なう。
1917年(大正6年)に立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。第3次桂内閣では桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発させられ、父明治天皇と異なり政治的な判断が苦手であることが国民の目からも明らかとなった。
御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていくことになる。
[編集] 晩年
1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。1921年(大正10年)11月25日、当時20歳だった皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任することで大正天皇は事実上の引退となり、宮内省発表による『天皇陛下御容體書』によって病状は公にされる運びとなった。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった[3]。
その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていたが、1926年(大正15年)11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま崩御。宝算47。臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったという。
崩御後には「大正天皇」と追号され、1927年(昭和2年)2月8日、天皇として史上初めて、関東の地である多摩陵に葬られた。
[編集] 皇子
貞明皇后との間に4皇子をもうけた。
- 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年-1989年) - 第124代・昭和天皇
- 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年-1953年) - 秩父宮
- 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年-1987年) - 高松宮
- 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年-) - 三笠宮
[編集] 系譜
| 大正天皇 | 父: 明治天皇 |
祖父: 孝明天皇 |
曾祖父: 仁孝天皇 |
| 曾祖母: 正親町雅子 |
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| 祖母: 中山慶子 |
曾祖父: 中山忠能 |
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| 曾祖母: 園愛子 |
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| 母: 柳原愛子 |
祖父: 柳原光愛 |
曾祖父: 柳原隆光 |
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| 曾祖母: 正親町三条則子 |
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| 祖母: 長谷川歌野 |
曾祖父: 長谷川雪顕 |
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| 曾祖母: 不詳 |
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| 122 明治天皇 |
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| 123 大正天皇 |
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| 124 昭和天皇 |
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秩父宮雍仁親王 |
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高松宮宣仁親王 |
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三笠宮崇仁親王 |
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| 125 今上天皇 |
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常陸宮正仁親王 |
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寛仁親王 |
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桂宮宜仁親王 |
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高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 皇太子徳仁親王 |
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秋篠宮文仁親王 |
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悠仁親王 |
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[編集] 陵墓・霊廟
大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。大正天皇を祀る神社は特にないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 人物像
- 三島中洲の指導を受け、創作した漢詩の数は実に1367首もあり、質量とも、歴代天皇のなかでも飛びぬけている[4]。天皇は「歌よりも詩のほうがいい。お前たちも作れ。」と侍従たちに盛んに試作を勧めていた。また、和歌の数は岡野弘彦の調べによると456首が確認されている。岡野は、大正天皇の御製集の解説の中で、歌の出来は相当のレベルに達しており、特に、「清涼さ」「透徹した描写」においては、明治天皇や昭和天皇よりも優れていたと分析している。
- 皇太子時代に全国を巡啓し、京都帝国大学(後の京都大学)付属病院を訪れた時には、患者に声をかけ、患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す性格は、幼少期からのものであるが、嘉仁親王の性格を好ましく思わなかった明治天皇や元老山縣有朋らに幾度となくたしなめられていたようである。
- 巡啓中には、有栖川宮の黙認もあって、非常に気さくに、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召し列車ではなく、一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、新潟県では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時は蕎麦屋(当時はあまり品の良くない場所とされていた。)に入るなど自由奔放にふるまった。1911年(明治44年)4月に仙台市を行啓した際に台覧した競馬会では終始競走中は立ち上がって観戦し、競走の度に御付の武官と馬を指さして話をしたり、競走の合間を待ちかねて幕の隙間より裏手の馬の係留所を覗こうとするなどした。これらは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。
- 即位前は4人の息子たちと気軽に合唱を楽しむなど良き父親であったという。また後年、昭和天皇は記者会見で父・大正天皇を「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。
[編集] 病状に関するもの
- 宮内庁は2008年(平成20年)6月4日、「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。それによると、1921年(大正10年)の皇太子裕仁親王の摂政就任時には「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと病状について記されている。
- 原武史は著書『大正天皇』(2000年)で、大正天皇は最終的に政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、「生まれながらの病弱な天皇イメージ」が政治的な思惑を含んで流布された根拠に欠けるものだと指摘した。皇太子時代から近かった原敬首相存命時に極力伏せられてきた天皇の病状が原の暗殺直後に一般に流布されるようになった、巡啓時の新聞記事には皇太子の健康回復が詳細に述べられているとしている。伊藤之雄はこうした指摘が事実誤認に基づくもので、「良いという建前で報じざるをえない」新聞記事を主要史料とすることは本当の論証にならないと批判している[5]。
[編集] その他
- 大正天皇の成婚の時、日本各地で記念として桜が大量に植樹された。
- 現在広く行われている神前結婚式は、大正天皇と貞明皇后の婚儀を、東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。
- 大正天皇の誕生日は8月31日であり、1913年(大正2年)の天長節は8月31日に行われた。しかし、まだ残暑の厳しい時期に各々の式典をこなすのは難しいため、1914年(大正3年)からは2か月ずらし、10月31日に天長節を行うようになった。休日(祝祭日)としては、8月31日が天長節、10月31日が天長節祝日という名称となり、天皇誕生日に関する休日が大正期は年2回となっていた。
- 昭和天皇と同じく、蕎麦が好物であったといわれている。
- 近代の歴代天皇のうち、明治天皇と昭和天皇の誕生日は崩御以降にも別の祝日となっているが(明治天皇…11月3日“文化の日”。昭和天皇…4月29日“昭和の日”)、大正天皇の誕生日は別の祝日となっていない。しかしながら、崩御日が12月25日であり、戦前期の休日法では先帝崩御日が毎年休日となるため、日本にクリスマスが定着するきっかけの一つになったとされている。
[編集] 遠眼鏡事件
「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説[6]が流布されており、「大正天皇は暗愚であった」と誤って評価される要因のひとつであると言われる。 しかし、絶対王政で一番重要な、天皇の健康、精神など、発言、印刷したものは死刑など極めて重罪であった、校長が勅諭を読み間違っただけでただちに解釈になるのが常識の時代 暗愚と言う表現は厳しく禁止されていた為その当時天皇に関する記事は極めて信頼性に乏しく、 褒め言葉以外記録に残っていない。 そのきわめて厳しい状況の中で残されたものであるが、多くの日本人は終戦になって初めて、暗愚と言う疑問の発言が出来るようになった。 暗愚と言う評価は、書いた文字が発表されていないので、文字を書くことが出来たかどうか疑問を呈する人もいる。 この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が戦後であり、言論の自由が保障されて左翼思想が力を持ちつつあった1950年代後半にほぼ集中している[7]という[2]。
この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている[8]。この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはいるが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになったかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯についての大正天皇の説明が真実であるかということを判断することはできない。
また、大正天皇は脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説[9]もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自体におかしな点はない。
それに対して、「戦前には不敬罪があり、死刑も含む極めて重罪であり、天皇の不利益な事を知り得た人が公表することは考えられない。その公表は終戦になって天皇絶対が崩れ身の、公表者の安全が保障された後のものであった、皇室の噂は封印されていたもの[10]であり、(風説の報道が共和制思想が広まりつつあった1950年代後半に集中しているからといって)虚構との説明には説得力がない」という意見もある。いずれにしても、この「事件」の噂が代表するように、大正天皇についての情報は肉親や、利害関係者の証言や、また聞きレベルの噂など客観性が乏しいものが多い。また、暗愚でないと言う根拠は、筆跡を見せるとか、日記を見せる、など簡単にできることであるが、宮内庁ではかたくなに拒否している。小学校を卒業するなど、 普通の健康であれば簡単にできたことが出来なかったという事実は消すことが出来ない。 このことが示しているのは、どんなことがあっても、天皇は絶対であるという事である。 能力によって区別されない絶対大権を天皇が持っていたという事である。
[編集] 文献
- 古川隆久 『大正天皇』 吉川弘文館〈人物叢書〉、 2007年
- 原武史 『大正天皇』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年
- フレドリック・ディキンソン 『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年
米人の研究者(1961年生)、京都大学に留学し高坂正堯に師事。自身による日本語出版。 - 岡野弘彦解題 『大正天皇御集 おほみやびうた』 明徳出版社、2002年
- 木下彪注解 『大正天皇 御製詩集』 明徳出版社、新版2000年(初版1960年)
- 古田島洋介 『大正天皇御製詩の基礎的研究』 明徳出版社、2005年
- 西川泰彦 『天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読』 錦正社、2006年
- 石川忠久 『漢詩人大正天皇 その風雅の心』 大修館書店、2009年
[編集] 脚注
- ^ 古川隆久『大正天皇』。
- ^ a b c 原武史『大正天皇』。
- ^ 四竈孝輔『侍従武官日記』に詳しい(芙蓉書房、1980年ほか)著者は海軍の侍従武官。
- ^ 第2位が嵯峨天皇の97首。
- ^ 『日本歴史』641(2001年10月)、伊藤之雄『政党政治と天皇』講談社、2002年。
- ^ 「遠めがねにして覗いたあと、丸めた勅書を持って近くにいた人の頭をポコッと叩いた」という話が付くこともあるが、これは東京裁判における大川周明の行動との錯綜であるとの見方がある。
- ^ ただし政治学者の丸山眞男は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している。
- 私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである
- ^ 朝日新聞2001年3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。
- ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。
- ^ 当時の侍従・黒田長敬の証言による。「文藝春秋」1959年2月号 「悲劇の帝王 大正天皇」より
- ^ この指摘は丸山の証言(注3参照)と大きく異なるものである。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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