綏靖天皇
| 綏靖天皇 | |
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| 2代天皇 | |
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在位期間
綏靖天皇元年1月8日 - 同33年5月10日 |
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| 先代 | 神武天皇 |
| 次代 | 安寧天皇 |
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| 誕生 | 神武天皇29年 |
| 崩御 | 綏靖天皇33年5月10日 |
| 陵所 | 桃花鳥田丘上陵 |
| 異称 | 神渟名川耳尊・神沼河耳命 |
| 父親 | 神武天皇 |
| 母親 | ヒメタタライスズヒメ |
| 皇后 | 五十鈴依媛命(川派媛(第1の一書)、糸織媛(第2の一書)、河俣毘売(『古事記』)) |
| 子女 | 安寧天皇 |
| 皇居 | 葛城高丘宮 |
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欠史八代の一人。 |
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綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 同33年5月10日。『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、 『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)ともいう。綏靖天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされ、「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意がある。
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある(欠史八代の実在説を参照)。
目次 |
事績 [編集]
詳細はタギシミミの反逆を参照
父・神武天皇が崩じた後、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)が、腹違いの弟たちを害そうとした。神渟名川耳尊は母の歌からこのことを察知し、同母兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)とともに片丘(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の大窖にいる手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに神渟名川耳が矢を射て殺したとされる(己卯年11月)。 この失態を恥じた神八井耳は弟を助けて天神地祇を掌り、神渟名川耳が天皇として即位することになった。神渟名川耳は翌年1月に高丘宮にて即位。 なお、綏靖天皇から開化天皇までの初期8人の天皇について、綏靖即位前のこの皇位継承争いを除けば、記紀には系譜(帝紀)のみが伝えられ、事績(旧辞)が全く記されていないため、一般にまとめて「欠史八代」と称される。
なお、南北朝時代に安居院澄憲の子孫によって編まれたとされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、朝夕に7人もの人々を食べ、周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという逸話があるが、実在が定かでないだけに造作された可能性が高い。ペルシャの叙事詩『シャー・ナーメ』に登場する暴君ザッハークとの共通性を指摘する説もある[1]。
『古事記』には、45歳で没したといい、『日本書紀』によれば、綏靖天皇33年5月に84歳で没したとされる。
系譜 [編集]
神武天皇の第3子で、母はヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命(『日本書紀』事代主神の女)。『古事記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)である。(稗史では神武天皇の姉奈留多姫だといわれている。)
系図 [編集]
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(1)神武天皇 |
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神八井耳命 |
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〔多氏族〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(2)綏靖天皇 |
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(3)安寧天皇 |
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(4)懿徳天皇 |
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(5)孝昭天皇 |
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天足彦国押人命 |
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〔和珥氏族〕 |
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(8)孝元天皇 |
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大彦命 |
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〔阿倍氏族〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(6)孝安天皇 |
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(7)孝霊天皇 |
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倭迹迹日百襲姫命 |
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(9)開化天皇 |
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吉備津彦命 |
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彦太忍信命 |
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屋主忍男武雄心命 |
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武内宿禰 〔蘇我氏へ〕 |
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稚武彦命 |
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〔吉備氏族〕 |
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(10)崇神天皇 |
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豊城入彦命 |
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〔毛野氏族〕 |
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日本武尊 |
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(14)仲哀天皇 |
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(15)応神天皇 |
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(11)垂仁天皇 |
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(12)景行天皇 |
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(13)成務天皇 |
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豊鍬入姫命 |
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倭姫命 |
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五百城入彦皇子 |
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仲姫命 (応神天皇后) |
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彦坐王 |
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丹波道主王 |
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鐸石別命 |
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〔和気氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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気長宿禰王 |
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神功皇后 (仲哀天皇后) |
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皇居 [編集]
葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや。現在の奈良県御所市森脇か)。『古事記』では「葛城の高岡宮」。
御陵(所在地) [編集]
桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ)に葬られた。『古事記』では「御陵は衝田岡(つきだのおか)にあり」とある。
現在、同陵は奈良県橿原市四条町字田ノ坪に所在する塚山古墳(円墳・径16m)に比定される。中世には山陵が荒廃して所伝を失い、元禄時代の探陵に諸説生じ慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m)があてられたりしたが、幕末修陵に際して現陵を擬し、明治11年(1878年)治定。
在位年と西暦との対照表 [編集]
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 桃花鳥田丘上陵 - 宮内庁
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