冷泉天皇
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| 冷泉天皇 | |
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| 第63代天皇 | |
| 在位 | 967年11月15日 - 969年9月27日 |
| 在位中の時代 | 平安時代 |
| 在位中の年号 | 康保 安和 |
| 在位中の首都 | 京都 |
| 在位中の皇居 | 大内裏 |
| 諱 | 憲平 |
| 出生 | 950年6月12日 五条邸 |
| 死去 | 1011年11月21日 冷泉院 |
| 陵墓 | 桜本陵 |
| 先代 | 村上天皇 |
| 次代 | 円融天皇 |
| 中宮 | 昌子内親王(朱雀天皇皇女) |
| 女御 | 藤原懐子 藤原超子 藤原怤子 |
| 子女 | 花山天皇 三条天皇 為尊親王 敦道親王 宗子内親王 尊子内親王 光子内親王 |
| 父親 | 村上天皇 |
| 母親 | 藤原安子 |
冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、第63代の平安時代中期の天皇。村上天皇の第二皇子。憲平(のりひら)親王。母は藤原師輔の娘中宮安子。円融天皇の同母兄。
目次 |
[編集] 系図
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(60)醍醐天皇 |
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(61)朱雀天皇 |
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広平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(62)村上天皇 |
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(63)冷泉天皇 |
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(65)花山天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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兼明親王 |
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致平親王 |
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(67)三条天皇 |
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敦明親王(小一条院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(源)高明 |
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為平親王 |
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禎子内親王 (後三条母、陽明門院) |
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(64)円融天皇 |
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(66)一条天皇 |
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(68)後一条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭平親王 |
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(69)後朱雀天皇 |
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(70)後冷泉天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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具平親王 |
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(源)師房 〔村上源氏へ〕 |
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(71)後三条天皇 |
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[編集] 后妃・皇子女
(花山天皇の実子、冷泉天皇の猶子)
[編集] 経歴
第一皇子の広平親王を押しのけて生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。村上天皇の第四皇子為平(ためひら)親王と、守平親王の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変があり、安和2年(969年)、円融天皇(守平親王)に譲位。譲位後は冷泉院上皇と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている。
以後後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合される事となった。
上皇になった際の名称は、現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した離宮「冷然院」が後に後院(上皇の御所)となった「冷泉院」に由来する。
[編集] 冷泉天皇の奇行
冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立った。大江匡房が記した『江記』などにより、以下のエピソードが挙げられる。
- 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。
- 父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。
- 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。
- 病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。
- 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。
- 儀式の最中に「こんな重いものは被っていられない」といきなり冠を脱ぎ、近く使えていた馬命婦を帳の中に強引に引き入れて姦した。
これらの奇行と当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力な跡継ぎとされていた 為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した(安和の変の伏線となる)事等が僅か2年で退位する原因となった。もっとも退位後は在位時のプレッシャーがなくなったのか、61歳まで生きたが、師貞親王(花山天皇)をはじめとする皇子女や弟円融天皇、その皇子の一条天皇等多くの親族に先立たれたのは皮肉な事であった。しかし、天皇の血統は確実に孫娘の禎子内親王をもって、没後円融系と融合される事となったのである。
[編集] 在位中の元号
[編集] 御陵
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