天武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天武天皇
第40代天皇
『集古十種』「天武帝御影」
『集古十種』「天武帝御影」
在位 673年3月20日 - 686年10月1日
在位中の時代 飛鳥時代
在位中の年号 朱鳥(あかみとり)
在位中の首都 飛鳥
在位中の皇居 飛鳥浄御原宮
大海人(おおあま)
別名 天渟中原瀛真人天皇
浄御原天皇
出生 631年?
死去 686年10月1日
大和国
陵墓 檜隈大内陵
先代 弘文天皇
次代 持統天皇
皇后 鸕野讃良皇女(持統女帝
夫人 藤原氷上娘
藤原五百重娘
蘇我大蕤娘
子女 草壁皇子
高市皇子
舎人親王
父親 舒明天皇
母親 宝皇女(皇極天皇
  
天皇系図38~50代

天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日686年10月1日))は『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇である(在位:天武天皇2年2月27日673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。漢風諡号、天武天皇は代々の天皇とともに淡海三船により「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとされる。


目次

[編集] 人物

和風(国風)諡号天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。この和風諡号は極めて道教的な諡号である。天武13年(684年)10月に旧来の氏姓制度の改革として定められた八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が「真人」であった。即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむもので当時では養育者より幼名をとるのは慣例だった。また、凡の字が異なるのはとなることを避けてのことといわれている。舒明天皇の第三皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇間人皇女の同母弟であるが、異説もある。

日本書紀』には才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある[1]

双六を好んだとされる。臣下を招いて双六を講じた際に臣下に対し褒美を与えたという。

天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが『日本書紀』編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王であることから、潤色が加えられているとする見解もある。また同書では当初から兄・天智天皇の皇太弟であると記されているが、大友皇子の立太子の事実を否定し天皇の皇位継承を正当化する意図があるとする意見もある。

天武天皇がそれ以前の大王という呼称を「天皇」に改めるよう命じたのではないかと見るものもある。天皇の称号は天武天皇が始めたとする説が広く支持されており、非常に有力となっている。これによれば、天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなる(ただし、天皇号をより早く推古期に求める説や、遅く大宝以降とする説もある)。また、宮廷歌人柿本人麻呂の歌にも「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれまでとは違う神格的な存在となっていった。 “万葉集”に壬申の乱が平定されてからの歌として、その乱での功臣大伴御行の作品で “大君は神にしませば赤駒の腹這う田居を都となしつ” 大君は神であるので、赤駒が腹までつかるような田んぼまですっかり立派な都につくりかえられた。現人神となった天皇

[編集] 系譜

[編集] 系図

 
(38)天智天皇
(中大兄皇子)
 
(41)持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(43)元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
(39)弘文天皇
(大友皇子)
 
葛野王
 
池辺王
 
(淡海)三船
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
施基皇子
(田原天皇)
 
(49)光仁天皇
 
(50)桓武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(40)天武天皇
(大海人皇子)
 
草壁皇子
 
(44)元正天皇
 
 
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(42)文武天皇
 
(45)聖武天皇
 
(46)孝謙天皇
(48)称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備内親王
 
 
 
 
 
 
 
長親王
 
智努王
(文屋浄三)
 
大原王
 
文室綿麻呂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
御原王
 
小倉王
 
(清原)夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(47)淳仁天皇
 
 
 
 
 
 
 
大津皇子
 
 
  ◇
 
  ◇
 
貞代王
 
(清原)有雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高市皇子
 
長屋王
 
桑田王
 
磯部王
 
石見王
 
(高階)峰緒
高階氏へ〕
 
 
 
 
 
 


[編集] 政策・事績

壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位する。『日本書紀』によるならば周知の事実として次期天皇は実力にも恵まれた大海人皇子と合意がなされていたが、反乱をおこした大友皇子を滅ぼした恰好となっている。この際に大友皇子が即位していたか否かで正統性が一方に傾くため、議論が絶えない。もし大友皇子が正統に即位していたならば、大海人皇子は皇位を簒奪したことになる。

ともあれ、即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。天武元年(673年)5月に官僚機構の整備として畿内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった。天武5年(676年)、畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は兵衛として宮城の警護の役目を与えた。また天武7年(678年)、官人の勤務評定(考)や官位の昇進(選)に関して考選法を定めた。さらに天武13年(684年)、八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。これに対応して行政機構も太政官大弁官が並立し上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。

地方の支配体制を明確にするために『日本書紀』天武13年(684年)10月の条に「伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。

天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。一説によると天皇号の使用も天武天皇が始めたとされる(天皇号の始まりは推古天皇説などもある)。

天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。

皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺を建立させている。ただしこの薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない(現在、この薬師寺の址として奈良県橿原市に本薬師寺址という史跡が存在する)。

飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造した。この難波の宮殿は唐などの複都制に倣った陪都(副都)であるとされている。また、藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。

外交面においては新羅朝鮮半島統一(676年)により新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していたとの国交を断絶した。

文化面では帝紀旧辞を記し校訂する修史事業が行われた。後に、「古事記」編さんの際に語り部を行った稗田阿礼は天武天皇からこの帝紀を暗誦するよう命じられたといわれる。また、五節の舞を始めとする宮廷儀礼の定式化も進められた。

天武4年4月17日675年5月19日)のいわゆる肉食禁止令で4月1日5月3日)から9月30日10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシウマイヌサルニワトリ)の肉食を禁止する。

庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻阱 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 雞之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 - 『日本書紀』

現在日本最古の貨幣とされている「富本銭」も天武天皇の時代に発行されたとされている。

政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり」と記した詔を発し、畿内の官人らに武器や乗馬の訓練をするように命じている。

律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。

また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更している。

[編集] 「天武天皇 九つの偉業」

  1. 天皇号の創始
  2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 宮都の選定と設計
  6. 八色の姓の制定
  7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 三種の神器の制定
  9. 伊勢の遷宮の制定・開始

(参考文献:戸矢学陰陽道とは何か』 PHP新書より)

[編集] 生没年

系図上では父が舒明天皇天智天皇の弟とされているが、「天智と天武は兄弟ではなかった」「天武は天智の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も根強く言われている。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』、『皇年代略記』ではそれぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)と考えられ『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る事等がその根拠とされている。特に母の皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物(つまり、天武異父兄説)。ではないかとする考えが有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。そしてこれら一代要記等の史料と日本書紀は編纂された時代も性質も異なり、同列で比較するのはおかしいという反論もある。学会では「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」としているが、無理があると反対する研究者もいる。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。

[編集] 年譜

  • 舒明天皇3年(631年)? 誕生
  • 天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
  • 天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
  • 弘文天皇元年(672年) 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。
  • 弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
  • 天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
  • 天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
  • 天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
  • 天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
  • 天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
  • 天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
  • 天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
  • 天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
  • 天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
  • 天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
  • 朱鳥元年(686年) 崩御。

[編集] 子孫

玄孫称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移った。光仁天皇の皇后は称徳天皇の異母姉妹の井上内親王であるが、側室を母に持つ桓武天皇の系統が長く現在まで続く事になる。

天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えたものの、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。但し高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる高階師尚在原業平落胤とし、以降天武天皇の血筋は継いでいないとする[2]

[編集]

陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。妻持統天皇との夫婦合葬墓である。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。しかし、1235年文暦2)に盗掘にあい、大部分の副葬品を盗まれた。また棺も暴かれ、遺体を引っ張り出したため、墓室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。妻の持統天皇の遺骨は火葬されたため骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。

藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。

[編集] 天武天皇を扱った作品

[編集] 小説

[編集] 漫画

[編集] 脚注・参照

  1. ^ (原文)「天渟中原瀛眞人天皇。天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壯雄拔神武。能天文遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃。天命開別天皇元年立爲東宮(以下略)」
    (書き下し文)「天渟中原瀛眞人天皇(あまのぬはらおきのまひとすめらみこと)。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の同母弟(いろと)なり(中略)天文遁甲(てんもんとんこう)を能し(略)」
    日本書紀巻二八・天武(前紀)冒頭より。天渟中原瀛眞人天皇とは天武天皇のことで、大海人は天武天皇のである。ちなみに瀛とは道教における東方三神山瀛洲山(残る2つは蓬莱方丈)のことである。
  2. ^ 『尊卑分脈』、『高階氏系図』(『群書類従』巻第63,『続群書類従』巻第174 所収)による。

[編集] 在位年と西暦との対照表

先代:
弘文天皇
天皇
第40代:673 - 686年
次代:
持統天皇