三条天皇
| 三条天皇 | |
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| 第67代天皇 | |
江戸時代の百人一首より
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| 元号 | 寛弘 長和 |
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| 誕生 | 976年2月5日 |
| 崩御 | 1017年6月5日 |
| 陵所 | 北山陵 |
| 御名 | 居貞 |
| 父親 | 冷泉天皇 |
| 母親 | 藤原超子 |
| 皇后 | 藤原娍子 |
| 中宮 | 藤原妍子 |
| 子女 | 敦明親王(小一条院) 敦儀親王 敦平親王 当子内親王 禔子内親王 性信入道親王 禎子内親王(陽明門院) |
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。
目次 |
[編集] 系譜
冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇后宮超子。花山天皇の異母弟。
七歳で母を失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。
[編集] 系図
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(60)醍醐天皇 |
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(61)朱雀天皇 |
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広平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(62)村上天皇 |
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(63)冷泉天皇 |
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(65)花山天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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兼明親王 |
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致平親王 |
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(67)三条天皇 |
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敦明親王(小一条院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(源)高明 |
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為平親王 |
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禎子内親王 (後三条母、陽明門院) |
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(64)円融天皇 |
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(66)一条天皇 |
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(68)後一条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭平親王 |
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(69)後朱雀天皇 |
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(70)後冷泉天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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具平親王 |
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(源)師房 〔村上源氏へ〕 |
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(71)後三条天皇 |
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[編集] 略歴
寛和2年(986年)7月16日、二重の従弟一条天皇(当時宝算7)の即位にともない、兼家の後押しで東宮となる。冷泉・円融天皇両統の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上の宝算11であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。しかし、兼家は、冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融帝との不仲、冷泉帝に三人の親王を儲けていたことから、冷泉系を重要視していた可能性が指摘されている[1]。
外舅にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ一条天皇のもとで後宮政策を布いたため、三条天皇は25年という長い東宮時代を経て、宝算36でようやく一条帝の禅譲を受けて即位。皇太子には藤原道長女彰子腹の敦成親王(後一条天皇)が立った。
外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いていたが、道長の次女・中宮妍子がいながら東宮の時からの后・済時女藤原娍子を皇后にしたこと、妍子との間には女児をしか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった[2]。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った[3]。更に内裏の火災[4]や病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位した。翌寛仁元年(1017)4月に出家し、程なく宝算42で崩御した。
三条天皇の崩御後、その長子敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、ついに自ら東宮を辞退した。このことにより冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた皇女禎子内親王を通じて以後の皇室へ受け継がれていくことになる。
[編集] 和歌
退位の際に詠んだとされる歌が小倉百人一首に採られている。
- 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院
[編集] 后妃・皇子女
- 皇后:藤原娍子(972-1025) - 贈右大臣藤原済時長女
- 中宮:藤原妍子(994-1027) - 左大臣藤原道長次女
- 尚侍:藤原綏子(974-1004) - 摂政藤原兼家三女
- 女御:藤原原子(980?-1002) - 摂政藤原道隆次女
[編集] 諡号・追号・異名
後院(譲位後の居所)の名称によって「三条院」と追号された。大正以後、「院」の号は廃止され、「三条天皇」とされる。
[編集] 在位中の元号
[編集] 陵墓・霊廟
陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町、大文字山の東麓にある北山陵(きたやまのみささぎ)。衣笠鏡石町に火葬塚がある(一条天皇火葬塚と同所)。
[編集] 脚注
- ^ 倉本一宏『三条天皇』より
- ^ 倉本一宏『三条天皇』より
- ^ 仙丹の服用直後に、視力を失ったといわれる。仙丹は、中国で古代より不老不死の妙薬とされていたが、毒物の硫化水銀・硫化砒素を大量に含んでいた。
- ^ 三条天皇は即位後に新造の内裏(ただし、実際には一条天皇の寛弘3年(1006年)に建てられてそのまま未使用であった内裏)に入ったものの、長和3年(1014年)・翌4年(1015年)と相次いで焼失した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
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