徳大寺実定
徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ、保延5年(1139年) - 建久2年閏12月16日(1192年2月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣と号す。
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[編集] 生涯
天養元年(1144年)に叙爵してから順調に昇進を重ねて、保元元年(1156年)11月に従三位に叙任して公卿に列した。長寛2年(1164年)には権大納言へ昇り、翌年、これを辞して正二位に叙任している。『著聞集』によれば、同官で越階された藤原実長を越え返すためであったという。治承元年(1177年)3月、大納言に還任し、12月には左近衛大将を兼ねた。この人事に関して『平家物語』は実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したためと語っているが、実際に実定が厳島を参詣したのは2年後の治承3年(1179年)3月である。寿永2年(1183年)内大臣となるが、同年11月におこった源義仲の法住寺合戦によるクーデターの際には喪中で事実上の休職中であった。ところが、義仲と結んで息子師家を摂政の地位に就けようとした松殿基房の画策で、公務に就けない実定が一時的に師家に内大臣職を貸すこと(「借官」)で師家の摂政内大臣就任を実現させた[1]。しかし翌年1月には義仲が敗死したことで、師家は失脚して復官する。その後の源義経と後白河法皇による頼朝追討宣旨に賛同したが、義経亡命後、頼朝の推挙で議奏十人の一人に押され、文治2年(1186年)10月には右大臣、文治5年(1189年)7月に左大臣となり、世に後徳大寺左大臣と称されて、九条兼実の片腕として朝幕関係の取り次ぎに活躍した。建久2年(1191年)6月20日、病のため官を辞して出家、法名は如円。同年閏12月16日に薨去した。享年53。その死について『吾妻鏡』は「幕下(頼朝)殊に溜息し給う。関東由緒あり。日来重んぜらるる所也」と書いてあり頼朝の信頼ぶりがうかがえる。
[編集] 歌人として
実定は詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人であったといわれる。 文才があり『庭槐抄』(『槐林記』ともいう)という治承・寿永年間(1177年 - 1185年)の行幸に関する記録を抄出した日記を残した。他にも『掌函補抄』10巻の著述が存在したらしいが、現存していない。『著聞集』129に「風月の才人にすぐれ」と語るように、漢詩をも能くしたが、特に和歌の才能に優れた。嘉応2年(1170年)10月9日の『住吉社歌合』、治承2年の『右大臣藤原兼実家百首』など、多くの歌合・歌会に参加している。実定の家集を『林下集』といい、『千載和歌集』『新古今和歌集』以下の勅撰集にも73首が入集している。 晩年は作歌にあまり精力的ではなく、精進を怠ったことを後に俊恵に批判された。
[編集] 百人一首
- ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる(「千載和歌集」夏161)
[編集] 系譜
- 父:徳大寺公能
- 母:藤原豪子(藤原俊忠の娘)
- 妻:藤原顕長の娘
- 男子:徳大寺公綱 - 少将
- 妻:藤原師長の娘[2]
- 妻:上西門院女房備後
- 三男:徳大寺公継(1175-1227) - 従一位左大臣
- 生母不詳
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- 養子:公方 - 実は公源の子
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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