吾妻鏡
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『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代に成立した歴史書。『東鑑』とも書く。全52巻、ただし第45巻は欠落している。鎌倉時代を研究する上での基本史料である。
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[編集] 概要
源頼政の挙兵治承4年(1180年)4月に始まり、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ばに宗尊親王が帰京する文永3年(1266年)までの87年間を、武家政権や社会の動きを将軍の代ごとに編年史形式で記述する(変体漢文、また吾妻鏡体)。
かつては鎌倉幕府の公式日記と考えられたこともあるが、遠く離れた地方で起こったことが当日の条に記述され、明らかに後世でなければ書けない部分が多く、おそらくは北条氏(金沢家)や安達氏など幕府内部の有力者が、幕府・御家人の記録をはじめ、貴族の日記や寺社の文書も参照し、さらに軍記物語の類までひろく材料を収集して北条氏執権時代の鎌倉末期に編纂したものと考えられている。したがって北条氏の立場による事実の歪曲と思われる箇所がかなりあり、他の史料も合わせて参照する必要がある。
後世の武将などにも愛読され、もと後北条氏が所蔵していた写本(北条本)が1603年、徳川家に献上された。徳川家康は欠落部分を他の大名家から集め、1605年(慶長10年)に『吾妻鏡』を木活字で刊行した(51巻、伏見版と言われる)。家康の座右の書として、幕府運営の参考にしていたという。
[編集] 吾妻鏡の作為
吾妻鏡は基本的には価値の高い史料であるが、源頼朝の死亡時期に、3年以上の記事がないなど欠落している箇所もあり、こうした欠落が偶然散逸した結果なのか、意図的に抹殺されたのか、議論が分かれるところである。江戸時代に、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったという説が語られたが、あまり信憑性はない。
そして時の権力者であった北条氏の立場を正当化する政治的意図には注意が必要である。
『吾妻鏡』では北条氏を首謀者として追放された源頼家や梶原景時の悪行は著しく誇張されている。そして謀反人として追われたはずの源義経に対して非常に同情的であり、頼朝の弟たちに対する冷酷さを隠そうとはしない。鶴岡八幡宮での静御前の舞におけるエピソードは、政子を賛美し、頼朝を狭量とするものである。頼朝の命を狙ったはずの曾我兄弟の仇討ちは美談となり、その兄弟は時政が保護している。人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は時政の後妻で悪名高き牧の方であり、北条政子や北条義時が父時政を追放したという背徳も、牧の方が実朝を殺そうとした首謀者であるという事で正当化される。
吾妻鏡が善人・悪人の構図を作り上げたとするのは過言であるが、少なくともそれらの人間造形が北条氏全盛の下で進められてきたことは否定できないのである。
[編集] 版本
- 刊本
- 黒板勝美 編 新訂増補国史大系本
- (吉川弘文館、1987~1989年普及版) 第一 ISBN 4-642-00024-0、第二 ISBN 4-642-00025-9、第三 ISBN 4-642-00026-7、第四 ISBN 4-642-00027-5
- (吉川弘文館、2007年OD版) 前編 ISBN 978-4-642-04034-1、後編 ISBN 978-4-642-04035-8
- 国書刊行会本(吉川本)
- (吉川弘文館、2008年OD版) 第一 ISBN 978-4-642-04196-6、第二 ISBN 978-4-642-04197-3、第三 ISBN 978-4-642-04198-0
- 注釈・訳注
- 竜粛 訳注『吾妻鏡』1~5巻〔全8巻予定、未完〕(岩波文庫、1939~1944年)
- 永原慶二 監修・貴志正造 訳注『全譯吾妻鏡』全5巻・別巻(新人物往来社、1976~1979年)
- 五味文彦、本郷和人 編『現代語訳吾妻鏡』全16巻予定(吉川弘文館、2007年~)
[編集] 参考文献
- 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4-642-07771-5
- 佐藤和彦、谷口栄 編『吾妻鏡事典』(東京堂出版、2007年) ISBN 978-4-490-10723-4

