赤染衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
赤染衛門 『前賢故実』より
赤染衛門
(小倉百人一首より)
『やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな』(月岡芳年『月百姿』)

赤染衛門(あかぞめえもん、天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人。

経歴[編集]

赤染衛門は赤染時用の娘とされる。しかし、赤染衛門の母親が前夫である平兼盛婚姻していた頃に懐胎した後、再婚先である赤染家において、赤染衛門を出産したために、実父は平兼盛との説もある。後に、平兼盛は娘の親権を巡り、前夫の赤染時用との間で裁判を起こすが敗訴している。

赤染衛門は文章博士大江匡衡と貞元年中(976~978)に結婚する。大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲より、匡衡衛門と呼ばれたという[1]。大江匡衡との間に大江挙周江侍従等を設けた。赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕えており、紫式部和泉式部清少納言伊勢大輔等とも親交があった。匡衡の尾張赴任にもともに下向し、夫を支えた。また、子の挙周の和泉守への任官に尽力して成功させ、病のときには住吉に和歌を奉納し病平癒に導いた話[2]など、母としての像も鮮やかである。[3]

長元8年(1035年)関白左大臣頼通歌合出詠。長久2年(1041年)弘徽殿女御生子歌合出詠。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首が入集[4]

長和元年(1012年)に夫・大江匡衡が逝去した後は、信仰と子女の育成に尽くしたという。

歌風[編集]

赤染衛門は平安時代中期において活躍した女流歌人として、和泉式部と並び称されている。その歌風は、和泉式部の情熱的な歌風と比較して、穏健且つ典雅なる歌風と評価されている。

文学作品[編集]

和歌[編集]

姉妹のもとに通っていた藤原道隆が訪れなかったため、姉妹の為、和歌代作した。
  • 下記説話に関連する歌
    • 代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき (『詞花和歌集』雑下362)

【現代語訳】 (息子に)代わり、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくはないけれど、その祈りが叶い、(息子の大江挙周と)別れる事になるのは、悲しい。

  • 今昔秀歌百撰三十二番に選ばれている。選者:高橋秀(御茶の水女子大學大學院)

説話[編集]

息子の大江挙周が重病を患っていた際、「大江挙周の重病の原因は住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は挙周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき」との和歌住吉神社祭殿奉納した。赤染衛門の挙周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、挙周の重病は根治したという。

脚注[編集]

  1. ^ 紫式部日記
  2. ^ 『今昔物語』、『古今著聞集』などほか
  3. ^ 柴佳世乃「赤染右衛門」(小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 2ページ)
  4. ^ 勅撰作者部類

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]