藤原義孝

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藤原義孝(ふじわら の よしたか、天暦8年(954年) - 天延2年9月16日974年11月8日))は、平安時代中期の公家歌人摂政太政大臣藤原伊尹の三男(または四男)。子に三蹟の一人藤原行成がいる。中古三十六歌仙の一人。正五位下右少将。後少将と号す。

971年(天禄2年)右少将。仏教信仰に篤かった[1]が、当時流行した疱瘡天然痘)にかかり、兄・藤原挙賢と同日[2]に21歳の若さで没した。美貌で知られ、疱瘡で顔に傷痕が残って醜くなり自殺したとも言われている。怨霊になったという伝説がある。

後拾遺和歌集』に入集。家集に「義孝集」がある。

[編集] 系譜

[編集] 脚注

  1. ^大鏡』第三巻20段。また、逸話として、病気で危篤になった際、一旦自らが息を引き取っても『法華経』を誦えるためにしばらく生き長らえるので、通常通りの葬儀の作法で死者扱いしないように、母親に頼んだ話(『大鏡』第三巻20段)。賀縁(阿闍梨)や藤原実資が、義孝が極楽往生しているを見た話(『大鏡』第三巻21段)。夜中に世尊寺の邸宅に戻ると、礼拝の言葉を発しながら、西の方を向いて何度も拝礼していた話(『大鏡』第三巻22段)等がある。
  2. ^ 同じ日の朝に兄挙賢が、夕方に弟義孝が死亡したとされる(『大鏡』第三巻20段)。
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ウィキクォート藤原義孝に関する引用句集があります。


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