藤原教通

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藤原教通
時代 平安時代中期
生誕 長徳2年6月7日996年7月29日
死没 承保2年9月25日1075年11月6日
別名 大二条殿(号)
官位 従一位関白太政大臣
正一位
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原道長、母:源倫子源雅信の娘)
兄弟 彰子頼通頼宗妍子顕信
能信教通威子寛子長家
嬉子尊子長信盛子
正室:藤原公任の娘
継室:禔子内親王三条天皇の第二皇女)
継々室:嫥子女王具平親王の三女)
生子静円信家真子通基歓子信長静覚
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藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期の公卿摂政太政大臣藤原道長の五男。

生涯[編集]

康平7年(1064年)に兄・頼通から藤原氏長者を譲られ、娘の歓子後冷泉天皇皇后となるが、歓子に皇子は誕生しなかった。治暦4年(1068年)に後冷泉天皇が重篤となり、藤原氏と関係が疎遠な後三条天皇の即位が確実となる状況下で東宮傅であった教通が関白となる。なお、この関白任命は後冷泉天皇在位中であるが、任命から3日後には後冷泉天皇が崩御して後三条天皇が践祚しているため、教通の関白任命は新帝(後三条天皇)即位に対応した人事である。教通は三条天皇の娘・禔子内親王を後室とし、更に息子・信家の室に三条天皇の孫でその養女となった儇子内親王(実父は小一条院)を迎えていることなどにより、元々三条天皇系の陽明門院・後三条天皇母子と教通の関係は、頼通との関係ほど疎遠ではなかったとの説もある[1]

後三条天皇が藤原氏との関係が疎遠であったために教通の時代に藤原摂関家が衰退したとされているが、教通が兄・頼通との約束に反して息子・信長への関白譲位を図った事から兄弟の不仲が深刻となり、頼通の影響力を抑制したい後三条天皇と教通の思惑が合致したことによって両者は接近する。『栄花物語』には後三条天皇が自己の主張を貫きつつも教通との関係を重視したことが記されている。そのため、頼通の財政的な基盤を切り崩すために後三条天皇が行った延久荘園整理令の施行を事実上容認したとも言われている。

教通の日記は『二東記』と呼ばれるが、散逸し一部のみが伝わっている。

官歴[編集]

※日付=旧暦

  • 寛弘3年(1006年) 12月5日:元服、正五位下に叙位。昇殿を許される。12月16日:侍従に任官し、禁色を許される。
  • 寛弘4年(1007年) 1月28日:右兵衛佐に遷任。11月2日:右近衛少将に転任。
  • 寛弘5年(1008年) 1月7日:従四位下に昇叙。1月28日:右近衛中将に任官し、近江介を兼任。10月16日:従四位上に昇叙。
  • 寛弘6年(1009年) 3月20日:左近衛中将に遷任。近江介如元。
  • 寛弘7年(1010年) 11月28日:従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
  • 寛弘8年(1011年) 8月11日:正三位に昇叙。12月18日:中宮権大夫(中宮・藤原彰子)を兼任。
  • 寛弘9年(1012年) 1月27日:近江権守を兼任。2月14日:中宮が皇太后宮となったため皇太后宮権大夫を兼任。
  • 長和2年(1013年) 6月23日:権中納言に転任、左衛門督を兼任。皇太后宮権大夫如元。9月16日:従二位に昇叙。12月19日、検非違使別当を兼帯。
  • 長和3年(1014年) 11月:検非違使別当を去る。
  • 長和4年(1015年) 10月21日:正二位に昇叙。
  • 長和6年[2]1017年) 4月3日:左近衛大将を兼任。8月9日:春宮大夫(皇太子:敦良親王)を兼任、皇太后宮権大夫を止む。
  • 寛仁3年(1019年) 12月21日:権大納言に転任、左近衛大将・春宮大夫如元。
  • 寛仁5年(1021年) 7月25日:内大臣に転任、左近衛大将如元。
  • 長元10年(1037年) 8月17日:東宮傅(皇太子・親仁天皇)を兼任。
  • 寛徳2年(1045年) 1月16日:東宮傅を辞任。
  • 寛徳3年(1046年) 11月25日:東宮傅(皇太子・尊仁親王)を兼任。
  • 永承2年(1047年) 8月1日:右大臣に転任。8月9日:左近衛大将・東宮傅如元。
  • 天喜5年(1057年) 1月7日:従一位に昇叙。
  • 康平3年(1060年) 7月17日:左大臣に転任、左近衛大将・東宮傅如元。
  • 康平5年(1062年) 4月11日:左近衛大将を辞任。
  • 康平7年(1064年) 12月13日:藤原氏長者宣下。
  • 治暦4年(1068年) 4月16日、関白宣下。東宮傅・左大臣如元。 4月19日、東宮傅を止む。
  • 治暦5年(1069年) 8月13日、左大臣を辞す。
  • 延久2年(1070年) 3月23日:太政大臣宣下。関白・藤原氏長者如元。
  • 延久3年(1071年) 8月10日:太政大臣を辞す。
  • 承保2年(1075年) 9月25日:薨去。享年80。10月6日、贈正一位

系譜[編集]

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』(東京大学出版会、2008年) ISBN 978-4-13-026218-7 P53-55・312-313・316-318・324)
  2. ^ 4月23日寛仁元年に改元

参考文献[編集]

関連項目[編集]