藤原不比等

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藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)

藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿藤原鎌足の次男。文献によっては(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇御落胤と書かれる。諡号文忠公、国公は淡海公

概要[編集]

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]

天智天皇の皇胤説[編集]

前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[2]

なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。

また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である。

不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家にしばらくかくまわれていた[3]ことと関連する説がある。


略歴[編集]

11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

草壁皇子の息子、文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武の即位直後には娘の藤原宮子が文武の夫人となり[4]、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。

文武・宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。

不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

経歴[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 高島正人は鎌足が藤原姓を授かったのは1代限りであり、不比等ら一族が藤原を名乗ることが許されたのは八色の姓施行後の天武天皇14年(685年)頃とする説を唱えている。その説を採ると鎌足の没後、暫く藤原氏は中絶していたことになる(高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:同『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館1999年))。
  2. ^ 『かぐや姫と王権神話』(保立道久、洋泉社、2010年、ISBN 978-4-86248-600-4)121-124頁。
  3. ^ 保立前掲書、123頁。
  4. ^ なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も文武のとなっている。
  5. ^ 『尊卑分脈』『賀茂系図』による。ただし、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、年代が合わないとして小黒麻呂の祖父蝦夷の女に比定している。
  6. ^ 続日本紀』による。

関連項目[編集]