聖武天皇
| 聖武天皇 | |
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| 第45代天皇 | |
『聖武天皇像』(鎌倉時代、作者不詳)
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| 元号 | 神亀 天平 天平感宝 |
| 先代 | 元正天皇 |
| 次代 | 孝謙天皇 |
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| 誕生 | 701年 |
| 崩御 | 756年6月4日 |
| 陵所 | 佐保山南陵 |
| 御名 | 首(おびと) |
| 異称 | 天璽国押開豊桜彦天皇 勝宝感神聖武皇帝 沙弥勝満 |
| 父親 | 文武天皇 |
| 母親 | 藤原宮子 |
| 皇后 | 藤原光明子 |
| 夫人 | 県犬養広刀自 |
| 子女 | 孝謙天皇 基王 安積親王 井上内親王 不破内親王 |
| 皇居 | 平城宮 |
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)[1]、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
目次 |
略歴 [編集]
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったことと皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[2]。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代いずれかまたは両人の血縁の者である。
しかし、天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[3]。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が執り仕切っていた。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる[4])。初の男性の太上天皇となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。戒名は、勝満。
光明皇后の希望もあり、東大寺に聖武遺愛の品が納められた。その一部は正倉院に伝存している。なお、1907〜8年の東大寺大仏殿改修の際に、蓮華座の近辺で見つかっていた二本の太刀が、納められてまもなく(759年12月)に正倉院から持ち出され、正倉院の目録である国家珍宝帳に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが2010年にエックス線調査で判明した[5]。この一組の太刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
系譜 [編集]
- 父:文武天皇(683-707)
- 母:藤原宮子(?-754) - 藤原不比等女(母は賀茂比売)
- 皇后:光明皇后(701-760) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹
- 夫人:県犬養広刀自(?-762) - 県犬養唐女、県犬養三千代のはとこの孫
- 夫人:南殿(?-748) - 藤原武智麻呂女、藤原不比等の孫
- 夫人:橘古那可智(?-759) - 橘佐為女、県犬養三千代の孫
- 夫人:北殿(?-760) - 藤原房前女(母は牟漏女王)、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫
系図 [編集]
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古人大兄皇子 |
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倭姫王 (天智天皇后) |
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(38)天智天皇 (中大兄皇子) |
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(41)持統天皇 (天武天皇后) |
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(43)元明天皇 (草壁皇子妃) |
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間人皇女 (孝徳天皇后) |
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(39)弘文天皇 (大友皇子) |
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葛野王 |
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池辺王 |
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(淡海)三船 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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施基皇子 (春日宮天皇) |
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(49)光仁天皇 |
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(50)桓武天皇 |
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早良親王 (崇道天皇) |
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(40)天武天皇 (大海人皇子) |
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高市皇子 |
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長屋王 |
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桑田王 |
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磯部王 |
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石見王 |
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(高階)峰緒 〔高階氏へ〕 |
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草壁皇子 (岡宮天皇) |
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(44)元正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大津皇子 |
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(42)文武天皇 |
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(45)聖武天皇 |
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(46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 |
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忍壁親王 |
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吉備内親王 |
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井上内親王 (光仁天皇后) |
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長親王 |
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智努王 (文室浄三) |
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大原王 |
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(文室)綿麻呂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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御原王 |
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小倉王 |
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(清原)夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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舎人親王 (崇道尽敬皇帝) |
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(47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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貞代王 |
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(清原)有雄 〔清原氏へ〕 |
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新田部親王 |
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塩焼王 |
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(氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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在位中の元号 [編集]
- 神亀 724年2月4日(3月3日) - 729年8月5日(9月6日)
- 天平 729年8月5日(9月6日) - 749年4月14日(5月8日)
- 天平感宝 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
在位年と西暦との対照表 [編集]
| 聖武天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西暦 | 724年 | 725年 | 726年 | 727年 | 728年 | 729年 | 730年 | 731年 | 732年 | 733年 | 734年 | 735年 | 736年 | 737年 | 738年 | 739年 | 740年 | 741年 | 742年 | 743年 | 744年 | 745年 | 746年 | 747年 | 748年 | 749年 |
| 元号 | 神亀元年 | 神亀2年 | 神亀3年 | 神亀4年 | 神亀5年 | 神亀6年 | 天平元年 | 天平2年 | 天平3年 | 天平4年 | 天平5年 | 天平6年 | 天平7年 | 天平8年 | 天平9年 | 天平10年 | 天平11年 | 天平12年 | 天平13年 | 天平14年 | 天平15年 | 天平16年 | 天平17年 | 天平18年 | 天平19年 | 天平20年 |
| 干支 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 |
陵墓 [編集]
- 陵墓は奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)。
- 光明皇后を佐保山東陵に葬る。
関連事象 [編集]
大仏の建造と焼失 [編集]
大仏および大仏殿を巡って繰り返された建造と焼失の歴史的経緯に関わる主要人物の一覧。
- 聖武天皇 :奈良時代中期、創建。
- 平重衡 :平安時代末期、焼失(cf. 平重衡の兵火による焼失、南都焼討)。
- 俊乗房重源 :平安時代末期、再建。
- 三好三人衆と松永久秀 :室町時代末期、焼失(cf. 松永・三好の兵火による焼失、東大寺大仏殿の戦い)。
- 公慶 :江戸時代前期、再建。
脚注 [編集]
- ^ ユリウス暦での換算日。グレゴリオ暦では6月8日に当たる。なお、宮内庁は2012年9月、1873年の明治の改暦の際に命日の換算を間違え、約140年間に渡り1日前の6月7日に祭祀を行っており、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なるという。[1](2012年9月28日閲覧)
- ^ これより前の皇后は原則的に神又は天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。
- ^ 天平16年2月には恭仁京から難波京への遷都の詔が出されているが、当時天皇は紫香楽宮に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、度重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている。(参照:筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267)
- ^ 公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に行基を師として出家した(『扶桑略記』)とされ、また、閏5月20日に作成された東大寺への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。
- ^ [2]【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について
参考文献 [編集]
- 『聖武天皇御伝』 東大寺編・発行、1956年。
伝記(近年) [編集]
- 森本公誠 『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』 講談社、2010年
- 『中西進著作集25 天智伝/聖武天皇』 四季社、2010年→『聖武天皇』 中公文庫、2011年5月
- 吉川真司 『聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史02)』 講談社、2011年
関連項目 [編集]
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