文室綿麻呂

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文屋綿麻呂・『前賢故実』より

文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ、天平神護元年(765年) - 弘仁14年4月24日823年6月6日))は、平安時代前期の征夷将軍公卿三諸大原の長男。

目次

[編集] 略歴

歴戦の将軍であったことから平城上皇の信任を得ていた。そのため薬子の変では囚われの身となるが、鎮圧軍の坂上田村麻呂の助命嘆願もあり命を救われている。その後、田村麻呂とともに平城上皇の東国での再起計画を阻止した。乱後、参議大蔵卿陸奥出羽按察使に任ぜられ、蝦夷征討の任にあたる。

[編集] 年表

  • 天平神護元年(765年) - 文室真人大原の長男として誕生。
  • 延暦11年(792) - 父大原、三諸朝臣と改姓。
  • 延暦14年(795)2月7日 - 従五位下。
  • 同年7月 - 右大舎人助。
  • 延暦15年(796)10月22日 - 近衛将監。
  • 延暦18年(799) - 近江大掾。
  • 延暦20年(801)正月 - 出羽権守。
  • 同年11月7日 - 正五位下。
  • 延暦22年(803)5月 - 轉少将。
  • 大同4年(809年) - 三山朝臣と改姓、ついで文室真人の姓を賜る。
  • 大同5年(810年) - 薬子の変。平城上皇に従い捕縛され左衛士府に禁固されるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により一命を助けられる。
    • その後、田村麻呂とともに上皇の東国再起計画を阻止する。
    • 参議、大蔵卿、陸奥出羽按察使に任ぜられる(『日本後紀』大同5年9月16日条)。
  • 弘仁2年(811年) - 2月5日、爾薩体(「にさったい」あるいは「にさて」)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申[1]する(『日本後紀』弘仁2年3月20日条)。
    • 征夷将軍[2]に任ぜられる(『日本後紀』弘仁2年4月17日条)。
    • 蝦夷平定のことを報告する(『日本後紀』弘仁2年10月13日条)。
  • 弘仁3年(812年) - 徳丹城を築城。
  • 弘仁4年(813年) - 再度、征夷将軍に任ぜられる(『日本紀略』弘仁4年5月30日条)。
  • 弘仁5年(814)8月 - 兼右衛門督。勲四等。
  • 弘仁6年(815)正月 - 按察使をやめる。
  • 弘仁7年(816年) - 右近衛大将
  • 弘仁8年(817)11月 - 兼兵部卿
  • 弘仁9年(818)6月 - 中納言
  • 弘仁10年(819) - 右大将、兵部卿。
  • 弘仁14年(823)4月24日 - 薨去。59歳。

[編集] 家族・一族

[編集] 系譜

天武天皇 - 長親王 - 文室智努 - 三諸大原 - 文室綿麻呂 - 巻雄 - 茂典 - (以後定かならず)

[編集] 脚注

  1. ^ 他の征東・征夷の将軍は、事件が起こり命令により征討軍を率い、したがってあまり積極的でない将軍もいたが、文室綿麻呂に限っては自ら上申し積極的に蝦夷征討を行った。
  2. ^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目

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