後水尾天皇

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後水尾天皇
第108代天皇
後水尾天皇像(宮内庁書陵部蔵)
元号 慶長
元和
寛永
先代 後陽成天皇
次代 明正天皇

誕生 1596年6月29日
崩御 1680年9月11日
陵所 月輪陵
父親 後陽成天皇
母親 近衛前子
中宮 徳川和子
子女 興子内親王(明正天皇
昭子内親王
高仁親王
若宮
顕子内親王
賀子内親王
菊宮
紹仁親王(後光明天皇
守澄法親王
元昌女王
宗澄女王
桂宮
賀茂宮
文智女王
理昌女王

光子内親王
良仁親王(後西天皇
性真法親王
摩佐宮
理忠女王
八条宮穏仁親王
道寛法親王
尭恕法親王
常子内親王
眞敬法親王
尊證法親王
識仁親王(霊元天皇
永享女王
尊光入道親王
盛胤法親王
文察女王
新宮
性承法親王
皇居 京都御所
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後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日1596年6月29日) - 延宝8年8月19日1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日1611年5月9日) - 寛永6年11月8日1629年12月22日))。政仁(ことひと)。

目次

[編集] 系譜

後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子

[編集] 系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
107 後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108 後水尾天皇
 
近衛信尋
 
高松宮(有栖川宮)好仁親王
 
一条昭良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109 明正天皇
 
110 後光明天皇
 
111 後西天皇
 
112 霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有栖川宮幸仁親王
 
113 東山天皇
 
職仁親王
有栖川宮家へ〕
 
吉子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正仁親王
 
114 中御門天皇
 
閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

[編集] 略歴

後水尾天皇 雅歌 色紙

後陽成天皇はかねてから豊臣秀吉の意向で儲君に立てられた第1皇子・良仁親王(覚深法親王)を廃して、自らの手で次期天皇を決める事を望んでいた。だが、関ヶ原の合戦によって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。

慶長16年(1611年3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、南光坊天海板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。

江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで慶長20年7月17日1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。

寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が発覚すると、徳川秀忠は娘の和子の入内を破談にすると恫喝するが、近臣を処罰するなどの詫びを行い、元和6年(1620年)に徳川和子が女御として入内する。

寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。寛永4年(1627年)に紫衣事件徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同年11月8日、二女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。一説には病気の天皇が治療のためにを据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。

以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍徳川家光上洛をきっかけに認めることになる[1]。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明後西・霊元の3天皇の生母(園光子櫛笥隆子園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任櫛笥隆致園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢[2]とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。

延宝8年(1680年)に85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。なお京都市上京区相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。昭和60年(1985年7月12日までは歴代最長寿の天皇でもあった。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。

日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。

[編集] 諡号・追号・異名

遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして退位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない。遺諡は、鎌倉時代後嵯峨天皇から南北朝室町時代後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。

[編集] 逸話

  • 勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じた。
  • 学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作がある。
  • 女性関係は派手であった。禁中法度を無視し宮中に遊女を招きいれたり、遊郭にまでおしのびで出かけた。退位後にも中宮以外の女性に30余人の子を産ませ56歳で出家した後も治らず、58歳で後の霊元天皇を産ませた。

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。

[編集] 御集

[編集] 史料

[編集] 脚注

  1. ^ 『道房公記』寛永14年12月3日条。
  2. ^ 野村玄は徳川家の当主が秀忠(大御所)から家光(将軍)に代わったことで協調政策に転じるとともに、明正天皇(幼少の女帝)の登場による朝廷内の混乱の責任を後水尾上皇(問題を起こした当事者)に負わせようとしたことを指摘している(野村、2006年、P296-298ほか)。

[編集] 参考文献

[編集] 後水尾天皇を題材とした作品

[編集] 小説

  • 隆慶一郎『花と火の帝』(作者死去のため未完)

[編集] 戯曲

[編集] 後水尾天皇を演じた俳優

[編集] 関連項目


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