蹴鞠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
談山神社のけまり祭

蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは、平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製のを一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技である。

歴史[編集]

中国[編集]

中国の蹴鞠(しゅくきく、拼音: cùjúIPA: [tsʰuː˥˩ tɕy˧˥])の歴史は紀元前300年以上前の戦国時代)での軍事訓練にさかのぼるとされ、代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。水滸伝で有名な高俅は蹴鞠の才によって出世した。またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧にも伝来したと言われている。

その後、初期には貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、蹴鞠の禁止令が出され、蹴鞠は女性の遊戯となった。さらににおける禁止令で中国からはほぼ完全に姿を消した。

太監(宦官)の蹴鞠を見物する永楽帝
中国の明代の杜堇による絵画、『仕女図・蹴鞠』より

日本[編集]

蹴鞠は600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで645年大化の改新が興ったことは広く知られている。ただし、「鞠を打つ」=蹴鞠と解釈されたのは、『今昔物語集』・『蹴鞠口伝集』などの後世の著作であり、「鞠を打つ」=打鞠(打毬)すなわち今日のポロのような競技であった可能性も否定出来ない。『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の56年後にあたる文武天皇大宝元年5月5日701年6月15日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する。

蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出した(下記蹴鞠の達人の章にて紹介)。平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、延喜年間以後急激にその記録が増加することになる。貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書『枕草子』のなかで「蹴鞠は上品ではないが面白い」と謳っているほどであった。

蹴鞠は貴族だけに止まらず、天皇公家将軍武士神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。特に後白河院に仕えた藤原頼輔の名声は高く、子孫がこれを良く伝えたために難波飛鳥井両家は蹴鞠の家として知られるようになった。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった。

室町時代には、足利義満義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあり、武家のたしなみとして蹴鞠が行われていた。土佐の戦国大名・長宗我部元親が天正2年(1574年)に定めた「天正式目」では、武士がたしなむべき技芸として、和歌や茶の湯、舞や笛などとともに蹴鞠が挙げられている。島津家家臣の上井覚兼が天正年間に記した日記『上井覚兼日記』には島津家で盛んに蹴鞠が行われていることが描かれており[1]、上井覚兼自身も蹴鞠の上手であった。

しかし室町時代の末期に織田信長相撲を奨励したことで、蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。しかし蹴鞠の文化が消失した中国とは異なり、現代でも伝統行事として各地で蹴鞠が行われている。

ルール[編集]

Kemari Matsuri at Tanzan Shrine 2.jpg

蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。1チーム4人、6人または8人で構成され、その中で径7~8寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった。

その場所には砂を敷き、四隅、艮にサクラ、巽にヤナギ、坤にカエデ、乾にマツを植える。周囲の鞠垣は本式では7間半四方、広狭で3間四方までにする。東に堂上(どうじょう)の入り口、南に地下(じげ)の入り口、西に掃除口がある。懸の樹木はウメ、ツバキなど季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣との間を野という。禁裏、仙洞、皇族、将軍家ならびに家元はマツばかり4本、また臨時には枝またはタケを用い、切立(きりたち)という。

開始には、まず下﨟の者が第四の樹の下からななめに進み、中央から3歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く。

一座の中に師範家がいると第一の上座、すなわち一の座、または軒というのを、その人に譲り、第二、第三と身分に従って懸にはいり、樹の下に立つ。ただし高貴な人がいると軒を譲り、師範家は第二となる。禁裏、仙洞などで御前ならばみなが蹲踞し、他の家ならば堂上は立ち、地下は蹲踞する。人数がそろったら第一から立ち、立ちおわると、第八の者が進み、中央に置かれた鞠から3歩ほど手前で蹲い、蹲いながら進み、右手拇指と人差指とで執皮を摘み、鞠を右に向け、左手を添え、腰皮を横に、ふくろを上下にし、蹲ったまま3歩退いて立つ。第七の者が進み出て、中央から3歩ほどの所に立って第八に向かうと、第八から第七に鞠を蹴渡す。第七から第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と一巡、蹴渡しおわると、第八からまた第一すなわち軒に渡す。軒は受けて上鞠(あげまり)といって高く蹴る。それから随意に蹴る。1人3足が普通で、1は受け鞠、2は自分の鞠、3は渡す鞠である。8人立ちのときは、八境といって中央から8個に区分し、1区を1人の区域とし、その域外に蹴出すとその区域の者が受けて蹴る。

用語[編集]

懸 
蹴鞠を行う競技場
元木 
懸の四方に植えられた(東南)、(東北)、(西北)、(西南)などの植木。高さは一丈五尺以下で、鞠を蹴り上げる為の基準となった。「きりたて」ともいう。
鞠足 
蹴鞠を行うプレイヤー。名プレイヤーを名足、下手な人を非足と呼んだ。
野伏 
外に出た鞠を中へ蹴り返す補助役。
見証 
審判。
上鞠 
サッカーでいえばキックオフのこと。基本的に上鞠を行うことは非常に名誉なことであった。
請鞠 
日暮や天候変化などにより、やむなく試合を中断すること。

[編集]

蹴鞠の鞠は革製で、中空である。シカの滑革(ぬめかわ)2枚をつなぎあわせ、そのかさなる部分を、腰革、また「くくり」という。また取革といって、べつに紫革の細いのをさしとおす。

種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。燻鞠は燻革で製したもの。唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという。

『今川大草紙』によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」という。

革の縫いかた、取革については、『遊庭秘抄』に、

「洛中に、河原院、又あまべとて、此の二ヶ条ならでは鞠くくりなし。河原院のまり、いかにもまさり、かた穴二つある鞠也。あまべの鞠は、かた穴二つある鞠也。縫ふ様は、針目も、又革も、五見え侍る様に、縫ふべし。或は七にも縫ふ也。韈の革の同色ならん革を、二分計に細く切つて、強くのして、かた穴の頭に穴をあけて、穴の中より革を引出して(革の先を結ぶべし)、かた穴の左の方に穴二つ、右の方に穴二をあけて、穴より入て小穴より出引て、はこの方を結で、かた穴の中(ままこひたひのそばなり)へさし入べし(両方如此)、取革といふ五分許の革を取、革の座敷に入とをして、両方の革のはたに穴をあけて、一方をさし入侍れば、革かいさまになるを、続飯にてつけて、さきをそとば頭に切也。取革付けぬ鞠は、今に忌中の鞠に取革付侍ぬ也。可其意」(は、返り点。)

という。

蹴鞠の達人[編集]

白峯神宮の鞠庭

各時代において多数の名足を生み出したが、平安後期の藤原成通は特に希代の名人と言われ、後世の蹴鞠書でも「蹴聖」と呼ばれている。

成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に3匹のの姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。この3匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津平野神社京都市白峯神宮内に祭られている。また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている。

蹴鞠を家業とする家[編集]

公家の流派のうち難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーを中心とした球技・スポーツの神とされている。毎年4月14日と7月7日には蹴鞠奉納が行われる。

下鴨神社では現在でも毎年1月4日に「蹴鞠はじめ」が行われている。日本サッカー協会シンボルマークのモチーフでもある「八咫烏」は下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」の化身とされる。

蹴鞠を得意とする人々[編集]

フィクションの中の蹴鞠[編集]

参考文献[編集]

  • 永井久美子「後白河院政期における蹴鞠-院近臣との関係を中心に-」(所収:義江彰夫 編『古代中世の史料と文学』(吉川弘文館、2005年) ISBN 978-4-642-02444-0

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]