天皇

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天皇(てんのう、: Emperor of Japan, the Emperor)は、歴史的には日本君主であり、第二次世界大戦が終結するまでの大日本帝国憲法においては日本の皇帝(神聖にして侵すべからざる統治権総攬者)であった、現在施行されている日本国憲法においては日本の象徴及び日本国民統合の象徴と定められている[1]。現在の在位者(今上天皇)は明仁

称号[編集]

十六弁八重表菊紋。天皇および皇族の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

称号の由来と歴史[編集]

戦前は「天皇」号が成立したのは記紀に記されている通りに初代天皇の神武天皇の時であった、しかし戦後になると連合国側が強く推した津田左右吉などにより記紀そのものが否定され「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。戦前は『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われた神武天皇が初代天皇であった。それが戦後になるとすべて否定されて教科書からその名前は一斉に削除された。ちなみに日本では神武天皇即位紀元が存在して戦前は公式の文書では皇紀と西暦を使う事が多かった。神武天皇即位紀元の元年は、キリスト紀元(西暦)前660年である。神武天皇の初代天皇説を否定して欠史十三代を主張し始めたのは津田左右吉であったが当時は強く否定されていた。 1942年(昭和17年)5月に裁判では敗北したが、 1945年の戦後にGHQの指導の下で、教科書から強制的に神武天皇から神功皇后の存在が削除されると同時に欠史十三代が日本の歴史の主流となった。また戦前に全く認められなかった津田左右吉が唱えた推古天皇期という説が戦後には連合国の方針により認められるようになった。13世紀以降、「天皇」号の使用は一時廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。

字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が中世までに連声により「てんのう」に変化したとされる。天皇号が成立する以前の君主号は、倭国王だったと考えられている。

「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。

  • 古代中国北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。
  • 高宗は道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
  • 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。
「天皇」の語と関連した語がある古い記録
文書・銘 年代 抜粋 出典 現代の評価
遣隋使国書 607年 日出處天子致書日沒處天子無恙 隋書(636年成立)
法隆寺金堂
薬師如来像光背銘
607年 池辺大宮治天下天皇 実際には607年成立ではなく少し後の白鳳時代の作と考えられている。
隋への国書 608年 天皇敬白西皇帝 日本書紀(720年成立) 日本書紀以外に記録がない。
法興寺丈六
釈迦像光背銘
609年 多知波奈土與比天皇 元興寺伽藍縁起
並流記資財帳

(746年成立)
現物が失われている。
天皇記 620年 (書物の題名自体に「天皇」を含む) 日本書紀 現物がない。日本書紀以外に記録がない。
天寿国繍帳 7世紀 斯帰斯麻宮治天下天皇
悲哀嘆息白畏天皇前日啓
上宮聖徳法王帝説
(成立年不明)
天寿国繍帳は破損がひどく抜粋部分の「皇前日啓」などがかろうじて現存。
全文は法王帝説に転記されている。
7世紀より細かい成立年代に論争があり確定できない。
木簡 677年 天皇聚露忽謹 飛鳥池遺跡出土 「天皇」と書かれたもっとも古い文字資料である。

日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。

漢字文化圏で天皇の称号が付せられた人物[編集]

  • の第三代皇帝高宗は、崩御後、皇后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
  • 日本の第四十代天武天皇は、日本で始めて天皇と称された人物。大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
  • 南漢の初代皇帝劉龑は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。

古代[編集]

倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[2]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[3]

律令制での称号[編集]

天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、養老令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷においては(対外的には)「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。

死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「」。臣下からは「至尊」とも称された。

奈良時代天平宝字6年に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

中世[編集]

順徳天皇(在位1210年-1221年)以来、光格天皇(在位1791年-1817年)で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[4]

在位中の天皇は、帝、御門(みかど)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)、禁中(きんちゅう)、御所(ごしょ)などと呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏・御所は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。

また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらき、などとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。

今上天皇は「当今の帝」(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

明治以降[編集]

大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という御璽が捺印されている(御名御璽)。

大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。

韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。

口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

また、天皇は陸海軍大日本帝国陸軍大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道するマスメディア等において用いられた。

現在[編集]

一部の出版物においては、平成22年(2010年現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。

憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書勲記褒状などの文書においては「日本国天皇」の称号が用いられることもある[5]

日本国外での天皇の呼称[編集]

英語における呼称[編集]

天皇は、英語においては、通常、皇帝を意味する「(the) Emperor」と呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家元首及びそれに類似する地位にある者でEmperor号を対外的に使用するのは、天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は「His Majesty」または「His Imperial Majesty」である。略して「H.M.」または「H.I.M.」と記す場合もある。天皇は男性であるため、「Her Majesty」は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。

天皇皇后両陛下という場合は、「Their (Imperial) Majesties Emperor and Empress」となる。天皇に対する呼びかけは一般的に「Your (Imperial) Majesty」である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は「His/Her Imperial Highness」であるが、この場合は「Imperial」を省略できない。

歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味で「Tenno」や「Mikado」と呼ぶこともままある。前近代においては、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍日本国大君)の方が西洋の「Emperor」の概念に近いのではないかという議論もある。この議論の枠組みでは、天皇は欧州におけるローマ教皇に相当する宗教的権威者と考えられる。なお、江戸時代の日本においても、天皇は神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎず、征夷大将軍こそが日本の皇帝であるとする解釈が一部の儒学者によって一時期まで唱えられていた[要出典]

天皇の諡号については、「○○天皇」を「Emperor ○○」のように訳すが、明治天皇以降については「○○ Emperor」と訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなくを用いた呼び方(「Emperor Hirohito」(裕仁帝)や「Emperor Akihito」(明仁帝))が用いられることが多い。

朝鮮半島における呼称[編集]

朝鮮半島の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため日本の天皇が「皇」や「帝」、「天子」などを称することを認めず、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。

近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、朝鮮国王は自らを「大韓帝国皇帝」と称することで、初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。

朝鮮半島独立後は、「日本国王」(「日王」)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号も一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。

大統領在任当時、金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[6]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[6]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[6][7]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[6]

大統領李明博2009年9月15日インタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いており、このことが韓国内でニュースとなった[8]。ただし、2012年8月10日の島根県竹島への不法上陸後の天皇陛下に対する発言では「日王」と呼んでいる。ニュースでは、漢字使用国家である中国台湾も「天皇」を使っていることを伝えた。

中国における呼称[編集]

古代から近代にかけて、中国は中華思想によって、自国の皇帝と同格の存在を認めようとしなかった。そのため、長らく天皇ではなく、日本国王の呼称を用いた。

現代の中国人の間では、天皇、日本国王、日王、日皇などの呼称が混在している。中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの「陛下」の敬称付で呼ばれるのが通常である[9]

天皇の配偶者の称号と通称[編集]

日本では、一般に近現代までは貴人が正室以外の側室をもつことの方が当然と考えられていた。したがって天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后中宮)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になり、さらに正規の称号を名乗る配偶者の地位自体が自然消滅すると、通称がこれにとって替わるようになることが増えた。 最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降皇室でも一夫一妻制が定着した。

なお、史上10代8名いた女帝には、いずれも皇位にある間は正式な配偶者がいなかったこともあり、日本では独自に皇配の称号を定めたり通称が生じたりすることはなかった。

姓氏[編集]

天皇は氏姓および名字を持たないとされる。

皇位継承[編集]

昭和3年(1928年)11月、即位の礼昭和天皇

明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照

皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承・帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されている。

日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。(皇室典範第一条)」とある。

憲法の規定[編集]

日本国憲法大日本帝国憲法における天皇の規定について説明する。

日本国憲法における天皇[編集]

現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられる。憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。

大日本帝国憲法における天皇[編集]

大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあったが、実際上の天皇の政治的指導権は、帝国憲法の母法国であるベルギーやドイツの君主よりも弱かった。

天皇の歴史[編集]

現在の歴史学においては天皇の発祥時期について明確な結論が出されていないが、少なくとも6世紀前半に即位した継体天皇以降、今上天皇に至るまでの皇室系譜は信憑性が高いため、現存する世界の王朝の中で日本の皇室が最長の歴史を有していることは確実視される[10]

天皇は日本の歴史において君主として重要な権威を有してきたが、実質的な統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べると短く、ほとんどが天皇以外の貴族武家官僚などによって行使されていた。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。

しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位に就いていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の棟梁である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。

時にとりわけ大きな力を持った権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。

神代と天皇の発祥[編集]

皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に欠史八代の天皇については、古代中国革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄である。

3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。

古代の天皇[編集]

倭の五王[編集]

より印綬されたとされる倭奴国王印

中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代劉宋王朝に朝貢した「」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等に比定する説や仁徳天皇履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。

これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県埼玉県古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風号とする)、「治天下大王」または「大王」(おおきみ)が用いられていたと考えられている。

『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[11]が引用されている。

「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。

わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。

ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。

わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。

もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」[12]

この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。

また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。

しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。

以降[編集]

不安定な基盤に乗っていた王統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。

この時期、煬帝に対して「天子」と自称した[13]と『隋書』に見える。

大化の改新から摂関政治まで[編集]

天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国()の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。

律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。

しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。

摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。

これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。

院政期[編集]

平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条天皇は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。

後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、天皇家という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く人口に膾炙する。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、国王としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。

院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。

鎌倉・室町時代[編集]

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。

しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。

鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝南朝を吸収することで収拾された。なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。

また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞しており、真相は定かではない。

戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名織田政権豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。

江戸時代[編集]

江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。

しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。

江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末尊皇攘夷運動へと繋がった。

明治維新[編集]

幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。

このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見官軍と衝突し、内戦となった。

その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。

この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。

これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。

なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制について、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられているが、この言葉はコミンテルンが最初に使い始めた用語であるとして忌避される事がある。従来は国体と称された。

明治以降[編集]

明治天皇

1898年(明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。

その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。

その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制自由主義的に解釈する吉野作造民本主義なども現れた。

しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。

世界恐慌の後、五・一五事件二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。

この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは太平洋戦争大東亜戦争)時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。

第二次世界大戦終結後[編集]

昭和天皇の退位と天皇制廃止論[編集]

昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(昭和20年(1945年9月27日)。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。

第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では天皇を、枢軸国国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても君主制を存続させたが、国家元首としての地位は日本国憲法に明記させていない。

これと似たような例があり、ベルギーの場合レオポルド3世は対独戦での敗戦の責任を追及されて国王支持派と反国王派に分かれたため、国家の分裂を避けて君主制を維持するためボードゥアン1世に王位を継承した。しかし日本の皇室との最大の違いは在命中に退位した事である。

昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書を策定した。また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と高松宮を摂政として皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王、要人では近衛文麿木戸幸一南原繁佐々木惣一中曽根康弘が唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂[14]ダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。 天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた[15]

天皇退位論への反応は天皇制存続支持:90.3% 、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇制廃止:4.0%であった[16]

この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。なお、この時は複数の写真が撮影されており、中には天皇がソファに深く腰を下ろしてくつろいでいる姿もあったが、GHQは意図的に、天皇の権威を最も失墜させる写真を選択した。

「人間宣言」[編集]

1946年(昭和21年)1月1日新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており[17][18]1977年(昭和52年)8月23日昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった[17][19][20]。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけあり天皇の神話そのものは否定していない[17]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善されたが、日本人にとっては当たり前のことを述べたものであり、この詔書が日本でセンセーションを巻き起こすことはなかった[17]1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった[17]

巡幸[編集]

昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われた上、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下に置かれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れている(昭和天皇#行幸に詳しい)。

日本国憲法下の天皇の法的地位[編集]

象徴天皇制も参照。

国籍[編集]

日本国には、次の通り、天皇の国籍を明記した憲法も法律もない。

日本国憲法第十条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあり、それを、国籍法第一条で「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」と受けている。その法律に、天皇が日本国籍を有する要件であるところの日本国民であるという記載は無い。また、日本国の国籍法第四条では、同法に従って日本国籍を取得している日本国民に対して、日本国民でない者(以下「外国人」)と定めている。

一方、研究者による憲法論においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[21]。また、記帳所事件の東京高等裁判所の1989年7月19日の判決の判決理由において「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」としている。

天皇に対する裁判権[編集]

刑事裁判権については、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定することから、いわゆる勿論解釈として、天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。

民事裁判権については、最判平成元年11月20日民集43巻10号1167頁[22]が、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである」としている。

天皇と宗教[編集]

神道との関係[編集]

神道は日本古来の宗教である。古代の日本は祭政一致であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。仏教が伝来した後の用明天皇は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は天武天皇大宝律令などで定められてゆき、奈良時代から平安時代にかけて、天皇は新嘗祭などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る伊勢神宮斎宮を遣わし、延喜式に定められた神社などに奉幣を供えた。鎌倉時代順徳天皇は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、戦国時代後柏原天皇などは大嘗祭を執り行えなかった。江戸時代江戸幕府の援助により日光東照宮への奉幣なども行われた。明治時代になると、神道は国家神道となり、神武天皇を祭る橿原神宮桓武天皇を祭る平安神宮明治天皇を祭る明治神宮などが創建され、戦前戦中の昭和天皇現人神として崇拝された。戦後は政教分離となり国家神道は廃止され、昭和天皇は人間宣言により自らの神格化を否定した。現在は宮中祭祀として新嘗祭などが執り行われ、皇女が伊勢神宮の祭主となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている。

仏教との関係[編集]

日本書紀』によると552年百済聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺法隆寺が建立され儒教仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。

また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇大官大寺持統天皇薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。

平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海最澄を遣唐使とともにに送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。

その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により廃仏毀釈が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。

天皇と世界各国[編集]

天皇皇后と米国のブッシュ大統領夫妻(2002年)
1922年(大正11年)、英国のエドワード王太子の訪日時、摂政裕仁親王皇太子妃節子とともに

1945年(昭和20年)以前は、交通の不便さもあり、日本を訪問した国家元首はあまりいない。有名なのは、1881年(明治14年)、アメリカ合衆国領となる前のハワイ王国国王カラカウア、および1935年(昭和10年)満州国皇帝康徳帝である。朝鮮王公族である李垠が日本で教育を受け、中将となっているが、当時既に朝鮮は独立国ではない。ただし、ロシア帝国の皇太子ニコライ2世ギリシア王国の王子ゲオルギオスオーストリア=ハンガリー帝国フランツ・フェルディナント皇太子など、元首に準ずる格の人物は何人か来日している。

第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世1957年(昭和32年)にインドジャワハルラール・ネルー首相、1958年(昭和33年)にインドネシアスカルノ大統領、1960年(昭和35年)にアデナウアー西独首相の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[23]

昭和天皇大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れるなど弔問外交の場にもなった。インドは3日間、ブータンでは1か月間に服した(日本は2日間)。また、今上天皇即位の礼の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。

昭和天皇は敗戦時に連合国のソビエト連邦中華民国(当時)、イギリスオーストラリアの一部からは戦犯として裁くべきだと言われたものの、マッカーサーにより訴追を逃れた。後に1974年のフォード米大統領の来日を受け、翌1975年にアメリカを訪問している。一方、第二次世界大戦で敵対関係だったイギリスオランダ中華人民共和国や日本の支配下であった大韓民国などの一部からは憎悪の対象となった。例えば、天皇に激しい憎しみを持つ退役軍人は抗議として、天皇が訪英中エリザベス2世と馬車に乗っている時にブーイングが湧き上げ、オランダでは卵や火炎瓶等を投げつける程であった。また沖縄返還の3年後には左翼の過激派によって、皇太子だった明仁親王が襲われて火炎瓶を投げつけられるひめゆりの塔事件が起きた。

しかし、大戦中に小学生であった今上天皇はそのような憎悪の対象になることは少なく、国際的にも敬意を払われており、天皇が日本国外に訪問する際も激しい抗議が起こることはない。また、天安門事件の時に中華人民共和国が欧米諸国の経済制裁で孤立化した際、天皇の訪中を行うことによって中国を国際社会から孤立させないよう格別な配慮を中国に供与するなどの外交策がとられたこともある。

天皇と課題[編集]

皇位継承権論争[編集]

1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生まで約40年間、男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。

国体論争[編集]

大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬(そうらん)者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に尾高・宮沢論争佐々木・和辻論争が有名。

国家元首に関する規定[編集]

かつて大日本帝国憲法では天皇を元首と規定していたが、日本国憲法及びその他日本の法律には元首に関する規定が無く、日本国において元首が何であるかについては議論がある。日本政府の公式見解では「天皇は限定された意味における元首である」とし、外国でも天皇は国家元首待遇をされているが、国政に関する権能を有しないことなどから、天皇を元首ではないとする学説もある。

これに対して、自民党憲法改正試案[24]、民主党小沢氏憲法改正試案[25]、民主党鳩山氏憲法改正試案[26]、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇と規定するよう主張している。衆議院憲法調査会や参議院憲法調査会では、天皇の地位に関して現在も議論中であり結論は出ていない。読売新聞渡辺恒雄)憲法改正試案[27]では天皇に関する規定は現状維持としている[28]

脚注[編集]

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  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)1952頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年) 1758頁参照。
  2. ^ 始皇帝以来使用された「皇帝」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる(『日本人の歴史教科書』、2009年、自由社、37頁、ISBN 978-4915237508
  3. ^ 『岩波 古語辞典』は、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット 'sume:ru' (“須弥山”)と音韻・意味が一致し、モンゴル語 'sümer' (“須弥山”)と同源であろうとしている。しかし、「須賣彌麻すめみま」・「須賣加未すめかみ」(皇神)の例から、日本語「すめら」の語構成は「すめ‐ら」と見られ、他方サンスクリット 'sume:ru' は、'me:ru' (空想上の山の名)に“すぐれた”の意の接頭語 'su-' が付いたものである。モンゴル語 'sümer' は、サンスクリット 'sume:ru' から、仏教の伝来とともにウイグル語を経由して13世紀以後に借用された語である。
  4. ^ 渡辺浩、7-8頁。
  5. ^ “米国ハリケーン「カトリーナ」被災者救援について日本国天皇より表彰されました” (プレスリリース), 住友建機, (2007年4月23日), http://www.sumitomokenki.co.jp/news/070423.html 2011年5月5日閲覧。 
  6. ^ a b c d 盧在賢 (2009年9月18日). “【コラム】「日王」と「天皇」の間”. 中央日報. http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100&sectcode=140 2009年12月13日閲覧。 
  7. ^ “「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる”. 東亜日報. (2009年9月17日). http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948 2009年12月13日閲覧。 
  8. ^ 이 대통령, 일본 천황 표현 논란(李大統領、日本天皇表現論議)” (朝鮮語). 朝鮮日報. http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022 2009年12月13日閲覧。  自動翻訳
  9. ^ 中華人民共和国外交部 (2008年7月9日). “胡锦涛主席会见日本首相福田康夫” (中国語). 2009年12月13日閲覧。
  10. ^ 現に現存する最古の王朝としてギネスブックに認定されている。
  11. ^ 「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節」
  12. ^ 井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』 中央公論新社2005年ISBN 978-4122045477
  13. ^ 「日出處天子致書日没處天子無恙云云」 -- 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
  14. ^ 『自省録・歴史法廷の被告として』によると中曽根康弘が天皇退位を述べると吉田は「昭和天皇はこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」と反発した。
  15. ^ 工藤美代子「マッカーサーが阻止した天皇『退位』工作」「産経新聞1988年6月4日付。
  16. ^ 世論調査:(1948年8月15日読売新聞
  17. ^ a b c d e ベン=アミー・シロニー、312-314頁(第8章『謎多き武人天皇』、21『天照の末裔と神の子イエス』、「神道指令」と「人間宣言」)
  18. ^ Amino, Y.; Yamaguchi, M. (1999). “The Japanese Monarchy and Women”. JAPAN ECHO - JAPAN'S CRISIS 26 (1): p.57. http://www.japanecho.co.jp/sum/1999/b2601.html. 
  19. ^ 甘露寺受長. Hirohito: An Intimate Portrait of the Japanese Emperor (1st ed.). Harpercollins. pp. p.108. ISBN 978-0914594048. 
  20. ^ 甘露寺受長、207頁
  21. ^ 憲法(1) 第3版(有斐閣)野中俊彦 中村睦男 高橋和之 高見勝利 216頁 / 憲法 新版補訂版(岩波書店)芦部信喜 86頁 / 憲法学(2)人権総論(有斐閣)芦部信喜 106頁 115頁 / 憲法 第3版(弘文堂)伊藤正己 199頁 / 憲法 第3版(青林書院)佐藤幸治 415頁 / 体系・戸籍用語辞典(日本加除出版)114頁
  22. ^ 裁判所|最高裁判所判例集
  23. ^ 以上は、ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』378頁(第9章「母性的君主への回帰」、22「性と死―天皇への愛憎」、「日本は君主制の国か」)より。
  24. ^ 自由民主党 (2005年10月28日). “新憲法草案 (PDF)”. 2009年12月13日閲覧。
  25. ^ 小沢一郎日本国憲法改正試案」、『文藝春秋1999年9月2009年12月13日閲覧。
  26. ^ 鳩山由紀夫 『新憲法試案 尊厳ある日本を創る』 PHP研究所、2005年ISBN 978-4569641409
  27. ^ 読売新聞社憲法改正 読売試案2004年中央公論新社2004年ISBN 978-4120035500
  28. ^ 政治議会課憲法室(諸橋邦彦) (2005). “主な日本国憲法改正試案及び提言”. 調査と情報 (国立国会図書館) 264. http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0474.pdf. 

参照文献[編集]

関連項目[編集]


外部リンク[編集]