天皇

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天皇(てんのう)は、世襲により継承される、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴であり(日本国憲法第1条第2条)、歴史的には、古代から世襲により受け継がれた日本君主である。平成元年(1989年)から平成21年(2009年)現在まで、第125代今上天皇が在位。また事実上、神道の最高権威者。

本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。

目次

[編集] 称号

十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

[編集] 「天皇」の由来

「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。

  • 古代中国北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。
  • 高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。
  • 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。

はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。

[編集] 称号の歴史

近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。

国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。

[編集] 古代

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[1]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[2]

[編集] 律令制での称号

天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。

死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。

なお、奈良時代天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

[編集] 中世

平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。

また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみことすめろぎすべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。

今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇上皇と略称され、仙洞などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

[編集] 明治以降

大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名と共に、「天皇御璽」という御名御璽が見える。

大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。

そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

[編集] 現在

なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことはまれになっている。

一部の出版物においては、今上天皇に対して、敬称を用いない三人称に「○○(元号)天皇」(例:「平成天皇」)という称号を用いる事例が散見される。しかし、「○○(元号)天皇」はその天皇の崩御後に贈られる諡号になると想定されているため、厳密にはこのような用法は誤りである。

[編集] 諸言語における呼称

[編集] 英語における呼称

天皇は、英語においては、通常、(the )Emperorと呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家の元首(ないしそれに類似する地位)にある者で皇帝(Emperor)号を対外的に使用するのは、天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は His Majesty 又はHis Imperial Majestyであり、また略してH.M.又はH.I.M. と記す場合もある。天皇は男性であるため、Her Majesty は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M. である。

天皇皇后両陛下という場合は、Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress となる。天皇に対する呼びかけは一般的に Your [Imperial] Majesty である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、His/Her Imperial Highness であるが、この場合はImperial は省略できない。

歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。

天皇の諡号については、「○○天皇」をEmperor ○○のように訳すが、明治天皇以降については○○ Emperorと訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなく(裕仁や明仁)で呼ばれることが多い。

[編集] 朝鮮半島における天皇の呼称

日朝関係史」、「皇帝」、および「日本国王」も参照

朝鮮歴代王朝は長く中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため日本の皇室の皇や帝を称することを認めず「倭国王」「日本国王」等の称号を用いた。

近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、近代的国際社会の一員となった事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。

朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。韓国の「小中華主義」、反日思想などが原因とされる。

最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。

ちなみに、韓国語版Wikipedia「日本天皇」の冒頭には、北朝鮮と韓国が日本の王という意味で「日王」と呼ぶこともあることが記されている。

[編集] 天皇の配偶者の称号

明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。また、天皇・皇族の配偶者は婚姻によって皇族身分を獲得することは無かった(当然のことながら、内親王・女王身分の配偶者は婚姻後も引き続きその地位を保持することになる)。

明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。また、皇室典範によって天皇・皇族の配偶者が皇族身分を獲得することになった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。

[編集] 皇室の姓氏

天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。このことは、古代より現在に至るまで、王朝が変わったことはないとの建前が採られていたことによる。

しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前身)は、姓を有していたとする説もある。5世紀倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[3]

また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[4]。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[5]

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[6]

[編集] 天皇の皇位継承

昭和3年(1928年)11月、即位の礼の昭和天皇

詳細は「皇位継承」を参照

明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照

皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承・帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。

日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。(皇室典範第一条)」とある。

[編集] 憲法の規定

日本国憲法大日本帝国憲法における天皇の規定について説明する。

[編集] 日本国憲法における天皇

詳細は「象徴天皇制」を参照

現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられる。憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。日本国憲法には元首の規定がなく、天皇の地位について議論がなされているが、国際的な儀礼上では元首と同様に扱われる。

[編集] 大日本帝国憲法における天皇

詳細は「天皇制」、「天皇機関説」をそれぞれ参照

大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあったが、実際上の天皇の政治的指導権は、帝国憲法の母法国であるベルギーやドイツの君主よりも劣弱であった。

[編集] 神道と仏教と天皇

明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は国家神道国体を参照。

天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。日本神話では神々に認められた地上の支配者とされており、そのため神道における最高権威者としての側面もある。ただ現在は、立憲君主制のように、歴史的背景からその権力は失われている。

また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、明治4年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事は仏式で行われていた。維新以後は一千年続いた仏式の行事はすべて停止され、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめられ、天皇家とは縁切りということになり、仏教とは疎遠となった。

[編集] 天皇の歴史

天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べると極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族武家官僚などによって統治権は行使されている。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。

しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。

ただし、外交において有事が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である(元寇黒船来航等)。時にとりわけ大きな力をもった権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。

[編集] 神代と天皇の発祥

皇室の系図は、『古事記』・『日本書紀』を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、さらにはその始祖である天照大御神に始まるとされている。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話伝説などを多く含んでいる。

そのため、皇室の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることも多い。 特に欠史八代の天皇については、古代中国革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増したのではないかと指摘する否定説が戦後学会では主流である。一方で実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。

3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。

[編集] 古代の天皇

[編集] 倭の五王

より印綬されたとされる倭奴国王印

詳細は「倭の五王」を参照

中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代劉宋王朝に朝貢した「」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を仁徳天皇履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。

これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県埼玉県古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風号とする)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたと考えられている。

『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[7]が引用されている。

「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」[8]

この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。

また、仁賢の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。

しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に「万世一系」史観の立場で編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。

[編集] 以降

不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。

また、この時期、煬帝に対して「天子」と自称した[9]と『隋書』に見える。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。

[編集] 大化の改新から摂関政治まで

大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国()の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。

特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。その治世において初めて天皇が現人神とみなされるようになり、また、この時期より天皇の称号が使用され始めたとする説もある。なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。

律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。

しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。

摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。このころ、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した国司を追放し、関東7ヶ国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。

これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3ヶ月で将門が戦死して新政権は崩壊した。

[編集] 院政期

平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。

後三条の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王更と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、今上天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人としてふるまった摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の変の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、ときには幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い、朝廷も政府としての機能を失い、天皇を中心とする貴族たち(公家)の利益共同体に転落する。

[編集] 鎌倉・室町時代

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。

しかし承久の変(承久3年、1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した。

鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝南朝を吸収することで収拾された。

この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持がこれを固辞している。しかしこれは、義満が義持より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためともいわれているので、その真相については未だ定かではない。

戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったが、有力戦国大名織田政権豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。

[編集] 江戸時代

江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。庶民の尊敬の対象は大名征夷大将軍(上様、将軍様)に向けられ、天皇や公家は庶民とは間接的に縁のある存在(天子様)として敬意が払われる程度であったとも考えられている。

しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。

江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。

[編集] 明治維新

幕藩体制が揺ぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。

このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。

その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。

この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。

これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。こうした体制は、国民から隔絶した絶対的な権力を有する天皇制絶対主義であると規定する学者も少なくない。

なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制について、一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられるが、コミンテルンが最初に使い始めた用語であるとしてこれを忌避する人もいる。従来は国体と称された。

[編集] 明治以降

明治天皇

明治31年(1898年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。

その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。

その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。

その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制自由主義的に解釈する吉野作造民本主義なども現れた。

しかし、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。昭和10年(1935年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。

世界恐慌の後、五・一五事件二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を大きく利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。

この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた(皇国史観を参照)。

この時代には、ドイツナチス政権やイタリア戦闘者ファッショ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、この時期の日本の君主制は天皇制ファシズムとも呼ばれている。

[編集] 第二次世界大戦終結後

[編集] 昭和天皇の退位と天皇制廃止論

昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年9月27日)。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。

第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、軍国主義の一因として天皇を処罰し、君主制を廃止すべきだという意見が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤として君主制は存続させた。

昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。他にも、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見も、南原繁佐々木惣一中曽根康弘らが唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。

この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。なお、この時は複数の写真が撮影されており、中には天皇がソファに深く腰を下ろしてくつろいでいる姿もあったが、GHQは意図的に、天皇の権威を最も失墜させる写真を選択した。

[編集] 人間宣言

昭和21年(1946年)1月1日、新日本建設に関する詔書人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[10][11]。昭和52年(1977年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[10][12][13]。この詔書は人間宣言と呼ばれている[14]。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない[14]。その数行も、何かを放棄したりしてはおらず、事実確認を行う内容である[14]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象もよくなった[14]。しかし、日本人にとってあたりまえのことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった[14]。昭和21年(1946年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道された[15]。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、人間宣言にはほとんど触れていない[15]。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである[15]

[編集] 巡幸

昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われたうえ、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下に置かれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、昭和22年(1947年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている(昭和天皇#行幸に詳しい)。

[編集] 天皇の国籍

天皇には国民の権利・義務の規定は適用されず、天皇は国民でないという論が見られる。イギリスなどの実際に王族や貴族制の存在している国では貴族はあくまでも平民と別の権限を有する国家の一員として法的な地位が確定しているためこのような議論は見られない。日本では天皇・皇族戸籍法の適用を受けないため、その名前と身分は「皇統譜」に記載されている。ただし日本国憲法では一方では貴族などの身分差別を明確に禁止する共和制の条項があるため天皇は国民でないとの論の必要性が生じる。 憲法論においては天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の「皇統譜」についての箇所に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある。[16]

また、平成元年126号損害賠償請求事件における東京高裁判決理由[17]に「天皇といえども日本国籍を有する自然人一人であって、(後略)」と書かれている。

[編集] 天皇と世界各国

今上天皇皇后と米国のブッシュ大統領夫妻(2002年)

昭和20年(1945年)以前は、交通の不便さもあり、日本を訪問した国家元首は2人しかいない。明治14年(1881年)、アメリカ合衆国領となる前のハワイ王カラカウア、そして、昭和10年(1935年)満州国皇帝康徳帝である。朝鮮王公族である李垠が日本で教育を受け、中将となっているが、当時既に朝鮮は独立国ではない。ただし、ロシア帝国の皇太子ニコライ2世ギリシア王国の王子ゲオルギオスなど、元首に準ずる格の人物は何人か来日している。

第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。昭和31年(1956年)のハイレ・セラシエ・エチオピア皇帝、昭和32年(1957年)のインド:ジャワハルラール・ネルー首相、昭和33年(1958年)のインドネシア:スカルノ大統領、昭和35年(1960年)のアデナウアー・西独首相の来日があった。以後、他の国々からも賓客がつぎつぎに来日するようになった。[18]

昭和天皇大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。インドは3日間、ブータンでは一か月間に服した(日本は2日間)。また、今上天皇即位の礼の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。

昭和天皇は敗戦時に連合国のソビエト連邦中華民国(当時)、イギリスオーストラリアからは戦犯として裁くべきだと言われたもののマッカーサーにより追訴を逃れた。後に昭和50年(1975年)にアメリカを訪問しており、アメリカ合衆国ジェラルド・R・フォード大統領は、昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソード[19]もある。しかし第二次世界大戦で敵対関係だった連合国の中華人民共和国オランダイギリスや植民地支配下にあった大韓民国などの一部からは憎悪の対象となった。例えば天皇がイギリス訪問の際にエリザベス2世と馬車に乗っている時にブーイングが湧き上がり、オランダでは抗議活動として卵や火炎瓶等を投げつけられる程であり、天皇に強い憎しみを露わにしたのは日本軍の捕虜として過酷な経験のある退役軍人である。

しかし大戦中に小学生であった今上天皇はそのような憎悪の対象になっておらず、国際的にも敬意を払われており、天皇が海外に訪問する際も激しい抗議が起こることはない。また、天安門事件の時に中華人民共和国が欧米諸国の経済制裁で孤立化した時に天皇の訪中を行うことによって中国側を懐柔するなどの外交策がとられたこともある。

今上天皇が平成6年(1994年)6月にアメリカを訪問した際には米5軍(陸海空軍・海兵隊・沿岸警備隊)による観閲儀仗が行なわれた。

[編集] 天皇と課題

[編集] 皇位継承権論争

詳細は「皇位継承問題 (平成)」を参照

昭和40年(1965年)の秋篠宮文仁親王の誕生から平成18年(2006年)の悠仁親王の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。

[編集] 国体論争

大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に尾高・宮沢論争佐々木・和辻論争が有名。

[編集] 国家元首としての天皇と憲法改正

自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇と規定している。衆議院憲法調査会や参議院憲法調査会では、天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。読売新聞(渡辺恒雄)憲法改正試案では天皇に関する規定は現状維持としている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 秦の始皇帝以来使用された「皇帝」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「王」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる(『日本人の歴史教科書』、2009年、37頁)
  2. ^ 『岩波 古語辞典』は、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット 'sume:ru' (“須弥山”)と音韻・意味が一致し、モンゴル語 'sümer' (“須弥山”)と同源であろうとしている。しかし、「須賣彌麻すめみま」・「須賣加未すめかみ」(皇神)の例から、日本語「すめら」の語構成は「すめ‐ら」と見られ、他方サンスクリット 'sume:ru' は、'me:ru' (空想上の山の名)に“すぐれた”の意の接頭語 'su-' が付いたものである。モンゴル語 'sümer' は、サンスクリット 'sume:ru' から、仏教の伝来とともにウイグル語を経由して 13 世紀以後に借用された語である。
  3. ^ 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101。吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店<角川選書>、2005、ISBN 4047033731など。
  4. ^ 吉田前掲。
  5. ^ 吉村前掲。
  6. ^ 吉田前掲。
  7. ^ 「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節」
  8. ^ 井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』 中央公論新社, 2005年, ISBN 978-4122045477
  9. ^ 「日出處天子致書日没處天子無恙云云」 -- 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
  10. ^ a b ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』講談社 2003年、312頁 (第8章『謎多き武人天皇』、21『天照の末裔と神の子イエス』、「神道指令」と「人間宣言」)
  11. ^ Amino & Yamaguchi, `The Japanese Monarchy and Women', p.57.
  12. ^ Kanroji, Hirohito, p.108.
  13. ^ 甘露寺受長『天皇さま』日輪閣、一九六五年、207頁。講談社で1975年に再刊
  14. ^ a b c d e ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』313頁 (第8章21「神道指令」と「人間宣言」)
  15. ^ a b c ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』313-314頁 (第8章21「神道指令」と「人間宣言」)
  16. ^ 憲法(1) 第3版(有斐閣)野中俊彦 中村睦男 高橋和之 高見勝利 216頁 / 憲法 新版補訂版(岩波書店)芦部信喜 86頁 / 憲法学(2)人権総論(有斐閣)芦部信喜 106頁 115頁 / 憲法 第3版(弘文堂)伊藤正己 199頁 / 憲法 第3版(青林書院)佐藤幸治 415頁 / 体系・戸籍用語辞典(日本加除出版)114頁
  17. ^ 平成元年(行ツ)7月19日 126号損害賠償請求事件 東京高裁判決民集43巻10号1167頁
  18. ^ 以上は、ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』378頁(第9章『母性的君主への回帰』、22『性と死―天皇への愛憎』、『日本は君主制の国か』)より。
  19. ^ 竹村健一著より。

[編集] 関連項目


[編集] 参照文献

[編集] 外部リンク