日本の国旗

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日本の国旗
日本の旗
用途及び属性 市民・政府陸上、市民・政府海上?
縦横比 2:3
制定日 1999年8月13日
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日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれるである。

国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の規定によれば、の形は縦が横の3分の2の長方形日章直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色とされている。上下・左右対称で方向性はない。

日章と旭光意匠化した旗については旭日旗を参照。

国旗として扱われる以前の歴史[編集]

古代から中世[編集]

日本人の古代信仰として古神道に分類される原始宗教では自然崇拝精霊崇拝を内包しており、特に農耕や漁労において太陽信仰の対象としてきた。皇祖神天照大神太陽神である。弥生時代から古墳時代大和時代)にかけて祭器として使われた内行花文鏡の模様は太陽の輝きをかたどったものと言われ、三種の神器の一つ八咫鏡をこの鏡とする説もある[1]。初代神武天皇東征の時に生駒山で敗北するが、私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう、と言って熊野(または伊勢[2][3])に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。第10代崇神天皇は、宮廷内に祀られていた天照大神を宮廷外で祀るようになり、第11代垂仁天皇の時に初代斎宮倭姫命によって伊勢に鎮座した。伊勢神宮の祭祀は、未婚の内親王を天照大神の御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として斎王を立てるようになった。

第33代推古天皇の時に聖徳太子皇帝煬帝へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っている。また、飛鳥時代末期に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。第40代天武天皇壬申の乱の時に伊勢神宮を望拝した。これが勝利に結びついたと考えられ、在位中に伊勢神宮の遷宮を制度化し、第41代持統天皇の時に第1回目の式年遷宮が行われた。日本の国家統治と太陽の結びつきはますます強くなった。

この太陽を象った旗を用いるようになったのは、645年大化元年)の大化の改新以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられる[4]。文献としては、797年延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇701年大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、白地に赤丸ではなかったと見られている。

世界中で歴史的に太陽で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して白色または銀色で表すのが一般的である[5]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。例えば高松塚古墳キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。また世俗的にも『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。

赤い真円で太陽を表現する例としては、古くは時代の帛画にある(上記の日像幢と同様、内側に黒い烏を配するもの)。日本では法隆寺玉虫厨子背面の須弥山図に、赤い真円の日象が確認できる。これは平安時代の密教図像などにも見出される表現であり、大陸から仏教とともにもたらされた意匠であろうと推測される。

日本で白地赤丸が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。 一説には源平合戦の結果が影響していると言われている。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。

現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られている[6]。これは後冷泉天皇より源義光へ下賜されたという伝承があり、「御旗」(みはた)と呼ばれて義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家甲斐武田家の家宝とされてきた。真偽のほどは不明ではあるが、中世前半に遡る遺例として貴重であろう。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[7]

日の丸を掲げるアユタヤの日本人部隊

室町時代勘合貿易や、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられた。また、戦国時代には伊達氏軍旗・日之丸大龍を用いていた。

近世から近代[編集]

江戸期には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。

『江戸図屏風』(1624~1644。黒田日出男によれば1634~1635、松平信綱の命による製作。)。日本丸を改造した大龍丸などの幕府船団が日の丸の幟を立てている。
『御船図』安宅丸。19世紀に描かれた想像図には、船尾部に複数の日の丸が見える。

近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624~1644年)に描かれた江戸図屏風[8]の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている[9]。また、1635年寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[10]東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。

また、1673年寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船天領からの年貢米御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。

沖縄学に見る日章旗[編集]

19世紀初頭の琉球王国の船旗と薩摩藩の船旗(『琉球貿易図屏風』より)。日章旗は琉球王国の船旗の一つ。当時の薩摩藩の船旗は島津家家紋の「丸に十の字」である。
19世紀初頭の爬竜船。

船印としては、薩摩藩に服属していた琉球王国が中国への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる[11]。進貢船の派遣は14世紀まで遡るが、いつから日の丸を掲げるようになったのかは定かではない。しかし19世紀初頭の屏風絵[11]にははっきりと描かれている。また沖縄の祭り爬竜(ハーリー)で用いられる爬竜船の船尾部にも日の丸の(のぼり)が掲げられていた[11]

日の丸(日輪)は、琉球でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれていた。琉球では、日本の漁労民と同様に古くから太陽神が信仰されており、進貢船の日の丸も航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものである[12]

日本の国旗としての歴史[編集]

江戸時代[編集]

慶長遣欧使節の旗[編集]

仙台藩伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節は、1615年1月30日(慶長20年1月2日)にエスパーニャ国王フェリペ3世、同11月3日(元和元年9月12日)にローマ教皇パウルス5世に謁見した際、伊達氏の軍旗である日之丸大龍を掲げていた。

幕末[編集]

日の丸を掲げる幕府海軍観光丸

18世紀末から19世紀にかけてロシアの南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた[13]

日の丸を掲げる幕府海軍咸臨丸
日の丸を掲げる幕府海軍回天丸
日の丸を掲げる幕府海軍昇平丸
日の丸を掲げる幕府海軍旭日丸

1854年嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また徳川斉昭は、大中黒は一氏族の印だが日の丸は歴史的に日本が使用してきた印であるからと進言したといわれている。

1855年安政2年)、島津斉彬は洋式軍艦「昇平丸[14]を幕府(幕府海軍)に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である[15]

1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震下田奉行井上清直は、和船に岩瀬忠震の先祖・伊達氏の旗であり、慶長遣欧使節も携えた日章旗を掲げて、神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許が無いまま、日米修好通商条約に調印・署名した。

1859年(安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。

1860年万延元年)、日米修好通商条約批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団アメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイパレードする模様が伝えられている[16]。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。

賊軍の旗[編集]

戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の戦いの2日目の慶応4年1月4日に、薩長を中心とする軍勢が朝廷から「錦の御旗」を授けられて正式に官軍天皇朝廷の軍)になったのに対し[17]、それ以降の旧江戸幕府軍は賊軍朝敵となり、戦局に決定的な影響を与えた。旧幕府方の彰義隊会津藩白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として上述の「御国総標」たる日章旗を掲げて戦った。

近年の時代劇においても、『JIN-仁-』の第二期(2011年)における「彰義隊」や『白虎隊』(2007年)における「会津藩」・「白虎隊」などが日章旗を掲げる様子が描かれている。

明治[編集]

商船規則[編集]

1870年2月27日明治3年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、上述の幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。

陸軍御国旗の意匠

陸軍御国旗[編集]

同じく1870年(明治3年)の5月15日には、同じく太政官布告(第355号)により、「陸軍御国旗陸軍御國旗)」として旭日旗が定められた。

明治から昭和・終戦まで[編集]

以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1931年昭和6年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年3月26日衆議院本会議において可決された。しかしながら貴族院送付後の3月28日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。

占領下における日章旗の掲揚禁止[編集]

1945年連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗E旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。

国旗国歌法以前の法令による扱い[編集]

第二次世界大戦後から1999年(平成11年)の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)制定までの間、「反・日の丸」を主張する勢力(日本教職員組合日本共産党朝日新聞などの革新勢力)は、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えてきた。これに対し日章旗を国旗と認める勢力(自民党日本会議などの保守派)は、日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、大喪中ノ国旗掲揚方のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。旧字体新字置換)。

  • 船舶法(明治32年法律第46号)第2条「日本船舶ニ非サレハ日本ノ国旗ヲ掲クルコトヲ得ス」ほか複数条項に登場
  • 海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第4条第3項「海上保安庁の船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を附し、国旗及び海上保安庁の旗を掲げなければならない。」
  • 保安庁法(昭和27年法律第265号)第83条第1項「保安庁の使用する船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を付し、国旗及び長官の定める旗を掲げなければならない。」
  • 自衛隊法(昭和29年法律第165号)第102条第1項「自衛艦その他の自衛隊の使用する船舶は、長官の定めるところにより、国旗及び第四条第一項の規定により交付された自衛艦旗その他の旗を掲げなければならない。」
  • 商標法(昭和34年法律第127号)第4条第1項第1号「国旗菊花紋章勲章褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標」

国旗国歌法の成立[編集]

平成初期から学校の入学式卒業式における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する日本教職員組合全日本教職員組合所属教職員と管理職教職員のトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった[18]。このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。

なお、大喪時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方大正元年閣令第1号)に定められている。

教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事[編集]

国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた。このため、2006年10月31日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうかとの質問が出された。この質問に対して伊吹文明文科大臣と民主党藤村修議員の両名とも教職員にはその義務があると答えている。

日章旗のデザイン[編集]

日章旗の制式
附則の認める日章旗

正式規格[編集]

国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、縦横比を2対3、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径(縦を2とした場合r=0.6)とした円(日章、日輪)を描くのが正式である。なお、日章の赤は法律では「紅色」となっており、JIS慣用色名ではマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、より明色に見える朱色系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。

特例の日章旗[編集]

長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則の方がやや横長(あるいは特例の方が縦長)となる。この違いを取り上げる意見には、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っている方が美しい、とするものもある[要出典]

日章旗と軍用の旗[編集]

帝国陸軍の歩兵連隊の軍旗

大日本帝国の国軍および天皇の軍隊として建軍された日本軍(陸海軍)の軍旗として、帝国陸軍は1870年5月15日の明治3年太政官布告第355号とにおいて、日章旗とは別に「陸軍御国旗」として16条の光線(十六条旭日旗)を放つ図案を意匠とする旗(「旭日旗」、日章が旗の中央)を日本史上初めて考案・採用・制定した。1879年、明治12年太政官布告第130号においてこの「陸軍御国旗」は旭日の意匠はほぼそのままに、寸法を小さくし房をつけたものに変更され名称を「軍旗」とし改めて制定された

その帝国陸軍に遅れること19年後の1889年帝国海軍は明治22年勅令第111号において帝国陸軍の軍旗である旭日旗を模倣するかたちで、日章位置が異なる十六条旭日旗(日章が旗の左辺寄り)を軍艦旗として、また艦首旗として日章旗を制定し直した。

ポツダム宣言受諾による日本軍の解体により軍旗及び軍艦旗は廃止されたが、自衛隊の設立に伴い陸上自衛隊は帝国陸軍の軍旗とは意匠を一部変更した八条旭日旗を「自衛隊旗」として、海上自衛隊は帝国海軍と同一意匠の「自衛艦旗」を1954年(昭和29年)にそれぞれ制定した。自衛隊旗及び自衛艦旗は自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)の別表第一[19]で規定されている。なお、自衛隊の航空機等に記されている国籍マークは、旧日本軍時代と同様の白の縁取りが施された日の丸が使用されている。

税関旗[編集]

青は海・空、白は陸で、接点に税関があることを表している。1892年(明治25年)に制定。

日章旗の造形に関する逸話[編集]

安津素彦の著作『国旗の歴史』に、明治時代にイギリスまたはフランスオランダが日の丸の意匠を買い取ろうとしたという記述がある。また、この日の丸買収の話は、伊本俊二の著作『国旗 日の丸』では、「1874年(明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、寺島宗則外務卿を相手に交渉した」としている[20]。ただしこの説は吹浦忠正が著書『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」[21]と結論づけている。

日章旗とデザインが似ている旗[編集]

フィールドが無地であり、無地の円のみがチャージされた旗を掲載。

国民感情[編集]

年賀の皇居一般参賀で、日の丸の小旗を振り新年を祝う参賀者

日の丸は、国旗国歌法によって公式に国旗とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府政府広報室の世論調査[22]において、対象者の84.1%が「日の丸は日本の国旗(国の旗)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは8.9%だった[23]

テレビ朝日が1999年7月に行った世論調査でも、日章旗を日本の国旗とすることに反対する国民は8%であり、日本国民は日の丸を日本国旗として受け入れているといえる[24]

積極的な掲揚[編集]

フェイスペインティング(2006年FIFAワールドカップ
国旗を掲揚しているJR九州有田駅
国旗が運転台真上(前から見て左上)に掲げられている東急バス

第二次世界大戦後、各家庭や個人での掲揚は戦前と比してやや稀少となる一方で、祝祭日や国際試合などでは積極的に掲揚されている。

沖縄県において日章旗は1945年から1972年までのアメリカ軍統治時代には多くの住民の間で本土復帰を求める象徴であり[25]、各家庭では日の丸を大切に所持していた。

サッカーやバレーボールの国際試合において日章旗をモチーフとしたフェイスペインティングも2002年のFIFAワールドカップ頃を境に一般化している。

公共交通機関
  • 九州旅客鉄道(JR九州):2002年12月23日天皇誕生日以降、すべての有人駅で祝日に国旗掲揚を実施。
  • 大阪市営地下鉄阪神電気鉄道近畿日本鉄道:営業中の全種別列車の、車内妻面(貫通扉上)に小旗の日章旗を2本交差する形で、1両の客室内に計4本取り付けられている。
  • 日本国内の多くのバス運営社局:祝日に路線バスの車体に国旗を掲揚して運行している。振替休日・国民の休日には国旗の掲揚はしない。このことからも、国旗掲揚の意味は、単なる休日ダイヤであることの告知ではなく、祝日を祝う意味であることが分かる(ただし、神奈川中央交通など、国民の休日や振替休日・年末年始などに、休日ダイヤや臨時ダイヤで運行していることを告知するために使用される場合もある)。また、バスの日に掲載される場合もある。

国旗掲揚は祝日に限られ、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日は祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためと思われる。

反対意見[編集]

主に教育界(日本教職員組合全日本教職員組合)や左翼活動家によって国旗掲揚が「強制」されているとする認識により、現在も日章旗に対する議論や批判が見られる。

過去には朝日新聞毎日新聞中日新聞東京新聞琉球新報などでも国歌君が代)とともに日章旗を国旗とすることに対して否定的な記事や投書が掲載されたことがあった。また、日本社会党日本共産党新社会党公明党・日本教職員組合・全日本教職員組合・創価学会などが日章旗への批判を行うなど、日章旗への反発が存在していた[26]。同じ敗戦国であるドイツが、第二次世界大戦後に国旗・国歌を変えていることと比較して、戦争責任論の一つとして語られることもあった[27]

さらにはフジテレビ抗議デモ在日特権を許さない市民の会主催デモなどで国民運動の象徴として掲げている日章旗を、差別を助長する排外主義の象徴だと位置づける識者もいる[28]

国章損壊罪についての議論[編集]

アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア中華人民共和国大韓民国などは公然と掲揚されているもしくは公衆の場での国旗の裁断や、焼却などの国旗・国章を冒涜する行為には刑罰を規定している。このうちアメリカ、イタリア、大韓民国はあらゆる場での国旗の損壊に対して罰則を設けている(→en:Flag_desecration[29][30]。ただしアメリカでは「Texas v. Johnson裁判」において国旗を燃やした活動家(en:Gregory Lee Johnson)に対しアメリカ合衆国憲法修正第一条(言論の自由)により無罪とする判決が出ている。日本では自国の国旗・国章を損壊することを処罰する法律は無い[31]。 外国の国旗・国章の損壊に関しては外国国章損壊罪で規定している。(外国国章損壊罪は外国の在日大使館など公的な国章損壊にしか運用されていないことに気をつけたい。詳しくは外国国章損壊罪にて。)

第45回衆議院議員総選挙における、2009年8月8日鹿児島県霧島市で行われた民主党皆吉稲生候補の集会[32]で、国旗2枚を裁断して支持者が作成したとされる“党旗”を壇上に掲揚した[31]8月18日、皆吉は、衆議院議員総選挙出陣式で「国旗の使用方法としては不適切で深くおわびする」と謝罪した。同日、民主党幹事長(当時)・岡田克也が皆吉を口頭注意した。皆吉の後援会は、党本部や県連および支援団体に「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなく、主催者の不手際が原因」と謝罪する文書を送付した[33](詳しくは民主党 (日本 1998-)#国旗切り張り問題を参照)。この問題を受けて、百地章日本大学教授は、民主党の行為を批判しつつ「国旗への侮辱行為に刑事罰が科されない日本が世界的に異常」とし、国旗に対する敬意は教育で教えることが最も良いが、日本の国旗に反対する日本教職員組合が力を持つ教育界ではそれも難しく、法で定める必要もあるのではないかと指摘した。

北野弘久日本大学名誉教授は、国旗国歌に敬意を払うのは当然とした上で、法で規定している欧米諸国と日本では歴史的にも国旗国歌へのコンセンサスが大きく異なり、日章旗にはいわゆる「侵略戦争」というイメージにも繋がるため、尊重義務を規定することには反対であると主張している[31]

諸外国[編集]

パラオの国旗[34]には「日章旗の影響が見られる」との主張がある。パラオの国旗#日本の国旗との関連も参照[35]

その他[編集]

  • 白米の真ん中に梅干しを1個乗せた弁当を「日の丸弁当」と呼ぶ。
  • 天皇誕生日などの一般参賀での国旗は皇居外苑周辺で配布されており、これは、社団法人国旗協会の「皇居参賀協力委員会」で提供しており、宮内庁は無関係。委員会の構成員は神社本庁佛所護念会教団などの保守団体である。
  • 学習指導要領においては「入学式卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と記されており、『学習指導要領解説』(文部科学省著作物)には、「国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童(生徒)が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。(後略)」とも記されている[36][37]と記されている。
  • 国旗に文字等を書く(寄せ書き)際、日の丸の部分には何も書いてはいけないという慣例がある。これは、日の丸の部分が神聖とされていたからである。[要出典]
  • 1936年ベルリンオリンピックにおいて、朝鮮出身の孫基禎は日本代表として男子マラソンに出場し優勝した。日本統治下の京城(現在のソウル)で創刊された東亜日報は日章旗を黒く塗り潰した写真を掲載してそれを報じ11ヶ月の停刊処分を受けた。
  • 源平合戦の折、平氏は赤地に白、源氏は白地に赤の旗を使った。戦国大名織田信長武田信玄徳川家康などが日の丸の旗を用いていた(18世紀の長篠合戦図屏風に描かれている)。
  • 秋田県の一部地域ではウサギ肉のことを「日の丸肉」と呼ぶ。
  • チャンプロード』を始めとするヤンキー雑誌の通販広告では、業界用語として別の旗である旭日旗を「日章旗」と呼ぶ例が多い。
  • 写真撮影において、中央に主被写体を入れる構図を、日の丸写真と呼ぶ。

符号位置[編集]

記号 Unicode JIS X 0213 文字参照 名称
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国旗(日本)

参考文献[編集]

  • 暉俊康隆『日の丸・君が代の成り立ち』(1991年、岩波ブックレット)ISBN 4000031279
  • 高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』河出書房新社 1993年 ISBN 4309724825
  • 与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』新星出版 2006年 ISBN 4902193485

脚注[編集]

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  1. ^ 森浩一著「日本神話の考古学」(朝日新聞出版 1993年7月)
  2. ^ 「日本古典文学大系 2 風土記」(岩波書店 1958年4月)の伊勢国風土記逸文に、神武天皇が伊勢国造の祖の天日別命に命じて伊勢国に攻め込ませ、国津神の伊勢津彦を追い出して伊勢を平定したとある。
  3. ^ 熊野からでは北に向かって戦う事になる。このため鈴木眞年のように、伊勢まで行って西から大和盆地に侵攻したとする説もある。
  4. ^ 泉欣七郎、千田健共編『日本なんでもはじめ』ナンバーワン、1985年、149頁、ISBN 4931016065
  5. ^ 強い傾向ではなく、バングラデシュの国旗では太陽を赤で示し、パラオの国旗では月を黄色で示している(#日章旗とデザインが似ている旗参照)。
  6. ^ 日の丸の御旗/富士の国やまなし観光ネット
  7. ^ 日の丸御旗(堀家所蔵)
  8. ^ 「江戸図屏風」の最新事情|歴博プロムナード|歴博アーカイブズ|国立歴史民俗博物館 2004年9月6日~2005年1月23日展示。"今までは不確かであった制作年代について、「寛永期」であることがほぼ確定できたことです。制作年代の確定は、炭素14年代測定研究の成果"。
  9. ^ 江戸図屏風 江戸湊、向井將監武者船懸御目候所 左隻6扇下左隻第5扇下
  10. ^ 貴重資料「御船印並諸国御船印之図」、水野家文書、首都大学東京所蔵
  11. ^ a b c 『琉球貿易図屏風』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)参照。高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』81-82頁。なお『琉球貿易図屏風』は、1999年の修復時に1830年代以降、薩摩藩の関与で制作されたことが判明している。
  12. ^ 与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』46頁参照。
  13. ^ 御用船長春丸―赤塗りの船(赤船)・日の丸の帆―
  14. ^ 大砲を積んだ琉球船(琉球大砲船)の名目で建造願いが出されたが、実際は洋式軍艦として建造されている。
  15. ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照。
  16. ^ 遣米使節団のブロードウェー・パレード、在ニューヨーク日本国総領事館
  17. ^ 但しこの時の錦旗は、事前に岩倉具視薩摩藩が用意していたものである。錦旗を与える手続き自体は朝廷の正式な決定を経ている。
  18. ^ 国旗及び国歌に関する法律#法律制定の背景
  19. ^ 自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)、総務省法令データ提供システム
  20. ^ 伊本俊二『国旗 日の丸』中央公論新社、1999年、176-177頁、ISBN 4122034639
  21. ^ 吹浦忠正『「日の丸」を科学する』自由国民社、1995年、ISBN 4426745004
  22. ^ 新情報センターが委託を受け調査した。
  23. ^ “年号制度・国旗・国歌に関する世論調査” (日本語) (プレスリリース), 内閣府政府広報室, (1974年), http://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html 2010年7月31日閲覧。 
  24. ^ ニュースステーション電話世論調査、1999年7月、テレビ朝日(インターネット・アーカイブ参照)
  25. ^ オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ―1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって沖縄県公文書館
  26. ^ 国旗及び国歌に関する法律#国旗国歌についての議論
  27. ^ 現在のドイツ国旗はドイツ国ヴァイマル共和政)時代の国旗を採用したものであり、ナチス・ドイツ以前の国旗が復活した形になる。
  28. ^ TBSラジオ文化系トークラジオ Life、『“祭り”の時代』、2011年8月28日放送。ジャーナリスト津田大介の主張。
  29. ^ 4 諸外国における国旗、国歌の取扱い、文部省「国旗及び国歌に関する関係資料」、1999年9月(インターネット・アーカイブ参照)
  30. ^ 国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス、AFPBB News、2010年7月25日
  31. ^ a b c http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090830/trd0908301601006-n1.htm 【日本の議論】日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か]、産経新聞2009年8月30日
  32. ^ 【09衆院選】日の丸裂いて「党旗」に陳謝 鹿児島の民主候補陣営産経新聞2009年8月18日[リンク切れ]
  33. ^ 国旗で民主マーク、鹿児島の候補者 出陣式でおわび読売新聞2009年8月18日
  34. ^ The Palau National Flag was the winning entrant by Mr. Blau Skebong in the 1979 ROP Flag Contest and was adopted by the Olbiil Era Kelulau through Public Law No. 7-6-2 on September 1980.(要旨:パラオ国旗のデザインは1979年に行われたコンテストによる)Flags of The World
  35. ^ 辻原康夫『図説国旗の世界史』河出書房新社、2003年、73,89頁、ISBN 4309760392
  36. ^ 小学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省
  37. ^ 中学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省

関連項目[編集]

外部リンク[編集]