奥羽越列藩同盟
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奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、会津藩、庄内藩の 「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟である。上記の通り会津藩、庄内藩の赦免嘆願を目的として結ばれたため、両藩は同盟には署名していない。
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[編集] 前提
会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために 「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。
この情勢下、奥羽での戦闘回避の工作を仙台藩と米沢藩は話し合い、会津藩と庄内藩に密使を送り説得し降伏するよう、条件をまとめていた。
[編集] 経過
[編集] 白石列藩会議
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。 しかし、この武装恭順は認められず、 慶応4年(1868年)、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。
一方、4月10日九条総督は庄内藩討伐を発表して秋田久保田藩等に応援を命じると共に、4月14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かった。24日、清川口で東北最初の戦闘があったが、各藩とも消極的で戦争の引き延ばしを図っていた。こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、東北諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。
閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。
[編集] 世良修蔵の暗殺
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
ただし、「密書」自体が後世の捏造ではないのかとの説もある。東北諸藩に囲まれた中にいる世良修蔵が、重要な密書を福島藩の人間に依頼するだろうか? 京都や江戸ではなく、秋田にいる大山に送っても意味が無いのではないか? 内容があまりにも東北勢に都合がよい。現物が確認できない等の理由による。
[編集] 奥羽越列藩同盟
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには東北諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による奥羽列藩盟約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。 翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の越後5藩が加入し、計31藩による同盟が成立した。なお、同盟成立の月日については諸説あるが、白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。
[編集] 「北部政権」
副総督沢為量率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、 九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。
一方、上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奥羽同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。また、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。
また、白石城内には奥羽越公議府が設けられ、諸藩代表による評議が行われた。プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされ、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽政権としての評価は定まっていない。 当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えている。
[編集] 戦闘
[編集] 日本海側
7月1日、九条一行は秋田に沢副総督と再会し新政府軍が秋田に集結することになった。本来同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった秋田藩では会議の決着がなかなかつかなかったが、平田学を学んだ若い武士が決起し仙台藩からの使者11名を斬り(新政府軍側の世良修蔵惨殺への報復という名目があった)、新政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。仙台藩はこれに怒り秋田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、秋田城へ迫った。 庄内藩は新政府軍側についた新庄藩、本荘藩、久保田藩へと侵攻する。南部藩も久保田藩の北部から南部藩の家老楢山佐渡の指揮のもと、津軽藩を牽制するかのように侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。 秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。秋田北部の戦いでは大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。 これらの情勢により、9月中旬には奥羽列藩同盟側は全て新政府軍に降伏した。
また、北越においても新政府軍と米沢藩・長岡藩が交戦、長岡城では河井継之助率いる長岡藩兵が強力な火力戦により善戦するも、7月末には長岡城が陥落、その後長岡城が長岡藩兵により一時的に奪還されるが、この際河井継之助が負傷。結局長岡城が新政府軍に奪われ、会津へ敗走していた。米沢藩を中心に守りを固めていた新潟においても、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。
[編集] 太平洋側
5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落する。6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗する。磐城方面では6月24日には棚倉城が陥落、6月26日には奥羽連合軍が白河から撤退し須賀川へ逃れる。7月26日には三春藩が新政府軍に寝返り、二本松方面へ攻撃準備に加わった。8月6日相馬中村藩の降伏により磐城方面は完全に新政府軍が制圧。更に弘前藩が新政府軍側に寝返り、南部領内へ侵攻。太平洋側でも戦線が崩壊を始めた。
[編集] 瓦解
7月26日まず三春藩が降伏し、29日に二本松城が落城した。次いで8月6日相馬中村藩が降伏。日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。
[編集] 奥羽越列藩同盟参加藩
- 白石列藩会議から参加した14藩
- 新たに奥羽同盟に参加した11藩
- 奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
- その他
注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く)
[編集] 参考文献
- 星亮一『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(中公新書、1995年) ISBN 4121012356
但し同書は、山本帯刀義路を、長岡藩士渡辺氏に生まれて、山本氏の養子となったと説明するなど誤りが散見される。
- 中山吉弘 編著『明治維新と名参謀前山清一郎』(東京図書出版会、2002年) ISBN 4434013491

