神武天皇
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| 神武天皇 | ||
|---|---|---|
| 初代天皇 | ||
| 在位期間:紀元前660年1月1日 - 紀元前585年3月11日 | ||
| 月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。 明治時代初期の版画。 |
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| 在位中の皇居 | 畝傍山橿原宮 | |
| 別名 | 神倭伊波礼琵古命 神日本磐余彦尊 始馭天下之天皇 若御毛沼命 狹野尊 彦火火出見 |
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| 出生 | 紀元前711年2月13日 | |
| 死没 | 紀元前585年4月9日 | |
| 陵墓 | 畝傍山東北陵 | |
| 皇子女 | 手研耳命 岐須美美命 日子八井命 神八井耳命 綏靖天皇 |
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| 皇后 | 媛蹈鞴五十鈴媛命 | |
| 父親 | 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 | |
| 母親 | 玉依姫命 | |
神武天皇(じんむてんのう、伝 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日)- 伝 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日))は、日本の初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)- 神武天皇76年3月11日)。日本神話以降に相当するとされる初代天皇。日向国(宮崎県)出身。
天皇が即位した1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。
神武天皇が実在したかについては歴史学界では否定的見解が強い。
『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。
目次 |
[編集] 生涯
以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。
[編集] 皇子の時代
神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。
生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来長い年月が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。
[編集] 東征の開始
10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。
筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。
[編集] 長髄彦との戦い
戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
[編集] 八咫烏の道案内
5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。
名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
[編集] 怒濤の進撃
8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。
9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。
10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。
翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。
これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。
[編集] 即位
辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。
神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
[編集] 崩御
神武天皇76年、127歳にして崩御した。
[編集] 系譜
父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。
『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。
[編集] 神武天皇の非実在説
神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。
日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。
こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されており、「神武天皇はいたであろう」というようなスタンスで書かれたものは存在しない。
[編集] 即位年月日
大和朝廷の成立が紀元後3世紀から4世紀であることから、仮に実在したとしても神武天皇の即位が紀元前であることは歴史学上ありえない(世代数上、神武に相当する先祖が存在するのは当然だが、それは別の話である)が、以下に述べるように、明治以来敗戦にいたるまで、法的・慣習的に紀元前660年とされてきた。在位は76年間とされ、崩御は西暦紀元前585年(年齢127歳)とされていた。終戦以後も一部の人々がこの見解を支持している。
[編集] 紀元前660年とされてきた経緯
『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。
明治維新で暦としてグレゴリオ暦を明治6年(1873年)1月1日 から採用決定した明治5年(1872年)11月15日に、紀元節を始めるにあたって旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をユリウス暦ではなく、グレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定するため、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。
具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。
神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。
なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。
[編集] 諡号・追号・異名
「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。
和風諡号は次のとおり。
『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。
また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。
一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。
「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。
[編集] 初代天皇
明治時代以降、神武天皇は初代天皇として顕彰され、践祚されたとされる紀元前660年を紀元とする神武天皇即位紀元(皇紀)が使われるようになり、1874年より2月11日が紀元節に定められた。また、1889年には畝傍橿原宮があったとされる奈良県橿原市の畝傍山近くに、神武天皇を祭神とする橿原神宮が建立された。
[編集] 皇居
都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。
『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。
翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。
またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))
なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。
[編集] 陵墓・霊廟
『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。
『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。
江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。
元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。
しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。
その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。
陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。
現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。
また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 基礎データ
- 代数:初代
- 御名:神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
- 父:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
- 母:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
- 皇居:畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや)
- 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
- 在位:
- 崩御:
- 陵:畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)
[編集] 在位年と西暦との対照表
| 神武天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西暦 | BC660年 | BC659年 | BC658年 | BC657年 | BC656年 | BC655年 | BC654年 | BC653年 | BC652年 | BC651年 |
| 皇紀 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
| 干支 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 |
| 神武天皇 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
| 西暦 | BC650年 | BC649年 | BC648年 | BC647年 | BC646年 | BC645年 | BC644年 | BC643年 | BC642年 | BC641年 |
| 皇紀 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
| 干支 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 |
| 神武天皇 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
| 西暦 | BC640年 | BC639年 | BC638年 | BC637年 | BC636年 | BC635年 | BC634年 | BC633年 | BC632年 | BC631年 |
| 皇紀 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
| 干支 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 |
| 神武天皇 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 |
| 西暦 | BC630年 | BC629年 | BC628年 | BC627年 | BC626年 | BC625年 | BC624年 | BC623年 | BC622年 | BC621年 |
| 皇紀 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 |
| 干支 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 |
| 神武天皇 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 49年 | 50年 |
| 西暦 | BC620年 | BC619年 | BC618年 | BC617年 | BC616年 | BC615年 | BC614年 | BC613年 | BC612年 | BC611年 |
| 皇紀 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 49年 | 50年 |
| 干支 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 |
| 神武天皇 | 51年 | 52年 | 53年 | 54年 | 55年 | 56年 | 57年 | 58年 | 59年 | 60年 |
| 西暦 | BC610年 | BC609年 | BC608年 | BC607年 | BC606年 | BC605年 | BC604年 | BC603年 | BC602年 | BC601年 |
| 皇紀 | 51年 | 52年 | 53年 | 54年 | 55年 | 56年 | 57年 | 58年 | 59年 | 60年 |
| 干支 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 |
| 神武天皇 | 61年 | 62年 | 63年 | 64年 | 65年 | 66年 | 67年 | 68年 | 69年 | 70年 |
| 西暦 | BC600年 | BC599年 | BC598年 | BC597年 | BC596年 | BC595年 | BC594年 | BC593年 | BC592年 | BC591年 |
| 皇紀 | 61年 | 62年 | 63年 | 64年 | 65年 | 66年 | 67年 | 68年 | 69年 | 70年 |
| 干支 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 |
| 神武天皇 | 71年 | 72年 | 73年 | 74年 | 75年 | 76年 | (77年) | (78年) | (79年) | |
| 西暦 | BC590年 | BC589年 | BC588年 | BC587年 | BC586年 | BC585年 | BC584年 | BC583年 | BC582年 | |
| 皇紀 | 71年 | 72年 | 73年 | 74年 | 75年 | 76年 | 77年 | 78年 | 79年 | |
| 干支 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 |
| 歴代天皇一覧 | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
| 11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
| 21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
| 31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
| 41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
| 51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
| 61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
| 71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
| 81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
| 91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
| 北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
| 101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
| 111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
| 121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※註:橙に赤字は女帝 | ||||
[編集] 関連項目
- 天皇の一覧 - 神武天皇など、古い天皇の実在性について記述あり
- 欠史八代 - 第2代~第9代天皇の実在性について記述あり
- 欠史十代 - 名称は似ているが、欠史八代とはまったくの別物
- 多氏
- 神武景気
- 宮崎神宮
- 嵐寛寿郎 - 映画で神武天皇を演じている。(『皇室と戦争とわが民族』 1960年、新東宝映画 監督:小森白 五十鈴姫:三ツ矢歌子 長髄彦:大谷友彦)
- 八木倍年説 - 実在説の一種
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