天皇陵

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天皇陵(てんのうりょう)は、天皇。天皇陵として宮内庁が指定している古墳は、考古学者の調査を含め、一般の立ち入りは厳しく制限されている。また仁徳天皇大仙陵古墳など、古代のものについては実際に天皇あるいは皇族の墓であるか不明という見解もある。

概要[編集]

皇室典範昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇、皇后太皇太后及び皇太后を葬る所を陵(みささぎ・りょう)、その他の皇太子親王などの皇族を葬る所を墓(はか・ぼ)と呼ぶ。なお、同附則第3項で、当時治定されていた陵及び墓は、第27条の陵及び墓とされた[注釈 1]

そのため、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の陵の他にも、「尊称天皇」・「追尊天皇」・「尊称皇后」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代、天津日高彦火瓊瓊杵尊天津日高彦火火出見尊彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の白鳥伝承に基づく白鳥陵[注釈 2]飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。

これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、古代の(もがり)の地である殯斂地、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という。

陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基であり、天皇、皇后、皇子等を合葬したものを差し引くと合計85基ある。

宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112、皇后陵など76で計188。皇族等の墓が552。準陵が42、髪歯爪塔などが68、伝承などから陵墓の可能性がある陵墓参考地が46あり、総数は896である。同じ場所に所在するものもあるので、箇所数は458となる。

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。しかしながら調査の許可を求める考古学会の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている[1]

陵墓の名前などは、下記の宮内庁管理の天皇陵一覧を参照。

変遷[編集]

北白川陵(後二條天皇陵)
泉涌寺山内の月輪陵。後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている

天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳だった(9代開化陵~30代敏達陵)。7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳円墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで、天皇陵には八角墳が採用されるようになる(舒明天皇陵の段ノ塚古墳天智天皇陵の御廟野古墳天武持統合葬陵の野口王墓古墳文武天皇陵の中尾山古墳)。このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一般の首長を超越して中国天子のような唯一の最高権力者として地位を確立しようとして形に表したという解釈がある[要出典]

奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(嵯峨天皇淳和天皇)などが見られるようになる。また、都周辺の特定の地域に陵墓地区を設けることが行われ、奈良時代の天皇陵の多くが平城京の北郊に築かれ、長岡京でも同様の北郊に天皇陵が築かれる予定であった(長岡京で崩御した天皇はいないが、桓武天皇の生母・后妃の陵墓が存在する)。平安京にも同様の計画があったとされているが、在地豪族らの反対もあって断念され、以後の天皇も自身とゆかりのある場所の近くに陵墓を造営するようになった[2]

院政期の白河天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇陵では、天智天皇陵に範を取ったといわれる上円下方墳が採用され、以降、今日に至っている。また、皇后陵は中国の古式に則って(例西太后の「定陵」)天皇陵の東に造営されることになった。そのため皇后陵は「○○東陵(○○のひがしのみささぎ)」と呼ばれる。

大正天皇以後、天皇・皇后の東京都八王子市の御料地内に作られることになり、武蔵陵墓地が成立した。一方、皇族のは明治天皇の皇子薨去を契機として東京都文京区大塚護国寺裏山に設けられることとなり、現在、豊島岡墓地となっている。

2012年平成24年)4月26日、宮内庁は、天皇や皇后が逝去した際の埋葬方法を、今上天皇明仁)および皇后(美智子)の意向により、旧来の土葬から火葬に変える方針で検討すると発表[3]。翌2013年(平成25年)11月14日、宮内庁は今上天皇及び皇后美智子の埋葬法を正式に火葬にて行うと発表。合わせて二人の陵を一体的に整備する事で従来の陵より小さく作る事も発表した[4]。(当初は天皇と皇后を一緒に埋葬する合葬も視野にいれ検討されたが、正式決定時には二人の陵を寄り添う形で作ると定められた)これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることとなった。

管理[編集]

大化以前の陵墓管理についてはよくわかっていないが、『日本書紀推古天皇紀の、620年(推古天皇28年)に欽明天皇陵に砂礫を葺き盛り土をしたという記事が、天皇陵の修築が行われた例としてあげられる。

律令制下においては、天皇陵をはじめとする陵墓は国家によって管理されることになっており、大宝令養老令では担当部署として治部省下に諸陵司が置かれている。その後、天平年間には諸陵司が拡充され、諸陵寮となった。平安時代前期に編纂された『延喜式』には諸陵寮管理下の陵墓の一覧表が記載されているが、このころの墓には外戚(皇妃の実家:藤原氏など)の墓も含まれている。管理の具体的内容としては、陵戸・墓戸の設置がある。醍醐天皇陵の管理が醍醐寺に委ねられて以後、寺院内に造営された陵墓の管理は所領を与える条件で各寺院に任されることになり、陵墓管理が国家の手から離れていく要因となった。平安後期には、推古天皇陵・成務天皇陵・聖武天皇陵の盗掘事件が発生し、勅使発遣・犯人追捕・毀損箇所の修理等の対応がとられ、犯人の配流・宝物の奉還が行われた。

鎌倉期の1235年文暦2年)には、天武・持統天皇合葬陵の盗掘事件が発生したことが藤原定家明月記』に記載されている。直ちに勅使が遣わされ、毀損箇所は埋め戻された。1238年嘉禎4年)には盗掘犯人が逮捕されて大内裏門前に晒され、見物人が殺到したという。

中世以後、天皇家の力が衰えると荒れ放題となる陵墓もあり、周濠が溜池として用いられる例や、中には伝安閑陵古墳(高屋城)のように戦国大名の城として改造されたものまであった。幕末の「文久の修陵」の際には陵墓や周濠が私有地化して中には耕作されている事例もあり、最終的には修陵時に強制的に買い上げられることになるが、そこに至る前に耕作している農民やそこから年貢を得ていた旗本との複雑な交渉を行う必要があった。

陵墓が今日のように整備され、管理が強化されるようになったのは明治以後のことである。明治以後も陵墓を原因とした現地住民との軋轢を抑えるために、陵墓や周濠に影響を与えない範囲での灌漑用水としての利用や陵墓の清掃を名目とした枯枝や芝草の刈取りを限定的に認める事例もあった[5]

現在は全国の陵墓所在地を5つに分け、宮内庁書陵部

が管理を行っている。

陵墓への立ち入りは宮内庁により厳しく制限されている。考古学的調査に関しても、補修工事などを除いて原則許可されない。特に発掘調査については、原則として全面禁止の方針が打ち出されている。宮内庁は「現に皇室において祭祀が継続して行われている」「静安と尊厳の保持が最も重要なことであり、したがって部外者に陵墓を発掘させたり立ち入らせたりすることは慎むべき」という理由で、学術調査の認可に対して厳しい制限を設けている[6]。また2010年(平成22年)にも、当時の風岡典之次長が「陵墓指定の見直しは考えていない」と、発掘調査について否定的見解を示した[7]

これまで学術調査が認可された陵墓を以下に挙げる。この他にも認可例はあるが、ごく少数である。

祭祀[編集]

築造された当時の古墳でどのような祭祀が行われていたかについては、諸説あるが定説をみるに至っていない。

日本書紀天武天皇即位前紀には、壬申の乱に際して大海人皇子(後の天武天皇)が神武天皇陵に馬と武器を奉って戦勝祈願を行った記事がみえる。

律令期以降、各陵墓に対しては荷前の幣(のさきのへい)と呼ばれる国家による祭祀が行われていた。この祭祀はすべての陵墓に等しく行われたのではなく、重要視されたものは近陵・近墓、そうでないものは遠陵・遠墓とのランク分けがなされ、祭祀に際しての貢物の量が異なっていた。祭祀に際しては貴族が派遣されることになっており、その役目を荷前の使と呼んだ。しかし、陵墓に対する「墓=死=穢れ」といったイメージが貴族たちに嫌われ、更に荷前の奉納が秋から冬にかけての寒い時期の儀式であったことから、次第に忌避されるようになり、陵墓の所在が不明確になっていく理由のひとつになった[注釈 3]。荷前の制度は、形骸化しつつも1350年正平5年)まで継続した。

平安期以降、仏寺に営まれた陵墓においては僧侶による仏教祭祀が行われた。現在宮内庁が管理する陵墓には、門跡寺院の墓地内に営まれた江戸期の皇族墓も多いが、これらも同様である。

陵墓と、その被葬者を祭神とする神社が隣接または一体化していた例もみられる。応神天皇陵後円部に隣接する誉田八幡宮は、祭神である八幡神(応神天皇霊)の御廟として陵墓を祀ってきた。1801年享和元年)の『河内名所図会』には、社殿背後の陵墓後円部頂上に堂が建てられ、そこまで階段が設けられている様が描かれている。当時は大祭に際して頂上の堂まで神輿渡御しており、現在でも毎年9月の秋季例大祭の夜、神輿が宮内庁管理下の陵墓兆域内まで渡御する。天智天皇陵には江戸時代、天智天皇を祭る祠があり、巫女による湯立て神事などが行われていたという[8]。他に、神代三山陵のひとつ天津日高彦火瓊瓊杵尊陵(可愛山陵)と新田神社彦五瀬命墓と竈山神社、百舌鳥陵墓参考地(百舌鳥御廟山古墳)と百舌鳥八幡宮崇道天皇陵と崇道天王社(明治期に近くの嶋田神社に合祀)、以仁王墓と高倉神社などの例がある。

明治以後、国家による陵墓祭祀が復活し、被葬者の崩御・薨去から3年・5年・10年・20年・30年・40年・50年・100年・以後100年ごとに式年祭、毎年の祥月命日に正辰祭が行われている。天皇陵における式年祭には勅使が参向し、宮内庁幹部、ゆかりのある寺社住職宮司、地元有力者らが参列するほか、皇族が参列する場合もある。天皇の式年祭に際しては、同時刻に宮中三殿のひとつ皇霊殿でも天皇親祭による儀式が行われる。正辰祭については、おもに現地の宮内庁書陵部職員のみで行う。

国家によるものとは別に、個別の陵墓にまつわる民間信仰が現在まで存続している例もある。舒明天皇陵について合田安吉『歴代御陵めぐり』(1936年(昭和11年)大文館書店)は「古来より里人伝へて言ふに、此の御陵に逆上の病を祈ると験ありと称して陵下に詣で、或は清酒、洗米を供し燈明を献じ祈るもの多く、今日に至るも尚祈るものあり」と述べているが、現在も同陵の脇に宮内庁管理外の手水場が設置されている。また、大吉備津彦命墓の兆域内にある石仏群「穴観音」は、現在も参拝者があるため、その部分だけ陵墓兆域内に立入りできるようになっており、賽銭箱も設置されている。安徳天皇陵との伝承がある西市陵墓参考地では、毎年4月25日前後に地元住民により「先帝祭」が行われ、地元神社の宮司が祭事を執行している。

修陵[編集]

「修陵」とは、荒れ果てた陵を修繕することである。江戸時代の元禄万治延宝享保文久などの各時期に修陵事業が行われた。中でも、幕末の「文久の修陵」は、大がかりな土木工事を伴った。

元禄の修陵[編集]

水戸藩主の徳川光圀は元禄期に幕府へ陵墓の修理を願い出たが許可されず、代わって幕府が1697年(元禄10年)~1699年(元禄12年)に修陵を行った。その報告書として細井知慎諸陵周垣成就記』がある。

1772年(明和9年)に飛鳥吉野を旅した本居宣長は、その旅行記『菅笠日記』のなかで、元禄以来二十年に一度ほど陵墓の修理や調査が行われていることに言及している。

文久の修陵[編集]

宇都宮藩の建議で幕府が1862年(文久2年)から行った事業が「文久の修陵」である。こうした事業を幕府が許可した背景には、幕末という当時の世情が大きく影響している。この際に、各陵の工事前と工事後の様子を絵師に描かせ、上下二卷にまとめて1867年(慶応3年)に朝廷と幕府に献上したものがいわゆる「文久山陵図」である。現在、朝廷献上本は宮内庁書陵部の、幕府献上本は国立公文書館の所蔵となっている。2005年(平成17年)に国立公文書館本を元版とする『文久山陵図』が出版された。

文久の修陵で多少でも手が加わったのは109か所におよぶ。天皇陵だけでも、山城34、大和34、河内24、和泉3、摂津1、丹波2で全部で76か所となっている。

山陵探索・治定[編集]

現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。

江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林本居宣長蒲生君平北浦定政谷森善臣平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。

現在の学問的水準からみれば問題の多い江戸時代の治定作業ではあるが、それらは決していい加減なものではなく、天皇陵について記載された文献資料を集め、それと地名や土地の伝承などを照らし合わせることで行われており、当時としてはかなりの高水準のものであった。

現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵、天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。平安時代~室町時代のものは、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多く、ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する。後白河天皇法住寺陵後醍醐天皇塔尾陵などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派である。

治定見直しに於ける問題点[編集]

現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の同定が可能となった。

宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」とし、治定見直しを拒絶している[9]。近年では、「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」[10]としている。

天皇陵指定を受けていないが、天皇陵と推定されている古墳には、主に以下のものが該当する。

治定見直しに伴う指定の変更[編集]

宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。

陵墓の治定替え又は治定解除は1912年(明治45年)1月が最後となっており、それ以降は治定替え・治定解除は一度も行われていない。陵墓参考地の治定替え・治定解除も1955年(昭和30年)8月以来行われていない[11]

治定見直しに伴って、治定替えにより天皇陵とされた古墳には、主に以下のものが該当する。

  • 天武・持統天皇檜隈大内陵:野口王墓古墳(奈良県明日香村) - これに伴い見瀬丸山古墳が天皇陵から陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)に変更されている
  • 文武天皇檜隈安古岡上陵:栗原塚穴古墳(奈良県明日香村) - それまでは野口王墓古墳が檜隈安古岡上陵とされていた[12]

宮内庁管理の天皇陵一覧[編集]

天皇名・陵名・読み・形式・所在地は宮内庁-天皇陵による。文徳天皇までの陵名は一部を除き『延喜式』・『諸陵式』記載に同じ。また、古墳名・治定時期は政府答弁等による[13]

代数 天皇名 陵名(読み) 形式 所在地 治定時期 備考 宮内庁
上古(飛鳥以前)
1 神武天皇 畝傍山東北陵
(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
円丘 奈良県橿原市大久保町 文久年間 四条ミサンザイ古墳
(神武田古墳)
[1]
2 綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵
(つきだのおかのえのみささぎ)
円丘 奈良県橿原市四条町 1878年2月28日 四条塚山古墳 [2]
3 安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵
(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)
山形 奈良県橿原市吉田町 文久年間 [3]
4 懿德天皇 畝傍山南纖沙溪上陵
(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
山形 奈良県橿原市西池尻町 文久年間 [4]
5 孝昭天皇 掖上博多山上陵
(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)
山形 奈良県御所市三室 元禄年間 [5]
6 孝安天皇 玉手丘上陵
(たまてのおかのえのみささぎ)
円丘 奈良県御所市玉手 文久年間 [6]
7 孝靈天皇 片丘馬坂陵
(かたおかのうまさかのみささぎ)
山形 奈良県北葛城郡王寺町本町3 元禄年間 [7]
8 孝元天皇 劔池嶋上陵
(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)
山形 奈良県橿原市石川町 元禄年間 中山塚1-3号墳 [8]
9 開化天皇 春日率川坂上陵
(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)
前方後円 奈良県奈良市油阪町 元禄年間 念仏寺山古墳 [9]
10 崇神天皇 山邊道勾岡上陵[14]
(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)
前方後円 奈良県天理市柳本町 文久年間 行燈山古墳 [10]
11 垂仁天皇 菅原伏見東陵
(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
前方後円 奈良県奈良市尼辻西町 元禄年間 宝来山古墳 [11]
12 景行天皇 山邊道上陵
(やまのべのみちのえのみささぎ)
前方後円 奈良県天理市渋谷町 文久年間 渋谷向山古墳 [12]
13 成務天皇 狹城盾列池後陵
(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
前方後円 奈良県奈良市山陵町 元禄年間 佐紀石塚山古墳 [13]
14 仲哀天皇 惠我長野西陵
(えがのながののにしのみささぎ)
前方後円 大阪府藤井寺市藤井寺4 文久年間 岡ミサンザイ古墳 [14]
15 應神天皇 惠我藻伏崗陵
(えがのもふしのおかのみささぎ)
前方後円 大阪府羽曳野市誉田6 元禄年間 誉田御廟山古墳 [15]
16 仁德天皇 百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらのなかのみささぎ)
前方後円 大阪府堺市堺区大仙町 元禄年間 大山古墳 [16]
17 履中天皇 百舌鳥耳原南陵
(もずのみみはらのみなみのみささぎ)
前方後円 大阪府堺市西区石津ヶ丘 元禄年間 石津丘古墳 [17]
18 反正天皇 百舌鳥耳原北陵
(もずのみみはらのきたのみささぎ)
前方後円 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2 元禄年間 田出井山古墳 [18]
19 允恭天皇 惠我長野北陵
(えがのながののきたのみささぎ)
前方後円 大阪府藤井寺市国府1 文久年間 市ノ山古墳 [19]
20 安康天皇 菅原伏見西陵
(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
方丘 奈良県奈良市宝来4 文久年間 [20]
21 雄略天皇 丹比高鷲原陵
(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
円丘 大阪府羽曳野市島泉8 元禄年間 高鷲丸山古墳 [21]
22 清寧天皇 河内坂門原陵
(こうちのさかどのはらのみささぎ)
前方後円 大阪府羽曳野市西浦6 元禄年間 白髪山古墳 [22]
23 顯宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)
前方後円 奈良県香芝市北今市 1889年6月1日 [23]
24 仁賢天皇 埴生坂本陵
(はにゅうのさかもとのみささぎ)
前方後円 大阪府藤井寺市青山3 文久年間 野中ボケ山古墳 [24]
25 武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵
(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
山形 奈良県香芝市今泉 1889年6月1日 [25]
26 繼體天皇 三嶋藍野陵
(みしまのあいののみささぎ)
前方後円 大阪府茨木市太田3 享保年間 太田茶臼山古墳 [26]
27 安閑天皇 古市高屋丘陵
(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
前方後円 大阪府羽曳野市古市5 元禄年間 高屋築山古墳 [27]
28 宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵
(むさのつきさかのえのみささぎ)
前方後円 奈良県橿原市鳥屋町 元禄年間 鳥屋ミサンザイ古墳 [28]
29 欽明天皇 檜隈坂合陵
(ひのくまのさかあいのみささぎ)
前方後円 奈良県高市郡明日香村大字平田 文久年間 平田梅山古墳 [29]
30 敏達天皇 河内磯長中尾陵
(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
前方後円 大阪府南河内郡太子町大字太子 元禄年間 太子西山古墳 [30]
31 用明天皇 河内磯長原陵
(こうちのしながのはらのみささぎ)
方丘 大阪府南河内郡太子町大字春日 元禄年間 春日向山古墳 [31]
32 崇峻天皇 倉梯岡陵[15]
(くらはしのおかのみささぎ)
円丘 奈良県桜井市大字倉橋 1889年7月16日 [32]
飛鳥時代
33 推古天皇 磯長山田陵
(しながのやまだのみささぎ)
方丘 大阪府南河内郡太子町大字山田 元禄年間 山田高塚古墳 [33]
34 舒明天皇 押坂内陵
(おさかのうちのみささぎ)
上円下方
八角
奈良県桜井市大字忍坂 元禄年間 段ノ塚古墳 [34]
35 皇極天皇
→重祚して齊明天皇
36 孝徳天皇 大阪磯長陵
(おおさかのしながのみささぎ)
円丘 大阪府南河内郡太子町大字山田 元禄年間 山田上ノ山古墳 [35]
37 斉明天皇 越智崗上陵
(おちのおかのえのみささぎ)
円丘 奈良県高市郡高取町大字車木 文久年間 車木ケンノウ古墳 [36]
38 天智天皇 山科陵
(やましなのみささぎ)
上円下方
(八角)
京都府京都市山科区御陵上御廟野町 元禄年間 御廟野古墳 [37]
39 弘文天皇 長等山前陵[注釈 4]
(ながらのやまさきのみささぎ)
円丘 滋賀県大津市御陵町 1877年6月15日 園城寺亀丘古墳 [38]
40 天武天皇 檜隈大内陵
(ひのくまのおおうちのみささぎ)
上円下方
(八角)
奈良県高市郡明日香村大字野口 1881年2月15日 野口王墓古墳
(持統天皇と合葬)
[39]
41 持統天皇 檜隈大内陵
(ひのくまのおおうちのみささぎ)
上円下方
(八角)
奈良県高市郡明日香村大字野口 1881年2月15日 野口王墓古墳
(天武天皇と合葬)
[40]
42 文武天皇 檜隈安古岡上陵
(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)
山形 奈良県高市郡明日香村大字栗原 1881年2月15日 栗原塚穴古墳 [41]
奈良時代
43 元明天皇 奈保山東陵
(なほやまのひがしのみささぎ)
山形 奈良県奈良市奈良阪町 [42]
44 元正天皇 奈保山西陵
(なほやまのにしのみささぎ)
山形 奈良県奈良市奈良阪町 [43]
45 聖武天皇 佐保山南陵
(さほやまのみなみのみささぎ)
山形 奈良県奈良市法蓮町 元禄年間 法蓮北畑古墳 [44]
46 孝謙天皇
→重祚して稱德天皇
47 淳仁天皇
[注釈 5]
淡路陵
(あわじのみささぎ)
山形 兵庫県南あわじ市 [45]
48 稱德天皇 高野陵
(たかののみささぎ)
前方後円 奈良県奈良市山陵町 文久年間 佐紀高塚山古墳 [46]
49 光仁天皇 田原東陵
(たはらのひがしのみささぎ)
円丘 奈良県奈良市日笠町 元禄年間 田原塚ノ本古墳 [47]
平安時代
50 桓武天皇 柏原陵
(かしわばらのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎 [48]
51 平城天皇 楊梅陵
(やまもものみささぎ)
円丘 奈良県奈良市佐紀町 文久年間 市庭古墳 [49]
52 嵯峨天皇 嵯峨山上陵[注釈 6]
(さがのやまのえのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町 [50]
53 淳和天皇 大原野西嶺上陵[注釈 7]
(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)
円丘 京都府京都市西京区大原野南春日町 [51]
54 仁明天皇 深草陵
(ふかくさのみささぎ)
方形 京都府京都市伏見区深草東伊達町 [52]
55 文德天皇 田邑陵
(たむらのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区太秦三尾町 太秦三尾古墳 [53]
56 清和天皇 水尾山陵
(みずのおやまのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区嵯峨水尾清和 [54]
57 陽成天皇 神樂岡東陵
(かぐらがおかのひがしのみささぎ)
八角丘 京都府京都市左京区浄土寺真如町 [55]
58 光孝天皇 後田邑陵
(のちのたむらのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区宇多野馬場町 [56]
59 宇多天皇 大内山陵
(おおうちやまのみささぎ)
方丘 京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷 [57]
60 醍醐天皇 後山科陵
(のちのやましなのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区醍醐古道町 [58]
61 朱雀天皇 醍醐陵
(だいごのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町 [59]
62 村上天皇 村上陵
(むらかみのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷 [60]
63 冷泉天皇 櫻本陵
(さくらもとのみささぎ)
円丘 京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町、鹿ヶ谷西寺ノ前町 [61]
64 圓融天皇 後村上陵
(のちのむらかみのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区宇多野福王子町 [62]
65 花山天皇 紙屋川上陵
(かみやがわのほとりのみささぎ)
方丘 京都府京都市北区衣笠北高橋町 [63]
66 一條天皇 圓融寺北陵
(えんゆうじのきたのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区龍安寺朱山
龍安寺内)
[64]
67 三條天皇 北山陵
(きたやまのみささぎ)
円丘 京都府京都市北区衣笠西尊上院町 [65]
68 後一條天皇 菩提樹院陵
(ぼだいじゅいんのみささぎ)
円丘 京都府京都市左京区吉田神楽岡町 1889年7月20日 [66]
69 後朱雀天皇 圓乘寺陵
(えんじょうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区龍安寺朱山
(龍安寺内)
[67]
70 後冷泉天皇 圓教寺陵
(えんきょうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区龍安寺朱山
(龍安寺内)
[68]
71 後三條天皇 圓宗寺陵
(えんそうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区龍安寺朱山
(龍安寺内)
[69]
72 白河天皇 成菩提院陵
(じょうぼだいいんのみささぎ)
方丘 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町 [70]
73 堀河天皇 後圓教寺陵
(のちのえんきょうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区龍安寺朱山
(龍安寺内)
[71]
74 鳥羽天皇 安樂壽院陵
(あんらくじゅいんのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町 [72]
75 崇德天皇 白峯陵
(しらみねのみささぎ)
方丘 香川県坂出市青海町 [73]
76 近衞天皇 安樂壽院南陵
(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)
多宝塔 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町 [74]
77 後白河天皇 法住寺陵
(ほうじゅうじのみささぎ)
方形堂 京都府京都市東山区三十三間堂廻り町 [75]
78 二條天皇 香隆寺陵
(こうりゅうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市北区平野八丁柳町 [76]
79 六條天皇 清閑寺陵
(せいかんじのみささぎ)
円丘 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 [77]
80 高倉天皇 後清閑寺陵
(のちのせいかんじのみささぎ)
方丘 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 [78]
81 安德天皇 阿彌陀寺陵
(あみだじのみささぎ)
円丘 山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮 [79]
鎌倉時代
82 後鳥羽天皇 大原陵
(おおはらのみささぎ)
石造十三重塔 京都府京都市左京区大原勝林院町 [80]
83 土御門天皇 金原陵
(かねがはらのみささぎ)
八角丘 京都府長岡京市金ヶ原金原寺 [81]
84 順德天皇 大原陵
(おおはらのみささぎ)
円丘 京都府京都市左京区大原勝林院町 [82]
85 仲恭天皇 九條陵
(くじょうのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区深草本寺山町 [83]
86 後堀河天皇 觀音寺陵
(かんおんじのみささぎ)
円丘 京都府京都市東山区今熊野泉山町
泉涌寺内)
[84]
87 四條天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[85]
88 後嵯峨天皇 嵯峨南陵
(さがのみなみのみささぎ)
方形堂 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
天龍寺内)
[86]
89 後深草天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 [87]
90 龜山天皇 龜山陵
(かめやまのみささぎ)
方形堂 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
(天龍寺内)
[88]
91 後宇多天皇 蓮華峯寺陵
(れんげぶじのみささぎ)
方形堂
石造五輪塔
京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町 [89]
92 伏見天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [90]
93 後伏見天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [91]
94 後二條天皇 北白河陵
(きたしらかわのみささぎ)
円丘 京都府京都市左京区北白川追分町 [92]
95 花園天皇 十樂院上陵
(じゅうらくいんのうえのみささぎ)
円丘 京都府京都市東山区粟田口三条坊町 [93]
南北朝
96 後醍醐天皇 塔尾陵
(とうのおのみささぎ)
円丘 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾
如意輪寺内)
[94]
97 後村上天皇 檜尾陵
(ひのおのみささぎ)
円丘 大阪府河内長野市寺元
観心寺内)
[95]
98 長慶天皇 嵯峨東陵
(さがのひがしのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町 [96]
99 後龜山天皇 嵯峨小倉陵
(さがのおぐらのみささぎ)
石造五輪塔 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町 [97]
北1 光厳天皇 山国陵
(やまくにのみささぎ)
円丘 京都府京都市右京区京北井戸町丸山
常照皇寺内)
北2 光明天皇 大光明寺陵
(だいこうみょうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区桃山町秦長老
北3 崇光天皇 大光明寺陵
(だいこうみょうじのみささぎ)
円丘 京都府京都市伏見区桃山町秦長老
北4 後光厳天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬
北5 後圓融天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬
北6
100
後小松天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [98]
室町時代戦国時代
101 稱光天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [99]
102 後花園天皇 後山國陵
(のちのやまくにのみささぎ)
石造宝篋印塔 京都府京都市右京区京北井戸町丸山
(常照皇寺内)
[100]
103 後土御門天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [101]
104 後柏原天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [102]
105 後奈良天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [103]
106 正親町天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [104]
江戸時代
107 後陽成天皇 深草北陵
(ふかくさのきたのみささぎ)
方形堂 京都府京都市伏見区深草坊町 後深草天皇と合葬 [105]
108 後水尾天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
泉涌寺内)
[106]
109 明正天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[107]
110 後光明天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[108]
111 後西天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[109]
112 靈元天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[110]
113 東山天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[111]
114 中御門天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[112]
115 櫻町天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[113]
116 桃園天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[114]
117 後櫻町天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[115]
118 後桃園天皇 月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[116]
119 光格天皇 後月輪陵
(のちのつきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[117]
120 仁孝天皇 後月輪陵
(のちのつきのわのみささぎ)
石造九重塔 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[118]
121 孝明天皇 後月輪東山陵
(のちのつきのわのひがしのみささぎ)
円丘 京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
[119]
明治以降
122 明治天皇 伏見桃山陵
(ふしみのももやまのみささぎ)
上円下方 京都府京都市伏見区桃山町古城山 [120]
123 大正天皇 多摩陵
(たまのみささぎ)
上円下方 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地 [121]
124 昭和天皇 武蔵野陵
(むさしののみささぎ)
上円下方 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地 [122]

神代三山陵[編集]

神代三山陵(じんだいさんさんりょう)は、神武天皇の曽祖父祖父にあたる天津日高彦火瓊瓊杵尊天津日高彦火火出見尊彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の神代三代を葬る陵。すべて鹿児島県内に治定されている。

名称 陵名(読み) 所在地
天津日高彦火瓊瓊杵尊 可愛山陵
(えのやまのみささぎ)
鹿児島県薩摩川内市宮内町
天津日高彦火火出見尊 高屋山上陵
(たかやのやまのえのみささぎ)
鹿児島県霧島市溝辺町麓
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 吾平山上陵
(あいらのやまのうえのみささぎ)
鹿児島県鹿屋市吾平町

陵墓参考地[編集]

陵墓参考地」を参照。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1947年(昭和22年)5月2日に廃止された皇室陵墓令大正15年皇室令第12号)で第1條「天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス」、第2條「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳塋ヲ墓トス」と定められていた。墳塋(ふんえい)は墓のこと。
  2. ^ 日本武尊の墓として治定されているのは三重県亀山市所在の「能褒野墓」であるが、それとは別に白鳥伝承に基づく「白鳥陵」が、奈良県御所市大阪府羽曳野市の二箇所に治定されている。
  3. ^ 外池昇は形骸化したとは言え荷前が14世紀まで続いていることや、『江家次第』や一部の日記(『小右記』治安3年12月9日条・『内弁侍日記』建長2年12月16日条)が荷前が厳冬の旧暦12月に行われたことによる困難さを示す記述の存在を挙げて、有職故実書などが強調する「穢れ」の問題だけを取り上げることの問題点を指摘している。(外池昇「陵墓観の変遷」(『成城文芸』第115号(成城大学文芸学部、1986年(昭和61年))/改題「陵墓の〈浄〉と〈穢〉」(外池『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)))
  4. ^ 「弘文天皇」は1870年(明治3年)に贈られた諡号であり、それまで歴代天皇に列せられていなかったため、延喜式諸陵式には未記載。
  5. ^ 延喜式諸陵式には「廃帝」と記されている。
  6. ^ 遺詔により山陵を興さず薄葬された。現在の陵は幕末に治定、修陵されたもの。
  7. ^ 遺詔により山陵を興さず散骨された。現在の陵は幕末に修陵されたもの。

出典[編集]

  1. ^ 大和発掘物語:五社神古墳/上 研究者が“歴史的な一歩 /奈良、毎日新聞、2013年3月13日
  2. ^ 山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」 所収:角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』(思文閣出版2011年(平成23年))
  3. ^ NHK NEWS WEB 2012年(平成24年)4月26日[リンク切れ]
  4. ^ YOMIURI ONLINE(読売新聞)2013年(平成25年)11月14日
  5. ^ 外池昇「村落と陵墓-明治政府の陵墓政策-」『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)) ISBN 978-4-642-03672-6 (原論文・1989年 - 1995年(平成7年))
  6. ^ 参議院会議録情報 第159回国会 内閣委員会 第4号2004年(平成16年)3月24日
  7. ^ 陵墓見直し「今の時点で考えず」 宮内庁次長47NEWS、2010年12月13日
  8. ^ 上野竹次郎『山陵』1925年(大正14年)山陵崇敬会
  9. ^ 外池昇『天皇陵論-聖域か文化財か-』(2007年(平成19年)、新人物往来社)などによる
  10. ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する質問に対する答弁書、内閣衆質176第1号、2010年10月12日
  11. ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対する答弁書、内閣衆質176第177号、2010年11月26日
  12. ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問に対する答弁書、内閣衆質176第217号、2010年12月10日
  13. ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓に治定されている古墳の祭祀に関する質問に対する答弁書、内閣衆質175第38号、2010年8月20日
  14. ^ 古事記による陵墓名。日本書紀および延喜式諸陵式では景行天皇陵と同じ「山邊道上陵」
  15. ^ 宮内庁御陵印の印面は「崇峻天皇倉梯岡上陵」。昭和31年版宮内庁『陵墓要覧』まで「倉梯岡上陵」とあったのが改号されている。

外部リンク[編集]