天皇陵

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大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)

天皇陵(てんのうりょう)とは、天皇として宮内庁が指定している考古学者の調査を含め、一般の立ち入りは厳しく制限されている。また大仙陵古墳など、実際に天皇あるいは皇族であるか不明という見解もある。

目次

[編集] 概要

現在の宮内庁による区分では、天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后太皇太后皇太后のものを陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王などの皇族のものを墓(はか・ぼ)と呼ぶ。

また、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓の他にも、「追尊天皇」・「尊称天皇」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代とも、瓊々杵尊彦火火出見尊彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の墓所の一部および飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。

これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地、などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という。

陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基であり、天皇、皇后、皇子名を合葬したものを差し引くと合計85基ある。

宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112、皇后陵など76で計188。皇族等の墓が552。準陵が42、髪歯爪塔などが68、伝承などから陵墓の可能性がある陵墓参考地が46あり、総数は896である。同じ場所に所在するものもあるので、箇所数は458となる。

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。しかしながら調査の許可を求める考古学界の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている。

陵墓の名前などは、下記の宮内庁管理の天皇陵一覧参照。

[編集] 変遷

北白川陵(後二條天皇陵)
泉涌寺山内の月輪陵。後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている

天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳であった(9代開化陵~30代敏達陵)と考古学者は言っている。7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳円墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで天皇陵には八角墳が採用されるようになる(舒明陵の段ノ塚古墳、天智陵の御廟野古墳、天武・持統合葬陵の野口王墓古墳、文武陵の中尾山古墳)。このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一般の首長を超越して中国の天子のような唯一の最高権力者として地位を確立しようとして形に表したという解釈がある。[要出典]

奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(嵯峨天皇淳和天皇)などが見られるようになる。また、都周辺の特定の地域に陵墓地区を設けることが行われ、奈良時代の天皇陵の多くが平城京の北郊に築かれ、長岡京でも同様の北郊に天皇陵が築かれる予定であった(長岡京で崩御した天皇はいないが、桓武天皇の生母・后妃の陵墓が存在する)。平安京にも同様の計画があったとされているが、在地豪族らの反対もあって断念され、以後の天皇も自身とゆかりのある場所の近くに陵墓を造営するようになった[1]

院政期の白河天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇陵では、天智天皇陵に範を取ったといわれる上円下方式が採用され、以降、今日に至っている。また、皇后陵は中国の古式に則って(例西太后の「定陵」)天皇陵の東に造営されることになった。そのため皇后陵は「○○東陵(○○のひがしのみささぎ)」と呼ばれる。

大正天皇以後、天皇・皇后のは現東京都八王子市の御料地内に作られることになり、武蔵陵墓地が成立した。一方、皇族の明治天皇の皇子の薨去を契機として現東京都文京区大塚の護国寺裏山に設けられることとなり、現在、豊島岡墓地となっている。

[編集] 管理

陵墓が今日のように整備され、管理が強化されるようになったのは明治以後のことである。律令制下においては、天皇陵をはじめとする陵墓は国家によって管理されることになっており、大宝令養老令では担当部署として治部省下に諸陵司が置かれている。その後、天平年間には諸陵司が拡充され、諸陵寮となった。平安時代前期に編纂された延喜式には、諸陵寮管理下の陵墓の一覧表が記載されているが、このころの墓には外戚(皇妃の実家:藤原氏など)の墓も含まれている。管理の具体的内容としては、陵戸・墓戸の設置がある。醍醐天皇陵の管理が醍醐寺に委ねられて以後、寺院内に造営された陵墓の管理は所領を与える条件で各寺院に任されることになり、陵墓管理が国家の手から離れていく要因となった。

一方、各陵墓に対しては荷前の幣(のさきのへい)と呼ばれる国家による祭祀が行われていた。この祭祀はすべての陵墓に等しく行われたのではなく、重要視されたものは近陵・近墓、そうでないものは遠陵・遠墓とのランク分けがなされ、祭祀に際しての貢物の量が異なっていた。祭祀に際しては貴族が派遣されることになっており、その役目を荷前の使と呼んだ。しかし、陵墓に対する「墓=死=穢れ」といったイメージが貴族たちに嫌われ、更に荷前の奉納が秋から冬にかけての寒い時期の儀式であったことから、次第に忌避されるようになり、陵墓の所在が不明確になっていく理由のひとつになった[注釈 1]

中世になり天皇家の力が衰えると荒れ放題となる陵墓もあり、周濠が溜池として用いられる例や中には伝安閑陵古墳のように戦国大名の城として改造されたものまであった。幕末の「文久の修陵」(後述)の際には陵墓や周濠が私有地化して中には耕作されている事例もあり、最終的には修陵時に強制的に買い上げられることになるが、そこに至る前に耕作している農民やそこから年貢を得ていた藩や旗本との複雑な交渉を行う必要があった。明治以後も陵墓を原因とした現地住民との軋轢を抑えるために、陵墓や周濠に影響を与えない範囲での灌漑用水としての利用や陵墓の清掃を名目とした枯枝や芝草の刈取りを限定的に認める事例もあった[2]

現在は全国の陵墓所在地を5つに分け、宮内庁書陵部

  • 多摩陵墓監区事務所(東京都八王子市・武蔵陵墓地=大正天皇陵・昭和天皇陵、管轄=山形・新潟・栃木・東京・神奈川・長野)
  • 桃山陵墓監区事務所(京都市伏見区・桃山陵墓地=明治天皇陵・昭憲皇太后陵、管轄=京都・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・宮崎・鹿児島)、
  • 畝傍陵墓監区事務所(奈良県橿原市・神武天皇陵=奈良・三重・岐阜・愛知・静岡)、
  • 月輪(つきのわ)陵墓監区事務所(京都市東山区・泉山陵墓地=孝明天皇陵・月輪陵、管轄=富山・石川・滋賀・京都・兵庫・鳥取・島根)、
  • 古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市・応神天皇陵、管轄=大阪・兵庫・和歌山・香川・徳島・愛媛・高知)

が管理を行っている。

陵墓への立ち入りは宮内庁により厳しく制限されている。考古学的調査に関しても、補修工事などを除けば、原則許可されない。特に発掘調査については、原則として全面禁止の方針が打ち出されている。宮内庁は「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で学術調査の認可に対して、厳しい制限を設けている(2004年(平成16年)参議院内閣委員会 共産党吉川議員の質疑に対する羽毛田信吾宮内庁次長答弁)。また2010年(平成22年)にも、風岡典之次長が「陵墓指定の見直しは考えていない」と、発掘調査について否定的見解を示した。

これまで学術調査が認可された陵墓を以下に挙げる。この他にも認可例はあるが、ごく少数である。

[編集] 修陵

「修陵」とは、荒れ果てた陵を修繕することである。江戸時代の元禄万治延宝享保文久などの各時期に修陵事業が行われた。中でも、幕末の「文久の修陵」は、大がかりな土木工事を伴った。

水戸藩主の徳川光圀元禄期に幕府へ陵墓の修理を願い出たが、この時には許可されず、代わって幕府が行っている。

[編集] 文久の修陵

宇都宮藩の建議で幕府が1862年(文久2年)から行った事業が「文久の修陵」である。こうした事業を幕府が許可した背景には、幕末という当時の世情が大きく影響している。この際に、各陵の工事前と工事後の様子を絵師に描かせ、上下二卷にまとめて1867年(慶応3)朝廷と幕府に献上したものがいわゆる「文久山陵図」である。現在、朝廷献上本は宮内庁書陵部の、幕府献上本は国立公文書館の所蔵となっている。2005年(平成17年)に国立公文書館本を元版とする『文久山陵図』が出版された。

文久の修陵で多少でも手が加わったのは109か所におよぶ。天皇陵だけでも、山城34、大和34、河内24、和泉3、摂津1、丹波2で全部で76か所となっている。

[編集] 山陵探索・治定

現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。

江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林本居宣長蒲生君平北浦定政谷森善臣平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、江戸幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。

現在の学問的水準からみれば問題の多い江戸時代の治定作業ではあるが、それらは決していい加減なものではなく、天皇陵について記載された文献資料を集め、それと地名や土地の伝承などを照らし合わせることで行われており、当時としてはかなりの高水準のものであった。

現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵、天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。平安時代~室町時代のものは、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多く、ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する。後白河天皇法住寺陵後醍醐天皇塔尾陵などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派である。

[編集] 治定見直しに於ける問題点

現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の同定が可能となった。

宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」とし、天皇陵の治定見直しを拒絶している[3]。近年では、「墓誌など被葬者を特定できるような確実な証拠が発見されなければ、見直す状況にはならない」とし[4]、証拠の発見など、状況によっては天皇陵の治定見直しを行う可能性もあることを示唆している。考古学界も天皇陵指定を受けていない天皇陵と推定されている古墳に関しては、墓誌などが出土したわけではないので、あくまでも推定でしかないとの立場を取っている。このため、学界内部に於いても、治定見直しを行うような論議は一切行われていない。

天皇陵指定を受けていないが、天皇陵と推定されている古墳には、主に以下のものが該当する。

  • 文武天皇陵…中尾山古墳(奈良県明日香村)
  • 継体天皇陵…今城塚古墳(大阪府高槻市)
  • 斉明天皇陵…牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)
  • 推古天皇陵…植山古墳(奈良県橿原市) - ここが初葬地で後に現推古陵へ改葬されたとする説もある

[編集] 治定見直しに伴う指定の変更

宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。

陵墓の指定変更は1912年が最後となっており、戦後は治定見直しに伴う指定の変更は一度も行われていない。陵墓参考地の指定変更も1955年(昭和30年)以来行われていない。

治定見直しに伴って、指定変更により天皇陵とされた古墳には、主に以下のものが該当する。

[編集] 宮内庁管理の天皇陵一覧

注:陵墓名・形式・所在地は宮内庁-天皇陵による。文徳天皇までの陵墓名は一部例外を除き延喜式・諸陵式記載に同じ。また、古墳名は一例である。

[編集] 古代

天皇名 陵墓名 形式 古墳名 所在地
神武 畝傍山東北陵 円丘 山本ミサンザイ古墳(神武田古墳) 奈良県橿原市大久保町
綏靖 桃花島田丘上陵 円丘 塚山古墳 奈良県橿原市四条町
安寧 畝傍西南御陰井上陵 山形   奈良県橿原市吉田町
懿徳 畝傍山南繊沙渓上陵 山形   奈良県橿原市西池尻町
孝昭 掖上博多山上陵 山形   奈良県御所市三室
孝安 玉手丘上陵 円丘   奈良県御所市玉手
孝霊 片丘馬坂陵 山形   奈良県北葛城郡王寺町
孝元 剣池嶋上陵 山形 中山塚1~3号墳 奈良県橿原市石川町
開化 春日率川坂本陵 前方後円 念仏寺山古墳 奈良市油阪町
崇神 山辺道勾岡上陵[5] 前方後円 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町
垂仁 菅原伏見東陵 前方後円 宝来山古墳 奈良市尼辻町
景行 山辺道上陵 前方後円 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町
成務 狭城盾列池後陵 前方後円 佐紀石塚山古墳 奈良市山陵町
仲哀 恵我長野西陵 前方後円 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺4
応神 恵我藻伏崗陵 前方後円 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田
仁徳 百舌鳥耳原中陵 前方後円 大仙陵古墳 大阪府堺市堺区大仙町
履中 百舌鳥耳原南陵 前方後円 上石津ミサンザイ古墳 大阪府堺市西区石津ヶ丘
反正 百舌鳥耳原北陵 前方後円 田出井山古墳 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町
允恭 恵我長野北陵 前方後円 国府市ノ山古墳 大阪府藤井寺市国府
安康 菅原伏見西陵 方丘   奈良市宝来町
雄略 丹比高鷲原陵 円丘 島泉丸山古墳+平塚古墳 大阪府羽曳野市島泉
清寧 河内坂門原陵 前方後円 西浦白髪山古墳 大阪府羽曳野市西浦
顕宗 傍丘磐杯丘南陵 前方後円   奈良県香芝市北今市
仁賢 埴生坂本陵 前方後円 野中ボケ山古墳 大阪府藤井寺市青山
武烈 傍丘磐杯丘北陵 山形   奈良県香芝市今泉
継体 三島藍野陵 前方後円 太田茶臼山古墳 大阪府茨木市大字太田
安閑 古市高屋丘陵 前方後円 高屋築山古墳 大阪府羽曳野市古市5
宣化 身狭桃花鳥坂上陵 前方後円 鳥屋ミサンザイ古墳 奈良県橿原市鳥屋町
欽明 檜隈坂合陵 前方後円 梅山古墳 奈良県高市郡明日香村大字平田
敏達 河内磯長中尾陵 前方後円 太子西山古墳 大阪府南河内郡太子町
用明 河内磯長原陵 方丘 春日向山古墳 大阪府南河内郡太子町
崇峻 倉梯岡陵[6] 円丘   奈良県桜井市大字倉梯
推古 磯長山田陵 方丘 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町
舒明 押坂内陵 八角 忍坂段ノ塚古墳 奈良県桜井市大字忍坂
皇極(→斉明)        
孝徳 大阪磯長陵 円丘 山田上ノ山古墳 大阪府南河内郡太子町
斉明 越智崗上陵 円丘 車木ケンノウ古墳 奈良県高市郡高取町
天智 山科陵 八角 山科御廟野古墳 京都市山科御陵上御廟野町
弘文 長等山前陵[7] 円丘 園城寺亀丘古墳 滋賀県大津市御陵町
天武 檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳 奈良県高市郡明日香村
持統 檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳(天武と合葬) 奈良県高市郡明日香村
文武 檜隈安古岡上陵 山形 栗原塚穴古墳 奈良県高市郡明日香村大字栗原
元明 奈保山東陵 山形   奈良市奈良阪町
元正 奈保山西陵 山形   奈良市奈良阪町
聖武 佐保山南陵 山形   奈良市法蓮町
孝謙(→称徳)        
淳仁[8] 淡路陵 山形   兵庫県南あわじ市
称徳 高野陵 前方後円 佐紀高塚山古墳 奈良市山陵町
光仁 田原東陵 円丘   奈良市日笠町

[編集] 平安時代

天皇名 陵墓名 形式 古墳名 所在地
桓武 柏原陵 円丘   京都市伏見区桃山町
平城 楊梅陵 円丘 市庭古墳 奈良市佐紀町
嵯峨 嵯峨山上陵 円丘   京都市右京区北嵯峨朝原山町
(備考:陵を隠すことが遺詔されたので、厳密な意味の陵は存在しない)
淳和 大原野西嶺上陵 円丘   京都市西京区大原野南春日町
(備考:散骨されたので厳密な意味の陵は存在しない)
仁明 深草陵 方形   京都市伏見区深草東伊達町
文徳 田邑陵 円墳 太秦三尾古墳 京都市右京区太秦三尾町
清和 水尾山陵 円丘   京都市右京区嵯峨水尾清和
陽成 神楽岡東陵 八角丘   京都市左京区浄土寺真如町
光孝 後田邑陵 円丘   京都市右京区宇多野馬場町
宇多 大内山陵 方丘   京都市右京区鳴滝宇多野谷
醍醐 後山科陵 円形   京都市伏見区醍醐古道町
朱雀 醍醐陵 円丘   京都市伏見区醍醐御陵東裏町
村上 村上陵 円丘   京都市右京区鳴滝宇多野谷
冷泉 桜本陵 円丘   京都市左京区鹿ヶ谷法然院町
円融 後村上陵 円丘   京都市右京区宇多野福王子町
花山 紙屋川上陵 方丘   京都市北区衣笠北高橋町
一条 円融寺北陵 円丘   京都市右京区竜安寺
三条 北山陵 円丘   京都市北区衣笠西尊上院町
後一条 菩提樹院陵 円丘   京都市左京区吉田神楽岡町
後朱雀 円乗寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
後冷泉 円教寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
後三条 円宗寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
白河 成菩堤院陵 方丘   京都市伏見区竹田浄菩堤院町
堀河 後円教寺陵 円丘   京都市右京区竜安寺朱山
鳥羽 安楽寿院陵 方形堂   京都市伏見区竹田内畑町
崇徳 白峯陵 方丘   香川県坂出市青海町
近衛 安楽寿院南陵 多宝塔   京都市伏見区竹田内畑町
後白河 法住寺陵 方形堂   京都市東山区三十三間堂廻り町
二条 香隆寺陵 円丘   京都市北区平野八丁柳町
六条 清閑寺陵 円丘   京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
高倉 後清閑寺陵 方丘   京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
安徳 阿弥陀寺陵 円丘   山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮

[編集] 鎌倉時代

天皇名 陵墓名 形式 所在地
後鳥羽 大原陵 石造十三重塔 京都市左京区大原勝林院町
土御門 金原陵 八角丘 京都府長岡京市金ヶ原
順徳 大原陵 円丘 京都府左京区大原勝林院町
仲恭 九条陵 円丘 京都市伏見区深草本寺山町
後堀河 観音寺陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺
四条 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺
後嵯峨 嵯峨南陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺
後深草 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
亀山 亀山陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺
後宇多 蓮華峯寺陵 方形堂・石造五輪塔 京都市右京区北嵯峨朝原山町
伏見 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後伏見 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後二条 北白河陵 円丘 京都市左京区白河追分町
花園 十楽院上陵 円丘 京都市東山区粟田口三条坊町

[編集] 南北朝時代

天皇名 陵墓名 形式 所在地
後醍醐 塔尾陵 円丘 奈良県吉野郡吉野町吉野山 如意輪寺
後村上 檜尾陵 円丘 大阪府河内長野市寺元 観心寺
長慶 嵯峨東陵 円丘 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉
後亀山 嵯峨小倉陵 石造五輪塔 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂
光厳(北1) 山国陵 円丘 京都市右京区京北井戸町丸山
光明(北2) 大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
崇光(北3) 大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
後光厳(北4) 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後円融(北5) 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後小松 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町

[編集] 室町・戦国時代

天皇名 陵墓名 形式 所在地
称光 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後花園 後山国陵 石造宝篋印塔 京都市右京区京北井戸町丸山
後土御門 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後柏原 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後奈良 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
正親町 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町

[編集] 江戸時代

天皇名 陵墓名 形式 所在地
後陽成 深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
後水尾 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺
明正 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
後光明 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
後西 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
霊元 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
東山 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
中御門 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
桜町 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
桃園 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
後桜町 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
後桃園 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
光格 後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
仁孝 後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
孝明 後月輪東山陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内

[編集] 近現代

天皇名 陵墓名 形式 所在地
明治 伏見桃山陵 上円下方 京都市伏見区桃山町
大正 多摩陵 上円下方 東京都八王子市長房町
昭和 武蔵野陵 上円下方 東京都八王子市長房町

[編集] 陵墓参考地

詳細は陵墓参考地を参照ください。

[編集] 脚注

[編集] 注釈

  1. ^ 外池昇は形骸化したとは言え荷前が14世紀まで続いていることや、『江家次第』や一部の日記(『小右記』治安3年12月9日条・『内弁侍日記』建長2年12月16日条)が荷前が厳冬の旧暦12月に行われたことによる困難さを示す記述の存在を挙げて、有職故実書などが強調する「穢れ」の問題だけを取り上げることの問題点を指摘している。(外池昇「陵墓観の変遷」(『成城文芸』第115号(成城大学文芸学部、1986年(昭和61年))/改題「陵墓の〈浄〉と〈穢〉」(外池『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)))

[編集] 出典

  1. ^ 山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」 所収:角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』(思文閣出版2011年(平成23年))
  2. ^ 外池昇「村落と陵墓-明治政府の陵墓政策-」『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)) ISBN 978-4-642-03672-6 (原論文・1989年 - 1995年(平成7年))
  3. ^ 外池昇『天皇陵論-聖域か文化財か-』(2007年(平成19年)、新人物往来社)などによる
  4. ^ 毎日新聞2010年(平成22年)9月10日付での宮内庁のコメント
  5. ^ 日本書紀による陵墓名。延喜式諸陵式では「山辺道上陵」
  6. ^ 宮内庁御陵印の印面は「崇峻天皇倉梯岡上陵」。昭和31年版宮内庁『陵墓要覧』まで「倉梯岡上陵」とあったのが改号されている。
  7. ^ 「弘文天皇」は明治3年に贈られた諡号であり、それまで歴代天皇に列せられていなかったため、延喜式諸陵式には未記載。
  8. ^ 延喜式諸陵式には「廃帝」と記されている。

[編集] 外部リンク

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