村上天皇

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村上天皇
第62代天皇
村上天皇像(永平寺蔵)
元号 天慶
天暦
天徳
応和
康保
先代 朱雀天皇
次代 冷泉天皇

誕生 926年7月14日
桂芳坊
崩御 967年7月5日
清凉殿
陵所 村上陵
御名 成明
異称 天暦帝
父親 醍醐天皇
母親 藤原穏子
中宮 藤原安子
女御 徽子女王
荘子女王
藤原述子
藤原芳子
更衣 源計子 他多数
子女 冷泉天皇
円融天皇 他多数
皇居 平安宮
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村上天皇歌碑、東山区安井金比羅宮内

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年6月2日926年7月14日) - 康保4年5月25日967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日946年5月31日) - 康保4年5月25日(967年7月5日))。成明(なりあきら)。

目次

[編集] 系譜

第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。

[編集] 系図

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


[編集] 略歴

天慶7年(944年)4月22日に皇太子となり、同9年4月13日に朱雀天皇譲位により践祚、同月28日に即位。

先代に続いて天皇の外舅藤原忠平関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。しかし実際には政治の実権は依然摂関家藤原実頼師輔兄弟にあり、更に母の穏子や兄の朱雀法皇も後見を名目に政治に関与しようとしたため、親政は名目にすぎなかった。

平将門藤原純友の起こした承平・天慶の乱(935年 - 940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努め物価を安定させた。

文治面では、天暦5年(951年)に『後撰集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。

天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。

康保4年(967年)5月25日、在位のまま42歳で崩御。この村上天皇の後、安徳天皇後醍醐天皇を例外として歴代の天皇は院号をもって呼ばれるようになった。再び天皇号が復活するのは約900年後、江戸時代後期の光格天皇になってからのことである。

なお皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を持つようになる。

[編集] 后妃・皇子女

[編集] 諡号・追号・異名

追号の「村上」は、御陵の在所から。一条朝のあたりで既に「村上の先帝」と呼び、「村上院」とはいわなかった。

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

陵墓は京都市右京区鳴滝宇多野谷の村上陵(むらかみのみささぎ)。山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られた記事が『日本紀略』に見える。

[編集] 外部リンク

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