重明親王

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重明親王(しげあきらしんのう、延喜6年(906年) - 天暦8年9月14日954年10月13日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第四皇子。官位は三品・式部卿。別名吏部王式部卿唐名)。

略歴[編集]

延喜8年4月5日908年5月7日親王宣下。始め将保親王と称したが、同11年(911年)重明と改名。同21年(921年)清涼殿において元服。その後は延長6年(928年)上野太守、同8年(930年)弾正尹承平7年(937年)に弾正尹を辞官の後中務卿を歴任、天慶6年(943年)三品に叙され、その後式部卿に任ぜられた。天暦8年9月14日薨去、享年49。

人物[編集]

皇位を巡る争いとは生涯無縁であったが、学識豊かで楽才にも優れた風流人であり、父醍醐天皇は崩御の間際に重明親王を代明親王共々召して遺詔を託したとされている。また異母弟村上天皇の宮中でもことに重んじられて、管弦の宴などでは必ず和琴に加わった。摂関家との関係も良好で、始めに太政大臣藤原忠平の娘寛子と結婚、天慶8年(945年)に寛子が死去すると、天暦2年(948年)に寛子の姪にあたる登子を後妻としている。また寛子所生の長女徽子女王、次女悦子女王の二人が相次いで斎宮に卜定、徽子女王は斎宮を退下したのち村上天皇に入内して斎宮女御と称された。

重明親王は一風変わった逸話の多い人物で、日輪が家に入り金鳳が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に藤原兼家が住んだ東三条殿であった) 。また『江家次第』によれば、ある時蕃客(渤海の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に黒貉の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい。また『今昔物語』に登場する話では、東三条殿の庭園に怪しい太った五位が夜な夜な姿を見せるので、親王が怪しんで陰陽師に占わせると東南の隅から銅の提(ひさげ)が現れ、以後五位は姿を見せなくなったという。

なお親王の日記『吏部王記』は原本も写本も現存しないが、後世の日記や書物に引用された逸文から見て、朝議に関する詳細な記録を書き留めたものであったらしく、当時の朝廷の儀式・典礼に関する貴重な史料である。

系譜[編集]

参考文献[編集]

  • 古代学協会・古代学研究所(編)1994 『平安時代史事典』 角川書店