雄略天皇

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雄略天皇
第21代天皇
先代 安康天皇
次代 清寧天皇

誕生 419年1月
崩御 479年9月8日
陵所 丹比高鷲原陵
異称 大泊瀬幼武尊
大長谷若建命
大長谷王
父親 允恭天皇
母親 忍坂大中姫
皇后 草香幡梭姫皇女
子女 白髪皇子
栲幡姫皇女
磐城皇子
星川稚宮皇子
春日大娘皇女
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雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年12月 - 雄略天皇23年8月7日479年9月8日))は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日456年12月25日) - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。大泊瀬皇子大泊瀬幼武尊大長谷若建命大長谷王古事記)、大悪天皇有徳天皇とも。

雄略から武烈までの五代は実在しなかったとする説がある。根拠としては、『日本書紀』の雄略紀からの暦法がその前後と異なることがあげられる。その一方で、実在したとして『宋書』に記された「倭の五王」中の倭王に比定されることもある。

目次

[編集] 概説

記紀によれば、大泊瀬皇子は数多くいた兄や従兄弟たちを謀殺して大王の座についた。

その理由については、草香幡梭姫皇女を皇后とするまでのいきさつとして説明されている。大泊瀬皇子の同母兄である安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、草香幡梭姫皇女を即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は母系では同母の兄と妹、父系では叔父と叔母)。坂本臣の祖である根臣(根使主)が使いを務めたが、根臣は大草香皇子が承諾の印に献上しようとした押木珠縵(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を詐取するために、安康天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りを伝えた。そこで、安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命履中天皇皇女)を奪って自分の皇后とした。中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れていた。幼い眉輪王は少し後に実の父親大草香皇子が死んだこの経緯を知って、就寝中の安康天皇暗殺する(『古事記』では眉輪王はこの時幼年7歳であったとする)。大泊瀬皇子は安康天皇の死を知ってまずは兄を疑い、最初に八釣白彦皇子を斬り殺した。次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとしたが、この2人は葛城氏円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだ。大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月に大王の座に就いた。即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする。

[編集] 系譜

天皇系図 15~26代

允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。安康天皇の同母弟。

[編集] 皇居

都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。

[編集] 政治

政敵たちを力で一掃し大王となった雄略天皇は、平群真鳥を大臣に、大伴室屋物部目大連に任じた。吉備氏の乱(吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を討伐した(463年)。さらに雄略天皇の死後であるが星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧している(479年)。『日本書紀』には他に、播磨文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事がある。武力を持って日本各地に服属を迫った大王として書かれている。

対外的には、雄略天皇8年(464年)2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死してしまい敗走したと言う。(『三国史記』新羅本紀によれば倭人462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。

雄略20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)、雄略大王は百済に任那を与えて復興したという(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。

この他、呉国()から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。

雄略22年1月1日(478年2月18日)、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。

雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいる。

[編集] 倭王武に比定する意見

中国の史書であり正史である『宋書』倭国伝には、「倭王武の上表文」がある。周辺諸国を攻略して勢力を拡張した己に封号を下賜してくれるよう要請しており、これを日本書紀に書かれた吉備・播磨・伊勢を征討した雄略天皇と考える意見がある。

熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」と解読し(実際には腐食によって読めない字や中国でも日本でも使わない異体字のような文字もあり鮮明ではない)、すなわちワカタケル大王と解して雄略天皇のことを指す文字とする意見がある。ただし、この考え方は、銘の解読にあたって「このような古墳を作りこのような鉄剣鉄刀をもつものは日本の正史『日本書紀』に掲載されているだれかと関わりのあった人物に違いない」という前提でもって「解読」を行ったことによる[要出典]。また、該当部分をミズハワケにあたる文字と読んで允恭天皇と比定する説、同様にして景行天皇と比定しその在位期間に征討を行った景行の皇子倭武の剣とする説も唱えられていた。

中国の歴史書『梁書』(日本では中国が北魏南梁に分かれていた時代については北魏を正統とする。また、『梁書』は奇書『山海経』によると思われる記述などもあり、また個人の選であり、奇書『海山経』とその奇書をもとにした歴史書『三国志』と同じ程度の信ぴょう性しかもっていないとみるのが学者の間では一般的である。)によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。しかし、記紀によればこの時すでに雄略天皇は没している。この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解がある。

[編集] 大悪天皇の記述

猪狩りをする雄略天皇(安達吟光画)

即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから、両者は同一人物ではないかとの説もある。『日本書紀』には、次のようなエピソードがある。

天皇は狩に出かけた際、猪を射殺せない気弱な舎人を殺そうとするが、「陛下、今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは、豺狼と何も違いません」と、皇后にいさめられた。

豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などに書かれており、話自体が後世の創作とも考えられるが、雄略天皇の性格を表した一節といえる。猪のエピソードは、雄略天皇(大泊瀬皇子)と名前の似た崇峻天皇(泊瀬部大王)にもみられる。崇峻天皇も兄たち(穴穂部皇子宅部皇子)の死で皇位についている。

さらに、前述の草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后、妃は実家が誅された後に決められたものが多い。王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。兄である安康天皇のやり方を見習っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って雄略天皇暴君の記述が残されていると思われる。

[編集] 陵墓・霊廟

丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)に比定されている。

同県松原市西大塚と羽曳野市南恵我之荘に亘る河内大塚山古墳前方後円墳・全長335m)とする説もあるが、埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、そうであれば雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがある。

『古事記』によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略天皇陵の墳丘の一部を破壊したとある。『書紀』にも、顕宗が陵の破壊を提案したが皇太子億計がこれを諌めて思い止まらせたとする。

[編集] その他

伊勢神宮外宮を建立した。元々、豊受大神葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。豊受大神と名が似ている飯豊天皇は、その揺り返しの中で政務を執った可能性もある。また、雄略天皇の皇女で、斎宮である栲幡姫皇女(稚足姫皇女)が、湯人(ゆえ:皇子女の沐浴等に仕える役職)の盧城部連武彦の子供を妊娠したと、阿閇臣国見に讒言され、無実を訴えるため自殺した事件が雄略天皇紀3年4月条に載っている。皇女の母である葛城韓媛が父の葛城円大臣から即位前の雄略天皇に、妃として献ぜられたとする記事より約3年後のこととなり、献ぜられる前に韓媛が皇女を産んでいないと年代が合わない。むしろ、上記讒言事件は、外宮の設立と年代が近かったのではないかと推測される。尚、阿閇臣国見は、讒言が誤りだと判明した後、伊勢神宮では無く、石上神宮に逃げ込んでいる。

『古事記』では、即位前の雄略天皇に対し、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記が度々見られる。通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いられているのは、異例である。

万葉集』や『日本霊異記』では冒頭に雄略天皇が掲げられている。

[編集] 御製歌

万葉集』巻第一より[1]
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に菜摘ます兒 家聞かな 告らさね そらみつ大和の国は おしなべて我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我にこそは告らめ 家をも名をも
現代語訳
良い籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。
『万葉集』巻第九より[2]
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は こよひは鳴かず 寝ねにけらしも
現代語訳
夕になるといつもは小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。寝てしまったようだ。
舒明天皇作とも言われている。

[編集] 脚注

  1. ^ Manyoshu [Book 1]” (日本語/英語). バージニア大学 (1999年). 2010年1月8日閲覧。
  2. ^ Manyoshu [Book 9]” (日本語/英語). バージニア大学 (1999年). 2010年1月8日閲覧。

[編集] 在位年と西暦との対照表

[編集] 関連項目

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