菟道稚郎子
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年))は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。菟道稚郎子皇子(『日本書紀』)・宇遅能和紀郎子(『古事記』)・宇治若郎子(『山城国風土記』逸文)・宇治天皇(『播磨国風土記』)とも。
応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 ・宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)である(ただし『先代旧事本紀』には、物部多遅麻連の女・山無媛とする)。同母妹に八田皇女・雌鳥皇女。父天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
百済から来朝した阿直岐・王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵する。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の謀略に遭って殺された。この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地。『山城国風土記』逸文に桐原日桁宮)に住まい[1]、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
伝承では菟道山上(『延喜式』諸陵寮に宇治墓)に葬られたという。同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定され、宮内庁の管理下にある。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であったが、明治22年(1889年)、当時の宮内省により、伝承とは異なるこの地が宇治墓と治定され、前方後円墳状に成形されて現在に至っている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ この時、ウサギが道案内をしたと伝えられ、「莵道」(とどう)の地名の由来となった。